プロローグ2 追跡者・追う側にも都合がある
「あいつと本気で並んで走ったら、たぶん、何かが決定的に壊れる」
それが、チームスピカという奇妙な箱舟に乗り合わせたゴールドシップの、最初の直感だった。正直なところ、このチームに対する最初の感想は「まあ、景気のいい面々を集めたもんだ」くらいの、他人事のようなものだった。
根性、理論、努力、そして天から授かったギフト。そんなものはレース場の砂の数ほど見てきたし、見飽きてもいる。だがある時、一人だけ、明らかに「別のルール」で動いている異物が混じってきた。
サイレンススズカという、静寂を擬人化したような彼女だ。騒がない。誇らない。勝っても、まるで朝食の献立を確認するかのように淡々としている。なのに、ひとたびゲートが開くと、その場の空気が物理的な重さを伴って変質する。
(おっと)
(ちょっと待て。今の、見間違いか?)
初めて彼女の走りを目撃したとき、アタシは本気で目を細めた。双眼鏡のピントを合わせるのとは違う。現実とのピントを合わせるための作業だ。周囲は「速い」だの「強い」だのと、使い古された語彙を並べて驚いていたが、アタシに言わせればそんな単語じゃ全然足りない。
(なんていうか)
(あいつ、この世界の”向こう側”の景色を見て走ってないか?)
ゴールの確定板も、勝利の美酒も、彼女の瞳には映っていない。誰も足を踏み入れたことのない未踏の地。そこへ辿り着くことだけを、呼吸と同じ熱量で行っている。
(そりゃあ、特別扱いもされるわけだ。あんなの見せられちゃあな)
ある日のトレーニング後。喉を鳴らして水を飲みながら、ふとした拍子に、招かれざる思考が頭をもたげた。
(もしも)
(もし、アタシがアイツと、真面目な顔して真剣勝負をしたらどうなる?)
脳内のシミュレーターが勝手に起動し、並走する二人のイメージを映し出す。
――そしてアタシは、即座にそのスイッチを切った。強制終了だ。勝てるかどうか?そんな問いには、北極の氷の厚さを訊ねるくらいの意味しかない。そもそもアタシは、自分がどれくらい速いかなんて、人生で一度も本気で計測したことがない。
本気モードを出すのは、最後の直線だけ。あるいは、気分が乗ったときに少々。もしくは、誰かのために、ほんの少しだけ。それで十分だ。怪我もしないし、壊れもしない。だが、サイレンススズカが相手なら?
(おいおい)
(アタシが本気を出せば、あいつはさらに”本気の向こう側”へ手を伸ばそうとするだろ)
想像した瞬間、背筋に冷たい氷を突っ込まれたような感覚が走った。
結論:ヤベェ。
理由は、うまく言葉にできなかった。ただなんとなく、そう思った。勝ち負けの話でも、強い弱いの話でもない気がした。でも、それ以上は考えるのをやめた。考え続けると、もっとヤベェ結論に辿り着く予感がしたから。
(よせ。火薬庫のそばでライターの火力を自慢するような真似は、賢い奴のやることじゃない)
アタシはその思考を、燃えないゴミとして処理することにした。
だから、いつも通りふざけ倒すことに決めている。軽口を叩き、仲間として接し、絶対に特別扱いはしない。「良き仲間」というラベルを貼っておけば、今のところは安全だ。それ以上の領域には、一歩たりとも踏み込ませないし、踏み込まない。
でも、どうしても目は離せないのだ。つい口が出る。「無理すんなよ」「ちゃんと飯食え」「休め」。チームの全員に向けている言葉と、同じはずだった。
(おかしいな)
(なんでアタシ、あいつの走りだけ、こんなに真面目な顔して観察してんだ)
その問いには、答えを出さないことにした。
出してしまったら、「良き仲間」というラベルが、きっと剥がれる。
(本気でぶつかり合う日は、来ない方がいい)
(少なくとも、今はまだ)