#7 ハナ差の勝利と、解凍されない不条理について


 世の中の多くの出来事は、準備の量に比例して結果が出るように設計されている。少なくとも、教科書や自己啓発本にはそう書いてある。
 
 だから、GⅡレースという、静かに重圧を帯びた舞台を前にして、歴戦のベテランや実力ある中堅たちが眉間に皺を寄せて調整に励むのは、極めて真っ当な「世界のルール」に従った行動と言えた。
 
 そんな「真面目な世界」に、一発の銃声ではなく、一通の謝罪広告が投げ込まれた。
 スポーツ紙の隅っこ、消え入りそうなミニコラムに載った【ゴールドシップ、逃亡?】という見出しと、トレーナーの『ごめんなさい』という一言。
 
 レース場の控室の空気は、冬の朝の水道水よりも冷え切っていた。
「舐めてるのか」
「こっちは人生懸けてるんだぞ」
彼女らの怒りは、不正に対するものではなく、自分たちが信じている「努力と報酬の方程式」を、土足で踏み荒らされたことへの反発だった。

 一方、チームスピカの面々は、もはや悟りの境地に達していた。胃を押さえて天井のシミを数えるトレーナーを横目に、「今回は海か」「前は山だったな」と、まるで明日の天気を予想するような平熱で会話を交わす。
 
 ただ一人、スズカだけが、その「慣れ」という名の輪に入りきれずにいた。

 (……本当に、勝つ気があるのでしょうか)
 走ることを「祈り」に近い純度で捉えている彼女にとって、レース直前に北海道へ海鮮丼を食べに行くという行為は、神殿でポテトチップスを食べるような冒涜に近い。

 けれど、二日前の夜――

 「よっ。北海道の冷気、少し分けてやるよ」

そう言って現れたゴルシの手には、パンパンの紙袋があった。「世界を獲るためのエネルギーだ。食え」中身の意図は不明だった。ただ、スズカに渡された袋だけは、中身が潰れないように不自然なほど丁寧に小分けされていた。

「……ありがとう」
「ま、せいぜい喉に詰まらせんなよ」
ゴルシはそれだけ言って、ひらひらと手を振って去った。
 その背中を、スズカはいつもより少しだけ長く見送った。

 ――ゲートが開いた。スタートは、精密機械のように美しかった。有力ウマ娘たちが想定通りのポジションを取り、互いの呼吸を牽制し合う。ゴールドシップはと言えば、最後方。
 観客席からは「やっぱりな」「やる気ねーだろ」という、期待を裏切られたことへの安堵混じりの溜息が漏れた。

 中盤、レースの密度が上がる。スズカは観戦しながら、群れの中に白銀の色を探した。
 いた。
 最後方で、ゴルシは淡々としていた。焦りもなく、苛立ちもなく、ただ静かに「世界」との距離を測っていた。滑り台の上でたい焼きを食べていた時のふざけた空気は、どこにも見当たらなかった。

 (走ってる)
 当たり前のことを、スズカは思った。けれど、その「当たり前」の意味が、今日は少しだけ違う重さを持っていた。

 そして最後の直線。誰かが仕掛け、前列が雪崩のように動き出した瞬間だった。最後方にいたはずの白い影が、突然そこにいた。ごぼう抜き、なんていう景気のいい言葉では足りない。前のウマ娘たちが自主的に道を開けたかのように、あるいは最初からそこに空白があったかのように、一つずつ、着実に、残酷なまでの正確さで差を詰めていく。
 観客席がどよめき始めた頃には、もう誰も止められなかった。ゴール前、必死に粘る最後の一人を、チェスのチェックメイトを告げるように、ハナ差だけで捉えきった。

 スズカは、息を呑んでいた。自分が呼吸を止めていたことに、ゴールの歓声が上がってから気づいた。

 「どうでーーい!!勝利の女神がアタシに海鮮丼を奢りたがってるぜ!」

 ゴール後の叫びは、感動よりも困惑を呼んだ。駆け寄ってきたトレーナーは、喜びを通り越して顔を真っ赤にしている。
 「お前なぁぁぁ!真面目にやってればもっと余裕で勝てただろ!!」
 「勝ったんだからいいじゃねーか!過程より結果だろ、結果!」
 「その過程が、北海道ってのが問題なんだよ!!」
 いつもの光景。周囲の苦笑い。しかし、その背後で、全力で準備してきた対戦相手たちは、言葉を失って立ち尽くしていた。
 彼女らが積み上げた「調整」という名の城壁は、一袋の北海道土産を抱えて戻ってきたゴルシの「本気」によって、あっさりと崩壊してしまったのだ。

 不憫、という言葉以外に見当たらない。スズカは、その光景を少し離れた場所から見ていた。呆れるべきなのか。感嘆すべきなのか。答えは出なかった。
 ただ、二日前に受け取った紙袋の、不自然なほど丁寧な小分けのことを思い出した。

 (この人は)
 スズカは、その先を言葉にしなかった。言葉にしてしまうと、何か大事なものが、するりと逃げていく気がしたから。代わりに、手元のメモ帳を開いた。走り書きで、こう記した。
 『勝利を目的にしない人の、本気について』
 それだけ書いて、ペンを止めた。
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