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やち文

 さよなら。
「や、やだ……っ」
 あたしの大事な人がいなくなる。一度じゃない。二度も味わいたくない。足を精一杯動かすけれど、一歩も文さんに近づけない。
「文さん! 待って!」
 さよなら、やちよ。
「あたしを、置いていかないで……!」
 もう、独りは嫌なのに。
「独りに、しないでっ!」
 そんな夢を久しぶりに見た。目覚めは過去一番、最悪だった。

◇◇◇

「なんで、あんな夢……っ」
 髪の毛をぐしゃっと掴んで、八つ当たりをする深夜。あたしは気持ちがどん底になっていた。せめていい夢だったのならマシだけど、実際は正反対もいいところ。しかも。
「これで、何回目……」
 見た夢は文さんがいなくなる夢。一回でも見たくないのに。繰り返し見てしまうそれは、まさしくあたしにとっての悪夢だった。
「っ、う」
 両手で膝を抱え込む。今から文さんの部屋に行くわけにはいかない。健康優良児物件筆頭の文さんは、あたしと一緒に住んでくれるようになってからもお手本のような規則正しい生活を送っていた。
「ほら、やちよ。明日もあるんだから早く寝るわよ」
そんな文さんに矯正させられるようになったあたしも、最近は夜更かしとかしてなかったのに。寝る前のやり取りが鮮明によみがえってくる。
「それじゃおやすみなさい、やちよ」
「おやすみなさい、文さん」
 寝る前のあいさつもいつも通り。不安になることなんて一切なかったのに。なんで、急に。どうしてあんな夢を。
「……っ」
 記憶に焼き付いて離れてくれない。ある意味の呪いにすら感じて目尻が熱くなっていく。大丈夫、夢だから。そう言い聞かせても、頭の片隅から出て行ってくれない。
「大丈夫、大丈夫だから……っ」
 何度呟いても、何度夢を否定しても。文さんがいなくなってしまう不安が消えてくれない。最悪だ、あたし。
「文さんのこと、信じてないじゃん……!」
 思いを口にするほど、言葉はあたしに突き刺さる。いっそ、今が夢であってくれたらと願うけど。でも、現実だと告げるように壁にかけた時計の針がゆっくりと進んでいく。
「さい、あく」
 悪態をついても、それを拾う人はいない。あたしが自分で折り合いをつけるしか、解決策なんてないんだから。ベッド脇に置いた水でも飲んだらすっきりするのかもしれないけど、あたしの瞼からはとめどなく熱いものがこみ上げてきていた。
「ふみ、さん……っ」
 いかないで、ひとりにしないで。あたしを置いてどこかにいかないで。ずっとずっとそれしか考えられなくなって。小さく小さく縮こまって。このまま朝がくると思っていた。そうすれば、夢だったってそう思えると。思っていたから。
「やちよ!」
「っ!」
 そんなあたしの世界に、突如来訪者が現れた。小さく縮こまっていたあたしは、静かで苦しくなっていたせいで一瞬反応が遅れてしまって。
「ふみ、さ……?」
「っ」
 ドアを蹴破る勢いでやってきた文さんの名を、やっとの思いで口にした。文さん、寝てたはずなのに。どうしてあたしの部屋に。
「ど、したんですか」
「どうしたもこうしたもない」
 今は文さんの顔を見てしまうと、揺らぐから。また悪夢を見てしまいそうなんて弱音を口にしてしまいそうだから。いつも通りを口にする。でも、文さんの顔は険しいままで、起こしてしまったことが苦しくて。いてくれたことが嬉しいと感じる自分が最悪だと思ってしまって。
「やちよ、怖い夢見たんでしょ」
「見てない、です」
「嘘」
 まっすぐ射貫く文さんの声が今は痛い。顔を見てしまうと、せっかく抑えた感情が溢れてきてしまいそうで。
「どうしてそんなに一人で抱え込むのよ」
「抱え込んで、ないです」
 早く部屋に帰って。そんな言い方しかできないあたしのことなんて放っておいて。大丈夫ですから。所詮夢ですから。
「平気、ですから……っ」
「……そう」
「っ」
 自分で突き放すように言ったくせに、いざ文さんが部屋に帰るかもと思うと追いかけたくなる自分を殴りたくなる。ぎゅっと布団の下で膝を抱えるしか、今のあたしにはできることなんて何もないのに。
「やちよ」
「……っ」
 カーペットを踏んで文さんが近づいてくる気配。文さんとあたしとの距離は人一人分ぐらい。手を伸ばせばすぐそこに文さんがいる。でも。
(今のあたしには、文さんの手を握れない)
 何度も何度も、文さんがいなくなってしまう夢を見てしまう。そんなあたしなんかに。
「やちよ」
「……部屋に、帰って、文さん」
「嫌よ」
 力強く文さんが答えて、あたしは余計に苦しくなって。なんで苦しいのかわからなくなって。文さんがあたしを呼んでも、応えられなくなっていったのに。
「やちよ、大丈夫よ」
「!」
 ぎしっとベッドが音を立てたとわかった瞬間。あたしは文さんの腕に包まれていた。
「は、離して……っ!」
「泣いてるやちよを放っておけないわ」
「これは、なんともないですか、ら……っ」
 なんともないわけがない。でもそれを、文さんに言うことが怖くてたまらない。嫌われたら、目の前から本当にいなくなられたら。
「っ、うっ」
「怖くない、大丈夫よ」
 文さんはあたしがどんな夢をみたかなんて知らないはずなのに。あたしが勝手に不安になって、勝手に苦しくなっただけなのに。なんで、どうして。
「やちよが怖い夢を見たのならすぐに言いなさい」
「……っ」
「私がここにいるわ」
 いくらでも胸を貸すから。
「やちよ、大丈夫よ」
「ふ、みさ……っ」
「だいじょうぶ」
 ぽんぽんと背中を文さんが叩く。優しく、あったかく、あたしの不安が消えるように。文さんの手が、静かにあたしに教えてくれている。大丈夫だって、怖くないって。
「どんな夢をみたのか無理には聞かないけど、抱え込めなくなる前に言って」
「で、も」
「やちよが苦しむのは……見たくないの」
 そう言った文さんの顔を見ることはできないけれど、ぎゅっと抱きしめられた力強さに頑なになっていた心がやっとほぐれるような感覚がやってくる。
「……いつか、聞いてくれますか」
「いつか、聞かせてちょうだい」
 ごめんなさい、臆病で。ごめんなさい、言えなくて。でも、いつか。この悪夢が夢でしかないと思える日が来た時には。
(きちんと、伝えるんだ)
 どうしようもないあたしを大切にしてくれる、夢大路文という。あたしの一生を預かってくれた大切な人に。
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