プロローグ1 逃亡者・振り向くという選択
チームスピカという少しばかり奇妙な集団に身を置いてから、それなりの時間が経過した。サイレンススズカは、自分の立ち位置のようなものを少しずつ理解し始めていた。
朝の挨拶を交わす。トレーニングの合間に水分を補給しながら、他愛のない冗談に付き合う。
(悪くないですね)
客観的にそう分析している自分に、少しばかり驚きながら。ただ、走る理由については、彼女たちと私とでは根本的にレイヤーが違うらしかった。
勝ちたい。誰かに追いつきたい。認められたい。過去の自分を越えたい。彼女たちのエンジンは、分かりやすくて、熱を帯びていて、とても眩しい。
スズカも走ることは好きだ。誰よりも。だが、その熱源は違う。勝敗や称賛は、あくまで結果の副産物に過ぎない。「誰も見たことがない景色を見たい」理由を言語化するなら、ただそれだけだ。景色の先へ。さらにその先へ。
気づけば、命を削るようにターフを駆け抜けている。(私ほど、限界の向こう側に行こうとしている人はいない)真剣に走る仲間たちに励まされつつも、ふと思う。それは自負でも驕りでもなく、足元の芝生が緑色であるのと同じくらい、ただの静かな事実だった。
そんな彼女の静かな思考を、物理的な音量で叩き割る存在がいる。
「よーし!今日のトレーニング終わり!宇宙の重力に逆らう練習として、アタシはこのまま逆立ちで部屋まで帰るぞ!」
「やめてください!!」
「危険ですわ!」
「うるさい!!」
ゴールドシップである。
(何をしているんでしょうか、あの人は)
スズカは、トラックの隅からその騒動を遠巻きに眺めていた。
ある日、タイムが伸び悩んで壁にもたれていたチームメイトの隣に、気づいたらゴルシが座っていた。何か言うのかと思ったら、ひどく真剣な顔で「人類がまだ解明できていない謎のひとつに、なぜ焼き肉のタレはあんなに美味いのかという問題がある」と言った。チームメイトは五秒後に噴き出した。
(なるほど)
とスズカは思った。何が「なるほど」なのかは、うまく説明できなかったけれど。
だが、その事実を指摘しようものなら、こう返ってくるのがオチだ。
「は?暇だったから宇宙のバランスを整えてただけだが?」
スズカに対しても、彼女はフラリと近づいてきては、声をかける。
「調子どうだ?」
「無理すんなよ」
「ちゃんと飯食え」
言葉自体に特別な意味はない。彼女は誰に対しても等しく、あの調子で接している。
(ゴルシは、みんなに優しい。だから、私だけが特別というわけじゃない)
そう、頭では分かっている。なのに、奇妙な違和感が残るのだ。毎日、彼女の突拍子もない行動や、意味不明な発言、突然の大声を目で追っている自分がいる。普通なら距離を置くべき相手だ。自分とは対極の、ノイズのような存在。
(もう少し)(もう少しだけ、あの人のことを知りたい)
尊敬でもない。ましてや恋でもない。
ただ、「気になる」。
前方にある「誰も見たことのない景色」だけを見つめて生きてきたサイレンススズカが、走ること以外の何かに、ふと横顔を向けている。それが何なのかは、まだわからない。わかろうとも、していなかった。
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