#8 呼吸する島と、方位磁針の憂鬱について
世の中には、絶対に真に受けてはいけない話が三つある。一つ目は政治家の「必ず実現します」という公約。二つ目は詐欺師の「あなただけに教えます」という投資話。そして三つ目が、夕暮れのベンチでゴールドシップが語り始める冒険譚だ。
トレセン学園の放課後。西日が芝生に長い影を落とす時間帯になると、彼女は決まってベンチの真ん中を陣取り、どこから仕入れてきたのかも分からないヨタ話を披露する。
「でよォ、最西端の海を越えた向こうに、“地図に載らない孤島”があるんだわ」
周囲のウマ娘たちは、まるで出来の悪いB級映画のポスターを一瞥するような目で彼女を見た。
「はいはい」「出たよ、またそのパターン」「それ、お疲れのサインね。甘いものでも食べなよ」誰も止めないし、誰も信じない。それがこの学園における正しい重力の働き方だった。林檎は木から落ちるし、ゴールドシップの話は聞き流される。
だが、その日、重力は局地的にバグを起こした。
「潮が一定周期で逆回転すんのよ。あれは島が呼吸してる証拠だ」
ハルウララが「島って息するの!?」と素直な感嘆を漏らした、ちょうどその時。キングヘイローが通りがかりざまに「ウララさん、ちょっといい?」とさりげなく肩を引いて、ヨタ話の射程圏外へ連れ出した。賢明な判断だった。
そしてふらりと通りかかった別の一人が、ピタリと足を止めた。サイレンススズカだった。彼女は普段、トラックの先頭を走ることにしか興味がない。ノイズを極限まで削ぎ落とした静寂の世界の住人だ。そんな彼女が、よりにもよって学園で最もノイズにまみれたスピーカーの前で立ち止まった。
「孤島?」
スズカの呟きは、風に消えそうなほど小さかった。
「近づくとよ、コンパスが”今日は無理”って言い出すんだわ」
「コンパスが、無理と?」
「普通なら船は引き返すんだけどよ。アタシは”今日は行ける日”だって分かった」
「どうやってですか?」
スズカの問いかけに、周囲の空気が少しだけ凍りついた。(え、そこ掘り下げるの?)という無言のツッコミがベンチ周辺を飛び交う。
「海鳥がよ、西を見なかったからだ」
「なるほど。海鳥の視線がパラメーターになるのですね」
スズカはジャージのポケットを探り、小さなメモ帳とペンを取り出した。
カリ、カリ、カリ…
静かな夕暮れの空に、几帳面な筆記音が響き渡る。ニュートンがもしこの場にいれば、万有引力の法則をイチから見直したことだろう。それくらい、スズカの態度は真剣で、そして致命的に間違っていた。
「え、スズカさん、書いてる?」
「はい。重要な情報だと思ったので」
スズカは顔を上げずに答えた。パドックで集中力を高めている時と全く同じ、澄み切った目をしている。
「お、真面目だな」ゴールドシップは少し面白そうに笑い、さらにアクセルを踏み込んだ。
「その島な、夜になると”影が増える”んだ」
「影が増える?」
「ああ。そこにいる人数より、明らかに多くな」
スズカの手は止まらない。
「あと、浜辺に置いた靴は、朝になると向きが全部変わってる」
「規則性はありますか?」
「無い」
「不規則な事象ですか。一番厄介ですね。注意が必要です」
【スズカのメモ:西の果ての孤島について】
地図上の存在:否定
潮の逆回転:島の呼吸サイクルに起因
コンパス:意志、あるいは感情の萌芽(「今日は無理」等)
海鳥:進路決定の重要なファクター
影:増殖傾向あり(警戒度A)
靴:夜間に自律移動。規則性なし(極めて危険)
「……スズカ」
見かねた同級生が、恐る恐る声をかけた。
「それ、後で誰かが見たら、“ヤバい思想に染まった人”のノートにしか見えないよ?」
「そうでしょうか?」
スズカは不思議そうに小首を傾げた。
「未知のコースを走るにあたって、事前の情報収集は不可欠です。彼女の証言は、非常に示唆に富んでいると思います」
全く気にしていない。スズカの中で、ゴールドシップのヨタ話はすでに「攻略すべき難コースのデータ」として処理され始めていた。
ふいに、ゴールドシップが言葉を切った。彼女はベンチの背もたれから身を起こし、じっとスズカを見つめた。
「なあ」
「はい」
「お前さ、アタシの話本気で信じてる?」
それは、嘘つきがふと見せる、奇妙な誠実さだった。スズカは少しだけ考え込む素振りを見せ、やがて真っ直ぐに答えた。
「それが客観的な事実かどうかは、私には分かりません」
「だよな」
「でも」
スズカはペンをしまい、夕日を背負うゴールドシップの瞳を覗き込んだ。
「あなたが、その奇妙な景色を見てきたということ自体は、本当なのだと思います。あなたの言葉には、実際にそこを走った者にしか出せない熱がありますから」
沈黙が落ちた。ゴールドシップは何か言おうとして、やめた。気の利いた冗談なら百個でも出てくるはずなのに、この時ばかりは一個も出てこなかった。自分の話を「本当だ」と言ってくれた人間が、今まで何人いただろう。彼女はそれを数えようとして、すぐにやめた。数えるほどいなかったから。
少しだけ照れくさそうに頭を掻いて、視線を夕日の沈む方向へと逸らした。
「ま、次は火山島でマグマを凍らせた話でもするか」
「はい。ぜひ続きを聞かせてください」
周囲のウマ娘たちが
(この二人、どういう関係性なの?)と完全に置いてけぼりを食らう中、二人の間には、当人たちにしか分からない奇妙な引力が働いていた。
その日から、ゴールドシップの荒唐無稽な冒険譚は、少しだけ論理的な(とはいえ常人には理解不能な)構成を持つようになった。なぜなら世界中を探しても、「靴が勝手に動く島」の話を、ミリ単位の真剣さでノートに書き留めてくれる人間は、目の前にいる彼女しかいないのだから。