#22 遅延する逃亡者と、零下の宣戦布告
その日、レース場の空気は明らかに物理法則を逸脱していた。特別オープン戦、のはずだった。本来なら、スタンドに空席が目立っても不思議でないカテゴリーのレースだ。しかし、スタンドはGⅠレースと見紛うほどの観客で埋め尽くされ、異常な熱と静寂が入り混じった奇妙なプレッシャーが渦巻いていた。全員が、たった一人のウマ娘の「帰還」を待っているのだ。
ターフに足を踏み入れたサイレンススズカは、ゴール前の最前列に陣取る集団を見つけた。チームスピカの面々である。彼女たちは言葉を発していないが、その顔には「勝て」「何が何でも勝て」「というか無事に帰ってこい」という、祈りを超えた怨念のようなものが、実体化して浮かび上がっていた。
スズカは、その不器用で重たい想いを受け取り、小さく微笑んだ。一年と一ヶ月。長かった迷路の出口が、今、目の前にある。
レースの数日前。スズカは夜の寮の談話室で、ゴールドシップと将棋を指していた。
「……ゴルシ、桂馬は後ろには下がれません」
「バカ言え。こいつは今、人生の壁にぶち当たって『戦術的撤退』を選んだんだ。前にしか進めないなんて、息苦しい社会の縮図だろ」
彼女は独自のルールで盤面をかき乱しながら、たい焼きを頬張っていた。
「ねえ、ゴルシ」
スズカは、自分の「逃げ」とは真逆にある、彼女の「追込」という脚質について、ふと尋ねてみたくなった。
「ずっと後ろを走っていて、怖くないんですか?届かないかもしれないって」
ゴールドシップは、たい焼きの尻尾を飲み込み、盤面から顔を上げた。
「怖い?スズカ、お前はミステリー小説を犯人の名前から読むタイプか?」
「読みません」
「だろ? 逃げってのは、『俺が犯人だ、捕まえてみろ』って世界に叫ぶプレイスタイルだ。かっこいいよ、本当に。ただ、アタシには合わねえ。アタシがいる最後尾っていう場所はな、レース場の中で最高の『特等席』なんだよ」
「特等席、ですか」
――ここで、記録の正確性を期すために、読者諸君には重大な事実を明かしておかなければならない。
ゴールドシップというウマ娘は、決して「好んで」追込という戦術を採用しているわけではない。彼女はただ単に、あの無機質で狭いゲートという枠に閉じ込められるのが我慢ならず、毎回の中で「狭い」「空調が効いてない」「隣のやつの呼吸音が気に食わない」などと文句を垂れている間にゲートが開き、結果として致命的な「出遅れ」をかましているだけなのだ。
彼女自身の脳内設計図では、スタートダッシュを華麗に決め、そのまま先頭を悠々と「逃げ」るか「先行」するつもりでいる。つまり彼女のレース展開は、本人の意志とは無関係に、仕方なく後方から進むハメになっているだけの「不本意な追込策」なのである。
だが、尊敬すべき(そして最近、妙に意識してしまう)スズカの手前、「いや、実はただ出遅れてるだけなんだわ」などという、スライムに負ける勇者のようなダサい真実は、口が裂けても言えなかった。だから彼女は、極めて意図的に、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「そうだ。前を走る連中の背中を見ながら、『こいつら、マジで本気じゃねえか』って、じっくり思い知るんだよ。全員が、自分が勝つと信じて削りに削って走ってる。それがたまらなくてな。その熱を後ろから全部浴びて、圧縮して、直線で爆発させる。……まあ、要するに、あいつらの気概に火をもらったんだから、最後くらいちゃんと応えてやらねえとな、って気分だよ」
ハッタリと強がりで塗り固められた謎の理論。しかしスズカは、そこに彼女なりの確固たる世界観があるのだと、すっかり感心して頷いていた。
現在。ゲートの中。スズカは、その夜のやり取りを思い出していた。
(あいつらの気概に……火をもらった……)
ガシャン!と、無機質な音が響き、ゲートが開く。その瞬間。
「あっ」
スズカの身体が、ほんのコンマ数秒、反応に遅れた。一年一ヶ月のブランク。それは「スタートの感覚」という極めて繊細なチューニングを、わずかに狂わせていたのだ。
出遅れ。
周囲のウマ娘たちが、一斉に前へ飛び出していく。いつもなら、誰もいないはずの目の前に、十数人の背中が遠ざかっていく。
(……しまった)
焦りが生まれかけた、その時。脳裏に、あの破天荒な隣人の声が蘇った。
『アタシがいる場所はな、最高の特等席なんだよ』
スズカは、ふっと息を吐いた。不思議と恐怖はなかった。むしろ、こんな景色を見るのは初めてだという、奇妙な静けさが胸を満たした。
(そうね。たまには……後ろから世界を眺めるのも、悪くないかもしれない)
彼女は無理に前へ行こうとせず、最後尾にピタリとつけ、脚の感触を確かめた。痛くない。重力は、ちゃんと自分を愛してくれている。前を走る集団を見つめながら、スズカは静かにその「熱」を圧縮し始めた。
最終コーナー。あの日、彼女の時間が止まった大欅を通り過ぎる。呪縛は、解けた。
「……さあ」
スズカは、ギアをトップに入れた。スタンドがどよめく。最後尾から、一人のウマ娘が、まるで次元の違う風を纏って大外から強襲してきたのだ。
それは、かつての「異次元の逃亡者」の姿ではない。怒涛の勢いで前の選手たちをごぼう抜きにしていくその姿は、まるで――あの「黄金の不沈艦」そのものだった。
「嘘だろ!? スズカが、追込であんな脚を!?」
観客が絶叫する中、スズカは先頭に立ち、そのまま誰の影も踏ませずにゴール板を駆け抜けた。割れんばかりの大歓声。彼女は成し遂げたのだ。一年一ヶ月の空白を、これ以上ない形で上書きした。
レースを終え、スズカはチームスピカの元へ歩み寄った。トレーナーも、スピカの全員が顔をくしゃくしゃにして泣いている。
(……さて)
スズカは、密かに深呼吸をした。今日のために、ずっと準備してきた「ほめ殺しリベンジ」の実行時だ。あの日、自分を赤面させた彼女を、今度は自分が真っ赤にさせてやる。最高の勝利のあとで、とびきり甘くて、周りがドン引きするような愛の言葉(のようなもの)をぶつけてやるのだ。
スズカは、チームメイトの中から白銀の姿に焦点を合わせた。
「……あ」
ゴールドシップは、満面の笑みで、隣にいたメジロマックイーンの肩をガッツリと抱き寄せ、自分のことのように大はしゃぎしていた。マックイーンが「こんな場所で何をしますの!」と顔を赤くして抗議しているが、彼女は全く聞いていない。二人の間には、長年の親友(あるいは腐れ縁)特有の、入り込む隙のない空気が流れていた。
そのとき、マックイーンの視線がふとスズカと交差した。一瞬だけ目が合い、マックイーンは小さく、しかし丁寧に会釈をした。スズカも、かすかに頷き返す。
スズカの足が、ピタリと止まる。心臓の奥で、カチリと、何かが冷たく切り替わる音がした。
(…………)
彼女の中で、いつかの日に覚えた「嫉妬」という名の感情のプログラムが、過去最大級の出力で起動した。スズカは、スッと表情を消した。まるで腕利きの殺し屋のような、完璧な「無」の笑顔である。
「スズカー!おめでとう!!」
駆け寄ってくる皆に対し、スズカは優雅に微笑み返した。そして、マックイーンとじゃれ合っているゴールドシップの背中を、零下数十度の視線で射抜いた。
(……今日のところは、許してあげます)
スズカは心の中で、冷ややかに、そして極めて独占欲に満ちた宣告を下した。
(でも、リベンジは取っておきます。次に二人きりになった時、あなたが『もう許してくれ』と泣きつくまで……覚悟しておいてくださいね、ゴルシ)
大歓声に包まれたターフの上で。復活を遂げた沈黙のランナーは、走ることよりもずっと複雑で、厄介で、そして底なしに面白い「新しい目標」を見据えて、静かに微笑んでいた。
第一章 完
ターフに足を踏み入れたサイレンススズカは、ゴール前の最前列に陣取る集団を見つけた。チームスピカの面々である。彼女たちは言葉を発していないが、その顔には「勝て」「何が何でも勝て」「というか無事に帰ってこい」という、祈りを超えた怨念のようなものが、実体化して浮かび上がっていた。
スズカは、その不器用で重たい想いを受け取り、小さく微笑んだ。一年と一ヶ月。長かった迷路の出口が、今、目の前にある。
レースの数日前。スズカは夜の寮の談話室で、ゴールドシップと将棋を指していた。
「……ゴルシ、桂馬は後ろには下がれません」
「バカ言え。こいつは今、人生の壁にぶち当たって『戦術的撤退』を選んだんだ。前にしか進めないなんて、息苦しい社会の縮図だろ」
彼女は独自のルールで盤面をかき乱しながら、たい焼きを頬張っていた。
「ねえ、ゴルシ」
スズカは、自分の「逃げ」とは真逆にある、彼女の「追込」という脚質について、ふと尋ねてみたくなった。
「ずっと後ろを走っていて、怖くないんですか?届かないかもしれないって」
ゴールドシップは、たい焼きの尻尾を飲み込み、盤面から顔を上げた。
「怖い?スズカ、お前はミステリー小説を犯人の名前から読むタイプか?」
「読みません」
「だろ? 逃げってのは、『俺が犯人だ、捕まえてみろ』って世界に叫ぶプレイスタイルだ。かっこいいよ、本当に。ただ、アタシには合わねえ。アタシがいる最後尾っていう場所はな、レース場の中で最高の『特等席』なんだよ」
「特等席、ですか」
――ここで、記録の正確性を期すために、読者諸君には重大な事実を明かしておかなければならない。
ゴールドシップというウマ娘は、決して「好んで」追込という戦術を採用しているわけではない。彼女はただ単に、あの無機質で狭いゲートという枠に閉じ込められるのが我慢ならず、毎回の中で「狭い」「空調が効いてない」「隣のやつの呼吸音が気に食わない」などと文句を垂れている間にゲートが開き、結果として致命的な「出遅れ」をかましているだけなのだ。
彼女自身の脳内設計図では、スタートダッシュを華麗に決め、そのまま先頭を悠々と「逃げ」るか「先行」するつもりでいる。つまり彼女のレース展開は、本人の意志とは無関係に、仕方なく後方から進むハメになっているだけの「不本意な追込策」なのである。
だが、尊敬すべき(そして最近、妙に意識してしまう)スズカの手前、「いや、実はただ出遅れてるだけなんだわ」などという、スライムに負ける勇者のようなダサい真実は、口が裂けても言えなかった。だから彼女は、極めて意図的に、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「そうだ。前を走る連中の背中を見ながら、『こいつら、マジで本気じゃねえか』って、じっくり思い知るんだよ。全員が、自分が勝つと信じて削りに削って走ってる。それがたまらなくてな。その熱を後ろから全部浴びて、圧縮して、直線で爆発させる。……まあ、要するに、あいつらの気概に火をもらったんだから、最後くらいちゃんと応えてやらねえとな、って気分だよ」
ハッタリと強がりで塗り固められた謎の理論。しかしスズカは、そこに彼女なりの確固たる世界観があるのだと、すっかり感心して頷いていた。
現在。ゲートの中。スズカは、その夜のやり取りを思い出していた。
(あいつらの気概に……火をもらった……)
ガシャン!と、無機質な音が響き、ゲートが開く。その瞬間。
「あっ」
スズカの身体が、ほんのコンマ数秒、反応に遅れた。一年一ヶ月のブランク。それは「スタートの感覚」という極めて繊細なチューニングを、わずかに狂わせていたのだ。
出遅れ。
周囲のウマ娘たちが、一斉に前へ飛び出していく。いつもなら、誰もいないはずの目の前に、十数人の背中が遠ざかっていく。
(……しまった)
焦りが生まれかけた、その時。脳裏に、あの破天荒な隣人の声が蘇った。
『アタシがいる場所はな、最高の特等席なんだよ』
スズカは、ふっと息を吐いた。不思議と恐怖はなかった。むしろ、こんな景色を見るのは初めてだという、奇妙な静けさが胸を満たした。
(そうね。たまには……後ろから世界を眺めるのも、悪くないかもしれない)
彼女は無理に前へ行こうとせず、最後尾にピタリとつけ、脚の感触を確かめた。痛くない。重力は、ちゃんと自分を愛してくれている。前を走る集団を見つめながら、スズカは静かにその「熱」を圧縮し始めた。
最終コーナー。あの日、彼女の時間が止まった大欅を通り過ぎる。呪縛は、解けた。
「……さあ」
スズカは、ギアをトップに入れた。スタンドがどよめく。最後尾から、一人のウマ娘が、まるで次元の違う風を纏って大外から強襲してきたのだ。
それは、かつての「異次元の逃亡者」の姿ではない。怒涛の勢いで前の選手たちをごぼう抜きにしていくその姿は、まるで――あの「黄金の不沈艦」そのものだった。
「嘘だろ!? スズカが、追込であんな脚を!?」
観客が絶叫する中、スズカは先頭に立ち、そのまま誰の影も踏ませずにゴール板を駆け抜けた。割れんばかりの大歓声。彼女は成し遂げたのだ。一年一ヶ月の空白を、これ以上ない形で上書きした。
レースを終え、スズカはチームスピカの元へ歩み寄った。トレーナーも、スピカの全員が顔をくしゃくしゃにして泣いている。
(……さて)
スズカは、密かに深呼吸をした。今日のために、ずっと準備してきた「ほめ殺しリベンジ」の実行時だ。あの日、自分を赤面させた彼女を、今度は自分が真っ赤にさせてやる。最高の勝利のあとで、とびきり甘くて、周りがドン引きするような愛の言葉(のようなもの)をぶつけてやるのだ。
スズカは、チームメイトの中から白銀の姿に焦点を合わせた。
「……あ」
ゴールドシップは、満面の笑みで、隣にいたメジロマックイーンの肩をガッツリと抱き寄せ、自分のことのように大はしゃぎしていた。マックイーンが「こんな場所で何をしますの!」と顔を赤くして抗議しているが、彼女は全く聞いていない。二人の間には、長年の親友(あるいは腐れ縁)特有の、入り込む隙のない空気が流れていた。
そのとき、マックイーンの視線がふとスズカと交差した。一瞬だけ目が合い、マックイーンは小さく、しかし丁寧に会釈をした。スズカも、かすかに頷き返す。
スズカの足が、ピタリと止まる。心臓の奥で、カチリと、何かが冷たく切り替わる音がした。
(…………)
彼女の中で、いつかの日に覚えた「嫉妬」という名の感情のプログラムが、過去最大級の出力で起動した。スズカは、スッと表情を消した。まるで腕利きの殺し屋のような、完璧な「無」の笑顔である。
「スズカー!おめでとう!!」
駆け寄ってくる皆に対し、スズカは優雅に微笑み返した。そして、マックイーンとじゃれ合っているゴールドシップの背中を、零下数十度の視線で射抜いた。
(……今日のところは、許してあげます)
スズカは心の中で、冷ややかに、そして極めて独占欲に満ちた宣告を下した。
(でも、リベンジは取っておきます。次に二人きりになった時、あなたが『もう許してくれ』と泣きつくまで……覚悟しておいてくださいね、ゴルシ)
大歓声に包まれたターフの上で。復活を遂げた沈黙のランナーは、走ることよりもずっと複雑で、厄介で、そして底なしに面白い「新しい目標」を見据えて、静かに微笑んでいた。
第一章 完