#20 好意のオーバーフローと、黄金比に関する熱暴走

 夕暮れの病室。窓の外では、カラスたちが「明日の天気は俺たちの管轄外だ」と言わんばかりの無責任な声で鳴いていた。
 
 サイレンススズカは、リハビリ後の少し火照った身体をベッドに預け、隣でリンゴを(なぜか彫刻家のような真剣な眼差しで、ウサギ型に)削っている彼女に、ふと一つの問いを投げかけた。
 
「……ねえ、ゴルシ。走る以外の私って、どんな印象ですか? 何か、いいところって、あるんでしょうか」
 
 それは、人生という名の過酷な長距離レースにおいて、コースを外れてしまったランナーが、初めて地図の「余白」に目を向けたような、静かで、少し心細い問いだった。

 ゴールドシップは、リンゴを削る手をピタリと止めた。
 
「ふむ、走る以外のお前、か。なるほど、未知の領域(フロンティア)の地籍調査だな。よし、アタシの脳内スーパーコンピュータで、今からお前の『非・走行モード』におけるログを、容赦なく解析してやる」
 
 彼女は腕を組んで目を閉じると、極めて偏執的で、かつ無駄に精緻な分析を開始した。

 

「まず外見からいこう。お前は『黙っていても、そこに意味が生まれる』タイプだ。病室みたいな無機質な空間でも、お前がいるだけで風景の解像度が勝手に上がる、高級なフィルターみたいなもんだな。それから、たまにアタシの戯言に納得いかない時に見せる『眉間のわずかな寄せ方』。あれは黄金比に近い」

「おまけにお前は、怒ってる時もどこか品がある。アタシの無茶苦茶な冗談をスルーする時の、あの『無』の表情も、実は絶妙に可愛いんだ。あと、お前の髪が夕日に透けると、光の屈折率が物理法則を無視してバグる。正直、見てるだけでこっちの視力が良くなるレベルだ」
 
「……あ、あの、ゴルシ??」
 
 スズカの頬に、微かな赤みが差した。だが、ゴルシの言葉は止まらない。
 
「待て、まだ表面的な解析だ。内面についても言及させろ。お前のその『他人に心配をかけまいとする、自己犠牲的な自家発電システム』。あれは美しいが、ちょっと燃費が悪すぎる。でも、そこが不器用でいい」

「あとは、そうだな。寝起きの、まだ意識が三十%くらいしか戻ってない時の、あのふわふわした感じ。あれを瓶詰めにして売れば、世界から戦争がなくなるレベルの癒やし効果があるぜ。国家予算並みの価値があるギャップだ」
 
「ちょ、ちょっと待ってください、それは……」
 
「さらにだ。お前は昔、自分の走るレーンしか見えてなくて、他人の人生なんていう風景には一ミリも興味がない、極端に視野角の狭い生き物だと思ってた。でも、違うな。アタシが無茶苦茶な冗談を言った時、お前はそれをただスルーするんじゃなくて、その裏にある意図やアタシの考えを、あの『迷ってる瞳』で必死に解読しようとする。まるで分厚い外国語の辞書を引きながら、他人の心の形を不器用になぞろうとしてるみたいにな。
 
……とにかく、お前は走ってなくても、ただそこに座って息をしてるだけで、百点満点中、五億点くらい魅力的で、そして……可愛いんだよ」
 
 
「……っ!!」
 
 スズカの顔は、今やゴルシの手元にある熟したリンゴの皮よりも赤くなっていた。心拍数が、レースのラストスパート並みに跳ね上がるのが自分でもわかる。
 
「も、もういいです! 十分です、ゴルシ……!」
 
「おっと、解析が熱暴走したか。悪い悪い、つい観測された事実をそのまま出力しすぎた」
 
 
 言ってから、ゴルシは妙な感覚に気づいた。スズカの顔が異常に赤い。なぜか。アタシは事実を述べただけだ。黄金比の眉間。視力が良くなる髪。燃費の悪い気遣い。国家予算並みのギャップ。他者を理解しようとする不器用さ。どれも、客観的かつ厳密な観測結果に過ぎない。事実の羅列が、なぜこの病室の気温を三度ほど上げ、まるで少女漫画のクライマックスのような甘い空気を生み出しているのか。
 
 論理的に考えれば、答えは一つしかない。
 
 (……待て)
 
 その答えにたどり着いた瞬間、今度は自分自身の思考回路が、派手な音を立てて過熱し始めた。
 
 (アタシ、今なんか、ものすごく恥ずかしいことを、ドヤ顔で長々と語ったんじゃないか?)
 
 (「五億点くらい可愛い」って、……今、アタシ、何を言った?)
 
 (事実だ。紛れもない事実なんだが。なぜそれを、わざわざ本人の前で、ポエムみたいに声に出した?)
 
 (しかも止まらなかった。どう考えても全弾発射(フルバースト)したんじゃないか?)
 
 ゴルシの脳内で、国家非常事態宣言のサイレンが鳴り響いた。
 
 (落ち着け。まだ挽回できる。アタシは「面白いものを面白いと評価しただけ」という、いつもの奇人ポジションで着地できる。そうだ、アタシはいつだって何でも面白いと思う。スズカが特別なわけじゃ――)
 
 (……いや、特別か)
 
 (待て待て待て、認めるなアタシの脳細胞)
 
 思考が、完全にショートした。アタシは、誰の眉間の寄せ方も黄金比だなんて思ったことはない。誰の髪が夕日に透けても視力が良くなる気はしない。なのに、なぜスズカの話だけ、あんなに息継ぎなしで語ってしまったのか。
 
 (……まずい。これは、かなり、まずい)
 
 誤魔化さなければ。今すぐ。この甘ったるい空気を、劇薬を使ってでも、いつもの「ゴールドシップの空気感」に引き戻さなければ。脳内のギアを無理やり、火花を散らしながら急バックに入れ、ハンドルを面舵いっぱいに切った。そして、盛大に口を滑らせた。

 
「あ、あとそうだ! スピードと言えば、お前、トイレ済ませるのメッチャ早いよな! あれは驚異的だ! 廊下ですれ違ったと思ったら、次の瞬間にはもう戻ってきてる。もはや排泄の概念すら置き去りにした風だぜ、ありゃあ!」

 
 一瞬。病室に、宇宙の誕生前のような静寂が訪れた。
 
 スズカの肩が、わなわなと震えた。顔は真っ赤で、目は潤み、けれどその瞳には、かつてないほどの「明確な怒り」の炎が灯っていた。
 
「……っ、……サイテーです、ゴルシ!!」
 
「あ、いや、違うんだ! アタシは最大級の敬意として、お前の効率性を――」
 
「バカ! 変態! デリカシーの欠片もありませんっ!!」
 
「うわああ、待て、スズカ! 悪かった! 今のはアタシの言語中枢が一時的にバグっただけで――ごめん、マジでごめんって!」
 
 スズカは、手元にあった枕を全力で掴み、彼女の顔面に向かって正確なコントロールで投げつけた。泣きそうで、恥ずかしくて、けれど、どうしようもなく腹立たしい。彼女の心の中で、何かが派手にはじけ飛んでいた。
 
「……ふぅ、ふぅ……」
 
肩で息をしながら、スズカは床に落ちた枕を見つめた。怒って、赤くなって、声を荒らげて、物を投げる。そんな自分は、これまでの「サイレンススズカ」という完成されたプログラムには存在しなかったバグだ。
けれど。走っている時とは別の、けれど同じくらい鮮烈な、生命の脈動がそこにはあった。
 
「……ゴルシ」
 
「……はい。切腹の準備ならできてます。介錯はマックイーンに頼んでおきます」
 
「……もう、いいです。でも、次にあんなこと言ったら、本当に……その、リンゴの代わりに、ゴルシをウサギ型に削ってあげますから」
 
「それは猟奇的すぎねえか? いや、すみません、アタシが全面的に悪うございました」
 
 スズカは、まだ少し赤い顔のまま、小さく、けれど確かに笑った。
 
「走る以外の私」は、思っていたよりもずっと、厄介で、不器用で、恥ずかしくて、そして賑やかだった。彼女は、ゴルシがもたらした「最低の暴露」と「最高のほめ殺し」によって、自分がまだ、この世界のどんな場所にでも行けるし、どんな感情だって持てるのだということを、静かに確信していた。
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