#4 三月の膜と、景色の先を見ている人を、見ている人


 三月の風は、まだ少しだけ意地悪だ。コートの前を合わせながら、ゴールドシップは学園最寄りの商店街を歩いていた。

 特に目的はない。強いて言えば、「目的のない散歩」という崇高な目的がある。学園のグラウンドでは、今日もサイレンススズカが走っていた。
 
 正確には、「走っていた」という過去形では追いつかない。走り続けていた、というのも違う。あの人は走ることと存在することが、たぶん同義なのだ。朝起きて走り、昼に走り、夕方また走り、夢の中でも走っている、とアタシは本気で思っている。
 問題は、その走り方が、最近少しだけ変わってきたことだ。速くなった、という話ではない。スズカはいつだって速い。そうではなくて、なんというか——
 
 (あいつ、前より遠くを見てる)
 
 今朝も、トレーニング終わりのスズカに声をかけようとしたら、彼女は既にどこか別の場所にいる目をしていた。体はそこにあった。ちゃんとアタシの顔も見ていた。でも意識の半分は、たぶんもうターフの向こう側にある。
 
 「調子どうだ」と聞いたら、
 「とても良いです」と答えた。
 
 嘘ではなかった。
 顔色も良かったし、目には光があった。楽しそうだった。本当に、心の底から楽しそうだった。

 それが、なんというか。
 (嫌な感じがするんだよな)

 嫌、というのも正確じゃない。不安、というのも少し違う。薄い膜を一枚、胸の前に張られているような、そういう感覚だ。指で押せばすぐ破れそうなのに、なぜか破り方がわからない。トレーナーは気にしていない様子だった。

 「あれだけ楽しそうに走れてるなら、止める理由がない」とでも言いたげな顔をしていた。チームメイトたちも同じだ。スペシャルウィークなんて、「スズカさん最近すごく生き生きしてますよね!」と目を輝かせていた。全員の言っていることは正しい。
 
 正しいのだが。
 (なんでアタシだけ、こんな妙な顔してんだ)

 商店街のアーケードに入ったところで、アタシは立ち止まった。青果店の前に、見覚えのある背中があった。幅が広い。不必要なほど日焼けしている。首の後ろに、長年の労働が刻んだ皺がある。そして何より、潮の匂いがした。

 三月の府中の商店街で、潮の匂いがした。
 
 (あれ)
 (あの人、もしかして)
 「おーい、シップちゃんか!?」
 向こうが先に気づいた。

 振り返った顔は、アタシの記憶の中にある顔より少し皺が増えていたが、笑うと目が消えるところは変わっていなかった。
 北海道で漁師をしている、知り合いのおっちゃんだ。
 
 「なんでおっちゃんがこんなとこにいんの」
 「息子の大学の入学式よ。お前こそ、こんなとこで何してた。一人でうろうろして」
 「崇高な散歩をしていた」
 「嘘つけ、悩み顔してたぞ」おっちゃんはそう言って、大根を一本買い、袋に入れてもらいながら笑った。

 アタシは少しだけ黙った。
 「…悩み顔だったか」
 「子供の頃から知ってるからな。お前が考え事してる時の顔は、大体そんな感じだ」おっちゃんは大根の袋を肩に担ぎ、「茶でも飲むか」と顎をしゃくった。
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