静寂が降りる頃に

 ワルサーP38の男の横顔がちらりと見える。
 中々に精悍な顔付きで野性味溢れる顔立ちだ。
 少し伸び気味な無精髭が、その性的魅力に拍車を掛けている。
 結局のところ、この夜は全てが散々だった。
 クライアントを護るという最低条件は満たしたが、全ての防衛線で戦線が崩壊し、遁走に走る者も出たので今夜の報酬に大きく響いた。
 勿論、明奈も例外ではない。
 明奈はワルサーP38の男に肩で担がれたまま、軽四トラックの荷台に放り込まれ、キャンバスを掛けられ、簡素な偽装を施されたまま退路を走り抜けた。
 ワルサーP38の男に持たされたウイスキーを何度口に運んだか分からない。
 トラックの荷台は冷えが酷く、歯がカチカチと鳴るほどに寒かった。 助手席に座らされると、目撃者に顔を覚えられる可能性があるので仕方無しの処遇だった。
   ※ ※ ※
 ワルサーP38の男は馬鹿丁寧にも明奈を【屋長組】の『本拠地』まで運んで、玄関に放り出してさっさと姿を眩ましてしまった。
 軽四トラックは跡形も無い。
 得物がワルサーP38であるという事以外は不明の男に借りを作ったままだ。
 明奈が酷い格好で玄関に放り出されるのを見た楓は心臓が停止しそうな顔で慌てふためいた。
 左肩を浅く銃弾で削られた負傷。
 死にそうな顔色。
 アルコールで浮いた目。
 痙攣する手足。
 重度の障害を負って帰還した構成員を見るなり、楓はパニックで回らなくなった舌で闇医者を呼び、治療に当たらせた。
 3日間、明奈は高熱に魘された。
 風邪なのか鉛毒からの炎症反応なのかは解らない。
 抗生物質と鎮痛解熱剤で3日間を眠ったまま過ごす。その間は意味をなさないうわ言を漏らす以外に何も出来なかった。


 それから2週間が経過した。
 最初の3日間は楓が付きっ切りで看病していた。
 4日目からは意識を取り戻し、解熱を見せ始めた。
 負傷した左肩が痛んだ。その左肩の負傷は楓が甲斐甲斐しく、1日2回の消毒を施し、苦痛が和らいでいく。
 衣服があの夜のままで、布団に押し込められていたのに気が付く。……そんな醜態に自嘲気味に嗤うだけの気力が回復してきたのは1週間後だった。
 ショルダーホルスターのハーネスは緩められ、フライトジャケットのハンドウォームにはチープカシオの腕時計が捻じ込まれていた。明奈の記憶はあの夜のまま停止しているかのようだった。
 ようやく通常に体が動かせるようになったのが2週間後だったのだ。


 明奈はそれから普通の、平凡な仕事を幾つか片付けた。
 特に鉄火場に展開しない。緊張感だけが高まるいつもの仕事だった。
 体もまともに作動し、左肩の負傷も癒えた頃……1月も終わろうかとしている日の午前10時だった。
 楓が居住まいを正し、いつもの茶の間で明奈を呼んだ。
「……」
「……」
 雰囲気で解る。
 いつぞやかに言っていた『大きな仕事』なのだろう。
 楓はそれをどのように切り出そうか思案している表情だ。
「明奈さん……殺して欲しい人達が居ます」
「……」
 目の前に置かれたマグカップを手に取りながら、明奈は表情を『読ませず』に聞く。
「この人達です……これを『最後の仕事にしてはいかがでしょうか?』」
 楓は目の前に数枚の写真を並べる。
 何れも望遠で撮影された写真だ。
 デジタル処理がなされているので鮮明に輪郭が浮かんでいる。……全部で4枚。
 4枚とも違う人物が、それぞれの角度で撮影されていた。
「……こいつらはどこの誰か聞かない方が良いみたいだね」
「…………」
 楓の無言の肯定。
「ターゲットの名前と提示できる情報を」
 明奈は出来るだけ感情を殺して言う。
 どうやらデリケートな問題に触れそうだ。
 『大きな仕事』、そして『最後に勧められた仕事』。
 【屋長組】を追い出される前の大きな仕事。
 体面上の一宿一飯の恩に報いるだけの理由になる。察するに楓の何かの決心が窺える。
「こちらの標的の情報はここに……」
 楓はファイリングされた束を取り出す。
 情報量から見れば、大分前から下拵えをしていたらしい。
 情報屋経由で認められた情報の束。
 4人の標的の名前や生年月日、職業までも記されている。家族構成、乗用車とナンバー、住所、経歴……。
「…………『経歴』」
「そうです。お恥ずかしい話ではなりますが」
 気になった経歴を貪るように読む明奈。この4人は【屋長組】の2代目に遣えた幹部だった。
「『昔の馴染み』じゃないか……いいのかい? この人達を消すと……あんたの居場所が無くなるよ?」
 【屋長組】は嘗ての元幹部からの出資で成り立っている弱小ヤクザだ。
 その出資元……言うなれば収入源と、全ての伝を消し去る行為に楓は打って出ている。
 彼女なりに思うところが有るのだろうが、賢明な判断とは言えない。この4人を消してしまえば、楓はもうこの街では安泰に過ごせない。
 それどころか闇社会の人間として……不義を働いたとして『誰も振り向いてくれない』。
「……あんたがやれと言うのなら従うまでだね。それ以上は訊かない」
 明奈はそれ以上は蛇足だと思った。
 本当にこの街で最後の仕事になりそうだ。
 ならば少し多めの草鞋銭を貰う口実を作って、早々にこの街を出るに限る。
 この街を出る人間が、この街で、この後に何が起きるのか気にしても仕方が無い。
 冷めてしまったコーヒーを飲み干して明奈は部屋へ戻った。
 勿論、提示された資料を全て手に持って。


 期限も何も聞いていない。
 目の前に出された資料を照らし合わせ、必要な情報を濾過し、街中の情報屋を使い、標的4人の行動パターンを読む。
 この作業に1週間を要した。
 1週間の間、【屋長組】の家屋内部は火が消えたように静かだった。2人とも顔を合わせても、必要最低限の言葉しか話さなかった。
 2人の間に溝ができた。
 深いのか浅いのか判然としない、暗い色をした溝ができた。
 互いが反発をしているのではない。
 互いが腹の底を割らない毎日が続いている。
 有り体に言うのなら、気まずい雰囲気。
 察して欲しくない楓。
 察してしまう明奈。
 明奈が街を去る前にどうしても聞きたかった謎は楓から聞き出せるのか……。


 1週間経過。
 流石に情報屋が顔を利かせる街。
 詳細な行動パターンが手に入る。
 1週間しか日常のパターンを調べられないのは仕方が無い。
 それ以上は少しばかり料金が高くなるのだ。
 4人は殆ど毎日、雀荘でマージャンに明け暮れていた。午後8時には確実に【たの屋】と言う市内の端に有る雀荘でマージャンを打っていた。
 そして情報屋が小銭稼ぎにリークしてくれた情報が興味深かった。……この4人が密かに【屋長組】の動向を監視して、楓が逃げ出さないか見張っていたのだ。
 この情報であらゆる点が合点がいく。
 家の前で張り込んでいた軽四車もそうだ。
 楓が【屋長組】を『維持させられる神輿として担がれている』理由もそうだ。
 この4人が【屋長組】が大きく成長するのを待っている。
 その上で惜しみない資金援助をして、組織といえない組織を維持させている。
 時期が来れば大手の傘下に収まってのし上がるように唆すのだろう。時期が来れば楓を蹴り落として、この4人が実権を握り、新しく収まった組織の中で頭角を現したいと言う目論見だ。
 大方の予想通りであり……予想通り過ぎて残念だった。
 何も知らない振りで踊らされていた楓……ではない。
 楓も自分のスタンスが何と無く読めていたのだろう。
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