#16 消毒液の迷宮と停滞する座標
病室という場所は、世界から「音」という名の色彩が間引かれた、不自然なモノクロームの空間だった。規則正しく刻まれる電子音は、まるで誰かが背後でメトロノームを振り続けているかのようで、鼻腔を刺す消毒液の匂いは「ここは君たちが知っている日常とは、OSのバージョンが違うのだ」と無慈悲に告げる警告灯だった。
サイレンススズカは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。最初に脳が感知したのは、鋭利な痛みではなかった。
「重さ」だ。
自分の身体が、一夜にして巨大な鉛の塊に作り変えられたような錯覚。かつて、自分をあの「誰も見たことのない景色」へと軽やかに運んだはずの脚は、今や地球の裏側にある見知らぬ大陸のように遠く、認識の境界線の外側にあった。
(ああ……)
首を動かそうとするが、視界の端にすら、その「かつての相棒」は入ってこない。そこでようやく、彼女の脳内にある精密な記録回路が、最後の一コマを再生した。大欅に差し掛かった直前、もっと先へ、まだ行ける、と踏み込んだあの一歩。物理法則が悲鳴を上げ、世界の設計図が書き換わったあの瞬間。
(……そうか。私は、止まったんだ)
パニックも混乱もなかった。ただ、胸の奥に、地図から道が消えたあとのような、広大で空虚な空白が広がっていく。
「スズカ!」
トレーナーの声が、静寂の膜を物理的に破って届く。看護師の足音が慌ただしく重なり、静止していた病室がにわかに駆動し始める。スズカは、力なく、けれど確かに微笑んだ。
「……ごめんなさい」
その一言は、誰に向けられたものだったのか。心配するトレーナーか、自分を信じたファンか。あるいは、あの日「寄り道」を勧めてくれた、あの型破りな友人か。その一言だけで、彼女が自分の「現在地」――つまり、もう二度と以前のような速度で風を切り裂くことはできないという残酷な座標を完全に理解していることが、その場にいた全員に伝わってしまった。
廊下。自動販売機の放つ無機質な光が、ワックスの効いた床に冷たく反射している。
ゴールドシップは、病室のドアから正確に三点五メートルの距離を保ったまま、一歩も近づいていなかった。いや――近づくことを、自分という名のシステムに厳格に禁じていた。理由は、数分前に医師が放った、あまりにも論理的で、それゆえに反論の余地のない一言だ。
『興奮や振動、精神的な揺さぶりは、今の彼女の術後経過にとって、最大の毒になります』
看護師が、廊下の隅に立つゴルシをチラリと、訝しげに見る。革ジャン。長い脚。そして、ただそこに立っているだけで周囲の空気を乱数放送のように振動させる、この「ゴールドシップ」という名の巨大な騒音源。彼女が動けば、あるいはいつものように大声で冗談を叩きつければ、この無菌室のような静寂は一瞬で崩壊するだろう。
トレーナーが、肺の底に溜まった澱を吐き出すような溜息をついた。
「……ゴールドシップ」
「おう」
「今日は、無理だ。お前は入るな。頼む」
反論はしなかった。「アタシが入れば、この重苦しい空気も時速百キロで吹っ飛ぶぜ」なんていう、根拠のない、けれど少しだけ魅力的なジョークも口にしなかった。
「……だよな。アタシは、クラシック音楽のコンサートに乱入するエレキギターみたいなもんだ」
それだけ言って、ゴルシは自販機の隣の壁に背中を預けた。自分が部屋に入れば、確実に病室の空気は揺れる。スズカは、その揺れを必死に整えようとして、無意識に気を使うだろう。今のあいつに、他人の顔色を伺うような「無駄なエネルギー」を消費させるわけにはいかない。それは、医療免許を持たない今の自分にできる、唯一の、そして最も高度な医療行為だった。
病室の中、少しだけ落ち着きを取り戻した空気の中で、スズカが静かに尋ねた。
「……ゴルシは?」
その名前を、呼吸をするのと同じくらい自然に口にした自分に、彼女は少しだけ驚いた。いつもなら、自分のストイックな世界をかき乱す「ノイズ」として処理していたはずの存在。トレーナーは一瞬、言葉を濁してから答える。
「……今日は、会えないことになっている。あいつも納得しているよ。珍しくな」
「そう……」
スズカの声が、一音だけ下がった。
(来ていないんだ)
そう思いかけた瞬間、彼女の脳内で「ゴールドシップという名の思考プログラム」が、その推測を即座にエラーとして弾き出した。
(違う。あの人は、来ようとして、誰よりも近くまで来て、そして自分の意志で境界線の外に留まっているんだ)
根拠はなかった。けれど、確信だけはあった。スズカは、そっと目を閉じる。
(あの人は、来れない時ほど、すぐそばで一番退屈そうに待っているはずだから。誰にも見えない場所で、わざとらしく不貞腐れながら)
目を閉じると、不思議と廊下の気配が伝わってくるような気がした。大声も、笑い声も聞こえない。けれど、そこには確かに「騒がしい静寂」が実在していた。
夜になっても、ゴールドシップは病院を出なかった。廊下の硬いベンチに座り込み、後頭部を冷たい壁に預ける。
(……最悪のタイミングで、最悪の役回りだな)
入ることも、声をかけることもできない。けれど、ここを去るという選択肢も、最初から存在していなかった。
自販機で買った、どうでもいい味の缶コーヒー。ゴルシはそれを一気に飲み干すと、右手の握力だけで、ゆっくりと、けれど確実な力を込めて握り潰した。
グシャリ。
アルミが悲鳴を上げる、短く、不快な音。しばらく、その歪んだ金属の塊を眺めた。それは、あの大欅の向こう側で起きた「世界の歪み」そのもののようにも見えた。
(目ぇ覚ましたか。……なら、いい)
スズカが意識を取り戻したという事実だけで、自分の胸の底にへばりついていた、あの「大欅の音」が少しだけ遠のいた気がした。
(いいかスズカ。走るしか能がなかったお前が、強制的に足を止められたんだ。これは『史上最大の寄り道』だぜ。アタシが言っただろ、寄り道選手権の予選だってよ。優勝賞品は、何の意味もない明日だ)
握り潰した缶を、ゴミ箱に放り込んだ。カラン、という軽い音が、夜の廊下に響く。
(今はまだ、そこで止まってろ。動けない自分を、時速百キロで走らせる方法を考えておけ。アタシは……お前のサラダに足りないドレッシングを、外で探してきてやるよ)
夜の病院の廊下、薄暗い自販機の光の下で。ゴールドシップはまだ、友人に「最高にくだらない冗談」を投げかけられる距離まで一歩も動かずに、その場所を動かない観測者のように守り続けていた。
窓の外では、無機質な月が、相変わらず誰の都合も聞き入れずに浮かんでいた。けれど、その光は心なしか、数日前よりも少しだけ、柔らかい色をしているように見えた。
サイレンススズカは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。最初に脳が感知したのは、鋭利な痛みではなかった。
「重さ」だ。
自分の身体が、一夜にして巨大な鉛の塊に作り変えられたような錯覚。かつて、自分をあの「誰も見たことのない景色」へと軽やかに運んだはずの脚は、今や地球の裏側にある見知らぬ大陸のように遠く、認識の境界線の外側にあった。
(ああ……)
首を動かそうとするが、視界の端にすら、その「かつての相棒」は入ってこない。そこでようやく、彼女の脳内にある精密な記録回路が、最後の一コマを再生した。大欅に差し掛かった直前、もっと先へ、まだ行ける、と踏み込んだあの一歩。物理法則が悲鳴を上げ、世界の設計図が書き換わったあの瞬間。
(……そうか。私は、止まったんだ)
パニックも混乱もなかった。ただ、胸の奥に、地図から道が消えたあとのような、広大で空虚な空白が広がっていく。
「スズカ!」
トレーナーの声が、静寂の膜を物理的に破って届く。看護師の足音が慌ただしく重なり、静止していた病室がにわかに駆動し始める。スズカは、力なく、けれど確かに微笑んだ。
「……ごめんなさい」
その一言は、誰に向けられたものだったのか。心配するトレーナーか、自分を信じたファンか。あるいは、あの日「寄り道」を勧めてくれた、あの型破りな友人か。その一言だけで、彼女が自分の「現在地」――つまり、もう二度と以前のような速度で風を切り裂くことはできないという残酷な座標を完全に理解していることが、その場にいた全員に伝わってしまった。
廊下。自動販売機の放つ無機質な光が、ワックスの効いた床に冷たく反射している。
ゴールドシップは、病室のドアから正確に三点五メートルの距離を保ったまま、一歩も近づいていなかった。いや――近づくことを、自分という名のシステムに厳格に禁じていた。理由は、数分前に医師が放った、あまりにも論理的で、それゆえに反論の余地のない一言だ。
『興奮や振動、精神的な揺さぶりは、今の彼女の術後経過にとって、最大の毒になります』
看護師が、廊下の隅に立つゴルシをチラリと、訝しげに見る。革ジャン。長い脚。そして、ただそこに立っているだけで周囲の空気を乱数放送のように振動させる、この「ゴールドシップ」という名の巨大な騒音源。彼女が動けば、あるいはいつものように大声で冗談を叩きつければ、この無菌室のような静寂は一瞬で崩壊するだろう。
トレーナーが、肺の底に溜まった澱を吐き出すような溜息をついた。
「……ゴールドシップ」
「おう」
「今日は、無理だ。お前は入るな。頼む」
反論はしなかった。「アタシが入れば、この重苦しい空気も時速百キロで吹っ飛ぶぜ」なんていう、根拠のない、けれど少しだけ魅力的なジョークも口にしなかった。
「……だよな。アタシは、クラシック音楽のコンサートに乱入するエレキギターみたいなもんだ」
それだけ言って、ゴルシは自販機の隣の壁に背中を預けた。自分が部屋に入れば、確実に病室の空気は揺れる。スズカは、その揺れを必死に整えようとして、無意識に気を使うだろう。今のあいつに、他人の顔色を伺うような「無駄なエネルギー」を消費させるわけにはいかない。それは、医療免許を持たない今の自分にできる、唯一の、そして最も高度な医療行為だった。
病室の中、少しだけ落ち着きを取り戻した空気の中で、スズカが静かに尋ねた。
「……ゴルシは?」
その名前を、呼吸をするのと同じくらい自然に口にした自分に、彼女は少しだけ驚いた。いつもなら、自分のストイックな世界をかき乱す「ノイズ」として処理していたはずの存在。トレーナーは一瞬、言葉を濁してから答える。
「……今日は、会えないことになっている。あいつも納得しているよ。珍しくな」
「そう……」
スズカの声が、一音だけ下がった。
(来ていないんだ)
そう思いかけた瞬間、彼女の脳内で「ゴールドシップという名の思考プログラム」が、その推測を即座にエラーとして弾き出した。
(違う。あの人は、来ようとして、誰よりも近くまで来て、そして自分の意志で境界線の外に留まっているんだ)
根拠はなかった。けれど、確信だけはあった。スズカは、そっと目を閉じる。
(あの人は、来れない時ほど、すぐそばで一番退屈そうに待っているはずだから。誰にも見えない場所で、わざとらしく不貞腐れながら)
目を閉じると、不思議と廊下の気配が伝わってくるような気がした。大声も、笑い声も聞こえない。けれど、そこには確かに「騒がしい静寂」が実在していた。
夜になっても、ゴールドシップは病院を出なかった。廊下の硬いベンチに座り込み、後頭部を冷たい壁に預ける。
(……最悪のタイミングで、最悪の役回りだな)
入ることも、声をかけることもできない。けれど、ここを去るという選択肢も、最初から存在していなかった。
自販機で買った、どうでもいい味の缶コーヒー。ゴルシはそれを一気に飲み干すと、右手の握力だけで、ゆっくりと、けれど確実な力を込めて握り潰した。
グシャリ。
アルミが悲鳴を上げる、短く、不快な音。しばらく、その歪んだ金属の塊を眺めた。それは、あの大欅の向こう側で起きた「世界の歪み」そのもののようにも見えた。
(目ぇ覚ましたか。……なら、いい)
スズカが意識を取り戻したという事実だけで、自分の胸の底にへばりついていた、あの「大欅の音」が少しだけ遠のいた気がした。
(いいかスズカ。走るしか能がなかったお前が、強制的に足を止められたんだ。これは『史上最大の寄り道』だぜ。アタシが言っただろ、寄り道選手権の予選だってよ。優勝賞品は、何の意味もない明日だ)
握り潰した缶を、ゴミ箱に放り込んだ。カラン、という軽い音が、夜の廊下に響く。
(今はまだ、そこで止まってろ。動けない自分を、時速百キロで走らせる方法を考えておけ。アタシは……お前のサラダに足りないドレッシングを、外で探してきてやるよ)
夜の病院の廊下、薄暗い自販機の光の下で。ゴールドシップはまだ、友人に「最高にくだらない冗談」を投げかけられる距離まで一歩も動かずに、その場所を動かない観測者のように守り続けていた。
窓の外では、無機質な月が、相変わらず誰の都合も聞き入れずに浮かんでいた。けれど、その光は心なしか、数日前よりも少しだけ、柔らかい色をしているように見えた。