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やち文

 へくちっ、というくしゃみ音が聞こえた。誰かなんて考えなくても分かってしまう。だって、ここが私の部屋で、私を除けばいるのはただ一人だけなんだから。
「やちよ」
「……なんです、文さん」
 そう。さっきくしゃみをしたのはやちよ。聞かれなかったことにしようとしているのか、ごまかそうとしているのか。ともかく素直にくしゃみをしたことは認めようとはしなかった。
「寒くないの?」
「大丈夫だって言ったじゃないですか、それ聞くの何度目ですか?」
「……」
 やちよはあきれ顔で私にそう言うけど。それはこっちの台詞でもある。だって、やちよは素直に頷きを返さないけど、くしゃみをしたのは今が初めてじゃないのだから。
「今日のために張り切ってくれたのは嬉しいけど」
「そりゃ、文さんとのデート、ですもん」
 どうしても、自分の中にあるお節介な気持ちが顔を出してしまう。恋人としては、とてもかわいいやちよを見られるのは嬉しくて、幸せで。だけど。
(それで、風邪をひいてほしくはないのよね)
 季節の変わり目だから、暖かい日になるという予報が出ていても実際はそこまで気温が上がらない日もざらにあって。
 まさに今日は、そういう天気予報としては大体あっているけど気温が上がらない日だった。
「……くちっ」
「……やちよ」
「や、違います。花粉です、花粉」
 これで何度目かしら。まったく意地になっちゃって。我慢大会をしているわけじゃないんだから、そんなに無理しなくてもいいのに。
「やちよらしいといえばそうなんだけど」
「なにがです?」
 聞こえてしまった独り言に、なんでもないと返事を返す。やちよは私が教えてくれないことに少し不満げで、眉を寄せていた。
「あたし、文さんのそういうところ好きじゃないです」
「あらあら、嫌われたかしら」
「……そういうとこも、好きじゃないです」
「ふふ、ごめんなさい」
 ちゃんと伝えないと伝わらないということは、凛明館に来てから嫌というほど感じさせられて。そこは反省して言うようにしたら、それはそれでやちよには怒られてしまう。ただ、本当に怒っているわけじゃないのはお見通し。本当に怒っていたら、やちよはさっさと私の前から姿を消しているから。
「でもね、部屋に来てからくしゃみしすぎなのわかってるの?」
「……だから、あたしはくしゃみなんかしてないって言ってるじゃないですか」
 強情。頑固。そんな二文字が脳裏に浮かぶ。どこかの王様を支える誰かさんみたいに。だからこそ、このままじゃあ、やちよが本当に風邪をひいてしまう。それは絶対に嫌だし、やちよの保護者ポジションにいるあの子たちになんか言われそう。
「私は少し寒いけど?」
「でも」
 自分の感じていることを伝えるも、どうもやちよに意図が伝わっていない様子。回りくどく言い過ぎたかしら。ちゃんと伝えないと、伝わらないってことね。私もまだまだってことね。よし、こうなったら。
「……文さん、何してるんですか?」
「ん?」
 立ち上がった私を見て、やちよが不思議そうに声を出す。机を見れば、やちよが持ってきてくれたクッキーと私が淹れた紅茶。紅茶からは湯気が立っていて、カップから零れそうなぐらい。立ち上がるには、ってことを言いたいんでしょうね。ただ、今から出すものは私達にちょうどいいと思うのよ。やちよに笑いかけながら。
「今日の気温にうってつけのものを出そうと思ってね」
「うってつけのもの……?」
 押し入れに入れたばかりだから、すぐ出せそうでよかった。内心そう思いつつ、目的のものを取り出した。
「文さん、それ」
「ええ、そうよ」
 目を丸くするやちよに頷く。分厚くもないけれど、こんな日にはうってつけの毛布。それと私を交互に見比べるものだから、なんて反応をしているのかと思ってしまった。
「風邪でもひいたんですか」
「違うわよ」
 怪訝そうな顔から心配の声。邪魔なら帰ろうとする雰囲気になっているけど、まだ帰すつもりはないわよ。時間はまだたっぷりあるんだから。
「ん、かび臭くはないわね」
「……文さん?」
 すんすんと鼻を毛布に近づけると、お日様の香りには程遠いけれど、いい香りがした。さて、これならきっと大きさ的には問題ないでしょ。
「よし」
「え、文さん」
「やちよ、動くんじゃないわよ」
「え、え」
 戸惑うやちよを無視して、ふわりと毛布をかけた。私も一緒に毛布に包まれる。自然と二人の間の距離がさっきよりも縮まって、やちよからはいい匂いがした。
「な、文さん……!」
「いいでしょ? あったかくて」
「いや、そういう問題じゃ……っ」
「じゃあ、どういう問題なのよ」
 急にわたわたと慌て始めた私の恋人。別に手も繋ぐし、抱きしめたことは初めてじゃないし、恋人らしいことだってたくさんしてきているのに。
「これ、文さんの香りが……っ」
「そりゃあ、私が使ってたやつだもの。私以外誰が使うのよ」
「そ、そうですけど!」
 変なやちよ。ほら、もっとくっつきなさいよ、やっぱりちょっと冷えてるじゃない。風邪はあなたの方がひきそうよ。
「やちよのこと、温めさせて」
「紅茶、ありますから!」
「紅茶は紅茶、私は私よ」
「意味が分かりません!」
 意味が分からないって、思ったことをちゃんと口にしているだけだけど。ぐっと引き寄せてくっつくようにさせる。やちよはというと、私が離さないのを感じ取ったのか力をやっと抜き始めた。肩にやちよの重みがかかる。
「ふふ」
「……ごきげんですね」
「機嫌よさそうに見える?」
「すっごく」
 諦めも入ってそうではあるんだけど、私の性格をわかってか、やちよがぽつぽつと思いを口にして。きっと口を尖らせているんだろうなって思うからこそ、笑顔が浮かぶ。
それは決してやちよをバカにしているとかじゃなくて、私の前でしか見せないやちよを見せてくれていることが嬉しいから。
「……次のデート、またかわいい恰好してきてくれる?」
「当り前じゃないですか、あたしいっつもかわいい恰好してますけど」
「知ってる」
 きっと今、やちよ真っ赤になってるわね。だって、毛布を引っ張る力がさっきより強くなってる。
「くちっ」
「もう、ほら」
「……だって、天気予報で晴れるって言ってたから」
 今度はごまかせないぐらいはっきりと聞こえた音。やちよもさすがに観念して認めていた。ぎゅっとやちよを引き寄せる。やちよも今度は暴れたりはしなかった。
「……あったかい?」
「……もっと、ぎゅっとしてくれたら温かくなります」
「わかったわ」
 それがあなたの望みなら、私が叶えてみせる。さっきよりもあたたかくなったやちよの体を感じつつ、毛布とやちよと私をくっつけた。
「……」
「やちよ?」
 沈黙が下りて、それが少し気になって。やちよの名前を呼ぶと返ってきたのは。
「……ん、ぅ」
「……寝てる?」
 小さく聞こえたやちよの寝息。覗き込めないからやちよの顔を伺い知ることはできないのだけど。重みが増した肩はとても温かくて、心までやちよに温められているようで。
「敵わないわね……」
「……ふみ、さ」
「なぁに」
 呼ばれる名前、応じる私。淹れた紅茶の湯気はいつの間にか消えていて。でも、せっかく安心して眠ったやちよを起こすのも忍びなくて。
「まぁ、温めなおしたらいいわよ」
 誰に聞かせるでもない独り言が部屋に溶けていく。起こさないように、もう少しやちよが眠れるように。小さな頃を思い返しながら、大好きだった歌を口ずさんだ。
 やちよが目を覚ましたのは、太陽が傾き始めて、部屋に西日が差し込み始めた頃だった。
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