#15大欅という名の暗転と、観測者の沈黙、あるいは計算通りのエラー
第三コーナー。サイレンススズカは先頭で、あの「大欅」へと差し掛かろうとしていた。
いつも通りだ。まるで世界から摩擦という概念を消し去ったかのような、あまりにも滑らかな独走。スタンドが沸き、実況が絶叫する。
だが、柵に手をかけたアタシの視界には、決定的な「座標のズレ」が映り込んでいた。
脚運びが乱れたわけじゃない。だが、欅の緑にその身体が飲み込まれる直前、彼女の左脚が、芝のさらに奥——現実という地面を一段階深く踏み抜こうとしたのが見えた。それは加速なんていう物理的な現象じゃなかった。もっと先へ。この世界の「向こう側」の景色を、無理やり自分の時間軸に引き寄せようとする、過剰なまでの意志の出力。
(……あ、ダメだ)
喉がひくりと鳴る。それ以上は、この世界の設計図(ルール)に書き込まれていない。システムが許容できる数値を、彼女の魂が軽々とオーバーフローしてしまった。
彼女の姿が、大欅の巨大な影に隠れ、視界から消えた。
その、見えない時間の隙間で。
精密なクロノグラフの歯車が、一瞬で噛み合わなくなったような、決定的な「故障」の音がした。
そして、彼女は欅の向こう側から現れた。一瞬前までの、風を切り裂く矢のような姿ではない。慣性に裏切られ、バランスを失い、断ち切られた糸のように頼りなく震えるシルエット。
欅を抜けた瞬間に、その場にいた全員が理解してしまった。「取り返しのつかない何かが起きた」のだと。
スズカの身体が、前へ、ゆっくりと崩れていく。世界が、一拍遅れて停止した。
スペシャルウィークは、もう走っていた。理由なんて考えていない。論理的な帰結を待つこともなく、彼女の身体は純粋な祈りそのものとなって、ターフを駆け出していた。
係員、トレーナー、悲鳴。ノイズが押し寄せる。
——だが、アタシは動かなかった。
柵に置いた手は、不気味なくらい安定していた。膝も震えていない。顔も、おそらくいつもの不貞腐れたような表情のままだったはずだ。ただ、目だけが、倒れ込んだ彼女の姿を一点に見据えて離さなかった。
「やっぱりな」
その言葉が、石のように胸の底へ沈んでいく。それは、天気予報士が大型の台風の上陸を的中させた時のような、あるいはバッドエンドが約束された映画を最後まで観終えた時のような、救いようのない「的中」の感覚だった。悔しさでも、驚きでもない。「最悪の予感」が正確に時間を守ってやってきたことを確認した者の、冷徹なまでの絶望。
けれど、その静止した外殻の内側では、アタシというシステムが猛烈な悲鳴を上げていた。脳内の回路がショートし、火花を散らしている。「やっぱりな」と呟く口唇の裏側で、激しい動悸が喉を突き破ろうとしている。
(アタシが……あの日止めていたら、あいつは止まってくれたか?)
(もっと真面目な顔をして、ドレッシングの話なんてせずに、全力であいつの腕を掴んでいれば、この未来は書き換えられたのか?)
答えは出ない。最初から、そんな選択肢は盤上になかった。
だから、駆け寄らない。今、近づけば、自分の中に澱のように溜まっている「剥き出しの感情」が、制御不能な洪水となって溢れ出してしまう。冗談という名の防波堤を軽々と決壊させて、あいつを、そして自分を壊してしまう。
「やっぱりな」
「だから言っただろ」
そんな、何の役にも立たない、ナイフのように鋭利な正論が喉元までせり上がってきている。それを今、あいつに向ける資格なんて自分にはない。
代わりに拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが、意識がどこか遠くへ飛んでいかないように繋ぎ止める。
(……後で行く)
心臓が肋骨を内側から殴りつけている。呼吸が浅くなり、視界の端が白く爆ぜる。けれど、アタシは岩のようにそこに立ち続ける。
(今じゃねえ。今は、出番じゃない)
誰よりも近くで彼女の危うさを見守っていたからこそ、今は誰よりも遠い場所に留まらなければならない。それが、アタシなりの、最大限にひねくれた——そして限界まで張り詰めた、敬意の示し方だった。
アタシは、その場を動かなかった。背を向けもしなかった。ただ、最後まで見届けた。
運ばれていくスズカの小さな姿を。スペシャルウィークが泣き叫んでいるのも、トレーナーが動転しているのも、すべて視界の隅に入っていた。けれど、スズカからだけは目を離さなかった。
(……戻ってこい)
胸の中で、初めて「走り」とは無関係な願いが形を成した。内側はもう、めちゃくちゃだった。整理のつかない感情が、まるで高速回転するミキサーの中に放り込まれたみたいに、ドロドロに混ざり合っていた。
(もう走れなくてもいい。景色なんて、誰も見たことのない場所なんて、どうでもいい)
(ただ、アタシの目の前に、生きたまま戻ってこい)
それはゴールドシップというシステムが、生まれて初めて吐き出した、エラーだらけの、けれど何よりも純粋な祈りだった。
アタシはただ、静かに、激しく、そこに立っていた。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
感想や、読んで感じたことなどありましたら、下記フォームからお気軽に送っていただけると嬉しいです。
【感想フォーム】
https://wavebox.me/wave/1o5gklyk6tjr1f17/
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本作は「ウマ娘 プリティーダービー」の二次創作小説です。ゴールドシップとサイレンススズカの二人が織りなす物語を綴っています。
※本作は公式とは一切関係のないファンによる非営利の創作物です。無断転載はお控えください。
いつも通りだ。まるで世界から摩擦という概念を消し去ったかのような、あまりにも滑らかな独走。スタンドが沸き、実況が絶叫する。
だが、柵に手をかけたアタシの視界には、決定的な「座標のズレ」が映り込んでいた。
脚運びが乱れたわけじゃない。だが、欅の緑にその身体が飲み込まれる直前、彼女の左脚が、芝のさらに奥——現実という地面を一段階深く踏み抜こうとしたのが見えた。それは加速なんていう物理的な現象じゃなかった。もっと先へ。この世界の「向こう側」の景色を、無理やり自分の時間軸に引き寄せようとする、過剰なまでの意志の出力。
(……あ、ダメだ)
喉がひくりと鳴る。それ以上は、この世界の設計図(ルール)に書き込まれていない。システムが許容できる数値を、彼女の魂が軽々とオーバーフローしてしまった。
彼女の姿が、大欅の巨大な影に隠れ、視界から消えた。
その、見えない時間の隙間で。
精密なクロノグラフの歯車が、一瞬で噛み合わなくなったような、決定的な「故障」の音がした。
そして、彼女は欅の向こう側から現れた。一瞬前までの、風を切り裂く矢のような姿ではない。慣性に裏切られ、バランスを失い、断ち切られた糸のように頼りなく震えるシルエット。
欅を抜けた瞬間に、その場にいた全員が理解してしまった。「取り返しのつかない何かが起きた」のだと。
スズカの身体が、前へ、ゆっくりと崩れていく。世界が、一拍遅れて停止した。
スペシャルウィークは、もう走っていた。理由なんて考えていない。論理的な帰結を待つこともなく、彼女の身体は純粋な祈りそのものとなって、ターフを駆け出していた。
係員、トレーナー、悲鳴。ノイズが押し寄せる。
——だが、アタシは動かなかった。
柵に置いた手は、不気味なくらい安定していた。膝も震えていない。顔も、おそらくいつもの不貞腐れたような表情のままだったはずだ。ただ、目だけが、倒れ込んだ彼女の姿を一点に見据えて離さなかった。
「やっぱりな」
その言葉が、石のように胸の底へ沈んでいく。それは、天気予報士が大型の台風の上陸を的中させた時のような、あるいはバッドエンドが約束された映画を最後まで観終えた時のような、救いようのない「的中」の感覚だった。悔しさでも、驚きでもない。「最悪の予感」が正確に時間を守ってやってきたことを確認した者の、冷徹なまでの絶望。
けれど、その静止した外殻の内側では、アタシというシステムが猛烈な悲鳴を上げていた。脳内の回路がショートし、火花を散らしている。「やっぱりな」と呟く口唇の裏側で、激しい動悸が喉を突き破ろうとしている。
(アタシが……あの日止めていたら、あいつは止まってくれたか?)
(もっと真面目な顔をして、ドレッシングの話なんてせずに、全力であいつの腕を掴んでいれば、この未来は書き換えられたのか?)
答えは出ない。最初から、そんな選択肢は盤上になかった。
だから、駆け寄らない。今、近づけば、自分の中に澱のように溜まっている「剥き出しの感情」が、制御不能な洪水となって溢れ出してしまう。冗談という名の防波堤を軽々と決壊させて、あいつを、そして自分を壊してしまう。
「やっぱりな」
「だから言っただろ」
そんな、何の役にも立たない、ナイフのように鋭利な正論が喉元までせり上がってきている。それを今、あいつに向ける資格なんて自分にはない。
代わりに拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが、意識がどこか遠くへ飛んでいかないように繋ぎ止める。
(……後で行く)
心臓が肋骨を内側から殴りつけている。呼吸が浅くなり、視界の端が白く爆ぜる。けれど、アタシは岩のようにそこに立ち続ける。
(今じゃねえ。今は、出番じゃない)
誰よりも近くで彼女の危うさを見守っていたからこそ、今は誰よりも遠い場所に留まらなければならない。それが、アタシなりの、最大限にひねくれた——そして限界まで張り詰めた、敬意の示し方だった。
アタシは、その場を動かなかった。背を向けもしなかった。ただ、最後まで見届けた。
運ばれていくスズカの小さな姿を。スペシャルウィークが泣き叫んでいるのも、トレーナーが動転しているのも、すべて視界の隅に入っていた。けれど、スズカからだけは目を離さなかった。
(……戻ってこい)
胸の中で、初めて「走り」とは無関係な願いが形を成した。内側はもう、めちゃくちゃだった。整理のつかない感情が、まるで高速回転するミキサーの中に放り込まれたみたいに、ドロドロに混ざり合っていた。
(もう走れなくてもいい。景色なんて、誰も見たことのない場所なんて、どうでもいい)
(ただ、アタシの目の前に、生きたまま戻ってこい)
それはゴールドシップというシステムが、生まれて初めて吐き出した、エラーだらけの、けれど何よりも純粋な祈りだった。
アタシはただ、静かに、激しく、そこに立っていた。
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本作は「ウマ娘 プリティーダービー」の二次創作小説です。ゴールドシップとサイレンススズカの二人が織りなす物語を綴っています。
※本作は公式とは一切関係のないファンによる非営利の創作物です。無断転載はお控えください。