#14 疾走と休息の交差点、あるいはチェックメイトを拒む王将

 夜という時間は、時として巨大な冷蔵庫の中に閉じ込められたような錯覚を抱かせる。寮の部屋の窓の外には、誰の都合も聞き入れない無機質な月が、まるで監視カメラのように浮いていた。

 サイレンススズカは、冷えたガラスの向こう側を見つめている。

 (今は、まだ。止まるわけにはいかない)

 迷いがないわけではない。むしろ、走れば走るほど、自分の中に新しい疑問符が、まるで春先の雑草のように次々と芽生えていくのを感じていた。それでも、彼女という精密なシステムが弾き出した結論は、驚くほどシンプルだった。

「走る」

 声に出したその二文字は、暗い部屋の中で確かな質量を持って床に落ちた。運命の秋の天皇賞は、もう目と鼻の先まで迫っている。ただ一つ確かなのは、その危うい背中を、ゴールドシップが黙って見送ろうとしていることだけだった。


 ――トレーニングが一区切りついた午後。芝の匂いが立ち込めるグラウンドの端で、スズカはベンチに腰を下ろしていた。呼吸も心拍も、設計図通りの精度で整っている。だからこそ、彼女には「休む理由」という名の欠陥が見つけられなかった。

 そこへ、背後から静寂を物理的に引き裂く声が届く。


「バ――ロ――!! そんな黄昏れた面して、『詩人の日本代表』にでも選出されるつもりか!」

 振り向くと、ゴールドシップが両手を広げ、磁石のN極のように真っ直ぐ、あるいはそれ以上の不自然さで仁王立ちしていた。

「……え?」

「今のお前、完全に『夕焼けを背に、取り返しのつかない決断をしようとして、結局自動販売機でコーヒーを買う系主人公』の顔だぞ。それで走り続ける気か? ……甘いな。角砂糖を蜂蜜で煮込んだくらい甘い。虫歯になるぞ」

 意味が分からず、スズカは困惑という名の首を傾げた。

「走る前にやることがあるだろう。物理法則を無視した、極めて有意義なサボりってやつがよ」

 そう言って、ゴルシは芝生にごろんと、まるで重力の存在を改めて確認するかのように仰向けに倒れた。

「ほら、こうだ。横になる。空を見る。脳内のキャッシュをすべてクリアして、思いついたデタラメを寝言として出力する!」

「……それは、何の練習?」

「『人生の寄り道選手権・予選』だ。優勝賞品は、何の意味もない明日だぞ。どうだ、欲しくなったか?」

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、スズカの唇の端から小さな笑いがこぼれ落ちた。

「……そんなことしてたら、体が鈍ってしまうわ」

「はあ? 鈍る? お前なあ、速すぎるんだよ。たまには『止まっている自分』も時速百キロで走らせろって話だ」

 ゴルシは空を見上げたまま、まるで明日の献立を語るような、あるいは国家の重大機密をリークするような軽い調子で続けた。

「別にさ。休めとか、やめろなんて野暮なことは言わねえけどよ」

 一拍。空気がわずかに重さを変える。

「走る以外の時間も、お前の人生という名のサラダに混ぜといた方が、後でドレッシングの味が引き立つぞ。……いや、例えが微妙だな。シーザーサラダか? いや、ポテトサラダの方が深みが出るか」

 スズカは答えない。ただ、同じように空を見上げた。雲がゆっくりと流れている。彼女がターフで切り裂く風とは、まるで違うスピード。まるで違うルールで動く世界。

「……ゴルシは、私が走るのを止めたいの?」

 その問いに、ゴルシは一瞬だけ沈黙を買い取った。そして、いつものように鼻を鳴らす。

「はあ? 止めるわけねえだろ。走りたい奴を止めるほど、アタシの美学は安売りしてねえんだよ。特売日でもな」

 少しだけ、声のトーンが低くなる。

「ただな。走るしか知らないままゴールを突き抜けるのは、それはそれで、物語としてつまんねえだろ? 伏線のないミステリー小説くらい、読者を馬鹿にしてるぜ」

 スズカは、反論の語彙を失った。それは命令でも忠告でもない。ただ、彼女の足元に「別の道もある」という選択肢を、そっと置き石のように置いていっただけだった。

 ゴルシは起き上がり、芝生を乱暴に払う。

「ま、詩人になる決心がついたら呼べ。アタシが編集長をやってやる。校閲は厳しめだ。誤字脱字一つで原稿用紙を焚き火にするからな」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら去っていく。その背中を見送りながら、スズカは胸の奥に残った、奇妙な空白に戸惑っていた。

 (……止められたわけじゃないのに。どうして、こんなに)

 答えは、まだ霧の向こう側だ。けれど、胸の奥に残ったその空白は、不思議と、悪くなかった。


 ――

 スタートゲートの前。足裏から伝わる芝の感触が、今日はやけに鮮明で、まるで地面が直接語りかけてくるようだった。

 (走るのを、もし止めたら――)

 ふと、そんな仮定のコードが脳裏のシステムをよぎる。朝のグラウンドの静寂。走らずに迎える、凪のような時間。目的のない、ただ消費されるだけの午後。

 ……違う。

 サイレンススズカは、首を小さく振ってその不純物を振り払った。

 (私は、まだ見ていない。誰も見たことのない景色を、この目で確かめていない)

 周囲の大人たちは「削っている」と心配する。だが、彼女自身には命をすり減らしている自覚も、限界値に近づいているアラートも鳴っていなかった。ただ、先頭で風を切り裂く景色が、圧倒的に、暴力的なまでに「楽しい」のだ。

 周囲を見渡せば、同世代のウマ娘たちも皆、似たような病に罹っている。「今、この瞬間」という短いスパンに、自分の全財産をオールインしている。将来の夢や、引退後の人生の話はする。笑いながら語る。でも、誰もそれを重力のある「現実」として背負ってはいなかった。若さとは、そういう視野の狭い、期間限定の無敵状態のことだ。

 (……ゴルシの言葉)

 一瞬だけ、脳裏をよぎる。

 『走る以外の時間も、人生に混ぜといた方が面白くなるぞ』

 スズカは、ほんのわずかだけ唇を噛んだ。

 (今は、まだ。今は、走る)

 夢中でいるという最高の中毒状態を、自分から手放したくはなかった。考えるよりも先に、身体の重心が前を向く。

 ゲートが開く。思考のノイズは完全に消え去り、視界は一本の矢のように真っ直ぐに伸びていく。ただ、前へ。音も、光も追いつけない場所へ。
 

 ――――

 レース前日の夜。部屋の明かりは、デスクライトが一つだけ。盤上に鎮座する将棋の駒が、乾いた音を立てる。

 パチ。
 パチ。

「……言い過ぎたか?」

 誰に聞かせるでもない、独り言が空気に溶ける。桂馬を置く。歩を打つ。答えの決まっている詰将棋の形は、すでに頭の中に見えている。なのに、今日はやけに手順を間違える。

 パチ。

 (アタシ、あいつに休めとか言ってねえよな?)

 パチ。

 (ただ、選択肢のカタログをテーブルに置いてきただけだよな? 無理に買えとは言ってねえ)

 法廷で自分を弁護するように、何度も同じ理屈を頭の中でこねくり回す。

 パチ。

 ――あー、なんか急に焼き芋食いたくなってきたな。焦げ目のついた、物理的に熱いやつ。
 
 パチ。

 極めてどうでもいい、唐突な邪念が割り込んでくる。

 (いや違う、今考えるべきはそれじゃねえ。……いや、焼き芋も重要だが)

 盤面に視線を戻すが、どうしても頭から剥がれ落ちないのは、ターフを切り裂いて走り去っていく、あの緑と白色、栗毛がたなびく背中だった。

 速すぎる。そして、あまりにも軽すぎる。あんな異常な速度と軽さで、どこも壊れずにいられる方が、物理学的にどうかしているのだ。宇宙の法則を少しは尊重してほしい。

 ふと、いつかの誕生日のことを思い出す。
 
 祝福という名のデシベルを撒き散らす友人たちに囲まれ、あいつは主役という慣れない座を、まるで壊れ物を扱うような手つきで引き受けていた。
 
 あいつは確かに笑っていた。ケーキを口に運び、贈られたプレゼントに目を細め、誰が見ても「楽しんでいる参加者」の体裁を保っていた。だが、その瞳のピントは、どうしたって目の前の賑やかさを素通りしてしまうのだ。
 
 集合写真を撮る一瞬、あるいは誰かが冗談を言って爆笑が起きた隙間。

 スズカの視線は、無意識に遊園地の外、夜の闇に沈んだターフの方を向いていた。
 まるで、遊園地のゴーカートに一人だけF1のエンジンを積んで座っているような、そんな場違いな切実さがそこにはあった。

(あれは、楽しんでたんじゃねえ。……楽しもうと努力してただけだ)

 どれだけ周囲が「走る以外」の選択肢をデコレーションして差し出しても、あいつというシステムの根幹は、常に時速七十キロの風を求めてアイドリングを続けている。
 
 止まっている時間は、あいつにとって「休息」ではなく、単なる「故障」か、あるいは「長い信号待ち」に過ぎないのではないか。
 
 パチ。
 
 指先から放たれた歩が、盤上で虚しい音を立てる。
(ったく、欠陥品じゃねえか。……アタシも含めてよ)

 (……でも)

 止める気はない。もしあの疾走を無理やり止めたら、それはもう「サイレンススズカ」という個体ではなくなる。彼女から走ることを奪うのは、鳥から空を没収するような、残酷なシステム・エラーだ。

 …パチ

 最後の一手を打つ。王将が逃げ場を失う。詰みだ。

「……ま、いいか」

 誰にともなく呟いて、将棋盤を乱暴に片付けた。

(言葉は置いた。それを拾ってポケットに入れるかどうかは、あいつの自由だ。アタシはサンタクロースじゃねえんだから、枕元に無理やり置いたりはしねえ)

 そう無理やり結論づけようとしても、胸の奥にへばりついた不吉なざわつきは、焼き芋の幻影なんかでは消えなかった。ゴルシは椅子に深く背中を預け、薄暗い天井を見上げる。

「……無事で帰ってこいよ」

 冗談でコーティングされていない、不気味なくらい素直な声が、誰もいない部屋の床に落ちた。

 同じ「前」という方向を見つめながら、その速度の違いゆえに、二人の軌道は静かに、けれど決定的にすれ違い始めていた。


 夜は、まだ明けない。
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