補章
自分の一家は成功した移民だった。
父親は文字を読むことができ、彼は手紙の代読によって他のイタリア系移民たちから信望を集め、地元の名士ような比較的高い地位を築いた。
家業はどの国でも需要のある、安定さえすれば食うに困る可能性が低い床屋だった。
帰り道、家の近くの裏路地を歩いていると、前から自分と歳の近い子供が走ってきた。
彼の身なりは汚れていた。
手に札束を握りしめた彼は、立ち止まると、後ろを振り返った。
恐らく金を盗んだ相手か警官から逃げできたのだろう。息が切れていた。
そして札束を見て、小さく呟いた。
「これでまし な良いものが食べられる……」
彼は自分に気が付くと、
「何?」
と言った。イタリア語だった。
あまりの剣幕に自分は立ち尽くしてしまった。
困窮した同胞たちのことは知っていたが、ここまで孤独と憎悪に満ちた人物には会ったことがない(父母や兄たちが直接会わせないようにしていたからだ、と後で気づいた)。
ましてや自分とそう遠くない歳の少年だ。
少しの沈黙のあと、警戒を緩めた少年は、
「……君はイタリア人か?」
と聞いてきた。
当惑した。
移民である家族は皆イタリア生まれだったが、自分はアメリカで生まれた。
自分は早く答えようと焦った末に、
「……アメリカ人?」
と答えてしまった。
すると彼は──たぶんシチリア方言だろう、聞き取れない罵倒をして横の角に走り去った。
二度目にも同じ路地で会った。
彼は以前よりは良い服を着ていたが、それは使い古したもののようだった。
「……何か用?」
英語で尋 ねる訝 しげな様子に怯 んだが、意を決して、間食にしようと思っていた小ぶりの林檎を両手で差し出した。子供ギャング団の稼ぎで買ったものだ。
「これ、あげる」
自分が話すと、
「……イタリア語?」
彼は目を丸くした。
少年はゆっくり林檎を受け取ると、懐 に寄せ、嬉しそうにそれを見つめて微笑 んだ。
あらゆる犯罪に手を染めた。
殺人、恐喝 、賭博、売春、脱税、そして酒の密売……
はじめは小銭を稼ぐためだった。
極貧というわけではなかったが、親の収入では子供に毎月小遣いをやることは難しい。
子供ギャング団に加わり、青年になって裏社会の者が営む飲食店で働くうちに、上司や友人・親族など、関わった人々を助けたいと願うようになった。
ここでは皆悲しい目をしている。
怖ろしげな気配を纏 っていても、それは自身や周囲に降りかかる危険を遠ざけるためであって、怪物ならぬ一人の人間であることには変わりない。
彼らは深い絶望を抱えて生きている。
そこから救い出す術 を俺は持たなかった。
俺に出来ることは、共に深淵 へ堕ちることだけだ。
無我夢中で働いて、自分は何も悪いことはしていない、と本気で思ったこともあった。
道中で子供もいない若い連中を殺した。やらなければこちらがやられる、報復の連鎖する状況とはいえ、それを正しいことだとは言い切れなかった。
裁判で有罪を言い渡されたとき、内の心で安堵 してしまったのを覚えている。
やっとこれで辞められる、と。
しかし、部下や仲間に対して何か貢献することはできたのだろうか?
自分が監獄に行っているうちに、側近が何人も相次いで死んだ。
親友に至っては、自分も知らない闇の中に沈んでいってしまった。
この世には手を伸ばしても取り返せないものがある。
──蛆虫 さえいなければ、俺はこの仕事を辞められる……
混濁 する意識の中、カポネは自分が車に揺られているのを知った。
病で頭がやられてしまったらしい。
思考が過去と今を行き来する。
意識がないとき、自分の人格は幼い子供のように戻っている、と医者が言っていた。
帰った家では、妻や親族が献身的に世話をしてくれている。
妻子や親族に迷惑をかけてまで、自分はやるべきこと、やりたいことを全 うできたのだろうか。
いつものように寝台で寝ていると、ここにはいるはずの無いルチアーノが椅子に座っているのが見えた。
子供の頃と比べて随分 年を取っている。
彼はしばらく俯 いていたが、そのうち席を立って部屋の外へ出た。
微睡 んだ意識を締 め上げる。
カポネは全身の力を込めて起き上がった。
──この人をこのまま行かせてはならない。
閉まった扉をあけ、親友の背中に手を伸ばす。
「ルチアーノ」
階段の踊り場で振り向いた彼は、泣いていた。
ルチアーノは映画の打ち合わせのため空港にいた。
「うん、わかった。すぐここから離れるよ」
公衆電話の黒い受話器を置く。
今しがた、刺客 がこちらに向かっている可能性が高いと連絡があった。
彼は車の前で手洗いに言った運転手を待っていた。
空港近くの駐車場からは鮮やかな青い海が見える。
太陽は真上に輝き、白い波を光で煌 めかせていた。
この景色をアルにも見せてあげられたらなぁ、と彼は思った。
今日はアル・カポネの命日から15年後の翌日。
彼は僕の作った映画を観たら、どんな顔をするだろうか。
年老いた青年は笑った。
君に会えたおかげで、僕は暗い闇から少しは抜け出せた。
それだけで十分 なんだ。
──また会えたら、感謝を伝えたい。
海辺を向いたベンチには青い服の女性が座っている。
待っている間、彼女を見ていると、恋人と思わしき男性がやって来て、彼女に声をかけた。
二人は共に立ち去った。
お幸せに、と心の中で祈り、ルチアーノは帰ってきた運転手と車に乗った。
車内には陽光が差し込んでいる。
ルチアーノは前の座席のポケットに入れていた酒を取り出して飲んだ。
後方に流れ去る海を見ながら微睡 んでいると、戻した酒の後ろにメモが挟まっているのに気付いた。
取り出すと、それには綺麗な筆記体で一つの文章が記されていた。
『先に私の上司のところへ行ってください、癪 ですが』
ルチアーノは大いに苦笑した。
「マジかよ」
ゆっくりと意識が遠退いていく。
焦 る運転手の声も、もう聞こえなくなった。
遠くに、親友の声が聞こえた気がする。
父親は文字を読むことができ、彼は手紙の代読によって他のイタリア系移民たちから信望を集め、地元の名士ような比較的高い地位を築いた。
家業はどの国でも需要のある、安定さえすれば食うに困る可能性が低い床屋だった。
帰り道、家の近くの裏路地を歩いていると、前から自分と歳の近い子供が走ってきた。
彼の身なりは汚れていた。
手に札束を握りしめた彼は、立ち止まると、後ろを振り返った。
恐らく金を盗んだ相手か警官から逃げできたのだろう。息が切れていた。
そして札束を見て、小さく呟いた。
「これで
彼は自分に気が付くと、
「何?」
と言った。イタリア語だった。
あまりの剣幕に自分は立ち尽くしてしまった。
困窮した同胞たちのことは知っていたが、ここまで孤独と憎悪に満ちた人物には会ったことがない(父母や兄たちが直接会わせないようにしていたからだ、と後で気づいた)。
ましてや自分とそう遠くない歳の少年だ。
少しの沈黙のあと、警戒を緩めた少年は、
「……君はイタリア人か?」
と聞いてきた。
当惑した。
移民である家族は皆イタリア生まれだったが、自分はアメリカで生まれた。
自分は早く答えようと焦った末に、
「……アメリカ人?」
と答えてしまった。
すると彼は──たぶんシチリア方言だろう、聞き取れない罵倒をして横の角に走り去った。
二度目にも同じ路地で会った。
彼は以前よりは良い服を着ていたが、それは使い古したもののようだった。
「……何か用?」
英語で
「これ、あげる」
自分が話すと、
「……イタリア語?」
彼は目を丸くした。
少年はゆっくり林檎を受け取ると、
あらゆる犯罪に手を染めた。
殺人、
はじめは小銭を稼ぐためだった。
極貧というわけではなかったが、親の収入では子供に毎月小遣いをやることは難しい。
子供ギャング団に加わり、青年になって裏社会の者が営む飲食店で働くうちに、上司や友人・親族など、関わった人々を助けたいと願うようになった。
ここでは皆悲しい目をしている。
怖ろしげな気配を
彼らは深い絶望を抱えて生きている。
そこから救い出す
俺に出来ることは、共に
無我夢中で働いて、自分は何も悪いことはしていない、と本気で思ったこともあった。
道中で子供もいない若い連中を殺した。やらなければこちらがやられる、報復の連鎖する状況とはいえ、それを正しいことだとは言い切れなかった。
裁判で有罪を言い渡されたとき、内の心で
やっとこれで辞められる、と。
しかし、部下や仲間に対して何か貢献することはできたのだろうか?
自分が監獄に行っているうちに、側近が何人も相次いで死んだ。
親友に至っては、自分も知らない闇の中に沈んでいってしまった。
この世には手を伸ばしても取り返せないものがある。
──
病で頭がやられてしまったらしい。
思考が過去と今を行き来する。
意識がないとき、自分の人格は幼い子供のように戻っている、と医者が言っていた。
帰った家では、妻や親族が献身的に世話をしてくれている。
妻子や親族に迷惑をかけてまで、自分はやるべきこと、やりたいことを
いつものように寝台で寝ていると、ここにはいるはずの無いルチアーノが椅子に座っているのが見えた。
子供の頃と比べて
彼はしばらく
カポネは全身の力を込めて起き上がった。
──この人をこのまま行かせてはならない。
閉まった扉をあけ、親友の背中に手を伸ばす。
「ルチアーノ」
階段の踊り場で振り向いた彼は、泣いていた。
ルチアーノは映画の打ち合わせのため空港にいた。
「うん、わかった。すぐここから離れるよ」
公衆電話の黒い受話器を置く。
今しがた、
彼は車の前で手洗いに言った運転手を待っていた。
空港近くの駐車場からは鮮やかな青い海が見える。
太陽は真上に輝き、白い波を光で
この景色をアルにも見せてあげられたらなぁ、と彼は思った。
今日はアル・カポネの命日から15年後の翌日。
彼は僕の作った映画を観たら、どんな顔をするだろうか。
年老いた青年は笑った。
君に会えたおかげで、僕は暗い闇から少しは抜け出せた。
それだけで
──また会えたら、感謝を伝えたい。
海辺を向いたベンチには青い服の女性が座っている。
待っている間、彼女を見ていると、恋人と思わしき男性がやって来て、彼女に声をかけた。
二人は共に立ち去った。
お幸せに、と心の中で祈り、ルチアーノは帰ってきた運転手と車に乗った。
車内には陽光が差し込んでいる。
ルチアーノは前の座席のポケットに入れていた酒を取り出して飲んだ。
後方に流れ去る海を見ながら
取り出すと、それには綺麗な筆記体で一つの文章が記されていた。
『先に私の上司のところへ行ってください、
ルチアーノは大いに苦笑した。
「マジかよ」
ゆっくりと意識が遠退いていく。
遠くに、親友の声が聞こえた気がする。
