厳冬

「誰か──! 誰かいないか──!」
 男は凍った冬の湖へ叫んだ。彼は片足を引きずり、よろめきながら追手から逃げている。雪道は暗く、朝日が昇るにはまだ時間があった。男の叫びに応える者はいない。周囲は森だった。凍った湖に足を踏み入れる。
 その後ろをゆっくりと追う青年の右手には拳銃が握られていた。湖面の氷は固く、踏み締めても割れる心配はない。
 青年は銃を構えた。
 銃声が響き渡る。弾丸は男の右腹を貫いた。 
 男が倒れたのを見届けると、青年──セルゲイ・ネチャーエフは背後の友人に気が付いた。友人のトカチョフは片手にランタンを提げ、もう一方の手でスコップを地面に突き立てている。
「これから始めるわけか、君の革命を」
 
 男の死体は湖面の氷の下に沈んだ。足には紐で重石を繋げている。スコップで割った氷はすぐに凍結した。
「君はカラコーゾフの処刑を覚えているか?」
 犬橇いぬぞりに乗ったトカチョフは後方のネチャーエフに問い掛けた。運転手は彼らの仲間の老人だった。犬たちは森を抜け雪原を駆ける。
「無論、知っている」
 ネチャーエフは低い声で答えた。
 カラコーゾフは二年前に狙撃による皇帝暗殺をはかった革命家だ。彼は不眠の拷問を受けたのち、大衆の前で絞首刑に処された。
「なら、君がこれからやろうとしていることの不味まずさはよくわかっているだろう」
 トカチョフは微笑ほほえみながら言った。彼は前へ向き直る。
「忠告しておこう。今回のようにことが上手くいくと思うな。革命には不確定な要素が付き物だからね」
 ネチャーエフは無言で肯定した。白い空と雪原は水平線で溶け合うかと思われた。
 
「ここが彼の家か」
 トカチョフは家屋の前に立っていた。この家は先程ネチャーエフが撃った男のものだ。ネチャーエフは扉の鍵を壊して中に入った。
 家の中には金の燭台や華やかな額縁に飾られた絵画があった。その他の家具は一脚の高価な椅子以外古びている。隣の部屋の棚を漁っていたネチャーエフが金の入った袋を見つけた。
 袋を取ってトカチョフへ見せる。
「これが教区学校の生徒たちから奪った金だ」
 殺された男は教区学校の校長だった。男は貧しい生徒とその家族たちから不当な金額の学費を徴収していたが、それを学校にあてることはせず、私服を肥やしていた。
 教区学校の環境は劣悪だ。暖房の無い教室は冬に氷が張る。教室、下宿先で大人から正当な理由もなく殴られて過ごす生徒は少なくない。
「君がそれを使うのか?」
 向けられた袋を見て、トカチョフは苦笑した。
窮状きゅうじょうを訴えてきた生徒と父親には返すよ。残りは革命のために有り難く使わせてもらう」
 ロシア帝国の現状は西洋より遅れていた。クリミア半島を巡る戦争に敗れ、農奴解放令が公布されても劣悪な農奴の待遇は改善されなかった。
 市民であっても人権の保証されない後進性もあり、ロシアには変革が必要である、と考える早熟な若者たちが学生運動を活発に行い始める。
 ネチャーエフは中でも先鋭的な思想の持ち主であった。
 ──目的は手段を正当化する。
 彼は革命のためなら悪事をいとわない。
「自己中心的だな」
 トカチョフは言いきった。
「……革命は彼らの為にもなる」
 ネチャーエフは声音こわねを変えなかったが、少しばつの悪そうな顔をした。トカチョフは笑った。
「意地悪なことを言って悪かった。何も僕は君のやることに反対じゃないんだ」
 
 二人は家を出た。老人が犬橇と共に待っている。
「革命は本来軍隊の得手えてだ。でも僕らは学生で、それほどの軍事力は持ち得ない」
「ならば」
「少数の知識人たちによる暴力が最も効果的だ」
 トカチョフは目で肯定する。
「僕は農奴に期待しない。彼らは自分たちの生活で手一杯だから、社会を変革する力はないんだ。しかし、僕は君には期待している」
 彼は数歩先を歩いて、同志の方へ振り返った。
「何故?」
 ネチャーエフが問うと、
「面白いから」
 と、彼は目を細めて微笑ほほえんだ。
 

 ネチャーエフは教区学校の臨時教師として働くかたわら、ペテルブルグ大学の聴講ちょうこう生として学生の中に交わった。
 活動の仲間をつのるためである。
 潜り込んだ政治活動のサークルは、サモワールを囲み哲学的な議論に夢中となるばかりで、実際的な行動を起こしてはいなかった。彼は早々にサークルを後にした。
 サークルに参加した学生たちはネチャーエフの沈静ちんせい的な様子にかれた。
 特に、彼が貴族ではない低い身分の出身であることが興味を引いた。
 
 ヴェーラ・ザスーリチは、ロシアの現状を憂いていた。
 彼女は小貴族出身の心優しい女性である。
 寄宿女学校を卒業し、モスクワ近郊の町で治安判事の助手として働くうちに、彼女は困窮する農民たちの訴えを直接知った。
 彼らの力になることができたら、と考えることはあっても、姉や義兄ほどには革命運動に深く踏み込む勇気は出ずにおり、薄く曖昧な不安を抱えた日々を送っていた。
 いま彼女はペテルブルグへ上京したばかりで、昼は裁縫や製本のアルテリで働きながら、夕方以降は労働者たちに読み書きを教える夜間学校で教師をしている。
 彼女がネチャーエフと出会ったのは、一八六九年の一月だった。
 
「それはあまりにも無謀ではありませんか?」
 ザスーリチは疑問をていした。
 いまネチャーエフは、農奴を扇動することによる細かな革命計画について彼女に話したところだった。
 彼らは初対面ではない。とはいえ、師範学校での講義に同席し、他愛のない会話をした程度で、帰り際にネチャーエフが自身の勤める教区学校を見に来ないか、と誘ったが、ザスーリチは用事があったため断った。
「確かにそうだ」
 彼は彼女の疑問を肯定した。
 二人は彼の妹と彼女の友人が間借りしているアパートの一部屋にいる。
 ネチャーエフは妹と友人が出掛けている間に、友人を訪ねてきたザスーリチを革命活動に勧誘することにした。
 農奴の扇動計画への疑念を肯定された彼女はやや困惑する。彼女が疑問の言葉を発する前に、彼は台詞せりふを重ねた。
「私は農奴を信用していない。彼らは自らの生活を維持するので精一杯であり、革命への貢献は望めないだろう。いま話した計画はでたらめだ」
 彼女は驚きつつも、ネチャーエフの話を聞き続けた。
 賢く、素直で従順そうな娘だ、とネチャーエフは思った。
「私は少数の知識人による行動こそが最も革命を実現できると思っている」
 揺れる灰色の瞳でザスーリチが見つめる。
「……私には知識人と言えるような知識も知恵もありません。なぜ貴方はこのような話を私に?」
 彼はおもむろに立ち上がって部屋の外へ姿を消した。
 農奴による革命という夢物語に飛び付かない彼女の冷静さと賢さは、潜り込んだ複数の講義に参加していた学生たちには見られないものだった。加えてこちらの弁舌に易々やすやすなびかない意思の強さもある。
 一見無害そうな見た目もあり、彼女のような人物を手駒にすることができれば、これからの計画を進めやすくすることができるだろう、と彼は考えた。
 ネチャーエフは意を決して、部屋に戻り、「貴方のことが好きだからだ」
 と彼女へ言い放った。
 自分が若い女性から時折好意を向けられることは知っていた。若い女性であれば、恋愛に興味があるのは当然だろう。
 好意の利用は理にかなう。彼はそう考えた。
 少しの沈黙のあと、ザスーリチが言った。
「えっと……そのような行いは貴方にとって良くないと思います。あ、危ないこともあると思うので……」
 意図を読まれたうえ、予想外に掛けられた心配の言葉に、ネチャーエフはやや脱力だつりょくした。
 
 ザスーリチが朝に起きると、ネチャーエフとその妹が枕元に立っていた。
 意識をはっきりさせる間もなく、彼は厚みのある封筒を渡してきた。
「それは革命運動に携わる者のリストだ。隠して預かっていて欲しい」
 それだけ言うと、ネチャーエフは家を出た。
 ザスーリチは起床して冷静になったあと、開いている狭い壁の隙間に封筒を隠した。
 のちに彼女の部屋へ当局の手入れがあった際、杜撰ずさんな仕事のためかリストは発見されなかった。
 
「進歩はどうだい?」
 トカチョフは机に寄りかかって、ネチャーエフへたずねた。
檄文ビラ配りは順調だ。無作為に選んだ家のポストへ、人を使って何枚か入れさせた。これだけでも警察にとっては逮捕・拘禁の根拠となるだろう」
 作成した檄文やパンフレットによって市民へ革命運動への意識を高めさせ、警察や当局による不当な拘束という理不尽を体験させる。それにより不特定多数の市民を革命運動へ巻き込み、圧政への抵抗・反発を目覚めさせる計画。
 ポストへの運び人には手紙の取り次ぎだと偽り、詳細を伝えていない者も多い。
「相変わらず凄いことを考えるな、君は」
 トカチョフは笑った。ネチャーエフは続ける。
「……彼女へリストを預けた。そろそろ私は警察に警戒され始めたところだ。先日、尋問を受けた」
「君がサロンで政府への嘆願書と偽って集めた署名リストか。あの時は皆から気付かれる前に逃げられて良かった。今回も当局から逃げるつもりか」
「ジュネーブのバクーニンへ会いに行く」
 バクーニン──ミハイル・バクーニンは元軍人、貴族出身の思想家・革命家である。
 "諸国民の春"と呼ばれた1848年革命など、欧州における様々な革命運動に加わり、ロシア政府に拘束されシベリア流刑に処された。
 現在はスイスのジュネーブに亡命している。
「バクーニンに? なら箔をつけたほうがいいな。学生革命家の代表というような」
 暖炉の火が爆ぜる。ネチャーエフは簡潔に答えた。
「ペトロ・パヴロ要塞から脱走したというつもりだ」
「なるほど、ペトロ・パヴロは彼が収監された監獄だ。それは革命家同志にも伝えたほうが良い。手紙は彼らに直接送るなよ」
「わかっている」
 少しの沈黙のあと、ネチャーエフは口を開いた。
「事と次第によっては、君も危険にさらされるだろう」
 トカチョフは意外というふうに目を見開いた。
「僕の心配はしなくていい。カラコーゾフの件で聴取を受けたこともあるしね」
 彼はすれ違い様に友人の肩を拳で軽く叩くと、部屋の扉を開いた。
「早く出ないと足が付くよ。健闘を祈っている」
 
「朗報だ、少年ボーイ!」
 不羈奔放ふきほんぽうの老人はネチャーエフを歓迎した。
 ネチャーエフはペトロパヴロフスク要塞から脱獄したロシア革命委員会の代表と名乗った。 
 バクーニンは嘘と知ってか知らずか、この青年に好感を持った。
 二人はジュネーブにおいて、ロシアの学生にむけた数冊のパンフレットを作成し、革命運動の活動資金を工面していた。
「バフメーチェフの残した遺産を分けてもらえることになったよ。いくらか私の手元に置くが、この程度あれば大丈夫かな?」
 彼は金額のメモを見せた。
「問題ありません」
 ネチャーエフはバクーニンの家に滞在している。
「これで当面、活動に困ることは無いな」
 バクーニンは玄関の扉を開け放したまま笑っている。外には青空が広がっていた。
「……今後についてですが」
 ネチャーエフは目で師をうながした。
 バクーニンは扉を閉めた。青空は見えなくなり、窓にカーテンがかかっている家の中は薄暗くなった。
「ロシア皇帝を暗殺するつもりだろう? 私は時期尚早だと思うがな。民衆がついてこないだろう」
 声を低めたバクーニンはネチャーエフの前に座った。両者は机を挟んで向き合っている。
「私としては皇帝を誘拐して、立憲制成立の要求を政府へ訴える方が妥当だとうかと思うのだが」
 バクーニンの提案に、この若い青年は沈黙した。革命の先駆者である彼の意見を真っ向から否定する気はなかったからである。
「まぁ、暗殺か誘拐かは、君がロシアに戻ってから考えると良い。私はロシアの現状を体感で知っているわけではないからな」
 バクーニンは一息ついてから、こう言った。
「だが、こうなる決意はしておきたまえ。運が悪ければ、命を落とすことになるだろうから」
 彼は投獄生活によって歯の抜けた口を指し示した。
「……元よりその覚悟はしております。革命家は、自己犠牲をいとわないものであるべきです。安全圏から革命を説くのではなく、自ら実践して道を拓く。貴方のように」
 バクーニンはにやりと笑った。
「期待しているよ、少年ボーイ
 
 偽造旅券を用い、鉄道に乗って、ネチャーエフはジュネーブからモスクワに移動した。
 農奴解放令の発布から九周年である一八七〇年二月十九日に計画を決行するべく、監視をいた今のうちに仲間を集めておく必要があった。
 彼は偽名を使い、農業大学の学生や、革命に関心を持つ市民ら数十名と接触することに成功した。
 
 その内の一人、イワン・イヴァノフは情熱的な青年だった。ロシアの現状を憂い、真の農奴解放を目指して農業大学へ進学した。
 八月の末に出会った若い男は、ヨーロッパ革命家同盟の一員だと名乗った。
 男はバクーニンの著したパンフレットを数冊持っており、静かな語り口の中には革命への情熱がめられていた。
 何度か会合を重ねて、男は自身の本名を明かした。
 セルゲイ・ネチャーエフ──ペトロ・パヴロの要塞から脱出した男。その名はモスクワの学生たちにも知れ渡っていた。
 脱獄の話には疑念があったものの、やはり只者ではなかった、とイヴァノフは納得した。イヴァノフは改革を求めていたが、特別学生運動に関心がある訳ではなかった。
 しかし、この青年の重い熱に惹かれて、彼の所属する結社「人民の裁き」に参加する意思を固めた。
 
 ある日、イヴァノフが大学へ通うために街の雪道を歩いていると、前方にペンキ缶を提げて歩いている男を見つけた。
 どうも似ているな、と思って走り寄ると、やはり男はネチャーエフだった。
「ネチャーエフ? 缶なんか提げて何してるんだ?」
 イヴァノフの問い掛けに、彼は立ち止まって振り返る。
「……仕事だが」
 低い声の返答に、イヴァノフは衝撃を覚えた。
 我々学生が大学へ行っている間、同世代の青年が仕事をしている事実は当たり前のものであったが、こうして多くの労働者階級の青年たちと同様に、我々の同志が働いている姿は今まで見たことが無かった。
 農奴でも労働者階級でない自分が改革を掲げることに少しのやましさを抱えていたイヴァノフには、ペンキ職人の仕事をしつつ革命へ従事する彼の姿は、眩しく見えた。
 同時に心配もした。
「……無理するなよ。皆お前が頼りなんだからよ」
 イヴァノフの表情に、ネチャーエフはやや嫌悪を抱いた。
 ブルジョワの青年はどうしてこの程度のことで驚くのだろう。そんなに同世代の男が働いているのが珍しいのか。
 彼ら裕福な学生の憧憬を利用しつつも軽蔑していたネチャーエフは、仕事場まで同行する、というイヴァノフの申し出を断らなかったが、内心は冷えきっていた。
 しかし、同時に彼の素朴さを面白く思っていた。

 
「危険すぎる! 皇帝を害したら農奴がどう反応するか!」
 決行日の三ヶ月前である十一月に入って、ネチャーエフは「人民の裁き」のメンバー数十名の中から五人を計画の実行者に選定した。
 その内三名は農業大学の学生であるイヴァノフのほか、クツネツォフ、ニコラエフ。前者は善良、後者は忠実で知られていた。
 残る二名は、モスクワの居酒屋をほとんど全て知り尽くした無名の文学者であるプリジョフ。ザスーリチの義兄で、革命に関するビラやパンフレットを密かに頒布する書店の店員であるウスペンスキー。
 ネチャーエフは第一に計画を明かす実行者をイヴァノフとした。
 その中で、自身の用いるマキャヴェリズム的な手の内も少しばかり明かした。
 彼は反発した。ネチャーエフは怒りをあらわにして言葉を続けた。
「ならば他に何ができる。ロシア皇帝を変えなければ問題は解決しないだろう」
「変えるって! 暗殺でか!? 過激すぎるだろう! それに、お前のよく使う手法は非人道的だ!」
 議論は白熱し、結論は平行線となった。
 イヴァノフは頭を押さえた。
「とにかく、早すぎる。俺は外に出て頭を冷やすから、お前も落ち着いてくれ…… 後日また話そう」
 仮に計画が成功しても、死刑は免れない。
 後半の言葉には友人を想った彼の懇願こんがんが込められていたが、ネチャーエフはそれに気が付かなかった。
 彼が部屋から出ていったあと、残されたネチャーエフはイヴァノフが計画を当局に密告するのではないかと疑った。
 イヴァノフとはトカチョフほど親密ではない。過ごした時間は短く、殺人の罪を共に背負ったこともなかった。
 それに、計画のためには、メンバーの間で何か共通の罪を作っておきたかった。土壇場になって加害に怖じ気付かれては困りもの。
 ネチャーエフはイヴァノフを人気ひとけの無い場所へ誘う算段をつけた。

 深夜、ドアを叩く音が聞こえた。クツネツォフだ。
「大学の洞窟で見つけた印刷機を取りに行くよ」
「わかってる。ちょっと待ってくれ」
 イヴァノフは上着を羽織って外に出た。
「にしても、かつてカラコーゾフの同志が使った印刷機が急に出てくるとはな」
 クツネツォフは無言だった。
 大学まで歩く。他には通りの雪を踏み締める音しか聞こえない。
「縁起が良いんだか悪いんだか…… おや、あいつらだ」
 彼らは洞窟の前にいた。帽子を被ったネチャーエフ、ニコラエフ、プリジョフ、ウスペンスキー。
 イヴァノフはうながされて、洞窟の中に入った。
 洞窟の天井には灯りが吊るされていた。
 それほど広くはない空間ではあるが、特に身を屈める必要は無い程度の高さがあった。
「おい、印刷機なんてないじゃないか」
 辺りを一通り確認してイヴァノフが振り返ると、ネチャーエフが拳銃を構えていた。
 イヴァノフは全てを察した。
 こいつは俺を密告者だと疑っている。
「おい──」
 横腹を銃弾がかすめた。とっさに手で押さえる。
 こいつ、初めて撃った訳じゃねぇ──
「待てよ」
 もう片方の手で相手を制す仕草をする。
 五人の視線がこちらを向いていた。
 計画的に誘い出した割に、連中は事態を恐れているようだった。
 ──ネチャーエフの手が震えている。
 イヴァノフは目を見開いた。
 こいつは俺を殺すか迷っている。
 普段は冷徹で犠牲を躊躇ためらわない奴なのに。
 イヴァノフの頭の中に友情がよぎった。
 自己演出もする、革命のためには何もかも利用するつもりの奴で、俺たちと違って労働者で、働いて、自分を犠牲にするつもりもある奴で──焦りすぎる!
 まだ間に合う。意を決して、イヴァノフは声を挙げ、ネチャーエフに掴み掛かろうとした。
「ネチャーエフ!」
 クツネツォフが声を挙げた。引き金を引けない彼に変わって、残る四人でイヴァノフを押さえ付けた。
 
 暴れるイヴァノフは静かになった。
 彼の後頭部には穴が空いていた。
 ニコラエフの上着で包んだ死体を洞窟から運び出し、氷の張った近くの池へ沈める。
 両足には紐で重石を結び付けた。
 割った氷はすぐに寒さで元通りになった。
 
 五人は大学の構内を足早に立ち去った。
 ネチャーエフは氷を足で割った為に半身が濡れている。
 彼は泣きながら歩いていた。彼の背中を、年長のプリジョフが叩いた。
 クツネツォフは心酔する友人の悲しみに衝撃を受け、憔悴しょうすいし、事件ののち床に伏してしまった。
 
 事件は数日後に発覚する。
 重石の結び目が甘く、イヴァノフの死体は凍った水面まで上がった。
 同時期にウスペンスキーの働く書店に当局の強制捜査が入っており、イヴァノフのポケットから書店の予約購読券が見つかった。
 直ちに容疑者の捜索が始まった。
 実行犯のうち四人が捕まり、彼らが所属していた秘密結社「人民の裁き」の関係者と思わしき逮捕者は約三百名に渡った。うち約八十名の男女は裁判にかけられることとなる。
 逮捕者にはトカチョフ、ザスーリチも含まれていた。
 病床のクツネツォフは組織の全貌を知らなかったが、事件の詳細については全てを明かしてしまった。
 首謀者のセルゲイ・ネチャーエフはサンクトペテルブルクを経由し、国外ヘ逃亡した。
 
 ジュネーブにバクーニンは居なかった。
 知り合いから拠点を小さな湖畔の町・ロカルノに移したことを聞き出し、官憲による捜索の目を逃れながらロカルノへ向かった。
 
 ネチャーエフはバクーニンの知己ちきの家へ居候いそうろうした。
 バクーニンはその浪費癖にも関わらず、まだ資金を残しており、革命ビラやパンフレットの作成に充ててくれた。
 今は亡き知己の娘であったナターリヤは革命に関心を示し、ネチャーエフと共に父の編集した新聞を再刊したが、特別な効果を挙げることは出来なかった。
 ネチャーエフは苛立ちを隠せなかった。ナターリヤへ怒鳴り声さえ挙げた。彼女はさめざめと泣くばかりだった。
 バクーニンは苦笑して彼を制した。
「よしなさい、子虎くん」

 資金は尽きる目前だった。老革命家は宿敵・マルクスの資本論を翻訳するという約束で資金を得ることになっていたが、全く作業を進めることが出来ずにいた。
 ネチャーエフは翻訳を持ちかけた人物に、翻訳作業取り下げの脅迫を掛けた。
 彼はこんなつまらぬ事業に囚われるべき人物ではない。幾度か体制への蜂起に関わり、経験豊富だ。革命に必要な人材だと確信している。
 焦るネチャーエフは、彼を仲間内から孤立させてでも引き込み、計画を再開させる算段を立てた。
 しかし、それはバクーニンの怒りを買った。
 彼は他人ひとに自由を奪われたくなかった。
 殺人を犯した逃亡者である若い革命家は、居候先に住むもう一人の娘から煙たがられており、彼女は官憲から追われる彼を早く厄介払いしたいと思っていた。
 捜索の目は何処に潜んでいるかわからない。  
 長く同じ場所に留まり続ける訳にもいかず、ネチャーエフはロカルノから移らざるを得なくなった。
 
 ロンドン、リヨン、パリを巡って協力者を求めた。幼い頃に覚えたペンキ塗りの仕事をして生活費をまかなった。
 バクーニンとの絶縁はすでに彼の知己たちに知られており、彼らを頼ることは出来なかった。
 折しも普仏戦争が起き、幾つかの蜂起に参加した人々と接触を図ったが、みな自身の国や、そこでの生活にしか関心を持っていない、あるいは手一杯で、ロシアのために協力する者はいなかった。
 
 トカチョフから手紙を受け取った。
 "やぁ、元気にしているかな。君の居場所を 知り合いから聞いたよ。僕は遠方の町へ流刑になったが無事だ。安心してくれ。
 そろそろ僕も亡命を検討している。最近、ロシアでは若い学生らが農奴のもとへ向かって彼らを啓蒙しようとしていてね。
 かなり大規模な活動だ。僕は若い彼らが失敗するところを見たくはない。
 君とは合流しないようにする。お互い、官憲に追われて危険だ。
 君の幸運を祈っている。この手紙は燃やしてくれ。"
 手紙を蝋燭の火で燃やした。

 チューリッヒには亡命ロシア人の集まる地区があった。ネチャーエフは仲間を求めて、一人の男と接触した。後日、彼と会合を開く約束を取り付けることができた。
 男は官憲だった。取り押さえられたネチャーエフはロシアに送還された。

かせを外してくれないか?」
 格子の向こうに立っていた田舎出身の若い看守は、ネチャーエフの頼みを聞いて、扉の鍵を開けた。
 彼は手枷・足枷の鍵を持って独房に入った。
「もう、長官に見つかったら我々はどうなるか……」
 文句を言いつつ、看守は椅子に座っているネチャーエフの枷を両方外した。
「文字を教えてやっているじゃないか。許してくれ」
 ネチャーエフは交代で牢を見張る看守全員を味方に引き入れていた。
 彼らは特に当局への忠誠心が高いわけではなかった。むしろ、圧政を取り除きたいと願うこの青年に同情的ですらあった。
「はい。新聞です。すぐ読んでくださいね」
 看守が鍵を閉めて出ていく。
 ネチャーエフは新聞の見出しを読んで静かに驚愕きょうがくした。
 ヴェーラ・ザスーリチが警視総監を狙撃した。

 看守に手紙や新聞を取り次いでもらい、詳細を知った。
 警視総監は同志を鞭打ちの末に狂死せしめた男であり、ザスーリチは仇討ちをするつもりであったこと、彼女は裁判員裁判の末に無罪となったこと、釈放直後に銃声があり、身の危険を感じてスイスに亡命したこと。
 トカチョフはすでに国外へ脱出していた。
 彼女の狙撃をきっかけに、ロシアでは革命家たちによる要人への暗殺・襲撃が頻発ひんぱつする。

 結社「人民の意志」から暗号で提案があった。我々は皇帝暗殺を計画している。脱獄して協力する意志はないか、と。
 ある日の早朝、あらかじめ話を通した看守に出口の門まで案内するよう頼んだ。
 ペトロ・パヴロ要塞は凍結した川に囲まれている。
 日の出前の暗さに紛れ、市街のある対岸から、「人民の意志」の構成員が数人、灯りを提げてやって来た。
 門越しにやり取りをした。彼らは今年中に皇帝の暗殺を行うつもりらしい。
 ネチャーエフは自らの脱獄より暗殺を優先させた。
 一八八一年、「人民の意志」は皇帝の暗殺に成功する。
 
 看守との連携が露見ろけんした。
 最も川に接した独房に収監されていた同志が、あまりの寒さに耐え切れず長官にネチャーエフの工作を密告したのであった。
 看守らは懲罰を受け、ネチャーエフはその独房に移された。
 彼の食事はパンと薄いスープのみになった。
 
 厳しい寒さと飢えで衰弱し、歯は抜け、もはや起き上がることもできない。
 長官の許可を受け、新しい看守が最期の食事を横に置く。
 朦朧もうろうとした意識の中で、悲しい表情かおをしたイヴァノフが見えた。
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