#1 静寂という名の拷問と意気投合と、謎の儀式
世の中には、決して「待て」を命じてはいけない「二大・高機動生命体」が存在する。
一人は、静止しているだけで時空が歪み始めるゴールドシップ。
もう一人は、時速七十キロ未満の景色に耐えられないサイレンススズカだ。
「いいか、二人とも。資料をコピーしてくる五分間だけだ。絶対に、一歩も、一ミリも動かずにここで待っていろ。いいな?」
トレーナーが控室のドアを閉めた瞬間、部屋の気圧が物理的に変化した。パイプ椅子に座らされた二人の間には、深海のような沈黙ではなく、今にも爆発しそうな高圧エネルギーが充満していた。
「一分経過」
スズカが膝の上で指をトントンと叩く。そのリズムは、すでにG1レースのファンファーレ並みの速さだ。
「足が……足が、前に出たがっているわ。止めようとすると、逆に速くなる。これはもう、足の意志よ。私の意志ではない……」
「一分二秒経過」
ゴルシは、椅子の上で奇妙な角度に体を捻らせていた。
「……ダメだ。アタシの全細胞が『今すぐ屋上で鮭の皮を焼け』と命令している……。おっ!見ろ、スズカ!今、窓の外に銀色のUFOが、アタシに中指立てて通り過ぎてったぞ!!」
「幻覚よ。それはさっきあなたが投げた、お弁当のアルミホイルの蓋だわ」
「チッ、冷静だな。あああああ!止まってらんねえ!このままだと背中から、新しい種類のキノコが生えてきちまう!!」
「ねえ、ゴルシ」
スズカが、じっと自分の足先を見つめながら呟いた。
「あなたはどうして、そんなに一秒もじっとしていられないの?私はただ、前だけを見ていたいから走るのだけれど」
「あ?決まってんだろ。この世には、まだ見たこともねえ『デタラメ』が山ほど転がってるからだ」
ゴルシは椅子をガタガタさせながら、窓の外の空を睨んだ。
「一秒止まってる間に、どっかの星が爆発してるかもしれねえ。新しい焼きそばパンの具材が発明されてるかもしれねえ。それを逃すなんて、人生の損失だろ?」
「……『景色を逃したくない』、ということかしら」
「まあ、そんな高尚なもんじゃねえがな」
スズカは、ふっと微笑んだ。「少しだけ、わかる気がするわ。私も、一瞬でも止まってしまったら、今まで見てきた景色や、これから見るはずの景色を失ってしまうようなそんな気がして、怖くなることがあるの」
「へぇ。お前みたいな『走るサイボーグ』でも、そんなこと考えんのかよ」
「サイボーグじゃないわよ。でも、あなたのその『デタラメ』を追いかける熱量、少しだけ羨ましいかもしれないわ」
そこからの二人は、意外なほど会話が弾んだ。「止まりたくない」という共通の衝動を持つ二人は、次第に「いかにして静止したまま脳内を時速三百キロで回転させるか」という、哲学的な議論に突入したのだ。
「いいかスズカ。目を閉じろ。そして脳内に、無限に続く『流しそうめん』のコースを想像するんだ。お前は、その流れる麺だ」
「私は麺なのね?わかったわ。……今、第一コーナーをネギと共に通過したわ」
「よし、そのまま時空の歪みを突っ切れ!麺の限界を超えろ!!」
「…すごい。世界が白く光っているわ。……これが……麺の向こう側……」
二人は目を閉じ、椅子に座ったまま、魂だけを銀河の果てまで疾走させていた。
「ただいま。悪い、ちょっと手間取っ…」トレーナーが控室に戻ったとき、彼は自分の目を疑った。そこには、当初の命令通り、ピクリとも動かずに椅子に座っている二人の姿があった。
「え、お前ら。本当に大人しく待ってたのか?」
二人は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、宇宙の真理を悟ったかのような、あるいは過酷な長距離レースを走りきった後のような、深い賢者の光が宿っていた。
「…おかえりなさい、トレーナーさん。私たちは今、うどんと共にシリウスを周回してきたところです」
「…ああ。麺のコシが、足りなかったぜ」
「??」トレーナーは首を傾げたが、二人の間に流れる「やり遂げた感」に溢れた穏やかな空気に、それ以上何も言えなかった。
しばらくして、スズカが静かに口を開いた。
「ゴルシ。次は、冷やし中華でアンドロメダへ行きましょうか」
「おう、スズカ。タレは胡麻か醤油か、今のうちに決めておけよ」
トレーナーは、コピーした資料を静かに机に置いた。今日の打ち合わせの内容は、たぶん何も入らないだろうと思いながら。