#6 極北のディープダイブ、あるいは命の負債を肩代わりする方法


 世の中の多くの人間及びウマ娘は、本番の三日前といえば「調整」という名の儀式に勤しむものだ。ストレッチを入念に行い、食事に気を使い、精神を統一する。

 だが、いまアタシが立っているのはトレーニングセンターのターフではなく、北緯四十二度を超えた先にある、冷たい風が物理的な質量を持って殴りかかってくる港町だった。

 「いや、普通に寒いわ!春ってのはもっとこう、妥協を知っている季節だろ!」アタシは誰にともなく毒づいた。

 手元には、レースの出走表ではなく、地元の漁師に教わった「大物が潜むポイント」が書かれた薄汚れた地図がある。あと数日もすれば、自分はゲートの中でファンファーレを聞くことになる。だがその前に、どうしても片付けておかなければならない「仕入れ」があった。

 きっかけは、チームスピカの日常に紛れ込んだ、ほんの数パーセントの違和感だった。

 サイレンススズカ。

 アイツは、走っている時よりも、走り終えた後の方が静かすぎる。それは「休息」ではない。まるで、自分の命をロウソクのように削って、その光で景色を見ているような、そんな危うい静寂だ。

 「アイツ、そのうち空っぽになっちまうんじゃねえのか」
アタシはそれを笑い飛ばそうとしたが、胃の奥に冷たい石が溜まるような感覚が消えなかった。

 そんな折、知り合いの漁師のおっちゃんと再会したのが運の尽き、あるいは運命の分岐点だった。
 「北の海の大物は、食えば滋養強壮に効く。魂を摩耗させた奴には、海の底にある熱を食わせるのが一番だ」
おっちゃんは、冬の流氷を素手で割りそうな豪快な笑みでそう言った。

 その瞬間、頭の中で論理の飛躍が起きた。彼女の走りを止めることはできない。あの瞳から「景色」を奪うこともできない。だったら、彼女が削り落とした「命の破片」を、別の場所から奪ってきて補填してやればいい。銀行の残高が減ったら、どっかから現金を運んできて放り込む。それくらい単純な解決策だ。

 「北の海の大物、獲ってきてやるよ」
そう宣言した。スズカのためだ、なんて殊勝な言葉は、アタシの辞書では「海鮮丼」という三文字に翻訳される。

 そしてアタシは現在、極寒の海にいた。寒い、を通り越して「痛い」。肺が縮み、毛細血管がストライキを起こす。
普通なら「ごめん、今のなし」と言って引き返すところだが、あいにく自分は「来ちゃったから」という理由だけで重力に逆らえるタイプだ。

 沖合の、少し深い場所。そこで”何か”が動いた。巨大な影。生物学的分類を放棄したくなるような、圧倒的な質量。

 (……は?ちょっと待て、聞いてねえぞ)

 一瞬だけ後悔が脳裏をよぎったが、逃げるという選択肢はすでに凍結されていた。方向転換するエネルギーがあるなら、そいつに拳を叩き込む方が効率がいい。
 
 「…ッオラァァァアアアーー!!」

 水中という物理的制約を無視して、真正面から突っ込んだ。息は持たない、腕は痺れる。客観的に見れば、ただの狂人の入水だ。だが最後は「なんか知らんけど負けたくねえ」という、原始的な意地だけで押し切った。

 ――浮上。腕の中には、図鑑の編集者が泣いて喜びそうなレベルの大物。「勝った……のか?」どうやら、勝利の女神は、このゴルシちゃんに海鮮丼を食べさせることに決めたらしい。

 港に戻ると、漁師のおっちゃんはアタシが抱えた獲物を見て、哲学的な沈黙に陥った。

 「……お前、一体何と戦ってきたんだ?」
 「海鮮丼の具」

 アタシはそれだけ答えた。

 獲物は丁寧に捌かれ、一切の不純物を排除して食べやすいサイズに切り分けられた。それはジップロックに詰められ、カチカチに冷凍される。自分では一口も食べなかった。味見すらしない。目的は最初から、この冷たい塊を彼女の手に渡すことだけだったのだから。

 ――翌日、スポーツ紙の隅っこに【白い未確認生物が北海道沖で素潜り?】という、正気とは思えない目撃談が掲載された。トレーナーは頭を抱えて人生の選択を後悔し、チームのみんなは「またゴールドシップか」と呆れ、アタシは澄ました顔で鼻歌を歌う。

 スズカの手に渡ったお土産の中に、そのジップロックはさりげなく混ざっていた。理由は言わない。説明なんて、理屈っぽい連中に任せておけばいい。
 「北の海は、栄養満点らしいぞ」その一言だけで十分だ。

 たとえ、それがどれほど馬鹿げた、命がけの「無駄遣い」だったとしても。アタシは彼女がジップロックを開けるのを、少しだけ離れた場所から眺めていた。
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