#19 終着駅の行方不明と、三日間の空白について
空を飛ぶためだけに設計された精巧な機械がその機能を失ったとき、世界は思いのほか冷淡だ。同情して空が低くなることもなければ、引力が特別に優しく配慮してくれることもない。世界はただ『飛ばない機械』という新しいラベルを無機質に貼り付け、何事もなかったかのように、予定通り明日のカレンダーをめくるだけである。
病室を訪れたスペシャルウィークは、そんな世界の残酷さなど微塵も疑っていない、ひたすらに眩しい希望の塊だった。
「スズカさん! 今度のレース、私、スズカさんの分まで走ってきます!」
サイレンススズカは、穏やかな、そして一切のノイズを含まない完璧な微笑みを返した。
「ええ、期待しているわ、スペちゃん。あなたはもっと先へ行けるはずだから」
それは、才能あふれる後輩を鼓舞するための、優しく正しい台詞だ。しかし同時に、自分という存在を「機能停止した不良品」として、世界のシステムから自ら切り離すための、残酷な境界線でもあった。
扉が閉まり、嵐のような後輩の足音が遠ざかった瞬間。スズカの顔から、電源コンセントを引き抜かれたディスプレイのように、光も、温度も、静かに消失した。
その直後だった。廊下から漏れてきたのは、主治医とトレーナーの、低く、重い、救いのないトーンの会話。
「……絶望的と言わざるを得ません」
「今後、歩けるようになるまでは回復する可能性がありますが、ターフに戻ることは……奇跡を期待する段階すら過ぎています」
スズカの耳には、その言葉が「世界の終焉」を告げる無機質なアナウンスのように響いた。彼女の脳内にある「走る」という唯一のプログラムが致命的なエラーを吐き出し、システム全体が急速に凍りついていく。
そんな時に限って、この数日間、あの騒がしい白銀の影は姿を見せなかった。うなじに北米防空司令部直結のGPSを埋め込まれ、無断外出を禁じられていたはずのゴールドシップが、忽然と消えたのだ。トレーナーの端末には現在『GPS信号ロスト。最終確認地点:太平洋上空』という、どう考えても物理法則を無視したエラーログだけが残されているらしい。
(……ゴルシまで、私を見限ったのかしら)
そんな考えが、冷たい泥のようにスズカの心に溜まっていく。
「役に立てないなら、ここにいる意味はない」
彼女が自分自身に対して下したその審判を、ゴルシもまた、黙って受け入れたのではないか。夜の病室。消毒液の匂い。スズカは初めて、「走れない自分」という、出口のない迷路の中に放り出された恐怖に震えていた。
三日後の夕暮れ時。病室のドアが、まるで「不法侵入」のような勢いで開いた。
「よお、スズカ。三日ぶりだな。アタシがいない間、寂しくて枕を噛んだりしてなかったか?」
現れたゴールドシップは、ひどく汚れていた。勝負服でも制服でもない、泥と枯れ葉、そして得体の知れない灰にまみれたジャージ姿。うなじにあったはずのGPSデバイスは無残にも叩き壊され、ただのプラスチックの残骸と化している。息はわずかに切れていた。
スズカは、彼女のあまりにもいつも通りな、そしてあまりにも場違いな姿を見て、張り詰めていた何かが音を立てて軋んだ。
「……どこに、行っていたんですか。そのGPS……」
「ん? ああ、これか。アルミホイルと電子レンジを駆使して米軍の衛星にジャミングをかけてやったんだよ。今はたぶん、アタシの位置情報はホワイトハウスの芝生の上ってことになってるはずだ」
彼女はあっけらかんと言い放ち、泥だらけの手でポケットを探った。
「ちょっと世界の裏側に隠しボタンがないか探しに行ってな。残念ながら例の『火山鰻』はジンジャーエールの泉ごと枯渇してやがったが、代わりに『冬にだけ光る変な苔』は確保してきたぜ」
そう言って、くすんだ緑色の塊を差し出した。スズカは、その靴底を一瞬だけ見た。泥だけでなく、靴底のゴムそのものがすり減っている。どれだけの距離を、どんな無茶な道を歩いてきたのか、想像もつかなかった。
スズカはその苔を見つめ、そして、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「……ゴルシ、私、聞いてしまったんです」
「何をだ。アタシの隠し口座の暗証番号か?」
「主治医の話です。私の脚は……もう、二度と……あそこには戻れないって………」
スズカの声が震える。後輩の前では決して見せなかった、一人のウマ娘としての、剥き出しの絶望。
「……怖いんです。走ることを取ったら、私には何も残らない。先頭の景色を見られない私は、もう、私じゃない。……私は、これから何を目標に、どうやって息をすればいいのか……分からないんです」
それは、スズカが生まれて初めて他人に吐露した「弱音」だった。彼女は、自分のアイデンティティという名の背骨が、音を立てて砕けていく感覚に耐えていた。
ゴールドシップは、泥だらけの苔をサイドテーブルに置くと、スズカのベッドの端に、どっかと腰を下ろした。
「……スズカ。お前、さっきから『自分がない』とか『何もない』とか、随分と謙虚なことを言ってるな」
「事実です。私は、走るために生まれてきたんですから」
「バカ言え」
彼女は、窓の外の暮れゆく空を指差した。
「いいか。世界ってのはな、一本の直線じゃない。無数の迷路でできてんだ。お前は今まで、その中で一番速いルートを爆走してた。でも、その道が通行止めになったからって、お前という存在が消滅するわけじゃねえ。お前を構成するデータが初期化されるわけでもない」
ゴルシは、スズカの目を見据えた。いつもの冗談めかした光はない。
「走れないお前が怖がってるのは、目標がわからなくなったことじゃねえ。『走る』を取り去ったとき、自分が何者かわからなくなることだろ?」
スズカは息を呑んだ。その通りだった。
「安心しろ。お前が走れなくなっても、アタシの『面白判定』からは外れねえよ。お前が止まってても、アタシはお前の周りを時速三百キロで走り回ってやる。……道がなくなったんなら、そこら辺の地面に適当に名前をつけて、新しい国でも作ればいい。アタシがお前の『最初の国民』になってやるからよ」
「……ゴルシは、本当に無茶苦茶です」
スズカは、涙を流しながら、けれど少しだけ、可笑しそうに笑った。
「無茶苦茶なのは世界の方だ。アタシはそれに、ちょっとした注釈(キャプション)を付けてるだけだよ。国家の監視網をぶっ壊すくらいの注釈をな」
その夜。スズカが聞いた「絶望」という名の診断結果は、消えてなくなったわけではない。脚は重く、未来は依然として不透明だ。
けれど、サイドテーブルに置かれた「変な苔」が、暗闇の中で不格好に、けれど確かに光っていた。病院のルールでは、発光する未確認植物の持ち込みは確実に禁止されている。おまけに、今の病室には「GPSを破壊して逃亡中の国家指定・要注意ウマ娘」が居座っているのだ。
けれど、スズカは苔を窓から捨てる気にも、彼女を追い出す気にもなれなかった。「走る以外の自分」という、広大で、怖くて、けれど誰かが一緒にいてくれるかもしれない新しい世界に。彼女はほんの一歩だけ、心の重心を移した。
「……明日も来てくださいね、ゴルシ」
「ああ。明日は、さらに役に立たない『流木の化石』でも持ってきてやるよ。ペンタゴンの追手から逃げ切れればの話だがな」
二人の夜は、これまでで一番静かで、そして「停止」することを優しく許された時間だった。
病室を訪れたスペシャルウィークは、そんな世界の残酷さなど微塵も疑っていない、ひたすらに眩しい希望の塊だった。
「スズカさん! 今度のレース、私、スズカさんの分まで走ってきます!」
サイレンススズカは、穏やかな、そして一切のノイズを含まない完璧な微笑みを返した。
「ええ、期待しているわ、スペちゃん。あなたはもっと先へ行けるはずだから」
それは、才能あふれる後輩を鼓舞するための、優しく正しい台詞だ。しかし同時に、自分という存在を「機能停止した不良品」として、世界のシステムから自ら切り離すための、残酷な境界線でもあった。
扉が閉まり、嵐のような後輩の足音が遠ざかった瞬間。スズカの顔から、電源コンセントを引き抜かれたディスプレイのように、光も、温度も、静かに消失した。
その直後だった。廊下から漏れてきたのは、主治医とトレーナーの、低く、重い、救いのないトーンの会話。
「……絶望的と言わざるを得ません」
「今後、歩けるようになるまでは回復する可能性がありますが、ターフに戻ることは……奇跡を期待する段階すら過ぎています」
スズカの耳には、その言葉が「世界の終焉」を告げる無機質なアナウンスのように響いた。彼女の脳内にある「走る」という唯一のプログラムが致命的なエラーを吐き出し、システム全体が急速に凍りついていく。
そんな時に限って、この数日間、あの騒がしい白銀の影は姿を見せなかった。うなじに北米防空司令部直結のGPSを埋め込まれ、無断外出を禁じられていたはずのゴールドシップが、忽然と消えたのだ。トレーナーの端末には現在『GPS信号ロスト。最終確認地点:太平洋上空』という、どう考えても物理法則を無視したエラーログだけが残されているらしい。
(……ゴルシまで、私を見限ったのかしら)
そんな考えが、冷たい泥のようにスズカの心に溜まっていく。
「役に立てないなら、ここにいる意味はない」
彼女が自分自身に対して下したその審判を、ゴルシもまた、黙って受け入れたのではないか。夜の病室。消毒液の匂い。スズカは初めて、「走れない自分」という、出口のない迷路の中に放り出された恐怖に震えていた。
三日後の夕暮れ時。病室のドアが、まるで「不法侵入」のような勢いで開いた。
「よお、スズカ。三日ぶりだな。アタシがいない間、寂しくて枕を噛んだりしてなかったか?」
現れたゴールドシップは、ひどく汚れていた。勝負服でも制服でもない、泥と枯れ葉、そして得体の知れない灰にまみれたジャージ姿。うなじにあったはずのGPSデバイスは無残にも叩き壊され、ただのプラスチックの残骸と化している。息はわずかに切れていた。
スズカは、彼女のあまりにもいつも通りな、そしてあまりにも場違いな姿を見て、張り詰めていた何かが音を立てて軋んだ。
「……どこに、行っていたんですか。そのGPS……」
「ん? ああ、これか。アルミホイルと電子レンジを駆使して米軍の衛星にジャミングをかけてやったんだよ。今はたぶん、アタシの位置情報はホワイトハウスの芝生の上ってことになってるはずだ」
彼女はあっけらかんと言い放ち、泥だらけの手でポケットを探った。
「ちょっと世界の裏側に隠しボタンがないか探しに行ってな。残念ながら例の『火山鰻』はジンジャーエールの泉ごと枯渇してやがったが、代わりに『冬にだけ光る変な苔』は確保してきたぜ」
そう言って、くすんだ緑色の塊を差し出した。スズカは、その靴底を一瞬だけ見た。泥だけでなく、靴底のゴムそのものがすり減っている。どれだけの距離を、どんな無茶な道を歩いてきたのか、想像もつかなかった。
スズカはその苔を見つめ、そして、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「……ゴルシ、私、聞いてしまったんです」
「何をだ。アタシの隠し口座の暗証番号か?」
「主治医の話です。私の脚は……もう、二度と……あそこには戻れないって………」
スズカの声が震える。後輩の前では決して見せなかった、一人のウマ娘としての、剥き出しの絶望。
「……怖いんです。走ることを取ったら、私には何も残らない。先頭の景色を見られない私は、もう、私じゃない。……私は、これから何を目標に、どうやって息をすればいいのか……分からないんです」
それは、スズカが生まれて初めて他人に吐露した「弱音」だった。彼女は、自分のアイデンティティという名の背骨が、音を立てて砕けていく感覚に耐えていた。
ゴールドシップは、泥だらけの苔をサイドテーブルに置くと、スズカのベッドの端に、どっかと腰を下ろした。
「……スズカ。お前、さっきから『自分がない』とか『何もない』とか、随分と謙虚なことを言ってるな」
「事実です。私は、走るために生まれてきたんですから」
「バカ言え」
彼女は、窓の外の暮れゆく空を指差した。
「いいか。世界ってのはな、一本の直線じゃない。無数の迷路でできてんだ。お前は今まで、その中で一番速いルートを爆走してた。でも、その道が通行止めになったからって、お前という存在が消滅するわけじゃねえ。お前を構成するデータが初期化されるわけでもない」
ゴルシは、スズカの目を見据えた。いつもの冗談めかした光はない。
「走れないお前が怖がってるのは、目標がわからなくなったことじゃねえ。『走る』を取り去ったとき、自分が何者かわからなくなることだろ?」
スズカは息を呑んだ。その通りだった。
「安心しろ。お前が走れなくなっても、アタシの『面白判定』からは外れねえよ。お前が止まってても、アタシはお前の周りを時速三百キロで走り回ってやる。……道がなくなったんなら、そこら辺の地面に適当に名前をつけて、新しい国でも作ればいい。アタシがお前の『最初の国民』になってやるからよ」
「……ゴルシは、本当に無茶苦茶です」
スズカは、涙を流しながら、けれど少しだけ、可笑しそうに笑った。
「無茶苦茶なのは世界の方だ。アタシはそれに、ちょっとした注釈(キャプション)を付けてるだけだよ。国家の監視網をぶっ壊すくらいの注釈をな」
その夜。スズカが聞いた「絶望」という名の診断結果は、消えてなくなったわけではない。脚は重く、未来は依然として不透明だ。
けれど、サイドテーブルに置かれた「変な苔」が、暗闇の中で不格好に、けれど確かに光っていた。病院のルールでは、発光する未確認植物の持ち込みは確実に禁止されている。おまけに、今の病室には「GPSを破壊して逃亡中の国家指定・要注意ウマ娘」が居座っているのだ。
けれど、スズカは苔を窓から捨てる気にも、彼女を追い出す気にもなれなかった。「走る以外の自分」という、広大で、怖くて、けれど誰かが一緒にいてくれるかもしれない新しい世界に。彼女はほんの一歩だけ、心の重心を移した。
「……明日も来てくださいね、ゴルシ」
「ああ。明日は、さらに役に立たない『流木の化石』でも持ってきてやるよ。ペンタゴンの追手から逃げ切れればの話だがな」
二人の夜は、これまでで一番静かで、そして「停止」することを優しく許された時間だった。