異星人
その日、僕は宇宙船で地球に降り立った。成人のための通過儀礼を三日間受けるために。監督は操縦と基本事項の復習を行ってくれる。
「今回降りる所がヨーロッパと呼ばれる地域なのは先に教わったな」
「はい」
「選ばれたのはその地域にあるフランスという国の首都だ。パリといったかな」
言語に関しては自動翻訳されるため問題はないが、名前については不安があった。
「地球ではどのような名前を名乗ればよいのでしょうか」
「三次元スーツの上に名札があるから、そこに書かれている名前を名乗りなさい。たぶん元の名前と似ているものだろう」
外に目を移すと、地球が窓いっぱいの大きさに見えてきた。月という衛星を横切る。
「さあ、そろそろ着陸するぞ」
上昇した速度によって窓から見える海や大陸が大きくなり、大気圏内に入ると青い空と雲が現れた。そのままのスピードで雲に突入し、この地域の一番高い山に着陸できるスペースを捉えると、緩く減速して着陸した。
「よし。着陸成功だ」
監督はほっと息をついて振り向くと、復習の続きを始めた。
「俺はここから”触覚”を使ってお前を見守ってるからな。命に関わること以外では手出ししない。事故防止装置は今巻いておくように」
ネジを巻くと、装置は僕の周囲を回って、数メートル(これはフランスの単位だ)上に浮遊した。監督は装置の状態を確認すると、三次元スーツと食料の入ったバッグを肩にかけて僕の両手を握った。
「予定地にある一番高い丘まで移動するぞ」
目を瞑り、開くと景色が変わっていた。宇宙船の中ではなく外で、監督の後ろには大きな白い寺院らしきものがある。
「ここがパリだ」
手を離されて、後ろを振り向くと、息を飲んだ。故郷では見たこともないほど数多く家が並んでいるのが見えた。奥は平原らしい。あいにく空は曇っていて、午後には雨が振りだしそうだった。
「まずは三次元スーツを着ないとな。どこか人目のないところを探して着替えなさい。俺はもう宇宙船に戻っておく。健闘を祈るぞ」
そう言うと監督は瞬間移動していなくなった。ちらほら人がいるが、まだ彼らには僕のことが見えていない。”触覚”を澄ませて、人気 のないところを探す。飲食店や椅子、机が並ぶ広場を通りすぎ歩いていくと、柵で囲まれた給水塔があった。内側には隠れるのにちょうど良い茂みや雑木があったので、そこで荷物を置いて着替えることにした。
柵をすり抜けて茂みに紛れ、バッグを開けると、三次元スーツの入った袋の上に名札と地図、バスや地下鉄などの路線図、財布があった。名札には『ルイ・アルデバラン』と書いてある。ここではこの名前を名乗れば良いのだろう。
食料を確認して、三次元スーツを着た。形状は地球でいう『つなぎ』に似ている。顔まで覆うフードを被って”触覚”を頭頂部の穴から通し、(僕らの”触覚”は先端が丸いこと、暗いところで光ることを除けば地球の植物『すずらん』に似ている)首元を留めると、三次元の感覚が掴めるようになった。地球の人からは蝶ネクタイを締め三つ揃えのスーツを着た姿に見えるらしく、確かめると実際そのようだった。
付属していた帽子を被ると、山高帽 という、この地域の男性なら誰もが被っている帽子に変化した。自分の目で鏡を見たら、たぶん山高帽のてっぺんから”触覚”が飛び出している奇妙な姿が確認できると思うが、地球の人に”触覚”は見えないので大丈夫だろう。
地球に来たのは成人としての学びを得るためであるので、まずは人と接触するのがいい。目を閉じ手を広げ、”触覚”を機能させて人気の多いところを探る。いくつか人の集まるところを感知した。
その中から気になる波動の出ている一ヶ所に的を絞る。よし、ここにしよう。地図で位置が正確なことを確認すると、感覚通りここからやや離れているのがわかった。地下鉄の方が速いと思うが、街並みをよく見ておきたいので、バスを利用することにする。
路線図を開き、乗り継ぎが必要なのを確認したあと、小さな門を出る。近くのバス停を探して、時間まで待った。時計を持っていないので、いつまで待てば良いのかはわからなかったが、バスはほどよい時間でやってきた。バス後部の立ち席は風があたり心地よい。過ごしやすい気候だ。
景色は閑静 な通りから多くの人々が行き交う賑やかな大通りかつ広場に変わった。そこでバスを乗り換えた。また立ち席だ。パリの街並みは同じ建築様式である六、七階の建物が大半を占めており、一階はお店になっている。屋根は青く、壁面は白色だ。”星”にはこれほど高い建築物はない。何処を見回しても似た建物が並んでおり、装飾からは洗練された印象を受けた。故郷は白いレンガの家と畑ばかりだったので、余計地球の文明に驚かされる。無数の自動車やバス、路面電車が走り回るのも、実際に見るのと映像を見るのとでは大違いだ。歩道を行く人も多い。
教科書で学んだとおりであれば、田舎には故郷と似た風景が広がっているらしいが、全くそれが実感出来なかった。街灯や街路樹も資料で見たとおりだ。橋を渡って、川は流石に”星”と同じ様子で安心した。
見慣れないものを見た衝撃で疲れていると、目的地に近いバス停に着いた。慌てて降りて、地図を確認した。”触覚”で再度感知しつつお昼の街を歩いていくと、ひらけた交差点に出た。街並みは変わらないが、活気に溢れた『カフェ』や料理店がいくつもある。歩道に所狭しと並ぶ机や椅子、そこでお喋りをする大勢の人々。スーツを着ている男性も、『すずらん』のような帽子を被った女性もいる。給仕が狭い机椅子の間を通り抜けた。初めに”触覚”で感知したときから気になっていたが、なぜかここには他の場所と違う活気と温かみがあった。素敵なところだ。
『カフェ』は道路を挟んで二、三軒あるので、何処に入ろうか迷ったが、とりあえず向こう側に渡った。外の席はどこもほぼ埋まっていた。場慣れている常連客が多いようで、空いている席を見つけても座るのも、店内に入るのも気が引ける。立ち止まってどうするか悩んでいると、奥の席に座っていた女性が手をふっているのが見えた。その上、向かいに座っている男性が隣の椅子に置いていた帽子を取って招いてくれる。ありがたい。お礼を言ってから、男性の隣の席に着かせてもらった。
「こんにちは、初めまして! ここでは見ない顔ね」
女性が笑顔で、
「こんにちは。入りづらかったでしょう」
男性が微笑して挨拶をしてくれた。短い髪の女性は緑の膝丈ワンピースを着ていて、白い『すずらん』型の帽子を被っていた。彼女が頼んだと思わしき『クレープ』が机にある。男性はジャケットを着ているがネクタイは締めておらず、『コーヒー』だけを頼んでいた。
「ありがとうございます。ここは初めてで……あっ、僕はルイ・アルデバランと言います」
「アルデバラン……。良い名前だね。僕はエーリヒ・シュテルネンゼー。エリックでいいよ」
「私はアニエス。アニエス・リュミエール。そんなに緊張しなくても、気楽にして良いのよ。私も最初はそうだったけど」
アニエスが店の人を読んでくれたので、僕は水を頼み、喉の渇きを癒した。三次元スーツを着ている状態なら、”僕たち”でも三次元の食べ物・飲み物を摂取することができる。
「あなたは観光客? それとも作家とか……画家とか?」
「僕は……まあ、観光客みたいなものです。三日間しかパリには滞在しないので」
「そうなの? 同類かと思ったんだけど……あ、僕は画家だよ。それほど売れてはいないけどね」
彼は笑った。
「でも、先輩方よりは良い暮らしぶりだよ。ここも賑やかになったもんだね。僕が子どもの頃は、ほんと寂しいところだったんだけど」
「この人、地元の人間なのよ。羨ましいでしょう? きっと有名人とも会ったことがあるんでしょうね。実家、たばこ屋よね。誰か買いに来たこともあるんじゃないの」
「いや、うちに来てたかどうかなんて知らないよ。たまに店番してても、サボりがちだったし」
あとで知ったことだが、どうやらこの辺りは芸術家が集まる土地だったらしい。安い家賃が魅力で、画家や作家や詩人、ジャーナリストたちから好まれるにつれ、文化的な土壌が育まれるようになった。ここの気風に憧れて他の国から文化人たちがやって来ることも稀ではないそう。水道や電気、暖房のない環境で仕事に励んでいた芸術家たちがよく訪れたのが、安く軽食を提供するこの『カフェ』。向かいの『ブラッスリー』はお金のない彼らに親切で、作品を代金がわりに受け取ったこともあるそうだ。
「ルイくんはどうしてここに来たの?」
彼女が聞いてきた。
「勉強のためです」
僕が答えると彼が、
「ふーん。やっぱり作家志望? 画家には見えないからね」
と言った。僕は”星”に帰ったら詩や散文を書きたいと思っていたので、彼の言葉を否定しなかった。
「そんなところです。ところで、お二人はどこかパリでよく人の集まるところを知りませんか? 後学のために見ておきたくて……」
「パリで人の多いところ? そうねぇ」
クレープを食べ終わったアニエスが首を捻ったあと、思い付いたように手を軽く叩いた。
「じゃあ、パリの案内がてら百貨店にでも行かない? あそこなら人はいっぱい来るでしょう。私、今日は暇なのよ」
「おいおい、君の買い物に付き合わせるなよ」
エリックが苦笑した。
「ルイくんはそれでいいのかな?」
彼の言葉は優しかった。僕は二人に好感を持っていたので、好意に甘えることにした。
「むしろありがたいです」
「決定ね」
アニエスと『会計』を済ませる。はじめて実地で行う『会計』なので緊張したが、慌てずスムーズに済ませることができた。学校でちゃんと習っておいて良かった、と胸を撫で下ろした。
「それじゃ、またねエリック」
「あまり振り回さないようにしなよ」
「席、ありがとうございました」
お礼を言い、エリックと別れて通りに出ると、彼女はタクシーを呼んだ。
「パリに来るまで疲れたでしょう。目的地へは車で行っちゃおうね」
「何から何まですみません」
「いいの、いいの。私もそこに用があるから。というか、私が行きたいのよね」
少しおどけた調子で彼女は笑った。地球の人とうまく話せるか不安だったので、エリックや彼女のような人と出会えたのは幸運だった。車は先ほど歩いてきた通りを進み、橋に出た。窓から見える景色は曇り空のままだ。
「ここよ」
タクシーを降りると、目前に植物のような曲線を描いた扉や庇があった。見上げると、かなり大きな建物らしい。アニエスに連れられて中に入る。建物は六階建てのようで、吹き抜けになっており、ガラス張りの天井から灰色の雲が見えた。柵は緑色で、植物を思わせる装飾。故郷の森を少し思い出す。
「この様式、時代遅れって言う人の方が多いんだけど、私は気に入ってるのよね」
階段を上がって、彼女と共に、最上階から各階に並ぶ商品を眺める。服や靴、鞄、『照明』、箪笥など、この場所には様々な商品が販売されているようだ。僕らの”星”には当然『通貨』がないので、値段のことはよくわからないが、どれも高級そうだった。アニエスはあちこちを見回ったが、買ったのは銀の懐中時計だけだった。
「父に贈ろうと思うの」
彼女は微笑 んでいたが、少し寂しそうだった。あまりお父さんと会えていないのかもしれない。
外に出ると、雨がポツポツ降り始めたので、いったん店に戻って一番安い傘を買った(それでも出費が多かったような)。黒色で良い出来のものだ。今この傘は”星”の博物館に収蔵されている。有名な美術館や公園、広場がこの先にまっすぐ並んでいるそうなので、相談の結果、まとめて散策することにした。セーヌ川を眺めながら歩いていると、雨は本降りになった。
「十年以上前、パリで洪水があったんだけど……」
アニエスが歩きながら話す。
「今見ると、街が水浸しになるほど増水したなんて思えないわ。確かに、この目で見たんだけどね」
地球では、災害が僕らの”星”よりも頻繁に起こると聞いた。何か困ったことがあったのか尋ねると、子どもだったし、特段被害も受けなかった、ひとりも死者が出なかったということを話してくれた。そのあと、かつては宮殿であったという美術館や、整備されていて美しい公園、『オベリスク』という彫刻(?)のある広場を見て回った。見たことのない珍しいもの、美しいものを見れて楽しかった。僕は案内をしてくれたアニエスの親切やおしゃべりに好感を持った。これまで僕は彼女のことを名字で呼んでいたのだが、
「アニエスで良いわよ。リュミエールさんはなんだか堅苦しいし」
と、彼女は言ってくれた。このことはとても嬉しかった。
アニエスとエリックに出会った交差点までバスで戻る。日は暮れ、雨は止んでいた。街灯や店内が”オレンジ”のように明るくなり、看板の『ネオンサイン』が赤や青、黄色に光る。最寄りのバス停で降りたら、雨上がりの通りを歩いて、カフェの集うあの場所へ。傘を閉じた人々が料理店やその前に集まっている。二人ともお腹が空いたので食事をとることにした。
店の中に入り、席に着くと、アニエスの席の後ろでエリックが友達らしき人と話しているのが見えた。メニューを見ても文字だけで実物がどんなものかよくわからなかったため、アニエスと同じものを頼む。焼いた肉と揚げた芋だ。芋は”星”でもよく食べるが、当然揚げたものや”羊”以外の肉は初めて食べた。おいしいのだが、僕の口には脂っこく、故郷の味が懐かしくなった。
胃が落ち着くと、アニエスが『ダンスホール』に連れていってくれた。人がたくさんいる。僕達の”星”にも踊りはあるが、ゆったりしている(『ワルツ』のようなもの……?)ので地球のものについていけるか心配だった。アニエスはそんな僕を察して、
「下手でいいのよ。私も上手くはないからね」
と緊張を和らげてくれた。『ピアノ』と金管楽器の軽快な音。彼女の瞳は『琥珀 』色で、きらきらと輝いていた。
「ありがとう。今日は楽しかったわ」
夜も更けると、彼女は『ホール』で会った女友達とタクシーで帰ることになった。名残惜しかったが、これまでの親切に感謝して見送る。いつまでパリにいるのか聞かれたので、二日後の昼には発つことを伝えた。アニエスはちょっと寂しそうな顔をしたあと笑って、
「そう。これからもパリを楽しんでね」
と言ってくれた。車が去ってしまうのを見て、お店にいたエリックのことを思い出す。まだ店内にいるかと思い、扉の窓ガラスから覗くと、彼はソファで居眠りをしていた。友達は寝ている彼に気を遣ったのか、もういないようだ。店の人もまだ声をかけるつもりはないらしい。出ていく人の邪魔にならないよう見守っていると、彼は目を覚まし、少し経ってからこちらを向いた。僕に気づいたようだ。ソファに置いていた帽子を持って、『会計』を済ませると、僕を見て会釈をした。彼が扉を開ける。
「やぁ、また会ったね。僕のこと心配してくれたのかな」
「お店で寝てて、その、大丈夫ですか? 具合悪いとか……」
店の人に怒られないのだろうか。もしかして具合が良くないのだろうか。素直に心配から聞いてみると、
「ああ、僕、常連だから。ここの人たちは僕みたいな連中に寛容なんだよ。あと、病気って訳じゃ……ないね」
と笑って答えてくれた。その笑い方がはにかんでいるようで、僕は優しそうな人だと思った。でも、具合について付け足した言葉はやや暗く感じた。実際、その見立ては当たっていたのだが。起こしてくれてもいいのに、彼は小声でこの場にいない友達へ愚痴を言ったあと、
「僕はこれから家に帰るけど……君はどこかに泊まってるの?」
と聞いた。僕に宿の当てはなかった。
「……野宿しようと思ってます」
「え?」
驚かれてしまった。基本的に地球での修学では大抵が野宿になるのが伝統だったが、近年では地球の文明が大いに発達したことにより、都市への修学では監督が手配した『ホテル』に泊まることが主流となっている。当時はまだ対策が取られていなかった。
「いや、そうなんだ。じゃ、うちに来る?」
「え、いいんですか?」
泊まらせてくれる理由を聞いてみた。
「まあ、君見てるとなんか不安だし……べつに良いよ。たいした家じゃないけど」
彼の言葉に甘えて、家に泊まらせて貰うことにした。しかし、僕はちょっとおかしい人だと思われているかもしれなかった。それとなく聞いてみると、
「野宿しようとする人はたまにいるよ。このあたり、変わり者とか多いし」
彼は特に気にしていないようだった。ほっとした。
「ありがとうございます。シュテルネンゼーさん」
「エリックでいいよ。ああ、お昼に言ってた通りだと、パリにはあと二日滞在するんだよね? そのくらいの日数なら明日も泊めてあげるよ」
彼の家まで歩く。まだ明かりのついている店が並ぶ界隈 から、角を曲がると、静かな通りに出た。
「ここが僕の家だよ」
彼はある『アパルトマン』の前で止まって言った。二階に部屋がある。階段を上がって、部屋の扉を開けて貰った。広くはない部屋だ。壁や床が古い。
「汚いところで悪いね。ソファがあるから、今日はそこで寝て。僕のベッドよりはふかふかだよ」
奥に両開きの窓、ベッドとクローゼット、イーゼルがあり、手前に机と椅子、赤いソファがあった。そのほかに、洗面台と小さなストーブが扉側の隅にある。ほの暗いので、”触覚”が少し光っているかもしれないが、この緑色の光は彼には見えていないだろう。どうぞ掛けて、と言われたので椅子に座った。
「何か飲むかい。と言っても、水しかないんだけど」
エリックは水をコップに入れてくれた。部屋に視線を移すと、床に置かれ壁に立て掛けられた青い絵や、木の額縁 に入れられた果物の絵、風景画に気付いた。青い絵をよく見ると、僕らの”触覚”のようなものを付けた白い魚が何匹か海を泳いでいる様子が描かれている。写実的でない、デフォルメされた姿だ。僕にはかわいらしく思えた。なんだか絵本のようでもある。
「あれは……」
「ああ、これ? 僕の描いた作品」
彼は微笑んで続けた。
「昔は全く売れてなかったんだけど、アニエスが親の伝手をあたって画商を紹介してくれたんだ。それからはぼちぼち。彼女には頭が上がらないよ。感謝してる」
彼はストーブの方を向いた。その上には鍋が置いてある。
「あれも彼女に押しきられて買ったんだ。暖房ひとつ置いてないなんて、って言われてね。あまり外食しなかったから、お金もろくに使わないで貯めてたし」
エリックは僕に視線を向ける。
「昼間の君を見てね、初めてこの辺りに来た彼女を思い出したんだ。あの時の彼女は君と同じように、常連の占めるカフェに入ってもいいのか迷ってた」
彼は椅子に掛けた。
「彼女はお嬢様なんだ。この辺に遊びに来るのも一苦労しててね。君も身なりからして良いとこの子だろ? 君たちみたいな初心で人の良さそうな子には、お節介したくなるんだよね」
三次元スーツに設定された服はそんなに仕立ての良い服なのだろうか。それは置いておいて、彼の優しい、いたずらっぽい言い方には、なんだか少し恥ずかしくなってしまった。
いくらか話していると、夜も更けてきて眠くなった。ソファで寝かせて貰う。起毛している素材だからか、ふかふかで眠りやすかった。
朝になると、煙草の匂いがした。窓は空いていて、そよ風が入ってくる。エリックは灰皿で煙草を揉み消すと、りんごを剥きはじめた。朝ごはんのようだ。何から何までお世話になるのも気が引けるので、朝食は外でとると言って彼の家を出た。少し慌てていたのは、三次元スーツに着替えたとき、食料を入れたバッグを給水塔の茂みに置いて、そのまま忘れていたことに気が付いたからだ。早足で丘に向かう。
『アパルトマン』を出て、瞬間移動を使おうと思ったが、三次元スーツを着ている状態では使えない。その上、真横の大通りを歩く人がちらほら見えたので、スーツの効果を切るのはためらわれる。いきなり姿が消える様子を目撃されては、後続の子どもたちが送られる修学先の選択にしばらく影響が出るだろう。
丘までは地下鉄で行くことにした。交差点まで歩き、アニエスに連れられて行った『百貨店』と同様の植物的な装飾のなされた看板がある入口を見つける。ポケットにしまっていた路線図を見たところ、ここから一つの路線で目的地まで行けるようだ。階段を下り、切符を買って電車を待った。しばらくすると、赤色と緑色の車体が現れた。二等車は緑色だ。乗ってみると、木製の一人掛け、二人掛けの席が向かい合わせに並んでいる。あまり混んでいなかった。空いている一人席に腰を落ち着けた。
電車が動き始め、速度を上げていくと、窓の外の景色は流れていった。いくつか駅に停まるたび、乗る人、降りる人が入れ替わる。雨が降っていないのに傘を持っていたので、不思議そうな目で見られることもあった。エリックの家に置いてくればよかった。丘に最も近い駅で降りて、地上に出る。地図を確認しようと思ったが、早朝の空気が心地良かったので、ぶらぶら散策することにした。腹はまだ空いていなかった。
少し歩くと、街路樹がきれいな葉をつけていた。青い空によく映える、日が差せばもっときれいだ、と思っていると、”触覚”が震えた。はっとして周りを見ると、『サーカス』や『ダンスホール』、『バー』がある。奥にはネオンサインも見えるので、学校で聞いた「あまり学習に良くないところ」なのだと悟った。急いで少し手前まで戻って、地図を出し目的地への経路を考えた。左に丘へ登れる坂道があったので、気を取り直してその道を辿った。坂は左に曲がっていく。
傾斜がなくなり、道がまっすぐになると、右手に小さな広場が見えた。数段の階段を上った先には古い木造家屋がある。それはエリックが描いた風景画にそっくりだった。
「ここ(彼のアパルトマンがある界隈)に来た最初の芸術家たちはもともとこの家に住んでいたんだよ。有名な人もいる」
とエリックが話していたのを思い出した。住みたい人が増えて、『地価』が高くなったことで家を離れて移住したらしい。そのときのエリックの顔は少し暗かった。
坂をまた上ると、給水塔のある通りに出た。柵の扉を開けて、周りを確認し、人がいないときを見計らって茂みに入った。三次元スーツの首元を留めているボタンを外し、帽子とフードを脱ぐと、もとの身体に戻った。バッグはやはり置きっぱなしだった。食糧を取り出し、蓋を回す。お粥状のものだ。袋は手のひらひとつ程度の大きさで薄いため、中身を押し出しつつ吸って食べる。
少し休憩したあと、バッグから出した袋で傘を包んだ。これで三次元スーツの効果がなくても物体に触ることができる。バッグの中に入れることも可能だ。三次元スーツを着た状態でも肩に掛けられるよう紐を調整し、傘を入れ(少しはみ出した)、フードと帽子を被りなおして首元を留め、茂みを出て扉を通った。これからどうしようか思案したあと、”触覚”を働かせて人気の多いところを探る。気になったところを地図で確認すると、そこには市場があることがわかった。まだ見ていない場所を訪れておきたかったので、ぐるりと散歩して向かうことにした。
道中では高架橋の下に『墓地』があったり、路面電車や行き交う自動車、様々なお店、塔のような形の広告塔を見た。広場には中心に銅像があることが多い。この日は前日と違って男性も女性も麦わらで出来た帽子を被っている人が多く、”山高帽”が浮いていないか気になってしまった。
もうひとつの高架橋の下には何本も線路があり、左には大きな駅舎があった。『汽車』は煙を吐いて走っていたが、スピードは”星”のバスより遅く、飛ぶことは出来ない(これは他の交通機関にも言えることだが)。パリの外も見てみたかったが、時間がなかった。
途中オペラ座近くの『カフェ』の窓から甘いものを食べている、アニエスと同じ服装の女性が見えて、彼女を思い出すと共に空腹を感じた。すでに昼近くだった。
市場に着くと、多すぎる人混みに驚愕してしまった。野菜や果物がたくさんの木箱に詰め込まれ、何列も並べられ、積み上げられている。荷車を押している人たち。奥には大きな鉄製の屋根があり、その下にも売り物が広がっていた。”星”の市場でこんなに食べ物が多く人だかりが出来ているところはない。店の人とお客さんが『金銭』のやり取りをしていた。呆然としていると、僕の肩に手が置かれた。
「ルイじゃない。奇遇ね」
驚いて振り向くと、アニエスが笑顔で立っていた。昨日とは違い、長い紺のスカートを履いていて、白いブラウスを着ていた。帽子はリボンのついた麦わらの帽子だ。昨日会ったときとは印象が全く違う。かわいらしいが、昨日の活発さはなかった。
「アニエスか、びっくりした。こんなに人と食べ物が多い市場初めて見たよ」
隣には、籠を持ったやや年配で落ち着いた服装の女性がいる。アニエスも蓋のついた籠を持っていた。なぜだか隣の人の雰囲気に圧迫され、これ以上喋れなかった。
「これ、エリックへの差し入れなの。ついでに渡しといてくれないかしら。差し出がましいお願いで悪いけど」
彼女は苦笑いして言った。僕は籠を受け取った。
「わかった。渡しておくよ」
やや上擦った声で返事をしたあと、彼女は俯きがちになった。
「あの、あなたって、明日パリを発つのよね」
僕は頷いた。
「見送りは行けそうもないかも。外せない予定があってね。本当に申し訳ないけど」
「とんでもない。嬉しいよ。見送りに来てくれるつもりだったんだね。昨日はとても親切にしてくれたし」
アニエスは微笑んでいた。その笑顔が寂しげだったことに、このときははっきりと気づかなかった。”触覚”が一瞬光り、なにか重く暗いものが胸をもたげてくる。
「お嬢様、車が来ました」
通りにいた女性がアニエスに話した。
「そう……じゃあ、これでお別れね。楽しかったわ」
僕は慌てて、歩く彼女の背に声をかけた。
「あの、僕も楽しかったよ」
何を言えば良いのかわからず、当たり障りのない返答をしてしまった。彼女が乗った自動車は走り去った。僕は重い焦燥 に苛まれながら、通りに出て車が小さくなるまで見送った。日差しは高くなっていた。
僕は彼女の気持ちを探ろうとして、”触覚”を使った。しかし、市場の近くだったために、人々の膨大な思念 を拾ってしまい、眩暈 を起こしてしまった。
僕たちは”触覚”を意識して使わずとも、強いものであれば他人の感情を知ることが出来る。しかし、直接人の心を知ろうとすることは不道徳な行いとして禁じられている。これは単に倫理だけの話ではなく、使用により心身の危険を未然に防ぐためでもあった。
僕は近くの公園で落ち着くまで休んだ。監督は駆けつけてこなかった。もし監督が来ていたら、途中で”星”に帰されていたことだろう。それでは今年中に成人になれない。僕はアニエスから預かった籠を抱えて、ベンチに座っていた。籠の中には芋などの根菜やパン、鶏肉、りんごが入っていた。噴水の水面をそよ風が撫でるのも、青い空に羊のような雲が浮かび、ゆっくりと流れていく光景もこのときははっきりと感じ取れなかった。子どもを乳母車に乗せている女性たちは互いに微笑んでいた。
落ち着いた頃には夕方になっていた。公園で憩う人々の姿もすでにまばらだ。街灯が点き始める。日が沈む前にエリックの家へ戻った。
扉をノックすると、エリックが出て来て部屋に入れてくれた。アニエスから預かった籠を渡すと中身を見て、
「今晩はポトフにしよう」
と言った。彼が夕食を作ってくれることになった。待っている間、とても良い香りがした。煮込み料理らしい。僕の前に出された客用の皿は白く、細く青い線で中央と縁に花が描かれていたが、彼の皿は柄がなく、くすんでいて少し欠けていた。
お皿にあたたかい料理が盛り付けられた。彼が席につく。根菜と鶏肉はよく煮えており柔らかい。調味料は塩・こしょうのようだ。パンと合わせるとよりおいしい。僕は心底安心した。彼は僕の様子を心配してくれていたようで、僕の反応を見て微笑んだ。
また昨日と同様にソファで眠る。明日発 つことを話して、お互い寂しくなったけれど、辛いことも小さな幸福で中和して明るく別れることができると思っていた。
朝方、何か音が聞こえて、ぼんやり目を開けた。誰かが咳き込む声だ。意識がはっきりするにしたがって、より聴覚は鮮明になる。ただ事ではなかった。飛び起き、音のするほうを見ると、床に真っ赤な血だまりができていた。エリックが血を吐いたのだ。
「エリック」
うずくまる彼に慌てて駆け寄った。彼の指には煙草がある。
「はは、マジかよ」
彼は笑っていたが、視線は血だまりに向けられており、顔は青く手が震えていた。
「死にたくねぇな。ようやく生きてて楽しいこともあったのに……」
彼は言った。
「なぁ、人って死んだら何処にいくんだと思う? やっぱりあの世とかってあるのかな。……何もないところだったら、怖いな」
僕は彼の肩を抱き締めた。そうせずにはいられなかった。彼の不安と恐怖が痛いほど伝わったから。死を経験しない異星人では彼の気持ちに完全に寄り添うことはできないだろう。けれども、今度は後悔したくなかった。
「大丈夫、君はきっといいところに行くよ」
そう言わずにはいられなかった。エリックはどう思っただろうか。彼の手の震えが一瞬止まった。
「……ありがとう。君はいいやつだね」
苦しそうだが、エリックの口元は笑っていた。
その後は彼の症状が落ち着くまでしばらく隣にいた。僕は帰りの船のことなど忘れていた。しかし、彼が切り出した。
「そろそろ出る時間だろう。すまないね、最後の一日にとんでもない目にあわせて」
エリックは言い淀む僕を押して、
「さぁ、列車に遅れるぞ」
と言った。扉の前に送られてしまい、僕は彼の目に見えないバッグを掛けていたまま寝ていたことを今さら思い出した。鍵が開けられ、廊下に出される。振り向くと、エリックは泣きそうな目で微笑んでいた。
「いつかまた会えるかな。会えるといいな」
それからは地下鉄で丘に向かい、その長い階段を俯きながら上った。合流した監督は僕の様子を見て、気遣ったのか何も言わなかった。丘からは澄んだ青空とパリの街がよく見渡せた。
速度を上げる直前、宇宙船の窓から見えた地球は青く、白い雲がいくつも棚引 いていた。
僕は涙を流した。
「今回降りる所がヨーロッパと呼ばれる地域なのは先に教わったな」
「はい」
「選ばれたのはその地域にあるフランスという国の首都だ。パリといったかな」
言語に関しては自動翻訳されるため問題はないが、名前については不安があった。
「地球ではどのような名前を名乗ればよいのでしょうか」
「三次元スーツの上に名札があるから、そこに書かれている名前を名乗りなさい。たぶん元の名前と似ているものだろう」
外に目を移すと、地球が窓いっぱいの大きさに見えてきた。月という衛星を横切る。
「さあ、そろそろ着陸するぞ」
上昇した速度によって窓から見える海や大陸が大きくなり、大気圏内に入ると青い空と雲が現れた。そのままのスピードで雲に突入し、この地域の一番高い山に着陸できるスペースを捉えると、緩く減速して着陸した。
「よし。着陸成功だ」
監督はほっと息をついて振り向くと、復習の続きを始めた。
「俺はここから”触覚”を使ってお前を見守ってるからな。命に関わること以外では手出ししない。事故防止装置は今巻いておくように」
ネジを巻くと、装置は僕の周囲を回って、数メートル(これはフランスの単位だ)上に浮遊した。監督は装置の状態を確認すると、三次元スーツと食料の入ったバッグを肩にかけて僕の両手を握った。
「予定地にある一番高い丘まで移動するぞ」
目を瞑り、開くと景色が変わっていた。宇宙船の中ではなく外で、監督の後ろには大きな白い寺院らしきものがある。
「ここがパリだ」
手を離されて、後ろを振り向くと、息を飲んだ。故郷では見たこともないほど数多く家が並んでいるのが見えた。奥は平原らしい。あいにく空は曇っていて、午後には雨が振りだしそうだった。
「まずは三次元スーツを着ないとな。どこか人目のないところを探して着替えなさい。俺はもう宇宙船に戻っておく。健闘を祈るぞ」
そう言うと監督は瞬間移動していなくなった。ちらほら人がいるが、まだ彼らには僕のことが見えていない。”触覚”を澄ませて、
柵をすり抜けて茂みに紛れ、バッグを開けると、三次元スーツの入った袋の上に名札と地図、バスや地下鉄などの路線図、財布があった。名札には『ルイ・アルデバラン』と書いてある。ここではこの名前を名乗れば良いのだろう。
食料を確認して、三次元スーツを着た。形状は地球でいう『つなぎ』に似ている。顔まで覆うフードを被って”触覚”を頭頂部の穴から通し、(僕らの”触覚”は先端が丸いこと、暗いところで光ることを除けば地球の植物『すずらん』に似ている)首元を留めると、三次元の感覚が掴めるようになった。地球の人からは蝶ネクタイを締め三つ揃えのスーツを着た姿に見えるらしく、確かめると実際そのようだった。
付属していた帽子を被ると、
地球に来たのは成人としての学びを得るためであるので、まずは人と接触するのがいい。目を閉じ手を広げ、”触覚”を機能させて人気の多いところを探る。いくつか人の集まるところを感知した。
その中から気になる波動の出ている一ヶ所に的を絞る。よし、ここにしよう。地図で位置が正確なことを確認すると、感覚通りここからやや離れているのがわかった。地下鉄の方が速いと思うが、街並みをよく見ておきたいので、バスを利用することにする。
路線図を開き、乗り継ぎが必要なのを確認したあと、小さな門を出る。近くのバス停を探して、時間まで待った。時計を持っていないので、いつまで待てば良いのかはわからなかったが、バスはほどよい時間でやってきた。バス後部の立ち席は風があたり心地よい。過ごしやすい気候だ。
景色は
教科書で学んだとおりであれば、田舎には故郷と似た風景が広がっているらしいが、全くそれが実感出来なかった。街灯や街路樹も資料で見たとおりだ。橋を渡って、川は流石に”星”と同じ様子で安心した。
見慣れないものを見た衝撃で疲れていると、目的地に近いバス停に着いた。慌てて降りて、地図を確認した。”触覚”で再度感知しつつお昼の街を歩いていくと、ひらけた交差点に出た。街並みは変わらないが、活気に溢れた『カフェ』や料理店がいくつもある。歩道に所狭しと並ぶ机や椅子、そこでお喋りをする大勢の人々。スーツを着ている男性も、『すずらん』のような帽子を被った女性もいる。給仕が狭い机椅子の間を通り抜けた。初めに”触覚”で感知したときから気になっていたが、なぜかここには他の場所と違う活気と温かみがあった。素敵なところだ。
『カフェ』は道路を挟んで二、三軒あるので、何処に入ろうか迷ったが、とりあえず向こう側に渡った。外の席はどこもほぼ埋まっていた。場慣れている常連客が多いようで、空いている席を見つけても座るのも、店内に入るのも気が引ける。立ち止まってどうするか悩んでいると、奥の席に座っていた女性が手をふっているのが見えた。その上、向かいに座っている男性が隣の椅子に置いていた帽子を取って招いてくれる。ありがたい。お礼を言ってから、男性の隣の席に着かせてもらった。
「こんにちは、初めまして! ここでは見ない顔ね」
女性が笑顔で、
「こんにちは。入りづらかったでしょう」
男性が微笑して挨拶をしてくれた。短い髪の女性は緑の膝丈ワンピースを着ていて、白い『すずらん』型の帽子を被っていた。彼女が頼んだと思わしき『クレープ』が机にある。男性はジャケットを着ているがネクタイは締めておらず、『コーヒー』だけを頼んでいた。
「ありがとうございます。ここは初めてで……あっ、僕はルイ・アルデバランと言います」
「アルデバラン……。良い名前だね。僕はエーリヒ・シュテルネンゼー。エリックでいいよ」
「私はアニエス。アニエス・リュミエール。そんなに緊張しなくても、気楽にして良いのよ。私も最初はそうだったけど」
アニエスが店の人を読んでくれたので、僕は水を頼み、喉の渇きを癒した。三次元スーツを着ている状態なら、”僕たち”でも三次元の食べ物・飲み物を摂取することができる。
「あなたは観光客? それとも作家とか……画家とか?」
「僕は……まあ、観光客みたいなものです。三日間しかパリには滞在しないので」
「そうなの? 同類かと思ったんだけど……あ、僕は画家だよ。それほど売れてはいないけどね」
彼は笑った。
「でも、先輩方よりは良い暮らしぶりだよ。ここも賑やかになったもんだね。僕が子どもの頃は、ほんと寂しいところだったんだけど」
「この人、地元の人間なのよ。羨ましいでしょう? きっと有名人とも会ったことがあるんでしょうね。実家、たばこ屋よね。誰か買いに来たこともあるんじゃないの」
「いや、うちに来てたかどうかなんて知らないよ。たまに店番してても、サボりがちだったし」
あとで知ったことだが、どうやらこの辺りは芸術家が集まる土地だったらしい。安い家賃が魅力で、画家や作家や詩人、ジャーナリストたちから好まれるにつれ、文化的な土壌が育まれるようになった。ここの気風に憧れて他の国から文化人たちがやって来ることも稀ではないそう。水道や電気、暖房のない環境で仕事に励んでいた芸術家たちがよく訪れたのが、安く軽食を提供するこの『カフェ』。向かいの『ブラッスリー』はお金のない彼らに親切で、作品を代金がわりに受け取ったこともあるそうだ。
「ルイくんはどうしてここに来たの?」
彼女が聞いてきた。
「勉強のためです」
僕が答えると彼が、
「ふーん。やっぱり作家志望? 画家には見えないからね」
と言った。僕は”星”に帰ったら詩や散文を書きたいと思っていたので、彼の言葉を否定しなかった。
「そんなところです。ところで、お二人はどこかパリでよく人の集まるところを知りませんか? 後学のために見ておきたくて……」
「パリで人の多いところ? そうねぇ」
クレープを食べ終わったアニエスが首を捻ったあと、思い付いたように手を軽く叩いた。
「じゃあ、パリの案内がてら百貨店にでも行かない? あそこなら人はいっぱい来るでしょう。私、今日は暇なのよ」
「おいおい、君の買い物に付き合わせるなよ」
エリックが苦笑した。
「ルイくんはそれでいいのかな?」
彼の言葉は優しかった。僕は二人に好感を持っていたので、好意に甘えることにした。
「むしろありがたいです」
「決定ね」
アニエスと『会計』を済ませる。はじめて実地で行う『会計』なので緊張したが、慌てずスムーズに済ませることができた。学校でちゃんと習っておいて良かった、と胸を撫で下ろした。
「それじゃ、またねエリック」
「あまり振り回さないようにしなよ」
「席、ありがとうございました」
お礼を言い、エリックと別れて通りに出ると、彼女はタクシーを呼んだ。
「パリに来るまで疲れたでしょう。目的地へは車で行っちゃおうね」
「何から何まですみません」
「いいの、いいの。私もそこに用があるから。というか、私が行きたいのよね」
少しおどけた調子で彼女は笑った。地球の人とうまく話せるか不安だったので、エリックや彼女のような人と出会えたのは幸運だった。車は先ほど歩いてきた通りを進み、橋に出た。窓から見える景色は曇り空のままだ。
「ここよ」
タクシーを降りると、目前に植物のような曲線を描いた扉や庇があった。見上げると、かなり大きな建物らしい。アニエスに連れられて中に入る。建物は六階建てのようで、吹き抜けになっており、ガラス張りの天井から灰色の雲が見えた。柵は緑色で、植物を思わせる装飾。故郷の森を少し思い出す。
「この様式、時代遅れって言う人の方が多いんだけど、私は気に入ってるのよね」
階段を上がって、彼女と共に、最上階から各階に並ぶ商品を眺める。服や靴、鞄、『照明』、箪笥など、この場所には様々な商品が販売されているようだ。僕らの”星”には当然『通貨』がないので、値段のことはよくわからないが、どれも高級そうだった。アニエスはあちこちを見回ったが、買ったのは銀の懐中時計だけだった。
「父に贈ろうと思うの」
彼女は
外に出ると、雨がポツポツ降り始めたので、いったん店に戻って一番安い傘を買った(それでも出費が多かったような)。黒色で良い出来のものだ。今この傘は”星”の博物館に収蔵されている。有名な美術館や公園、広場がこの先にまっすぐ並んでいるそうなので、相談の結果、まとめて散策することにした。セーヌ川を眺めながら歩いていると、雨は本降りになった。
「十年以上前、パリで洪水があったんだけど……」
アニエスが歩きながら話す。
「今見ると、街が水浸しになるほど増水したなんて思えないわ。確かに、この目で見たんだけどね」
地球では、災害が僕らの”星”よりも頻繁に起こると聞いた。何か困ったことがあったのか尋ねると、子どもだったし、特段被害も受けなかった、ひとりも死者が出なかったということを話してくれた。そのあと、かつては宮殿であったという美術館や、整備されていて美しい公園、『オベリスク』という彫刻(?)のある広場を見て回った。見たことのない珍しいもの、美しいものを見れて楽しかった。僕は案内をしてくれたアニエスの親切やおしゃべりに好感を持った。これまで僕は彼女のことを名字で呼んでいたのだが、
「アニエスで良いわよ。リュミエールさんはなんだか堅苦しいし」
と、彼女は言ってくれた。このことはとても嬉しかった。
アニエスとエリックに出会った交差点までバスで戻る。日は暮れ、雨は止んでいた。街灯や店内が”オレンジ”のように明るくなり、看板の『ネオンサイン』が赤や青、黄色に光る。最寄りのバス停で降りたら、雨上がりの通りを歩いて、カフェの集うあの場所へ。傘を閉じた人々が料理店やその前に集まっている。二人ともお腹が空いたので食事をとることにした。
店の中に入り、席に着くと、アニエスの席の後ろでエリックが友達らしき人と話しているのが見えた。メニューを見ても文字だけで実物がどんなものかよくわからなかったため、アニエスと同じものを頼む。焼いた肉と揚げた芋だ。芋は”星”でもよく食べるが、当然揚げたものや”羊”以外の肉は初めて食べた。おいしいのだが、僕の口には脂っこく、故郷の味が懐かしくなった。
胃が落ち着くと、アニエスが『ダンスホール』に連れていってくれた。人がたくさんいる。僕達の”星”にも踊りはあるが、ゆったりしている(『ワルツ』のようなもの……?)ので地球のものについていけるか心配だった。アニエスはそんな僕を察して、
「下手でいいのよ。私も上手くはないからね」
と緊張を和らげてくれた。『ピアノ』と金管楽器の軽快な音。彼女の瞳は『
「ありがとう。今日は楽しかったわ」
夜も更けると、彼女は『ホール』で会った女友達とタクシーで帰ることになった。名残惜しかったが、これまでの親切に感謝して見送る。いつまでパリにいるのか聞かれたので、二日後の昼には発つことを伝えた。アニエスはちょっと寂しそうな顔をしたあと笑って、
「そう。これからもパリを楽しんでね」
と言ってくれた。車が去ってしまうのを見て、お店にいたエリックのことを思い出す。まだ店内にいるかと思い、扉の窓ガラスから覗くと、彼はソファで居眠りをしていた。友達は寝ている彼に気を遣ったのか、もういないようだ。店の人もまだ声をかけるつもりはないらしい。出ていく人の邪魔にならないよう見守っていると、彼は目を覚まし、少し経ってからこちらを向いた。僕に気づいたようだ。ソファに置いていた帽子を持って、『会計』を済ませると、僕を見て会釈をした。彼が扉を開ける。
「やぁ、また会ったね。僕のこと心配してくれたのかな」
「お店で寝てて、その、大丈夫ですか? 具合悪いとか……」
店の人に怒られないのだろうか。もしかして具合が良くないのだろうか。素直に心配から聞いてみると、
「ああ、僕、常連だから。ここの人たちは僕みたいな連中に寛容なんだよ。あと、病気って訳じゃ……ないね」
と笑って答えてくれた。その笑い方がはにかんでいるようで、僕は優しそうな人だと思った。でも、具合について付け足した言葉はやや暗く感じた。実際、その見立ては当たっていたのだが。起こしてくれてもいいのに、彼は小声でこの場にいない友達へ愚痴を言ったあと、
「僕はこれから家に帰るけど……君はどこかに泊まってるの?」
と聞いた。僕に宿の当てはなかった。
「……野宿しようと思ってます」
「え?」
驚かれてしまった。基本的に地球での修学では大抵が野宿になるのが伝統だったが、近年では地球の文明が大いに発達したことにより、都市への修学では監督が手配した『ホテル』に泊まることが主流となっている。当時はまだ対策が取られていなかった。
「いや、そうなんだ。じゃ、うちに来る?」
「え、いいんですか?」
泊まらせてくれる理由を聞いてみた。
「まあ、君見てるとなんか不安だし……べつに良いよ。たいした家じゃないけど」
彼の言葉に甘えて、家に泊まらせて貰うことにした。しかし、僕はちょっとおかしい人だと思われているかもしれなかった。それとなく聞いてみると、
「野宿しようとする人はたまにいるよ。このあたり、変わり者とか多いし」
彼は特に気にしていないようだった。ほっとした。
「ありがとうございます。シュテルネンゼーさん」
「エリックでいいよ。ああ、お昼に言ってた通りだと、パリにはあと二日滞在するんだよね? そのくらいの日数なら明日も泊めてあげるよ」
彼の家まで歩く。まだ明かりのついている店が並ぶ
「ここが僕の家だよ」
彼はある『アパルトマン』の前で止まって言った。二階に部屋がある。階段を上がって、部屋の扉を開けて貰った。広くはない部屋だ。壁や床が古い。
「汚いところで悪いね。ソファがあるから、今日はそこで寝て。僕のベッドよりはふかふかだよ」
奥に両開きの窓、ベッドとクローゼット、イーゼルがあり、手前に机と椅子、赤いソファがあった。そのほかに、洗面台と小さなストーブが扉側の隅にある。ほの暗いので、”触覚”が少し光っているかもしれないが、この緑色の光は彼には見えていないだろう。どうぞ掛けて、と言われたので椅子に座った。
「何か飲むかい。と言っても、水しかないんだけど」
エリックは水をコップに入れてくれた。部屋に視線を移すと、床に置かれ壁に立て掛けられた青い絵や、木の
「あれは……」
「ああ、これ? 僕の描いた作品」
彼は微笑んで続けた。
「昔は全く売れてなかったんだけど、アニエスが親の伝手をあたって画商を紹介してくれたんだ。それからはぼちぼち。彼女には頭が上がらないよ。感謝してる」
彼はストーブの方を向いた。その上には鍋が置いてある。
「あれも彼女に押しきられて買ったんだ。暖房ひとつ置いてないなんて、って言われてね。あまり外食しなかったから、お金もろくに使わないで貯めてたし」
エリックは僕に視線を向ける。
「昼間の君を見てね、初めてこの辺りに来た彼女を思い出したんだ。あの時の彼女は君と同じように、常連の占めるカフェに入ってもいいのか迷ってた」
彼は椅子に掛けた。
「彼女はお嬢様なんだ。この辺に遊びに来るのも一苦労しててね。君も身なりからして良いとこの子だろ? 君たちみたいな初心で人の良さそうな子には、お節介したくなるんだよね」
三次元スーツに設定された服はそんなに仕立ての良い服なのだろうか。それは置いておいて、彼の優しい、いたずらっぽい言い方には、なんだか少し恥ずかしくなってしまった。
いくらか話していると、夜も更けてきて眠くなった。ソファで寝かせて貰う。起毛している素材だからか、ふかふかで眠りやすかった。
朝になると、煙草の匂いがした。窓は空いていて、そよ風が入ってくる。エリックは灰皿で煙草を揉み消すと、りんごを剥きはじめた。朝ごはんのようだ。何から何までお世話になるのも気が引けるので、朝食は外でとると言って彼の家を出た。少し慌てていたのは、三次元スーツに着替えたとき、食料を入れたバッグを給水塔の茂みに置いて、そのまま忘れていたことに気が付いたからだ。早足で丘に向かう。
『アパルトマン』を出て、瞬間移動を使おうと思ったが、三次元スーツを着ている状態では使えない。その上、真横の大通りを歩く人がちらほら見えたので、スーツの効果を切るのはためらわれる。いきなり姿が消える様子を目撃されては、後続の子どもたちが送られる修学先の選択にしばらく影響が出るだろう。
丘までは地下鉄で行くことにした。交差点まで歩き、アニエスに連れられて行った『百貨店』と同様の植物的な装飾のなされた看板がある入口を見つける。ポケットにしまっていた路線図を見たところ、ここから一つの路線で目的地まで行けるようだ。階段を下り、切符を買って電車を待った。しばらくすると、赤色と緑色の車体が現れた。二等車は緑色だ。乗ってみると、木製の一人掛け、二人掛けの席が向かい合わせに並んでいる。あまり混んでいなかった。空いている一人席に腰を落ち着けた。
電車が動き始め、速度を上げていくと、窓の外の景色は流れていった。いくつか駅に停まるたび、乗る人、降りる人が入れ替わる。雨が降っていないのに傘を持っていたので、不思議そうな目で見られることもあった。エリックの家に置いてくればよかった。丘に最も近い駅で降りて、地上に出る。地図を確認しようと思ったが、早朝の空気が心地良かったので、ぶらぶら散策することにした。腹はまだ空いていなかった。
少し歩くと、街路樹がきれいな葉をつけていた。青い空によく映える、日が差せばもっときれいだ、と思っていると、”触覚”が震えた。はっとして周りを見ると、『サーカス』や『ダンスホール』、『バー』がある。奥にはネオンサインも見えるので、学校で聞いた「あまり学習に良くないところ」なのだと悟った。急いで少し手前まで戻って、地図を出し目的地への経路を考えた。左に丘へ登れる坂道があったので、気を取り直してその道を辿った。坂は左に曲がっていく。
傾斜がなくなり、道がまっすぐになると、右手に小さな広場が見えた。数段の階段を上った先には古い木造家屋がある。それはエリックが描いた風景画にそっくりだった。
「ここ(彼のアパルトマンがある界隈)に来た最初の芸術家たちはもともとこの家に住んでいたんだよ。有名な人もいる」
とエリックが話していたのを思い出した。住みたい人が増えて、『地価』が高くなったことで家を離れて移住したらしい。そのときのエリックの顔は少し暗かった。
坂をまた上ると、給水塔のある通りに出た。柵の扉を開けて、周りを確認し、人がいないときを見計らって茂みに入った。三次元スーツの首元を留めているボタンを外し、帽子とフードを脱ぐと、もとの身体に戻った。バッグはやはり置きっぱなしだった。食糧を取り出し、蓋を回す。お粥状のものだ。袋は手のひらひとつ程度の大きさで薄いため、中身を押し出しつつ吸って食べる。
少し休憩したあと、バッグから出した袋で傘を包んだ。これで三次元スーツの効果がなくても物体に触ることができる。バッグの中に入れることも可能だ。三次元スーツを着た状態でも肩に掛けられるよう紐を調整し、傘を入れ(少しはみ出した)、フードと帽子を被りなおして首元を留め、茂みを出て扉を通った。これからどうしようか思案したあと、”触覚”を働かせて人気の多いところを探る。気になったところを地図で確認すると、そこには市場があることがわかった。まだ見ていない場所を訪れておきたかったので、ぐるりと散歩して向かうことにした。
道中では高架橋の下に『墓地』があったり、路面電車や行き交う自動車、様々なお店、塔のような形の広告塔を見た。広場には中心に銅像があることが多い。この日は前日と違って男性も女性も麦わらで出来た帽子を被っている人が多く、”山高帽”が浮いていないか気になってしまった。
もうひとつの高架橋の下には何本も線路があり、左には大きな駅舎があった。『汽車』は煙を吐いて走っていたが、スピードは”星”のバスより遅く、飛ぶことは出来ない(これは他の交通機関にも言えることだが)。パリの外も見てみたかったが、時間がなかった。
途中オペラ座近くの『カフェ』の窓から甘いものを食べている、アニエスと同じ服装の女性が見えて、彼女を思い出すと共に空腹を感じた。すでに昼近くだった。
市場に着くと、多すぎる人混みに驚愕してしまった。野菜や果物がたくさんの木箱に詰め込まれ、何列も並べられ、積み上げられている。荷車を押している人たち。奥には大きな鉄製の屋根があり、その下にも売り物が広がっていた。”星”の市場でこんなに食べ物が多く人だかりが出来ているところはない。店の人とお客さんが『金銭』のやり取りをしていた。呆然としていると、僕の肩に手が置かれた。
「ルイじゃない。奇遇ね」
驚いて振り向くと、アニエスが笑顔で立っていた。昨日とは違い、長い紺のスカートを履いていて、白いブラウスを着ていた。帽子はリボンのついた麦わらの帽子だ。昨日会ったときとは印象が全く違う。かわいらしいが、昨日の活発さはなかった。
「アニエスか、びっくりした。こんなに人と食べ物が多い市場初めて見たよ」
隣には、籠を持ったやや年配で落ち着いた服装の女性がいる。アニエスも蓋のついた籠を持っていた。なぜだか隣の人の雰囲気に圧迫され、これ以上喋れなかった。
「これ、エリックへの差し入れなの。ついでに渡しといてくれないかしら。差し出がましいお願いで悪いけど」
彼女は苦笑いして言った。僕は籠を受け取った。
「わかった。渡しておくよ」
やや上擦った声で返事をしたあと、彼女は俯きがちになった。
「あの、あなたって、明日パリを発つのよね」
僕は頷いた。
「見送りは行けそうもないかも。外せない予定があってね。本当に申し訳ないけど」
「とんでもない。嬉しいよ。見送りに来てくれるつもりだったんだね。昨日はとても親切にしてくれたし」
アニエスは微笑んでいた。その笑顔が寂しげだったことに、このときははっきりと気づかなかった。”触覚”が一瞬光り、なにか重く暗いものが胸をもたげてくる。
「お嬢様、車が来ました」
通りにいた女性がアニエスに話した。
「そう……じゃあ、これでお別れね。楽しかったわ」
僕は慌てて、歩く彼女の背に声をかけた。
「あの、僕も楽しかったよ」
何を言えば良いのかわからず、当たり障りのない返答をしてしまった。彼女が乗った自動車は走り去った。僕は重い
僕は彼女の気持ちを探ろうとして、”触覚”を使った。しかし、市場の近くだったために、人々の膨大な
僕たちは”触覚”を意識して使わずとも、強いものであれば他人の感情を知ることが出来る。しかし、直接人の心を知ろうとすることは不道徳な行いとして禁じられている。これは単に倫理だけの話ではなく、使用により心身の危険を未然に防ぐためでもあった。
僕は近くの公園で落ち着くまで休んだ。監督は駆けつけてこなかった。もし監督が来ていたら、途中で”星”に帰されていたことだろう。それでは今年中に成人になれない。僕はアニエスから預かった籠を抱えて、ベンチに座っていた。籠の中には芋などの根菜やパン、鶏肉、りんごが入っていた。噴水の水面をそよ風が撫でるのも、青い空に羊のような雲が浮かび、ゆっくりと流れていく光景もこのときははっきりと感じ取れなかった。子どもを乳母車に乗せている女性たちは互いに微笑んでいた。
落ち着いた頃には夕方になっていた。公園で憩う人々の姿もすでにまばらだ。街灯が点き始める。日が沈む前にエリックの家へ戻った。
扉をノックすると、エリックが出て来て部屋に入れてくれた。アニエスから預かった籠を渡すと中身を見て、
「今晩はポトフにしよう」
と言った。彼が夕食を作ってくれることになった。待っている間、とても良い香りがした。煮込み料理らしい。僕の前に出された客用の皿は白く、細く青い線で中央と縁に花が描かれていたが、彼の皿は柄がなく、くすんでいて少し欠けていた。
お皿にあたたかい料理が盛り付けられた。彼が席につく。根菜と鶏肉はよく煮えており柔らかい。調味料は塩・こしょうのようだ。パンと合わせるとよりおいしい。僕は心底安心した。彼は僕の様子を心配してくれていたようで、僕の反応を見て微笑んだ。
また昨日と同様にソファで眠る。
朝方、何か音が聞こえて、ぼんやり目を開けた。誰かが咳き込む声だ。意識がはっきりするにしたがって、より聴覚は鮮明になる。ただ事ではなかった。飛び起き、音のするほうを見ると、床に真っ赤な血だまりができていた。エリックが血を吐いたのだ。
「エリック」
うずくまる彼に慌てて駆け寄った。彼の指には煙草がある。
「はは、マジかよ」
彼は笑っていたが、視線は血だまりに向けられており、顔は青く手が震えていた。
「死にたくねぇな。ようやく生きてて楽しいこともあったのに……」
彼は言った。
「なぁ、人って死んだら何処にいくんだと思う? やっぱりあの世とかってあるのかな。……何もないところだったら、怖いな」
僕は彼の肩を抱き締めた。そうせずにはいられなかった。彼の不安と恐怖が痛いほど伝わったから。死を経験しない異星人では彼の気持ちに完全に寄り添うことはできないだろう。けれども、今度は後悔したくなかった。
「大丈夫、君はきっといいところに行くよ」
そう言わずにはいられなかった。エリックはどう思っただろうか。彼の手の震えが一瞬止まった。
「……ありがとう。君はいいやつだね」
苦しそうだが、エリックの口元は笑っていた。
その後は彼の症状が落ち着くまでしばらく隣にいた。僕は帰りの船のことなど忘れていた。しかし、彼が切り出した。
「そろそろ出る時間だろう。すまないね、最後の一日にとんでもない目にあわせて」
エリックは言い淀む僕を押して、
「さぁ、列車に遅れるぞ」
と言った。扉の前に送られてしまい、僕は彼の目に見えないバッグを掛けていたまま寝ていたことを今さら思い出した。鍵が開けられ、廊下に出される。振り向くと、エリックは泣きそうな目で微笑んでいた。
「いつかまた会えるかな。会えるといいな」
それからは地下鉄で丘に向かい、その長い階段を俯きながら上った。合流した監督は僕の様子を見て、気遣ったのか何も言わなかった。丘からは澄んだ青空とパリの街がよく見渡せた。
速度を上げる直前、宇宙船の窓から見えた地球は青く、白い雲がいくつも
僕は涙を流した。
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