#21 恋という名のバグと、四百枚のカレンダー
「可愛い」という言葉を、サイレンススズカはこれまでの人生で何度も受け取ってきた。インタビューのフラッシュの中で、ファンの声援の中で、あるいは学園の友人たちとの他愛ない会話の中で。それは彼女にとって、空の色が青いことや、芝の状態が走りに影響を与えることと同じくらい、「織り込み済みのデータ」だったはずだ。
けれど。
先日の、あのデリカシーを音速で置き去りにした白銀の隣人から放たれた「可愛い」は、どのデータにも分類できない異常な熱を持っていた。
(……どうして、あんなに恥ずかしかったんだろう)
リハビリ室の平行棒を掴みながら、スズカは自問する。彼女が言ったのは、洗練された賛辞ではない。支離滅裂な観察記録の果てに漏れ出した、泥臭い本音だ。だからこそ、その言葉はスズカの心の防壁を易々と突破し、中枢システムに「恋」という名の、あまりにも巨大で愛おしいバグを引き起こした。
(……いいわ。この熱は、全部脚に持っていく)
スズカは赤らんだ頬を隠すように前を向いた。湧き上がる感情を、彼女は最も得意な「加速」のエネルギーへと転換する。そして、密かに胸の内で、鋭利な、けれど甘い誓いを立てた。
(いつか、必ずリベンジしてあげます。……あなたが顔を真っ赤にして、音速で逃げ出したくなるような言葉を、私が用意しますから)
それからの月日は、静かに、けれど確実に積み重なっていった。
三ヶ月目、松葉杖が外れた日。ゴルシは「重力からの卒業式だ」と言って、なぜか紅白饅頭を自分で食べて祝った。半年目、軽いジョギングが許可された日。スズカの隣を、ゴルシは「時速十キロの護衛艦」を自称して、ゆっくりと、けれど一歩も離れずに並走した。一年目、ターフでの全力疾走が解禁された日。スズカが風を切り裂く音を聞いて、ゴルシは初めて「……ま、合格だな」とだけ言って、空を見上げた。
一分一秒を削り、一歩一歩を確かめる日々。スズカの脚は、かつての華奢な「奇跡」から、絶望を乗り越えた者だけが持つ、しなやかで強靭な「意思」へと変貌を遂げていた。
リハビリ開始から一年と一ヶ月。朝の練習用トラックには、まだ誰の体温にも汚されていない、透明な空気が満ちていた。
スズカは、ただ一人でその直線を滑走していた。かつての彼女が「沈黙」そのものであったなら、今の彼女は、一歩ごとに大地と対話し、新しいリズムを刻み直す「再構築」の象徴だった。トラックの脇では、ゴールドシップがストップウォッチを片手に、まるで精密機械の検品でもするかのような真剣な、それでいてどこか投げやりな表情で立っていた。
「……おい、スズカ! 今のコーナー、コンマ数秒ほど『昨日より世界を愛してる』ような膨らみ方だったぞ。もっと自分勝手に風を切り裂け!」
「……ふふ、難しい注文ですね」
スズカが呼吸を整えながら、彼女の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「スズカ! ゴルシ!」
トラックの入り口からトレーナーが、走るための訓練を受けていない人間特有の、少し不安定で、けれど必死な足取りで駆け寄ってきた。その手には一枚の出走登録証が握りしめられている。三人の間に、ふっと風が止まるような静寂が訪れた。
「……決まったぞ。復帰レースだ」
トレーナーが、息を切らしながらその紙を差し出す。そこに記された日付、そしてレース名。それは彼女がかつて「止まってしまった」あの日から、螺旋階段を一段ずつ登るようにして辿り着いた、再生のスタートラインだった。
スズカは、その紙を両手で受け取った。指先は、もう震えていなかった。
「……はい。ありがとうございます」
短く答えた彼女の瞳には、かつての孤独な先頭走者の面影と、そして――この一年、ずっと隣でストップウォッチを(時には逆向きに)回し続けてくれた「特別な隣人」から受け取った、新しい色が混ざり合っていた。
「よっしゃあああああ!時代が!ついに時代がスズカに追いついたぞオラァ!」
静寂を、一秒で粉砕する叫び声。さっきまで精密機械のようにストップウォッチを扱っていたゴールドシップが、突如としてバグを起こしたコンピュータのように跳ね上がった。彼女は空中で謎のひねりを加えながら着地すると、スズカの肩を脱臼せんばかりの勢いで揺さぶる。
「おい見ろスズカ!世界が、あの大欅の向こう側が、お前のために道を空けて土下座して待ってるぜ!祝杯だ!今すぐ学園の中庭に焼きそばパンの噴水を作るぞ!」
「ゴルシ、落ち着け。……そして、いいか」
トレーナーが、冷や汗を拭いながら釘を刺した。
「まだ正式なプレスリリース前だ。余計な混乱を避けるために、正式発表までは関係者以外には内密にしておくように。特にスペやスピカの面々には、俺からタイミングを見て話すから。分かったな?」
「………………」
ゴールドシップは、急に彫刻像のような静止を見せた。その瞳は、何か重大なミッションを背負った秘密諜報員のような、あるいは「今すぐこの巨大なエネルギーを放流しなければ死ぬ」と悟った発電所のような、危うい光を湛えている。
「……おう、任せとけよトレーナー。アタシの口の堅さは、ダイヤモンドの結晶構造をも凌駕することで有名だ。機密保持・コンプライアンス・秘密厳守。ゴルシ様の辞書に今、その三つの単語が太字で刻まれたぜ」
「本当か……?」
「ああ。アタシは今から、沈黙という名の深海魚になる」
そう言い残すと、彼女は踵を返した。一歩。二歩。そして三歩目。
「スピカのみんなあああああ!速報だあああ!ニュースだ!!号外だあああああ!!!」
「あ、おい!!」
トレーナーの制止が空を切る。ゴールドシップは、もはや「走る」というよりは「地面を爆破して進む」ような猛烈なダッシュを開始していた。「機密保持」という四文字を物理的に置き去りにし、彼女は光の速さで学園の寮がある方向へと消えていく。その後ろ姿には、喜びが隠しきれないどころか、全身から虹色のオーラが漏れ出しているかのようだった。
「……全く。あの人は、本当に」
スズカは、砂煙を上げて遠ざかっていく白銀の背中を、眩しそうに見つめていた。自分以上に喜び、自分のために世界中に叫び散らそうとする、あの不器用で騒がしい隣人。スズカの胸の奥に、リハビリで鍛え上げた筋肉とは別の、熱い何かが宿る。
一年一ヶ月。自分の脚が再び地面を蹴る感覚を教えてくれたのは、あの人の無茶苦茶な優しさだった。だからこそ。
(……待っていてくださいね、ゴルシ)
スズカは、そっと拳を握りしめた。
「……ふふ」
スズカは、もう一度だけ、彼女が消えていった空の下を眺めた。沈黙の先頭走者は、今、確かな愛しさとリベンジの炎を胸に、新しい一歩を踏み出した。
けれど。
先日の、あのデリカシーを音速で置き去りにした白銀の隣人から放たれた「可愛い」は、どのデータにも分類できない異常な熱を持っていた。
(……どうして、あんなに恥ずかしかったんだろう)
リハビリ室の平行棒を掴みながら、スズカは自問する。彼女が言ったのは、洗練された賛辞ではない。支離滅裂な観察記録の果てに漏れ出した、泥臭い本音だ。だからこそ、その言葉はスズカの心の防壁を易々と突破し、中枢システムに「恋」という名の、あまりにも巨大で愛おしいバグを引き起こした。
(……いいわ。この熱は、全部脚に持っていく)
スズカは赤らんだ頬を隠すように前を向いた。湧き上がる感情を、彼女は最も得意な「加速」のエネルギーへと転換する。そして、密かに胸の内で、鋭利な、けれど甘い誓いを立てた。
(いつか、必ずリベンジしてあげます。……あなたが顔を真っ赤にして、音速で逃げ出したくなるような言葉を、私が用意しますから)
それからの月日は、静かに、けれど確実に積み重なっていった。
三ヶ月目、松葉杖が外れた日。ゴルシは「重力からの卒業式だ」と言って、なぜか紅白饅頭を自分で食べて祝った。半年目、軽いジョギングが許可された日。スズカの隣を、ゴルシは「時速十キロの護衛艦」を自称して、ゆっくりと、けれど一歩も離れずに並走した。一年目、ターフでの全力疾走が解禁された日。スズカが風を切り裂く音を聞いて、ゴルシは初めて「……ま、合格だな」とだけ言って、空を見上げた。
一分一秒を削り、一歩一歩を確かめる日々。スズカの脚は、かつての華奢な「奇跡」から、絶望を乗り越えた者だけが持つ、しなやかで強靭な「意思」へと変貌を遂げていた。
リハビリ開始から一年と一ヶ月。朝の練習用トラックには、まだ誰の体温にも汚されていない、透明な空気が満ちていた。
スズカは、ただ一人でその直線を滑走していた。かつての彼女が「沈黙」そのものであったなら、今の彼女は、一歩ごとに大地と対話し、新しいリズムを刻み直す「再構築」の象徴だった。トラックの脇では、ゴールドシップがストップウォッチを片手に、まるで精密機械の検品でもするかのような真剣な、それでいてどこか投げやりな表情で立っていた。
「……おい、スズカ! 今のコーナー、コンマ数秒ほど『昨日より世界を愛してる』ような膨らみ方だったぞ。もっと自分勝手に風を切り裂け!」
「……ふふ、難しい注文ですね」
スズカが呼吸を整えながら、彼女の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「スズカ! ゴルシ!」
トラックの入り口からトレーナーが、走るための訓練を受けていない人間特有の、少し不安定で、けれど必死な足取りで駆け寄ってきた。その手には一枚の出走登録証が握りしめられている。三人の間に、ふっと風が止まるような静寂が訪れた。
「……決まったぞ。復帰レースだ」
トレーナーが、息を切らしながらその紙を差し出す。そこに記された日付、そしてレース名。それは彼女がかつて「止まってしまった」あの日から、螺旋階段を一段ずつ登るようにして辿り着いた、再生のスタートラインだった。
スズカは、その紙を両手で受け取った。指先は、もう震えていなかった。
「……はい。ありがとうございます」
短く答えた彼女の瞳には、かつての孤独な先頭走者の面影と、そして――この一年、ずっと隣でストップウォッチを(時には逆向きに)回し続けてくれた「特別な隣人」から受け取った、新しい色が混ざり合っていた。
「よっしゃあああああ!時代が!ついに時代がスズカに追いついたぞオラァ!」
静寂を、一秒で粉砕する叫び声。さっきまで精密機械のようにストップウォッチを扱っていたゴールドシップが、突如としてバグを起こしたコンピュータのように跳ね上がった。彼女は空中で謎のひねりを加えながら着地すると、スズカの肩を脱臼せんばかりの勢いで揺さぶる。
「おい見ろスズカ!世界が、あの大欅の向こう側が、お前のために道を空けて土下座して待ってるぜ!祝杯だ!今すぐ学園の中庭に焼きそばパンの噴水を作るぞ!」
「ゴルシ、落ち着け。……そして、いいか」
トレーナーが、冷や汗を拭いながら釘を刺した。
「まだ正式なプレスリリース前だ。余計な混乱を避けるために、正式発表までは関係者以外には内密にしておくように。特にスペやスピカの面々には、俺からタイミングを見て話すから。分かったな?」
「………………」
ゴールドシップは、急に彫刻像のような静止を見せた。その瞳は、何か重大なミッションを背負った秘密諜報員のような、あるいは「今すぐこの巨大なエネルギーを放流しなければ死ぬ」と悟った発電所のような、危うい光を湛えている。
「……おう、任せとけよトレーナー。アタシの口の堅さは、ダイヤモンドの結晶構造をも凌駕することで有名だ。機密保持・コンプライアンス・秘密厳守。ゴルシ様の辞書に今、その三つの単語が太字で刻まれたぜ」
「本当か……?」
「ああ。アタシは今から、沈黙という名の深海魚になる」
そう言い残すと、彼女は踵を返した。一歩。二歩。そして三歩目。
「スピカのみんなあああああ!速報だあああ!ニュースだ!!号外だあああああ!!!」
「あ、おい!!」
トレーナーの制止が空を切る。ゴールドシップは、もはや「走る」というよりは「地面を爆破して進む」ような猛烈なダッシュを開始していた。「機密保持」という四文字を物理的に置き去りにし、彼女は光の速さで学園の寮がある方向へと消えていく。その後ろ姿には、喜びが隠しきれないどころか、全身から虹色のオーラが漏れ出しているかのようだった。
「……全く。あの人は、本当に」
スズカは、砂煙を上げて遠ざかっていく白銀の背中を、眩しそうに見つめていた。自分以上に喜び、自分のために世界中に叫び散らそうとする、あの不器用で騒がしい隣人。スズカの胸の奥に、リハビリで鍛え上げた筋肉とは別の、熱い何かが宿る。
一年一ヶ月。自分の脚が再び地面を蹴る感覚を教えてくれたのは、あの人の無茶苦茶な優しさだった。だからこそ。
(……待っていてくださいね、ゴルシ)
スズカは、そっと拳を握りしめた。
「……ふふ」
スズカは、もう一度だけ、彼女が消えていった空の下を眺めた。沈黙の先頭走者は、今、確かな愛しさとリベンジの炎を胸に、新しい一歩を踏み出した。
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