#9 影の増幅と、靴の自律性に関する一考察


 サイレンススズカは、先頭を走るのが好きだ。理由はいたって単純で、目の前に誰もいない景色が澄んでいるからだ。風を切り裂き、純粋なスピードの中に身を置くとき、世界は恐ろしいほどシンプルになる。A地点からB地点まで、いかに誰よりも速く到達するか。そこには美しい物理法則と、鍛え上げられた脚だけがある。

 しかし今、彼女の目の前にある景色――つまり、机の上に広げられた一冊のキャンパスノート――は、ひどく濁っていた。いや、濁っているというより、重力という概念を鼻で笑って空へ落ちていくような、秩序の不在だった。表紙には、彼女の端正な字で『西の果て/および関連諸島に関する地政学的記録』と書かれている。通称、ゴルシメモだ。

 スズカはペンを握り、ふう、と小さく息を吐いた。彼女は今、この一ヶ月間で蓄積されたゴールドシップの「証言」を、論理的な体系に落とし込もうとしていた。アスリートたるもの、集めたデータは分析し、法則性を見出さなければならない。だが、彼女の明晰な頭脳は、開始五分で早くもショート寸前だった。

「火山島でマグマが凍る条件が、特定の周波数の鼻歌? しかし、それでは前回の『潮が逆回転する島』の磁場異常と矛盾が生じます…」

 スズカは真剣に悩んでいた。「論理が破綻している」という言葉があるが、破綻するためには、まず論理という建物が建っていなければならない。ゴールドシップの話には、そもそも建物の土台がなく、屋根だけが空中に浮かんでいるような状態だった。

「影が増えるのは、島の呼吸に合わせて空間が歪むからだと仮定したとして、靴の向きが変わるのはなぜ? 靴に意志が宿る? …いいえ、それはオカルトです。何か合理的な説明が…」

 考えてもみてほしい。稀代の逃げウマ娘が、自習室の片隅で「靴の自律的旋回運動」について本気で頭を抱えているのだ。スズカの頭のなかで、パズルが音を立てて崩れていく。しかもそのパズルのピースは、全部違う箱から持ってきたものだった。

「……わからない」

 スズカは静かにペンを置いた。そして、熱を持った頭を冷やすため、ふらりと自動販売機へ向かった。ノートを開きっぱなしにしたまま。それが、悲劇の始まりだった。

 ⸻五分後。自習室に立ち寄ったチームスピカの専属トレーナーは、スズカの席に残されたノートの記述を見て、完全にフリーズしていた。

【ノートの記述(一部抜粋)】

コンパスの反抗期はいつ終わるのか?(要検証)
自分より多い影=追い抜くべきか?
靴が勝手に西を向く。逃げ場はない。
海鳥は真実を知っているが、決して語らない。
世界は呼吸している。私たちは飲み込まれる。

「……!!」

 トレーナーの血の気が引いていく。誰がどう見ても、極限のプレッシャーに精神を蝕まれたアスリートの、狂気の記録だった。カルト教団の教義か、さもなければ危ない薬物による幻覚症状に違いない。

 (…スズカ、お前、ずっと先頭を走る重圧で、ついに……!)

 トレーナーは頭を抱えた。自分の管理不足だ。もっと彼女の心に寄り添うべきだった。「海鳥は真実を知っている」などと書き殴るまで、彼女を一人で走らせてしまっていたのだから。

 ⸻「お疲れ様です、トレーナーさん。奇遇ですね」りんごジュースの紙パックを手に、スズカが戻ってきた。その顔は、難解な数式が解けない学者のように、少しだけ疲労の色が浮かんでいる。

「スズカ……」トレーナーの声は、不発弾の処理にあたる隊員のように、震えを帯びて慎重だった。

「はい?」

「あのな……人間、誰だって疲れることはある」

「ええ、そうですね。今日のトレーニングは少しハードでしたから」

「そうじゃない」

 トレーナーは悲痛な面持ちで、スズカの肩に手を置いた。

「心の疲れの話だ。ずっと先頭を走っていれば、見えない影に追われるような錯覚に陥ることもあるだろう。逃げ場がないと感じることも」

 スズカは、りんごジュースのストローを咥えようとして、ぴたりと止まった。

「錯覚ではありませんよ? 実際に、影は人数より増えるんです」

 トレーナーが息を呑む。

「それに、逃げ場がないわけではありません」スズカは極めて冷静に、真顔で続けた。「靴の向きが変わったときは、海鳥の視線を参考にすれば、安全な航路を見出せます」

「スズカ、もういい、もういいんだ。少し、休もう」トレーナーの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「? トレーナーさん、泣いているんですか?」

「お前が、海鳥に航路を聞き始めるまで追い詰めてしまった、俺が情けなくてっ……!」

「聞いてはいません。視線を参考にするだけです。直接言葉を交わすのは不可能だと結論づけましたから」

 トレーナーは一瞬、「結論づけた」という言葉に引っかかった。つまりこの子は、海鳥との対話を一度は試みたということだろうか。あるいは、試みることを真剣に検討した上で、不可能という結論に至ったということだろうか。どちらにせよ、正気のウマ娘が通る道ではない。

「そういう問題じゃない!!」

 スズカは首を傾げた。なぜトレーナーが泣いているのか、彼女の論理的な思考回路をもってしても、まるで理解できなかった。ただ、人間というものは時に、コンパスのように不可解な挙動をする生き物なのだということだけは、なんとなく分かった気がした。

 ⸻遠くの中庭では、ゴールドシップが「…今度は空飛ぶピラミッドの話でもするか」と呟きながら、のんきに焼きそばパンをかじっていた。世界は今日も、絶妙な勘違いの上に成り立ち、平和に呼吸を続けている。​​​​​​​​​​​​​​​​
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