#10 砂糖三杯の救済と、空白の履歴書について

 世の中には、無視しようと思えばできるけれど、一度気付いてしまうと夜も眠れなくなるような「小さなズレ」というものがある。

例えば、お気に入りの曲のテンポがわずかに遅く感じられること。あるいは、新品のランニングシューズの中に、どうしても取れない小さな小石が入り込んでいるような、あの感覚だ。
サイレンススズカは、ティーカップの縁を指でなぞりながら、その「小石」の正体を探っていた。

 その日、チームスピカの共有スペースは、いつも通りチューニングの狂ったラジオのような騒がしさに包まれていた。
何か決定的な事件が起きたわけではない。ただ、平和という名のノイズが空間を満たしているだけだ。
ノイズの中心では、ゴールドシップとメジロマックイーンが不毛な言い争いを展開していた。
 
「だから言ってんだろ? 紅茶に砂糖三杯は、もはや茶葉に対する冒涜だ。糖分の暴力だぞ」
「レディの嗜みと疲労回復のメカニズムを理解できない方が問題ですわ! 第一、これはメジロ家の……」
「はいはい出た。どうせ“名門の味”とかいう、実体のないブランド力だろ?」
「その名門を、軽々しく扱わないでくださいまし!」

いつもの光景だ。周囲のメンバーは誰も気にしていない。呆れが半分、慣れが半分。地球が回っているのと同じくらい、ありふれた日常のひとコマ。

 最初は、ただの風景だと思っていた。

 (仲がいいんですね)

そう頭の中でラベルを貼って、整理棚に仕舞い込もうとした。けれど、その思考が胸の奥に落ちきる前に、何かに引っかかった。
心臓の奥が、きゅっと音を立てて軋む。
痛みというほどドラマチックなものではない。ただ、ひどく不快な違和感だった。

ゴールドシップという生き物は、誰に対しても等しく無礼で、等しく予測不能だ。
特定の誰かを選んで嫌がらせをしているようには見えない。客観的に見れば、彼女の周囲にいる人間は全員、等しく「被害者」という名の観測者に過ぎないはずだった。
それなのに。
 
「……逃げないんですね」
 スズカは小さく呟いた。
マックイーンは、明らかに「この世の終わり」のような顔をしてゴルシを突き放している。言葉のナイフは鋭く、拒絶の意志は明確だ。
けれど、彼女はその場から一歩も動かない。一定の距離を保ったまま、ゴルシの放つデタラメな磁場の中に留まり続けている。
 
 スズカは気づいてしまった。
ゴールドシップの振る舞いは、ただの無秩序ではない。
あれは「破壊」ではなく、「解体」なのだ。
マックイーンが背負っている『名門』という名の重すぎる鎧。それを丁寧に脱がせる方法を、ゴルシは知らない。だから、バールのような無遠慮な言葉で叩き、歪ませ、無理やり隙間を作って風を通そうとしている。

そしてマックイーンも、その不器用な解体作業を、心のどこかで受け入れている。
(そういう関係、ですか)
その構造を理解した瞬間、胸の奥の「小石」は、無視できない重りへと姿を変えた。
理解できてしまったことが、自分を追い詰めていく。

 スズカは揺れるティーカップの水面を見つめた。
マックイーンには、背負うべき名前がある。役割がある。そして、どんなに遠くへ行っても必ず戻るべき『家』という座標がある。
からかわれても、壊されても、彼女のアイデンティティは揺らがない。
 
(私は……何を持っているんでしょう)

自分にあるのは、走ること。ただ、それだけだ。
走っている時のサイレンススズカは、誰もが理解し、評価してくれる。けれど、もしそのスピードを奪われたら。もし、立ち止まってしまったら。
走らない自分は…誰の記憶にも、誰の予定にも存在していないのではないか?
思考の先に、あの白銀の破天荒な背中が浮かぶ。
周囲を振り回し、デタラメを並べ立て、それでも誰かの重荷をそっと軽くしてしまう存在。
 
(……私なんかが、あんな風に)
「相応しい」という言葉が、不意に脳裏をよぎった。
それはあまりに臆病で、それでいて、どうしようもなく残酷な物差しだ。
自分と彼女(マックイーン)を並べ、その隣にいるゴールドシップという存在の「空席」を勝手に探している自分に、スズカは内心で息を呑んだ。

「おい、スズカ?」
唐突に、視界が遮られた。
顔を上げると、いつの間にか目の前にゴールドシップが立っていた。彼女はいつものニヤついた顔ではなく、少しだけ怪訝そうに眉を寄せている。
 
「どうした? 宇宙の終わりでも計算してたのか」
「……なんでもないです」
即座に、そして完璧な無表情でスズカは答えた。

理由を聞かれても、説明できる言葉を彼女は持っていない。コンパスが狂った理由を、方位磁針そのものに説明することはできないのだ。
 
「そっか」
ゴルシはそれ以上踏み込まず、あっさりと背を向けた。
「マックイーン! さっきの『プリンが喋り出す呪文』の続きだけどよォ!」
 
また、騒がしい日常が再開される。
その背中を見つめながら、スズカは静かに息を吐いた。

羨望なのか、焦燥なのか。
胸の奥に残ったこの熱に、名前をつけるのはまだ早い気がした。ただ、誰かがそこにいる光景を、以前のように真っ直ぐ見られなくなっている自分がいることだけは確かだった。
 
その日、サイレンススズカは、走る以外の自分について考え始めた。
それが、トラックの上での勝利とは別の――ある特定の背中に「追いつこうとする行為」なのだと気づくには、もう少しだけ時間が必要だった。
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