静寂が降りる頃に

 引き金を引く度に、反動で手首からラドムVIS35がすっぽ抜けそうだ。
 震える左手で口元を押さえ、自分が吐いた呼気を出来るだけ吸い込む。
 過呼吸に対する応急処置だ。
 過呼吸は呼吸のし過ぎで血中の酸素が上昇して発生する。
 それを抑える手っ取り早い方法は二酸化炭素を適量、吸い込む事だとされている。……紙袋などを口元に当てるペーパーバッグ法が有名だが、これは度が過ぎると今度は二酸化炭素を吸い込み過ぎて意識を失う恐れがある。
 一説ではペーパーバッグ法は医者の指示でこれをしているから大丈夫というプラセボ効果しかないとも言われている。
 精神的側面であれ、今の窮地を脱する事が出来る手段なら何でも試したかった。
 右手だけで突き出すように伸ばしたラドムVIS35が10倍以上の重量をもった錘のように感じる。
 爪先にまで痙攣に似た痺れを感じる。
 ここで転倒してしまっては好い鴨だ。
 既に機動力と判断力が半分程度削がれている。
 視界が回る。暗い世界が黒く染まる。喘ぐ事も出来ない苦しさ。
 左手で口を大きく覆うが、即効性の高い効果は期待できない。
 足が縺れる。
 一歩踏み出すのに気力が大きく削り取られる。
 頭の天辺まで痺れる。
――――あ……。
 最早、口から言葉を発するのも難しい。
 前のめりに倒れる。その体を1発の銃弾が貫く。
――――撃たれた……。
 体に何の衝撃も伝わってこない。
 どこからどのように撃たれたのか状況を確認できない。
 自分が置かれているポジションも混濁する意識に埋没する。
 なのに、速やかに訪れるであろう死だけを待つ。
 その時間が異常に長い。
 走馬灯の上映会には本編が始まる前に新作の予告編が入るのかと勘繰ってしまう。
 そんな現実味の無い意識だけが正常に作動している。
 撃たれた。
 確かに撃たれた。
 拳銃弾の衝撃だ。
 撃たれた。
 何処に? どの角度から? どのように?
「!」
 針で尻を突付かれた様に意識が回復する。
 自分は今地面でうつぶせに倒れている。
 顔面を地面に押し付けて地面の冷たさに体温を奪われている。
 五感。手足。各器官。
 新陳代謝の停止を差っ引いた体へのダメージ。
 それら全てを生体電流の早さでチェック。
――――左肩か!
 左上腕が動かし難い。
 極度の緊張で新陳代謝が停止し、脳内麻薬が一時的に痛覚を麻痺させている。
 出血の量が少ないのが自分でも解る。竈に火を投げ入れたように心臓が強く高く鼓動を繰り返し始める。
 過呼吸の苦しさが、蝋燭の火を吹き消したように『何も無かった事になっている』。
 頭が冴える。
 時間にしてそれはたったの数秒間だった。
 たまたま呼吸が整っただけの時間。
 伏せた状態から右手を咄嗟に伸ばし、街頭の灯りを背後にした男が10mほど先に立っているのが見えた。
 長大な銃身。マグナムリボルバー。
 シルエットからルガーレッドホーク。
 鈍い銀色だけが輝いて見えた。
 その銃口はワルサーP38の男を狙っていた。
 ……遮蔽の陰から遮蔽に向けて。
 ワルサーP38の男を遮蔽諸共ブチ抜く殺気。
 『誰かの銃弾』が当たり、地面に突っ伏した明奈は戦力から外れたと思われたらしい。
 確かに当たった。だが、致命傷には遠い。たった数秒間。
 その男を……ルガーレッドホークを構える男の脇腹を狙って引き金を引くのに充分な時間だった。
 右手のラドムVIS35、吼える。
 連中からすれば予想外の方向。
 まるで転がる死体が手にした拳銃を突然発砲したのに似る反応。
 9mmパラベラムのジャケッテッドホローポイントはルガーレッドホークの男の脇腹に発砲音と共に孔を開けた。
 バイタルゾーンに命中。
 即死に到らなくとも、この男はここでリタイヤだ。
「……ぐえっ」
 突然の吐き気。
 明奈を正常に戻していた数秒間が経過。
 停止していた新陳代謝が活動し、再び呼吸が乱れる。
 鼓動が半鐘のように早くなる。
 再び訪れる狭窄の世界。視界が狭くなる。聴覚も遠くなる。喉に異物感。喉に不快感。呼吸が乱れる。
 激しく震える両手で口元を覆い、自分の呼気を吸う。
 呼気には二酸化炭素が含まれている。早く呼吸を整えて戦列に戻らなくては。
 ラドムVIS35を思わず手から離してしまった。
 今の彼女は無防備だ。今の彼女は祭壇に捧げられたのも同然に無抵抗だ。
 明奈は最早、何も聞こえていない。
 呼吸を整えるのに必死だった。
 目は開いているが、暗い世界が彼女を取り巻いている。
 外灯の灯りが蛍の明かりのようにゆるりと舞う。
 銃声が轟いているはずの空間。銃弾が飛び交っているはずの世界。
 その真ん中で、彼女は芋虫のように苦悶している。
 両手で口を押さえて自分の呼気を吸おうと必死になっている。耳が目が利かない。
 世界ではどんな事が起きているのか彼女には届きようが無い。
 気を抜けば気絶しそうな苦しさ。正体不明の焦燥感と不安感が死への恐怖を漫然と爆発させ、恐慌の一歩手前まで追いやられる。……全身の筋肉が硬直する。
 体が不意に軽くなる。
 苦痛が去ったのではない。体から重力が無くなった。
「しっかりしろ戦友!」
 ワルサーP38の男が明奈の肩を引っ張り上げて、担いで明奈の腹のベルトにセフティを掛けたラドムVIS35を差し込む。
 男に肩を貸したまま、足を引き摺り、今来たコンテナ群の奥へずるずると引っ張られる。
 ワルサーP38の男は、銃弾が飛来しない遮蔽の角に明奈を連れて避難すると、彼女の両手の指先を何度も揉んで血行を促進させる。
「連中は退却した! 安心しろ!」
 どこか遠くで轟くような声。
 現実から遊離した感覚。
 呼吸が荒れる。
 地面に座らされ、ベルトを緩められて靴を脱がされ、外された腕時計をハンドウォームに突っ込まれる。
 そのだらしなく涙目になって座っているだけの明奈の口元にコンビニのレジ袋を宛がわれる。
 ワルサーP38の男がここに来るまでに何か買い物でもしたのだろうか?
「過呼吸だ。落ち着け。死にはしない! 呼吸を落ち着けろ! もう誰も殺しに来ない!」
 ワルサーP38の男……声の雰囲気からして30代前半。
 影から影へ移る姿しか見ていないので、この近距離でも彼の顔は解らない。
 この近距離の於いても、今度は視界が狭窄を起こしているので正確に彼を認知できない。
 顔を見たかもしれないが、記憶に残らない。
 ワルサーP38の男は、明奈の口元からコンビニのレジ袋を外すと、その喘ぐ口にウイスキーの小瓶を宛がう。飲み口から少量のウイスキーが唇に注がれる。
「げほっ! げほっげほっ!」
「気付けだ。ちょっとだけ舐めろ」
 アルコール度数40のウイスキーの急な攻撃で麻痺していた感覚が戻り出す。
 体はだるいままだ。狭窄を起こしていた視覚と聴覚が真っ先に回復する。
「これを持っておけ」
 フライトジャケットのハンドウォームにコンビニのレジ袋とウイスキーの小瓶を捻じ込む。
「あ……あんた……名前は?」
 掠れる声で明奈はワルサーP38の男に問うた。
 ワルサーP38の男の口元だけ、灯りに浮かぶ。
 矢鱈と白い歯だと思った。
「気にするな。困った時はお互い様だ。同じ勢力で収まっているうちはな」
 時間にして10分。
 倦怠に悩まされながらも、立ち上がれるまで回復する明奈。
 その明奈に再び肩を貸して、あらかじめ決められていた退路へ向かって歩き出す。
「仲間の話じゃ、クライアント様は無事に脱出したそうだ。敵はどこの誰なのか不明。そんな事より早く目を覚ませ! 早く逃げようぜ!」
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