旅舎 雨に遇う

 曇り空の長江ちょうこうに舟を出す。にごった水は少しぬるい。仕掛けた網と籠には魚がかかっているはずだ。

 楊行密ようこうみつは故郷を離れて一人で暮らしていた。川沿いの山奥に小さな家を建て、漁をして生計を立てている。家族と死別してから二年、次第にこの生活にも慣れてきた。
 さおを差して、網を仕掛けた地点へ舟を進めていると、遠くで”ぼちゃん”という音がした。大きな魚が跳ねたのかもしれない。さほど気に留めず腕を動かし続けた。
 空を見上げて、ふと横を向くと、こちらへ人が泳いでくるのが見えた。
 長江の川幅は広い。溺れるかもしれない、そう思った楊行密は人影に舟を寄せた。
「おい、大丈夫か。あんた――」
「いやー、助かったわ。本気マジで体力がたんところだった」
 言い切らないうちに、船縁へ手を掛けて上がってきたのは少年だった。白い褲褶こしゅうを着て、腹にさらしを巻いている。黒い頭巾を取って背負っていた剣を降ろし、靴を脱いで中の水を捨てた。
「あんた漁師? ちょっと匿って欲しいんだけど」
「はぁ?」
 気軽だが有無を言わせぬ調子に、楊行密はトラブルを察した。ただ単に舟から落ちて、川を泳いでいた訳ではないらしい。
「いま追われててさ~。お前しか頼りがないわけ。な、頼むよ」
 少年は胡座をかき、満面の笑みで手を合わせる。
 昨今、大規模な反乱やそれに伴う群盗の発生によって、辺りの治安は悪くなりつつあるが、遂に自分の前にも災難が訪れるとは思っていなかった。
「これって急がないといけないやつか? 魚を獲りたいんだが」
「んー…… まぁ、大丈夫じゃないか? しばらく潜水してたから、向こうは溺れ死んだかと思ってるかもな」
「……いや、急いどくわ」
 彼は舟を進め、棹で器用に籠をすくい、舟にのせて家に近い川縁を目指した。仕掛けた網は放っておくことにした。

「へぇ~ 良いところじゃん」
 山道を登って、側に沢がある小屋に着いた。少年が背負っていた剣を下ろすと、薄い上衣を透して、背中に龍の入れ墨が彫られているのが見えた。楊行密は少しぎょっとした。
 戸を開ける少年を呼ぼうとして、名前を聞いていなかったことに気づいた。
「お前、名は何というんだ。俺は楊行密だが」
「俺? 俺は銭鏐せんりゅうあざな具美ぐび
 銭鏐は振り返って言った。

「でかいな、この服。あんた体格がたい良いもんな」
 楊行密から着替えをもらった銭鏐は炉火ろびにあたっていた。濡れた服はしぼって外に干してある。
 獲ってきた魚に塩をつけ、串に刺して焼く。
「うまっ、地元うちでよく食べてる魚と違うわ」
 銭鏐は焼き魚を二本食べた。
「……で、なんで追われてたんだ? おまえは」
 楊行密は話を切り出した。
「ああ、まぁ仇討ちだな。昔、地元で反乱が起きたときに迷子になってさ。その時保護してくれた人がいたんだ。その人が殺されてな」
「ってことは……」
「そう。官軍に殺されたんだよ。俺の恩人」
 この少年の所属が賊軍ぞくぐんだと知って、楊行密は頭をいたが、少し考えて思い直した。
 今の世では官軍、ひいては政府が民のために働いているとは思えないところがある。中央への偏重、塩税の高騰、数多くの兵乱など。これらに対応できなくなっている唐王朝に天意はあるのだろうか。
「で、中央に戻ったそいつを追って長安まで行ったわけ」
「え!?」
 彼は少年の行動力の高さに驚いた。
「結果は未遂だったけどな~。獲られた恩人の剣だけ盗んできたわ」
 銭鏐は側に置いた剣を軽く叩いた。楊行密は沈黙した。
「…………お前、早くここを出ろよ。まだ追われてるかもしれねぇぞ」
「ああ、わかってるよ。迷惑かけるつもりはないし」
「そうじゃなくてさ。お前が心配なんだよ」
 銭鏐は目を見開いた。
「え、俺の心配してくれんの? 優しいな~、お前」
 楊行密は少年から向けられた笑顔に不意をつかれる。
「まー、今日のところは泊まらせてもらうわ。ござかなんかある?」
  銭鏐は壁の側で丸まっているむしろに手を伸ばした。

 夕方から雨が降ってきた。干していたものを取り込み、雑穀で飯を炊く。
 夜はむしろにくるまって寝た。銭鏐には楊行密が自身のの大きい着物をかけさせた。ついでに年を聞くと、同い年の十五歳であることがわかった。お互いそうは見えないので驚いた。
 明かりの無い闇の中に、静かな雨音が広がる。銭鏐がつぶやく。
「俺はさ、夢があるんだ。自分の国を作って民をやすんずる。今の世の中じゃあ、みんな不安だろ? 暮らしが良くなれば、みんな戦わなくて済む」
 彼は楊行密の方へ顔を向けた。
「俺はやり遂げる。お前もその時は楽しく暮らせるようになるといいな」
 楊行密が返事をしようとすると、彼は寝てしまっていた。


 三十余年後、楊行密は揚州ようしゅうを拠点にという国を建てた。唐は衰退し、内乱の傷跡は色濃いが、ようやく周辺を安定させることができた。
 隣国の呉越ごえつから攻め込まれ、しゅうを奪われることもあったが、こちらが戦略上重要な州を奪うこともあった。呉越のあるじの名は何処かで聞いた覚えがあるものだった。
  その年、呉越の拠点である杭州こうしゅうで反乱が起きた。東の州城を占める流賊るぞくを排除しようとしたところ、彼らと同じ境遇であったもと流賊の部下が複数決起したものらしい。
 流賊は食糧物質を求めて他の城塞都市を荒らす盗賊のような移動集団だ。これを排除するということは、自身の基盤である地元を重視した方針をとったといえる。
 楊行密の部下も彼らのうちの一人に誘われ、包囲に参加した。勝利は目前とのことだ。

「いやー、これまずいな」
 銭鏐は城塞の上から外を見下ろしてぼやいた。苦笑してはいるが、ここで死ねば大望は成らない。
 武装した部下は、取り乱してはいないものの、緊張しているようだった。
 末端や民衆には怯えている者もいる。流賊の連中には、困窮して人まで喰ったという話もあるから仕方がない。
「呉の楊行密って…… あいつかな?」
 彼は間道かんどうを使って、使者を呉に送った。

 呉越からこちらに財貨ざいかが贈られた。この金に免じて部下に包囲を解かせろ、ということだ。
 楊行密は送り主の名を聞いて、過去の出会いと、その日の夜の雨音を思い出した。
「その男の背中には、龍の入れ墨がなかったか?」

 楊行密は考えた。隣国が不安定化するのは避けたい。よく知らぬ流賊よりも、信頼の置ける顔見知りが主であったほうが、何かと都合が良いと思える。
 彼らが反抗したのは、銭鏐が杭州の水路整備を命じたことにも理由があるらしい。他郷たきょうから来た流賊たちには、杭州の土地の治水など興味も面白みもないのだろう。
 彼は財貨を受け取って部下に包囲を解かせた。

 当然、その部下からの反発が予想される。部下は仲間を引き込んで反乱を起こした。
 この時、楊行密には始末しておきたい部下の将が二人、外戚がいせきが一人いた。そのうち二人は反乱の首謀者だった。丁度良い機会だ。

「ふぃ~、なんとかなったな」
 銭鏐は安堵した。一時はどうなることかと思ったが、国内の反抗勢力をなんとか排除することができた。
 呉とも婚姻関係を結んだ。これからは安心して国作りに専念することができる。中央には従い、暴れ川の治水で国内を安定させ、諸外国と海路で通商を行うのだ。
 楊行密は制御しがたい部下たちの粛清を完了したあと亡くなった。一度も会わなかったのは残念だが。
「俺は夢を叶えられそうだ。おまえはどうだった?」

 
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