#5 北の大地と、解凍されるべき優しさについて

 ——その事件は、まるで日曜日の午後に爪を切る決断をするのと同じくらい、軽率に始まった。
 
 「じゃ、ちょっと北の大地に行ってくるわ」

 トレーニング場のど真ん中、入念なストレッチを終えた直後のゴールドシップは、まるで「隣の自販機でコーラを買ってくる」とでも言うような平熱のトーンでそう告げた。

 「伝説の海の大物で作った海鮮丼がよ、アタシを呼んでるんだ。この先、世界を獲るためには避けて通れない儀式なんだよ」

 一瞬、世界から音が消えた。数秒後、その真空を切り裂いたのは、トレーナーの肺活量を限界まで使い切った絶叫だった。

 「6日後にはレースだぞおおおお!!! 何を考えてるんだお前はああああーー!!!」

 「じゃ、あとはよろしく!」

 悲鳴に近い制止を背中で受け流し、ゴルシは本当に姿を消した。バッグ一つ。迷いゼロ。北を目指すコンパスの針のように、その意志は固まっていた。

 周囲の反応は、あきらめに似た「慣れ」に支配されていた。「またか」「この前は湖の巨大魚だったような」「今回は海鮮丼ですか」誰も追わないし、驚きもしない。それは「雨が降れば地面が濡れる」という自然の摂理を受け入れる態度に似ていた。だが、サイレンススズカだけは違った。彼女は、ゴルシが消えた後の空間を、まるで未知の天体観測でもするかのような眼差しで見つめていた。
 
 (…本当に行ってしまいました)
 レース前の調整、日々の積み重ね、勝利への執着。彼女が人生の優先順位の最上位に置いているものが、ゴルシという存在によって、あまりにも簡単に、かつ雑に扱われたのだから。
 
 (…ゴルシは、レースに興味がないのでしょうか)
 それこそ物理の難解な公式を解くような顔で、スズカは考え込んでいた。ゴルシのいないトレーニング場は、驚くほど静かで、整然としていた。スズカは、ふとした瞬間にその違和感を覚える。騒がしくないこと、予測不能なノイズが混じらないこと。それが、かえって彼女の集中力に奇妙な「隙間」を作っていた。

 そしてレース二日前の夜。寮の廊下で、彼女は「それ」に遭遇した。

 「ただいま。いやあ、北の重力はやっぱり手強かったぜ」満面の笑みで立っていたのは、顔や腕に見覚えのない細かい傷をこしらえ、謎のパンパンに膨らんだ紙袋を抱えたゴルシだった。

 「…どこへ行っていたのですか」

 「北海道。いいかスズカ、北の大地ってのはな、すべてがデカいんだ。視界に入る情報の解像度が違う。心も腹も、パンパンに満たされるんだよ」

 ゴルシは、抱えていた紙袋をスズカに押し付けた。
 「ほれ。お土産だ」

 中身は、定番のクッキーやチョコ、そしてなぜか不気味な熊のイラストが描かれたパッケージの菓子。さらにその底には、厳重に冷凍されたジップロックが沈んでいた。

 「スズカ用だ」

 「私に?」

 「おう。なんとなく思いついたんだよ。前ばっかり向いて走りすぎるヤツには、たまには海の恵みを流し込んで、強制的に潮風を感じさせるのが効くってな」

 「…意味は、分かりませんが」

 スズカはそう言いながらも、手渡された紙袋をそっと、壊れ物を扱うように抱えた。

 「レースは走るぞ。ちゃんと定刻通りに、ゲートの向こう側に現れてやるからな」

 軽い口調だった。それだけの言葉だった。なのにスズカは、その一言をうまく受け流せなかった。
 
 (この人は)
 走ることだけが世界のすべてではない。なのに、戻ってくる。雑で、馬鹿げた理由を抱えたまま、約束の場所に戻ってくる。スズカの心の針が、ほんの少しだけ、静かに揺れた。



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 本作は「ウマ娘 プリティーダービー」の二次創作小説です。ゴールドシップとサイレンススズカの二人が織りなす物語を綴っています。
※本作は公式とは一切関係のないファンによる非営利の創作物です。無断転載はお控えください。
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