#3 九十九里の砂と、絶望のラップタイム
夕暮れの九十九里浜。
沈みゆく太陽が、白波をオレンジ色に染めている。
絶景である。カメラを持った観光客なら、きっとため息を漏らしながら何枚も撮るだろう。
しかしサイレンススズカの心境は、「絶望」の二文字で完全に埋め尽くされていた。
「……またやってしまったわ」
彼女は、自分の膝を少しだけ震えながら見つめた。最初は、府中(学園の所在地)の街角を軽く流すつもりだった。けれど、見慣れない角を曲がるたびに「あの坂の向こうには何があるのかしら」という純粋すぎる好奇心が爆発し、気づけば東京都を飛び出し、千葉県の東の果てまで到達していた。
これで何度目だろう。先月は埼玉の県境、先々月は山梨の山中だった。
最長不倒記録。だが、代償は大きい。
先日、トレーナーから「次に門限を破ったら、一週間の走行禁止だ」と宣告されたばかりなのだ。
(今から全力で走り出せば、あるいは。…いえ、私の脚力でも、物理的な距離の限界というものが…)
疲弊した筋肉に鞭を入れようと、スズカが意を決してスタートの姿勢をとろうとした、その時だった。
「ウーーーン!!ウーーーン!!」
静かな砂浜に、不釣り合いな赤色灯の光と、低く唸るバイクの排気音が近づいてきた。
「そこのお姉さん!安全速度を大幅に超過する予感がします!左に寄って止まりなさい!」
「……え?」
スズカが呆然と顔を上げると、そこには白バイ隊員のような青いジャケットに身を包んだ、銀髪のウマ娘が跨る大型バイクが停まっていた。
「ゴ、ゴルシ?」
「おうスズカ。こんなところで砂遊びか?砂浜に『トレーナーのバカ』って特大の文字を書いてる途中なら、アタシも手伝うぜ」
ゴールドシップはサングラスをはずし、ニカッと笑った
「何故ここに…というか、その格好は?」
「あ?これか。街で死ぬほど楽しそうに、眼球ひっくり返してハイになって走ってるお前とすれ違ってよ。あまりにいいツラしてたから、『こいつ、このままだとブラジルまで行くな』と思って後を付けてきたんだ。衣装はまあ、アタシのクローゼットにある『七変化コレクション』の一つだ、気にするな」
ゴルシはバイクを降りると、千切れるほど激しく走ったであろうスズカの脚を一瞥し、すべてを察したように鼻を鳴らした。
「トレーナーの野郎、怒ると結構しつこいからな。…ほら、これ被れ」差し出されたのは、ゴルシの予備(?)のヘルメットだった。
「…似合う?」
気づいたら、そんな言葉が口をついていた。我ながら間の抜けた質問だとスズカは思ったが、もう遅い。
「お前に似合わないもんなんてないだろ」
ゴルシはそれだけ言って、照れ隠しのようにアクセルを一度だけ吹かした。
エンジン音が、夕暮れの海に響いた。
「これ、本当に大丈夫なんでしょうか。このバイク、法的に正しい手続きで借りたもの?」
「気にするなスズカ!世の中にはな、『借りる』と『物理的に所有権を一時的かつ善意で移動させる』の二種類しかねえんだよ!アタシは後者だ!」
スズカは不安を覚えつつも、今の自分にはこれ以外の選択肢がないことを悟り、ゴルシの腰にしがみついた。バイクが加速する。
ゴルシの鼻歌が、ヘルメット越しに聞こえてきた。
「♪ふーふふっふフーフフフふーふっふふーん、行き先もぉーわからないまま〜」
「…ゴルシ、その歌、今の状況で歌うのは不穏すぎます」
「いいんだよ!昭和の不良少年が夜に絶叫した、あの伝説の歌だ!自由への疾走だろ!」
「ゴルシ、スピード出しすぎでは…」
「大丈夫だスズカ!アタシのバイクは捕まらない」
「それはバイクの問題ではないと思います」
夜の国道を、一台のバイクが駆け抜ける。いつもは自分の脚で切り裂く風。けれど今は、自分を追い抜いてきた「変わった人」の背中に預けるように、流れていく景色を眺めていた。
ゴルシの背中は、思っていたよりずっと頼もしかった。細身に見えて、こんなにもしっかりと風を割るのかと、少し悔しいくらいに。追いかけてきてくれたのが、よりによってこの人だということも含めて。
いつもふざけてばかりで、何を考えているのか分からない彼女。けれど、スズカが我を忘れて走り出したとき、唯一その狂気…いや、「情熱」に気づいて追いかけてきてくれたのは、彼女だった。
スズカは、少しだけ力を込めて、ゴルシのジャケットの裾を握りしめた。伝わってくるエンジンの振動と、彼女の体温。安心感と少しの心配が混ざり合った、不思議な時間が過ぎていく。
学園の寮が見えてきた。
門限の五分前。奇跡の生還である。
「着いたぜ、スズカ。どうだ、アタシのライディングテクは。三途の川の渡し船よりスムーズだったろ?」
ゴルシはバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。夜風に銀髪がなびく。スズカもヘルメットを返し、少しだけ火照った顔で地面に立った。
「ありがとう、ゴルシ。助かりました。…本当に」
「礼には及ばねえよ。それより、問題はここからだ」
ゴルシは、寮の玄関先で腕を組んで立っている、鬼のような形相のトレーナーのシルエットを指差した。
「さて、なんて言い訳しようか。とりあえず『途中で時空の裂け目に飲み込まれた』で行くか?それとも『スズカを狙う国際的な毛ガニ組織と戦っていた』で行くか?」
スズカは苦笑いしながら、そっとゴルシの隣に並んだ。「どちらも却下ですね」少し間があった。
「でも…二人で怒られるなら、少しだけ怖くないかもしれない」
「な、言っただろ。アタシと一緒なら怖くないって」「そんなこと、一言も言ってなかったです」
共通の秘密と、少しの背中の温もり。それが、二人が「併走者」になるための最初の点火だった。
トレーナーの怒鳴り声が響き渡る前の、束の間の静寂を少し冷たい夜風が見守っていた。