漂流する台本と、芋掘り穴のディザスター

 世の中には、大きく分けて二種類の映画が存在する。一つは、観客の涙腺を効率よく刺激するために用意された、周到なバッドエンド。そしてもう一つは、理不尽な運命を「そんなものは知らん」とばかりに文字通り力業でねじ伏せる、おそろしく強引なハッピーエンドだ。

 もしあなたが前者を期待して劇場に足を運んだのだとしたら、気の毒だが、座席の選択を間違えたと言うほかない。なぜなら今、このトレセン学園の部室で指揮を執っているのは、世界で最も「予定調和」から遠い場所にいるゴールドシップという名のウマ娘なのだから。

 事の始まりは、演劇部がこの秋の演目に、かの有名な『タイタニック』を選んだことだった。

    

「はいカットオオオー!!」

 臨時監督兼部長代理を務めるゴールドシップの声が、部室の壁を激しく震わせた。彼女は丸めた台本をメガホンのように構え、舞台中央の二人に容赦のない人差し指を突きつける。

「ステゴ、近すぎる。圧倒的に間合いが足りねえ。あと三メートルは離れろ。ソーシャルディスタンスを舐めるなよ」

「おいおい、ゴルシ……」

 主役に抜擢されたステイゴールドは、額の汗を拭いながら、ひどく困惑した声を上げた。

「これ以上離れたら、もはや同じ舞台に立っている意味すら怪しくなるぞ。デュエットじゃなくて、ただの遠距離通話だろ」

 本来であれば、ヒロインであるサイレンススズカが船首で両腕を広げ、その背後からステゴが優しく抱きしめる、映画史に残る最高にロマンチックなシーンであるはずだった。しかし、目の前の現実は違った。監督の厳格な指示により、二人の間には「軽自動車一台分」の不自然な空白が生まれており、完全に舞台上はシュールな空気に支配されている。

「それでいいんだよ」

 ゴルシはもっともらしい顔で腕を組んだ。

「いいか?初対面の男と女が、いきなり豪華客船の先端でゼロ距離にパッキングされるなんてのは、リアリティが許さねえんだよ。よって、このシーンはアタシの天才的な手腕によって全面改変する」

「改変、ねえ」ステゴが嫌な予感を隠さずに眉をひそめる。

「ああ。初めての豪華客船でテンションが限界突破し、船首で妙なポーズを決め続ける不審なウマ娘スズカと、その後方で『おいおい、なんだあいつは』と腕を組みながら、警備員を呼ぶべきかどうか本気で苦悩する男ステゴの緊迫した心理戦にする。これなら観客も息を呑むだろ?」

「呑まないよ。ただただ困惑するだけだ」

 あまりにも無茶苦茶な理屈でタクトを振るうゴルシに、ステゴはそもそも胸の中に燻っていた根本的な疑問を投げかけた。

「そもそも、なんでお前が監督の椅子に座ってるんだよ。演劇部の本物の部長、テイエムオペラオーはどうした?」

「ああ、あいつか」

 ゴルシは事もなげに言った。

「あいつは母方の曾祖父の友人の、そのまた従兄弟の47回忌の法事があるとか言ってな。『ゴルシくん、ボクの代わりにこの美しい世界を統治してくれ』って、涙ながらに全ての決定権をアタシに託して旅立ったよ。若いのに見上げた義理人情の持ち主だよな」

 そう言ってゴルシが提示したのは、一枚のクシャクシャなルーズリーフだった。そこには、外部からの極めて強い物理的圧力――おそらくは強固なヘッドロックのようなもの――が加わった形跡が生々しく残る、激しく震えた文字で「すべてを委ねる」という旨が書き連ねられていた。そして何より奇妙なのは、末尾にある本人の署名が、なぜか頼りない「ひらがな」で書かれている点だった。

「……なぁ、ゴルシ。緊迫した状況であればあるほど人間の文字は崩れるって言うが、これ、明らかに無理やり書かせただろ。あと、あいつのサインはもっとこう、無駄にキラキラした装飾文字のはずだ」

「気のせいだろ。本人が『漢字を忘れた』って言ってたからな」

 ゴルシは力強く自分の胸を叩いた。

「とにかく、正式に思いを継承したアタシが、この劇をアカデミー賞級の仕上がりにして見せる。アタシに任せておけば、タイタニックは沈まねえ!」

 どう見ても私情と私怨と個人的な独占欲がブレンドされているようにしか見えなかったが、部室に満ちるゴルシの圧倒的な狂気を前に、他の部員たちはただただ貝のように沈黙を守るしかなかった。

 (まあ、今のところ、脚本の内容とオペラオーの安否以外に問題はないか……)

 ステゴは半ば諦め、与えられた奇妙な役割を全うしようと静かに腹を括った。

    

「それで、このお話は最終的にどんな展開で進める予定なんですか?台本が、原型を留めていないようですが」

 それまで大人しく事の成り行きを見守っていたスズカが、透明感のある声で尋ねた。

「よくぞ聞いてくれた、我が名女優!」

 ゴルシは待ってましたとばかりに、昨夜新しく書き直したという、インクの匂いも新しい分厚い束を二人に配り直した。

「これが決定稿だ。解説してやるぜ」

【ゴールドシップ版・新説タイタニック】

会社の慰安旅行で初めて豪華客船に乗船したウマ娘・スズカは、興奮のあまりテンションが爆上がりし、船内を異次元の末脚で走り回ったり、船首で謎のポーズを決めるなどの奇行に及ぶ。それを目撃したステゴは、あまりの恐怖に警備員を呼ぶべきか真剣に迷う。一方、船内はこれから遭遇する巨大な氷山に気づかず、呑気にダンスに興じる乗客たち。そこに未曾有の危機が迫るが、聡明なる船長(ゴールドシップ)だけはいち早くその存在を察知する。しかし、回避のための時間は残されていない。どうする船長――!?

と、その時、突如として天候が急変。客船は凄まじい嵐に巻き込まれる。激しく揺れる船体、押し寄せる大波。だが、船長の天才的な操舵技術と野生の勘により、客船は波の斜面を美しく滑走。その勢いのまま、迫り来る氷山をも華麗なジャンプで飛び越える。乗客は全員無事。船の旅は、どこまでも健やかに続いていく――。

「……という、全米がスタンディングオベーション確実の素晴らしいプロットだ」

「……待て」ステゴがこめかみを指で押さえた。「この物語は、観客に何を伝えたいんだ?あと、私の『警備員を呼ぶか迷う役』は、後半完全にフェードアウトしてるだろ」

「特に意味はない」ゴルシはきっぱりと言い切った。

「いいか、ステゴ。ただでさえ疲れ切った現代社会において、これ以上理不尽なバッドエンドなんて誰も求めてねえんだよ。時代が必要としているのは、奇跡の力業と、船長の圧倒的な存在感だ!ちなみに劇団初の『4D演出』を取り入れるから、クライマックスでは観客席にリアルな水しぶきを大量に浴びせ、床を物理的に激しく揺らす予定だ。楽しみだろ?」

「それ、ただの災害シミュレーターだろ」

    

 やがて、臨時監督が他の出演者たち(主に背景の氷山役や波役のウマ娘たち)の指導へと移り、部室の片隅に少しだけの静寂が戻ってきた。ステゴは自販機で買ってきた冷たいお茶のペットボトルを、スズカの前に差し出した。

「お疲れさま。……まったく、あいつが絡むと、どんな名作もディザスタームービーに早変わりだな。この劇、本当にどうなるんだか」

「ありがとうございます、ステゴ先輩」

 スズカはお茶を受け取り、小さく微笑んだ。

「……まあ、お話自体はかなり斬新な展開になりそうですけれど、観客席の仕掛けは、きっと皆さんに楽しんでもらえるんじゃないでしょうか。特にスペちゃんあたりは、水しぶきを浴びて大騒ぎしそうです」

 スズカは半ば呆れつつも、どこかその予測不能な結末を、心から楽しんでいるかのような表情を浮かべていた。その瞳には、かつて孤独に走るだけだった頃にはなかった、柔らかい光が宿っている。

「……いま、あいつと同じチーム(スピカ)なんだろ?」

 ステゴは遠くで熱弁を振るうゴルシの背中を見つめながら、声を落とした。

「騒がしいだろ、あいつ。何かと迷惑をかけてないか?」

「いえ」

 スズカは目を細め、どこか嬉しそうに口角を上げた。

「確かに毎日、信じられないくらい騒がしいんですけれど、とても楽しく過ごせています。今は逆に、あの賑やかさに慣れてしまったんでしょうか。その音が聞こえないと、少し物足りないくらいなんです」

 その穏やかな表情を見て、ステゴの胸の奥に、確かな安堵感が広がっていく。

 (良かったな……。新しい仲間と出会えて、また、そんな風に笑って走ることができて)

「そうか。本当に、楽しそうで何よりだ」

 ステゴの、どこか遠い目をした言い方に、スズカは少しだけ不思議な気持ちになりながら、ふとした素朴な疑問を口にした。

「……ところで、ステゴ先輩。タイタニックって、もし氷山にぶつからず、順調に進んでいたら、最終的にはニューヨークに到着していたんですよね」

「みたいだな。予定ではそうだったはずだ」

「その間の景色って、一体どんなものなんでしょうね」

「うーん……」ステゴは少し記憶を掘り起こすように視線を泳がせた。「確か、前に似たような航路を旅した時は、どこまでも、ただひたすらに続く水平線が広がっていたな。途中に遮るような陸地は何もなかったはずだよ」

「……え?」スズカは驚いて、お茶を持つ手を止めた。

「先輩、本当に行ってきたんですか?」

 何気ない想像の景色を語るのかと思いきや、まるで実際にその目で見てきたかのように確信を持って話すステゴに、スズカは目を丸くしている。

「ああ、何もなくてさ。特に夕方の、黄金色の水平線だけが360度広がっている景色は、本当に、言葉にできないくらい美しかったよ。映画の中で、二人があの船首で良い雰囲気になるのも、まあ、無理はないって思えるくらいにはな」

 スズカが、その言葉の裏にあるロマンチックな響きに、何か応えようとしたその時。無情にも、学園に定刻を告げるチャイムが、スピーカーから夕暮れの空気に溶け出していった。

「……あ、もう行かないと」

 スズカはハッと我に返り、夜の自主トレの時間が近づいていることを告げた。

「ステゴ先輩、ありがとうございました。また明日、練習で」

 夕焼けの最後の息吹が空に浮かべる淡い桜色と、宵の始まりを告げる深紺が静かに混ざり合う空の下へ、スズカは風のように駆け抜けていった。その背中は、どこまでも軽やかだった。

 ステイゴールドは、彼女がどんな答えを返してきても、「良かったら、今度その水平線、一緒に見に行かないか?」という言葉を用意していた。けれど、その言葉の行き先をそっと心のポケットに飲み込んで、彼女の見えなくなった夕闇をしばらく見つめた後、自分もその場を去ろうと一歩を踏み出した。

 ――その、刹那である。

「そこまでだあああああ!!!この不届き者めらがアアア!!!」

 部室の重い扉が、物理的な衝撃音と共に文字通り「爆発」するかのように開け放たれた。そこに立っていたのは、高級な喪服に身を包んだ、しかし全身が埃と謎の雑草まみれになったテイエムオペラオーであった。その美しいはずの顔は怒りで般若のように引きつっており、手には何故か、泥だらけのスコップが握られている。

「オ、オペラオー!?」ステゴが思わず数歩飛び退く。

「お前、法事はどうしたんだ」

「法事などという高尚なものは最初から存在しない!!」

 オペラオーは天を仰ぎ、悲劇の主人公さながらに絶叫した。

「ボクは一昨日の夜、そこの『白銀のディザスター(ゴルシ)』に背後から奇襲され、学園の裏山にある秘密の地下芋掘り穴に生き埋めにされていたのだよ!!二日二晩、モグラたちと高尚な芸術論を交わしながら、このスコップ一本で自力で脱出してきたのだ!!」

 部室の全視線が、一瞬にしてゴールドシップへと注がれた。当のゴルシは、全く動じることなく「あー、やっぱり現代のモグラは芸術の解釈が深いよな」とのんきに鼻を鳴らしている。

「しかも!!」オペラオーは怒りに震える指で、ゴルシが掲げていた例のルーズリーフを指差した。

「世紀末覇王たるボクの、あの美しく気高きサインを、よりによって『ひらがな』で偽造するとは何事か!!ボクは幼稚園の砂場にいた頃でさえ、己の名を漢字で、それも金粉入りの墨で書いていたというのに!!」

「ちぇっ、バレたか。スペルが分かんなかったんだよ、『お・ぺ・ら・お・う』の」

「ひらがなにスペルもクソもあるか!!」

 オペラオーは激昂し、部室の机の上に広げられたゴルシ作の「新台本」をひったくるようにして目を走らせた。そして、数秒後、彼女の絶叫はさらに一段階高いオクターブへと達することになる。

「な、なんだねこのプロットは!!ボクの美しいタイタニックが、なぜ船長が氷山をジャンプで飛び越える泥臭いアクション映画になっているんだ!!これではボクの演じる予定だった『気高く美しい、悲劇の貴族』の出番が1ミリもないじゃないか!!」

「安心しろよ部長。お前の役なら、ちゃんと残してあるぜ」

 ゴルシは不敵にニヤリと笑うと、台本の最後のページを指差した。

「ほら見ろ。劇のラスト、波を飛び越えた船の衝撃で、船の煙突からポロッと転がり落ちる『煤まみれのジャガイモ(声:テイエムオペラオー)』。これ、お前のために用意した最高の見せ場だ。泥まみれの今の姿にぴったりだろ?」

「誰がジャガイモだ!!ボクは輝く太陽だと言っているだろうに!!」

 夕暮れのトレセン学園に、世紀末覇王の涙ながらの抗議と、臨時監督の豪快な笑い声がいつまでも響き渡っていた。スズカの言った通り、やはりこの学園は、これくらいやかましい日常の騒音に満ちている方が、不思議としっくりくるようだった。
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