静寂が降りる頃に
※ ※ ※
テナントビルを1人で強襲した翌日。
深夜にこなす仕事が多い所為か、どうしても生活のリズムが狂う。
それで大きく体調を乱してしまう事は今のところは無い。
睡眠不足による不快感や頭重に悩まされる程度で、それも連続で仕事が立て込んでいなければ、充分な睡眠を貪る事でカバーできる。
楓の栄養バランスを考えた食事のサポートのお陰であるかもしれない。
午後2時。遅い昼食。
朝から冷え込む気温だったので楓は熱いうどんを作ってくれた。
楓と生活の時間が重なる事が少ないので楓は何かと作り置きをしてくれるが、矢張り、湯気が立つ熱い食餌は何物よりも有り難い。
市販の粉末うどん出汁に少量の醤油を足して風味を強くする。
一玉20円弱のうどんを熱湯で別に茹でてから軽く一煮立ちさせた出汁を、予め湯で温めていた器に盛る。
先にうどん。次に出汁。
その時にも、うどんの上に温泉卵を1個落として卵周辺を溶くように出汁を流し込む。
そうする事により温泉卵が程よく熱せられて手軽な半熟卵のテイストを作る事が出来る。
仕上げに刻み葱を二摘み。
トッピングは揚げがいいか、市販の掻き揚げ風海老天がいいか聞いてくれるので海老天を頼む。
こうして器に湯気が派手に立ち昇る熱々のうどんが出来上がる。
主婦の知恵と程よい手抜きが如何にもな手料理と言う雰囲気で腹も心も温まるのを感じる。
食べる前に七味を2回振り掛ける。
後からテーブルに出されたとろろ昆布も大きく一摘みして投入。これだけで味や風味が締まり、一層、深く出汁が際立つ。
箸を通してみると直ぐに解る。『これは美味いに決まっている』と。
熱いうどんを熱い熱いといいながら熱い間に一気に啜る。
うどんや蕎麦やラーメンを食べる時の風習に従ってずるずると大きく啜る音を立てる……否、自然と啜る音が出るのだ。
まさに掻け込むように食べないと、美味くないと本能が告げている。大人しくしゃなりしゃなりと食べていたのでは美味くは無い。
うどんを啜り、七味が浮いた出汁を飲み、市販の海老天を齧る。
市販の海老天は出汁を吸うに連れて柔らかくなる。その陰影もまた、舌を愉しませてくれる。
時折混ざる葱の苦くしゃきっとした歯触り。アクセントとして最高の脇役だった。
温泉卵は元から半熟なので大量の黄身が出汁に混ざる事は無かった。その温泉卵をとろろ昆布と合わせながら出汁と共に口に入れると塩分の利いた高たんぱくな栄養素が身に染みる。
「近いうちに大きな仕事を頼むかもしれません」
唐突に楓は切り出した。
昼食後のコーヒーを飲みながらの話だ。
姿勢を正す事はしなかったが、心に残る物を感じたので、神妙な面持ちで楓の話に耳を傾けた。
楓はテーブルを挟んで対面に座っている。
このポジションも随分と長く座っているような気がする。
もしかしたら、もう直ぐこの【屋長組】から引き際が訪れるのかもしれない。
流れ者には特に決まった去り際の定義は無い。
充分な草鞋銭を稼いだらさっさと次の街へ流れるだけだ。
中には居心地が良過ぎて組織の配下として就職する者も多い。寧ろ、就職先を見つける為に流れ者となって全国を彷徨っている人間も多い。 恐らく想像している割合よりも多いだろう。
理由が有って流れる者、理由も無く流れる者。……人それぞれだ。
楓がやや声のトーンを落としてそんな話題から切り出したと言う事は……。
大きな報酬が期待できる仕事が控えている可能性の示唆だった。
楓が何故流れ者風情の明奈にそんな寂しそうな顔をするのかは解らない。
その場限りの即席構成員として席を置かせてもらっているだけなので、遠慮無く使い潰してくれても良いのに、と。
この界隈では、一宿一飯の恩を返すと言う意味で大仕事を最後に街から出ると言うのが一般的だと捉えられている。これが、ビジネス化した任侠道だと揶揄される由縁だ。
組長たる楓が正座して明奈に向き直って『大きな仕事』が入る予定を話した。
充分な草鞋銭が入る予定とも言える。
明奈は平常を保ったままの素っ気無い顔で楓に尋ねてみる。
「へえ。それでそれはどんな仕事?」
「まだそれは明かせません。内緒にしているのではなくてですね、仕事のプラン自体が未定だらけで形になっていないんです。申し訳ありません。気を揉ませてしまいますね」
「それならそれでいいけど……この組と何か関係が有る話なの?」
コーヒーに口をつけながらさり気無く探りを入れてみる。
「関係……ですか。有るといえば有るような……」
「んー。歯切れが悪いね。ま、いいや……それで、『次の仕事』は?」
「直近の予定では今夜の連絡で業者から外注が入るはずですが」
「……そうかい。一服したらもう少し寝るよ。ご馳走様」
充分に暖かくなった胃袋を抱えていつものジャージ姿で玄関に出る。庭先でキングエドワードシガリロを吸う為だ。
「……!」
庭先に出た途端に黒い軽四が急発進して、去るのを見る。
運転席の男に見覚えは無い。
明らかに運転席の男は明奈の顔を認識してからアクセルを踏んだ。
「…………」
緊張が走る。直ぐに心当たりを脳内で検索するが無駄だと解る。
心当たりが多すぎる。そもそも『あれが何なのか解らない』。
【屋長組】に用が有るのか、明奈自身に用が有るのか、楓に個人的に用が有るのか不明だ。定義の幅が広すぎる。
ふと湧いた苛つきを抑えるようにキングエドワードスペシャルを銜える。
わざわざ張り込んで観察するだけの行動を取っているのだ。今直ぐに何かしらのアクションを見せると言う事は無いだろう。
右手だけでマッチを熾し、火を点ける。
いそいそとフットを炙り吸い込む。
急に湧いた不安のために葉巻の味がしない。
味わう事もそこそこに、またも3分の2ほど吸っただけで直ぐにポケット灰皿に押し込んで、充分に消火を確認するといつものペール缶に吸殻を捨てる。
家屋内に入るなり、玄関での出来事を楓に報告する。
「え? ……それは……?」
楓もさすがに不審な顔。
あからさまに狙われていると実感する報告を聞いたのだ。
たじろくのも当たり前だ。困り顔と不安な表情を入れ替わりさせて助けを求めるように明奈を見る。
「……でも……仕方ないですよね」
「……ああ。そうだね」
明奈の顔を見ても、楓は無責任な台詞は吐かなかった。
両手両足がどす黒く汚れている体で暗い世界を歩いていながら、こんな時だけ被害者ヅラで助けを求めるような半端な覚悟なら、今ここで明奈は見限っていただろう。
「人に嫌われたり恨まれるような事でご飯を食べているのですから……いつかはこうなりますよね」
「へえ。随分と頭の切り替えが早いねー。好きだよそう言うの」
「あ、え、あの……有難う御座います!」
「まあ、この組もこれからやっと本番だと言う事だね。お互い気をつけよう」
「はい!」
※ ※ ※
大口の仕事ではない。
これは、いつか楓が言っていた『大きな仕事』ではない。斡旋してくれた仕事は危険が多い。弱小ヤクザに廻ってくる仕事などこんなものだろう。
護衛だ。……商談の場で内周を警戒するだけの仕事。
この場に居る全員が……自分達の勢力の全てが寄せ集めで連携を取るのが不可能な烏合の衆。
商談が成功するまで、相手勢力と外部からの妨害を警戒して応戦するだけの仕事。
何も無ければ『何も無い』。
敵味方という間柄では不味い。