#18 リーガル・ハイな応援団、あるいは米軍が監視するリハビリ
人生という名のシステムにおいて、「不運」とは往々にして、事前の通告なしにプログラムの根幹を書き換えてしまうバグのようなものだ。昨日まで時速七十キロメートルで風を切り裂いていた脚が、今日は一歩を踏み出すのにも数分間のネゴシエーションを必要とする。
無機質な、あまりにも清潔すぎて呼吸が白くなりそうなリハビリ室。サイレンススズカは、車椅子という名の「静止した座席」から、現実という名のターフへ、慎重に、まるで爆弾の信管を抜くような手つきで一歩を差し出そうとしていた。
「もっとふわっと! 足の裏に、こう、お餅みたいな優しさを感じる感じで! スズカさん、無理は禁物ですが、お腹の底からの気合は全開でお願いします! いざとなったら私がスズカさんの衝撃吸収クッションになりますから!」
スペシャルウィークの応援は、もはや「応援」の定義を逸脱し、管制塔の絶叫に近い。彼女は今にもスズカが倒れるのを防ぐため、全方位に高級な低反発クッションを配置する「過剰な防衛バリア展開」に余念がない。その様子は、過保護に割れ物を梱包する運送業者のようでもあった。
「ありがとう、スペちゃん。でも、そんなにクッションに囲まれていると、私が埋れてしまうわ」
その光景を、壁際で腕を組んで眺める「白銀の監視者」がいた。ゴールドシップだ。彼女は今日、彼女のうなじには不気味に青く明滅する、最新型の首輪型デバイスがある――昨日の朝、トレーナーによって強制装着されたばかりの代物だ。
「おいトレーナー。この『対ゴルシちゃん専用・北米防空司令部直結型GPS』、どうにかならねえのか? アタシがちょっと学園を無断で抜け出して、病院に見舞いに行こうとしただけで、学園の警備部隊からドローンが飛んでくる仕様は、あまりに人権を無視してねえか?」
「お前が以前、レース直前に失踪して北海道の極寒の海で『流氷とマブダチになる』と言い残して寒中水泳を披露した際、当時の米軍基地のレーダーに『音速を超えて移動する不明な白い熱源』として捕捉されたのが悪い。あれ以来、お前の動体管理は国防総省の優先事項に引き上げられたんだ。お前の自由は、現在、地球規模の安全保障と引き換えに制限されている」
トレーナーは冷徹に、手元のタブレット画面をスワイプした。
「お前が右足を一歩動かすたびに、静止衛星が三つ、角度を微調整している。大人しく壁のシミでも数えていろ」
「チッ……。才能とは、時として自由を奪う鎖になる。アタシという名の宇宙(コスモ)を、たかが数個の人工衛星で縛り付けられると思ったら大間違いだぜ。……まあ、今は大人しく重力に従ってやるがな」
ゴールドシップの身体は拘束されていたが、彼女の「思考」と「声帯」を制限する法律は、この国の憲法には存在しなかった。
「いいか、スズカ。そんな地味な、アリの歩幅を計測するような反復練習はやめろ。効率が悪い。アタシが昨日、同室人(ルームメイト)から聞いた有力な伝聞によれば、もっと劇的な回復手段がある」
スズカが、額の汗を拭いながら視線を向けた。その瞳には「また始まった」という、諦念と好奇心が半分ずつ混ざった色が宿っている。
「……今度は、どんな生き物を捕まえてくるんですか?」
「生き物とは心外だな。これは『生物学的ブースター』だ。アタシは昨日、マリアナ海溝のさらに底、火山灰と純粋なジンジャーエールだけを食べて育ったと言われる伝説の『火山鰻(ボルケーノ・ウナギ)』の目撃情報を買ったんだ。あれを脚に巻き付けて、一万ボルトの電気マッサージを行えば、お前の筋肉組織は原子レベルで覚醒し、次の瞬間には重力を無視して空を駆ける伝説のUMAになれるはずだ」
「ゴルシさん! それ、リハビリじゃなくて禁断の改造手術です! しかもジンジャーエールって何ですか、その鰻は炭酸で生きているんですか!?」
スペシャルウィークの正論による猛追を、ゴルシは華麗なステップ(ただし半径二メートル以内)でかわし、さらに熱弁を振るう。
「いいか、スペ。リハビリに必要なのは『物理的な負荷』じゃなくて『生物的な驚き』なんだよ。その火山鰻の粘液には、細胞の死滅を拒絶する『不老不死のナノマシン』が含まれているという噂だ。アタシがその鰻を捕獲して、米軍の衛星監視の目を掻いくぐって、病院の地下からトンネルを掘って密輸してやる。作戦名は『プロジェクト・ヌルヌル・リバース』だ」
「密輸どころか土木工事まで始めちゃいましたよ! 普通に警察呼びますよ!」
リハビリ室の温度が、ゴールドシップの饒舌さによって確実に三度ほど上がっている。スズカは、呆れ果てたように吐息をついたが、その口元には、先ほどまでの「リハビリという苦行」に向き合っていた時にはなかった、小さな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。
「……鰻は、遠慮しておきます。リハビリ室がヌルヌルになったら、スペちゃんが転んでクッションになってしまうもの」
「私は構いません! スズカさんのためなら、鰻のヌルヌルごと受け止めます!」
「いや、そこは断れよスペ。で、その火山鰻なんだが――」
スズカは、再び一歩を踏み出した。今度は、先ほどよりも少しだけ、着地が軽やかだった。彼女は車椅子の手すりから手を離し、静かに口を開く。
「ゴルシ」
「あん?」
「……火山鰻の話も面白いけれど。本当は、黙ってそこにいてくれるだけでも、私は嬉しいんです」
ゴールドシップは、虚を突かれたように一瞬言葉を失い、それから珍しく、照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
「……なんだよ。急に。アタシの無音オーラがそんなに心地いいのかよ」
「……ふふ、ゴルシの話を聞いていると、自分が今、何のために脚を動かしているのか、その『理由』がどうでもよくなってきます。二人がただそこにいて、いつものように騒がしい時間をくれるなら、とりあえず明日も一歩進んでおこうかな、って思えますから」
「……聞こえたか、スペ! アタシのノイズは、今や最新の精神医学を超越したんだよ。おい、もっとデシベルを上げろ。アタシの声をスズカの骨髄に直接インストールして、骨折を冗談で治してやる!」
「上げません! 病院のきまりを守ってください! ゴルシさんはその米軍GPSに監視されたまま、大人しくしててください!」
「うるせえ! アタシは今から、口だけで『火山鰻がジンジャーエールを飲む時の音』を再現する! シュワワワワワッ!! ビリビリビリ!!」
「それ、ただの炭酸の抜けたソーダの真似ですよ!!」
リハビリ室という名の、時間が静止したような世界で。サイレンススズカはゆっくりと、けれど着実に、前へと歩みを進める。
一人は過剰なまでの献身を盾にして彼女に寄り添い、もう一人は国防レベルの監視を受けながら、宇宙規模の屁理屈と、実在しない鰻の生態について喚き散らしている。それは、客観的に見れば「規律ある病院に対するテロ行為」に近い混沌だったが、スズカにとっては、どんな高価な義足や精密なリハビリプログラムよりも信頼できる、あたたかい「世界のノイズ」だった。
「……じゃあ、ゴルシ。リハビリが終わったら、その『火山鰻』が実はかつての人類が開発した最終兵器だったっていう、お決まりの陰謀論を聞かせてください」
「……おう。よく分かってるじゃねえか。次は、その鰻の背びれに刻まれた古代文字が、実は学園の食堂のカレーの隠し味のレシピだったっていう驚愕の真実について解説してやるよ。四時間は覚悟しとけ」
「それは長すぎます! スズカさんの睡眠時間が削れます!」
帰り際、ゴールドシップは廊下でGPSの信号を確認しながら「不審な動体反応なし」と報告書を書いているトレーナーの隣を通り過ぎる際、小声で、誰にも聞こえないような低さで呟いた。
「……なあ。アタシが静かにしてたら、あいつ、自分の脚の音しか聞こえなくなって、どんどん迷路の奥に潜り込んじまうんだよ。だから、これでいいんだろ?」
「……お前のデシベル計算と生物学的知見は完全に間違っているが、その『仕様』に関しては、今回のリハビリにおける必要経費として認めてやろう」
ゴールドシップは満足げに鼻を鳴らし、わざと米軍の衛星が反応しそうなオーバーなアクションを交えながら、夜の廊下へと消えていった。
彼女のうなじのデバイスは、相変わらず「要注意生物・ゴールドシップ」を示す赤い光を、病院の闇の中に放ち続けていた。それはまるで、迷える友人を導くための、世界で一番騒がしい灯台のようでもあった。
無機質な、あまりにも清潔すぎて呼吸が白くなりそうなリハビリ室。サイレンススズカは、車椅子という名の「静止した座席」から、現実という名のターフへ、慎重に、まるで爆弾の信管を抜くような手つきで一歩を差し出そうとしていた。
「もっとふわっと! 足の裏に、こう、お餅みたいな優しさを感じる感じで! スズカさん、無理は禁物ですが、お腹の底からの気合は全開でお願いします! いざとなったら私がスズカさんの衝撃吸収クッションになりますから!」
スペシャルウィークの応援は、もはや「応援」の定義を逸脱し、管制塔の絶叫に近い。彼女は今にもスズカが倒れるのを防ぐため、全方位に高級な低反発クッションを配置する「過剰な防衛バリア展開」に余念がない。その様子は、過保護に割れ物を梱包する運送業者のようでもあった。
「ありがとう、スペちゃん。でも、そんなにクッションに囲まれていると、私が埋れてしまうわ」
その光景を、壁際で腕を組んで眺める「白銀の監視者」がいた。ゴールドシップだ。彼女は今日、彼女のうなじには不気味に青く明滅する、最新型の首輪型デバイスがある――昨日の朝、トレーナーによって強制装着されたばかりの代物だ。
「おいトレーナー。この『対ゴルシちゃん専用・北米防空司令部直結型GPS』、どうにかならねえのか? アタシがちょっと学園を無断で抜け出して、病院に見舞いに行こうとしただけで、学園の警備部隊からドローンが飛んでくる仕様は、あまりに人権を無視してねえか?」
「お前が以前、レース直前に失踪して北海道の極寒の海で『流氷とマブダチになる』と言い残して寒中水泳を披露した際、当時の米軍基地のレーダーに『音速を超えて移動する不明な白い熱源』として捕捉されたのが悪い。あれ以来、お前の動体管理は国防総省の優先事項に引き上げられたんだ。お前の自由は、現在、地球規模の安全保障と引き換えに制限されている」
トレーナーは冷徹に、手元のタブレット画面をスワイプした。
「お前が右足を一歩動かすたびに、静止衛星が三つ、角度を微調整している。大人しく壁のシミでも数えていろ」
「チッ……。才能とは、時として自由を奪う鎖になる。アタシという名の宇宙(コスモ)を、たかが数個の人工衛星で縛り付けられると思ったら大間違いだぜ。……まあ、今は大人しく重力に従ってやるがな」
ゴールドシップの身体は拘束されていたが、彼女の「思考」と「声帯」を制限する法律は、この国の憲法には存在しなかった。
「いいか、スズカ。そんな地味な、アリの歩幅を計測するような反復練習はやめろ。効率が悪い。アタシが昨日、同室人(ルームメイト)から聞いた有力な伝聞によれば、もっと劇的な回復手段がある」
スズカが、額の汗を拭いながら視線を向けた。その瞳には「また始まった」という、諦念と好奇心が半分ずつ混ざった色が宿っている。
「……今度は、どんな生き物を捕まえてくるんですか?」
「生き物とは心外だな。これは『生物学的ブースター』だ。アタシは昨日、マリアナ海溝のさらに底、火山灰と純粋なジンジャーエールだけを食べて育ったと言われる伝説の『火山鰻(ボルケーノ・ウナギ)』の目撃情報を買ったんだ。あれを脚に巻き付けて、一万ボルトの電気マッサージを行えば、お前の筋肉組織は原子レベルで覚醒し、次の瞬間には重力を無視して空を駆ける伝説のUMAになれるはずだ」
「ゴルシさん! それ、リハビリじゃなくて禁断の改造手術です! しかもジンジャーエールって何ですか、その鰻は炭酸で生きているんですか!?」
スペシャルウィークの正論による猛追を、ゴルシは華麗なステップ(ただし半径二メートル以内)でかわし、さらに熱弁を振るう。
「いいか、スペ。リハビリに必要なのは『物理的な負荷』じゃなくて『生物的な驚き』なんだよ。その火山鰻の粘液には、細胞の死滅を拒絶する『不老不死のナノマシン』が含まれているという噂だ。アタシがその鰻を捕獲して、米軍の衛星監視の目を掻いくぐって、病院の地下からトンネルを掘って密輸してやる。作戦名は『プロジェクト・ヌルヌル・リバース』だ」
「密輸どころか土木工事まで始めちゃいましたよ! 普通に警察呼びますよ!」
リハビリ室の温度が、ゴールドシップの饒舌さによって確実に三度ほど上がっている。スズカは、呆れ果てたように吐息をついたが、その口元には、先ほどまでの「リハビリという苦行」に向き合っていた時にはなかった、小さな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。
「……鰻は、遠慮しておきます。リハビリ室がヌルヌルになったら、スペちゃんが転んでクッションになってしまうもの」
「私は構いません! スズカさんのためなら、鰻のヌルヌルごと受け止めます!」
「いや、そこは断れよスペ。で、その火山鰻なんだが――」
スズカは、再び一歩を踏み出した。今度は、先ほどよりも少しだけ、着地が軽やかだった。彼女は車椅子の手すりから手を離し、静かに口を開く。
「ゴルシ」
「あん?」
「……火山鰻の話も面白いけれど。本当は、黙ってそこにいてくれるだけでも、私は嬉しいんです」
ゴールドシップは、虚を突かれたように一瞬言葉を失い、それから珍しく、照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
「……なんだよ。急に。アタシの無音オーラがそんなに心地いいのかよ」
「……ふふ、ゴルシの話を聞いていると、自分が今、何のために脚を動かしているのか、その『理由』がどうでもよくなってきます。二人がただそこにいて、いつものように騒がしい時間をくれるなら、とりあえず明日も一歩進んでおこうかな、って思えますから」
「……聞こえたか、スペ! アタシのノイズは、今や最新の精神医学を超越したんだよ。おい、もっとデシベルを上げろ。アタシの声をスズカの骨髄に直接インストールして、骨折を冗談で治してやる!」
「上げません! 病院のきまりを守ってください! ゴルシさんはその米軍GPSに監視されたまま、大人しくしててください!」
「うるせえ! アタシは今から、口だけで『火山鰻がジンジャーエールを飲む時の音』を再現する! シュワワワワワッ!! ビリビリビリ!!」
「それ、ただの炭酸の抜けたソーダの真似ですよ!!」
リハビリ室という名の、時間が静止したような世界で。サイレンススズカはゆっくりと、けれど着実に、前へと歩みを進める。
一人は過剰なまでの献身を盾にして彼女に寄り添い、もう一人は国防レベルの監視を受けながら、宇宙規模の屁理屈と、実在しない鰻の生態について喚き散らしている。それは、客観的に見れば「規律ある病院に対するテロ行為」に近い混沌だったが、スズカにとっては、どんな高価な義足や精密なリハビリプログラムよりも信頼できる、あたたかい「世界のノイズ」だった。
「……じゃあ、ゴルシ。リハビリが終わったら、その『火山鰻』が実はかつての人類が開発した最終兵器だったっていう、お決まりの陰謀論を聞かせてください」
「……おう。よく分かってるじゃねえか。次は、その鰻の背びれに刻まれた古代文字が、実は学園の食堂のカレーの隠し味のレシピだったっていう驚愕の真実について解説してやるよ。四時間は覚悟しとけ」
「それは長すぎます! スズカさんの睡眠時間が削れます!」
帰り際、ゴールドシップは廊下でGPSの信号を確認しながら「不審な動体反応なし」と報告書を書いているトレーナーの隣を通り過ぎる際、小声で、誰にも聞こえないような低さで呟いた。
「……なあ。アタシが静かにしてたら、あいつ、自分の脚の音しか聞こえなくなって、どんどん迷路の奥に潜り込んじまうんだよ。だから、これでいいんだろ?」
「……お前のデシベル計算と生物学的知見は完全に間違っているが、その『仕様』に関しては、今回のリハビリにおける必要経費として認めてやろう」
ゴールドシップは満足げに鼻を鳴らし、わざと米軍の衛星が反応しそうなオーバーなアクションを交えながら、夜の廊下へと消えていった。
彼女のうなじのデバイスは、相変わらず「要注意生物・ゴールドシップ」を示す赤い光を、病院の闇の中に放ち続けていた。それはまるで、迷える友人を導くための、世界で一番騒がしい灯台のようでもあった。