第二章 二面性
国会議事堂内で起こったテロ事件から、数日後の朝。…『それ』は突然、発信を始めた。
――≪幸福劇場から、全国民の皆さまへお知らせを致します。繰り返します。幸福劇場から、全国民の皆さまへお知らせを致します。≫
各家庭のテレビ、ラジオ、防災無線のスピーカー、動画配信サービス、街頭テレビ、駅構内のデジタル掲示板に至るまで。音と画を出力するための、全てのツールから。一斉に、無邪気な少女のような声が響き渡る。
朝の支度中。登校、登園。通勤、或いは退勤。散歩に、ランニング。コンビニまでの行き帰り。さっきまで寝ていたのに起き上がった。単にぼーっと外を歩いていただけetc...
そうやって、今日という朝を消費していた人間全員が、急に見知らぬ現象に立ち会ったことにより。それぞれの手元に一番近い媒体へと、眼と耳が釘付けになる。それと同時に、人々が物理的に動いていたことにより、同じく息をしていたはずの町中の呼吸そのものが、止まった。
無邪気な少女を模した声が、発信を続ける。
――≪幸福劇場による第一脚本『アンチ・アグリー』の演出を開始致します。こちらに関しての詳しい説明は、後ほど表示されるコードからご覧いただける公式ページにて、ご確認ください。
繰り返します。幸福劇場による第一脚本『アンチ・アグリー』の演出を開始致します。こちらに関しての詳しい説明は、後ほど表示されるコードからご覧いただける公式ページにて、ご確認ください。≫
静まり返っていたはずの人々が、にわかに騒ぎ始めた。なんだ?なんだ?、と波紋のように動揺が広がっていく。
――≪それでは皆さま、どうか素敵な幸福を。≫
無邪気な声は、そう締め括る言葉を残して、沈黙した。そして空気を切り替えるかのように、各媒体に、公式ページに飛ぶための専用のコードが浮かび上がった。ラジオなどの音声ツールからは、ページのURLの音読が始まる。
皆が一斉に、公式ページへとアクセスを開始した。…が、忘れてはならない。今現在は、一般的に、朝の通勤時間帯なのである。
混乱が混乱を招き、混迷を極めようとしたところで。公共交通機関のスタッフたちや、通報を受けた警察機関は、敢え無く、大規模な交通誘導を開始することを、余儀なくされたのだった。
【Room EL】
幸福劇場の突然の発信のせいで、普段は余り遭遇しないタイプの通勤ラッシュにもみくちゃにされてしまったツバサは。半分泣きたい気持ちを抑えながら、Room ELへと無事に出勤した。
「おはようございます…」
扉を潜って、挨拶をしながら室内に入ると。…こういうときでも、自分より早く出勤しているのが、ルカとソラである。ルカはお決まりの朝の紅茶タイム中のようだが、ツバサの顔を見るなり、ティーカップを置いてから、笑顔で口を開いた。
「ちょっとアリスちゃんってば、へにょへにょ~ってなってるよ?大丈夫そ?やっぱり、朝のアレの余波に巻き込まれちゃった感じ?」
「うん…、まあ、そんな感じ…」
「大変だったよねえ。次からは何か対策を打っておくから、安心してて」
「うん、ありがとう、ルカ…」
ルカが指摘するくらいには、今の自分は疲れているように見えるらしい、と思いながら。ツバサは自分のロッカーに、荷物を仕舞う。すると、Room ELの扉が開く音がした。ツバサが視線を寄越すと、ナオトと琉一が連れ立って入ってくるのが見えた。彼女が二人に「おはようございます」と挨拶すれば、二人からも同じ言葉が返ってくる。
琉一もナオト同様、本土から通勤しているため、経路はほぼ一緒だ。タイミングさえ合えば、こうして二人が同時に打刻するのは、珍しい光景ではない。これは、ただの蛇足的な補足になるが、いつか聞いた話によると、ナオトは、妹の鞠絵と共にテイスワート邸でお世話になっているため、朝イチでシフトが入っている場合の鞠絵とも当然、琉一は鉢合わせることになるが。年頃の娘であるものの、万年ポジティブギャルマインドを持っている鞠絵は、琉一を怖がったり、変に距離を取ったりするどころか、ぐいぐいと仲良くしたがるという。そこにセイラが加われば、成人男性二人とギャル女子高生二人という割と大所帯になりつつ、賑やかで、且つ、華やかな出勤時間になるらしい。その光景を想像したツバサは、ちょっと羨ましいな…、と、心の隅っこで思ってしまったり…。
そんなことを思い返しながら、デスク回りをセットアップしていたツバサは、ふと、ソラがルカが厳しい口調で話しているのが聞こえた。
「今朝の騒動…、まさか、お前は自分が敷いているセキュリティーの側面に於いて、何も問題視していないつもりか?
今朝はたまたま大事にならなかっただけで、…一歩、否、あと半歩ほど間違えていれば、あっという間に動乱や騒動が起きていたはずだ。そしてこれから先、幸福劇場が同じ手口を使い続けるというのなら、どういった形であれ死傷者が出る危険性は多いに想像が出来るだろう?」
ソラの厳しい詰めに対して、ルカはいつもの風景を眺めているとばかりの表情をしながら、口を開く。
「ヒルカリオの中のセキュリティーについては、オレの方でちゃんと対策と強化はしておくよ。此処はオレを閉じ込めるための檻だからね。
でも、本土のコトは知らないな。あっちの話は、あっちの人間同士でやっておいてくれる?、というのがオレという軍事兵器の出す『正解』だよ。だって、そうでしょ?オレが本土でウロつくのが嫌だから、人間たちはこんな楽園都市を築いたんだから、ね?」
「…その『正解』で、本土の政治家たちが、納得してくれることを祈るしかいないか…」
「そうそう。今はそれくらいの考え方で良いんだよぅ。幸福劇場が演出するという第一脚本とやらが、一体何者なのかを、まずは拝見しないとねえ。本題はそこから始まるんだからさあ」
ルカはそこまでのやり取りをソラと交わしながら、ティーカップの中身を飲み干した。
直接会話に加わっていたわけではないので、この場では何も言うつもりは無いが。ツバサからすれば、ルカの言わんとしていることは、充分に理解が出来る。
遠い昔、ヒルタス湾の海底からルカを掘り起こし、ルカ自身にそもそもの才能があったといはいえ、最終的に破壊の軍事兵器として調整したのに、後々の悲劇を眼の当たりしたからと、勝手にルカに恐怖して、彼をヒルカリオに閉じ込めるという、現在の在り方を確立させて、その状態を今でも維持しているのは。…間違いなく、本土の人間たちの意思である。故に、ルカはあくまで、『自分はヒルカリオに繋がれたモノである』として振る舞うだけなのだ。己を閉じ込めたい檻が在るのなら、それを壊すこともさせない。だが、それ以外の話は、別問題として扱う。ルカの視点から考えてみれば、容易に想像が出来るものだ。そして勿論、これくらいのことは、ツバサでなくとも、ソラもナオトも琉一も分かっている。―――…ルカの部下になる、とは、そういうことなのだから。
Room ELの全員が沈黙を以て、納得と理解の意を示し合った。
間も無く、始業のベルが鳴る―――…。
今日の、ルカの一番最初の仕事は、『トルバドール・セキュリティーからの来客の対応』であった。先んじてソラが受けていたアポイントメールの内容の通り。Room ELへと訪ねてきたのは、輝、八槻、そして、ミセス・リーグスティの三名。何とも豪華なメンバーであるが、この面子が揃っていること自体に懸念点が挙がるのも、また然り。
ツバサが、ミセス・リーグスティが好物と公言する『紅茶の女王』こと、レミサレ・ブレンドを淹れたカップを、来客三名の前へとサーブする。
対面するルカの後ろにはソラが立ち、その手には社内用タブレットが既に起動して、待機状態に入っていた。ナオトと琉一は、各々のデスクで通常業務をこなしている。ツバサは特に指示を受けなかったが、ルカの傍に居る必要が無いのであればと、彼女もまた自分のデスクへと戻って行った。
「さて、ご用件をどうぞ。何も遠慮しなくて良いからね?だってキミたちは、既にオレの内情を知っている側の人間だからさ?」
ルカはいつものように微笑みながら、真っ直ぐに三人を見詰めて、そう言う。すると、まずはミセス・リーグスティが切り出した。
「ルカ殿。先日、本土の国会議事堂がテロ行為に見舞われたこと、そして、それを鎮圧したのが輝ほぼ一人であったことは、もうご存知でしょう?
本日は、そちらの事案に関して、輝からルカ殿へ質問したいことがあるそうですわ。是非、弊社の可愛い次期社長候補の言葉に、耳を傾けてくださいな」
ミセス・リーグスティがそう言って、自分と八槻に挟まれる形で、中央に座っている輝へと視線を寄越す。ターンを譲られた輝は、早速とばかりに話し始めた。
「では、お言葉に甘えて。
ルカさん、先日のテロ事件が起こる数日前、より具体的に言えば、幸福劇場の招致に成功した紫雨百合花先生の国会での演説時、貴方は国会議事堂のセキュリティールームを訪問していますね?議事堂のセキュリティールームの入退室記録と、トルバドール・セキュリティーが飛ばしている追跡データ、そして、ツバサさんのホルダー権限により閲覧可能であるKALASの正式なルカさんの行動記録…、これら全てが証明してくれています。まず間違いないとこちらでは判断していますが、一応、聞いておきます。…此処まで、何か異論はありますか?」
「キミが問うてきたコトそのものに異論は無いし、間違いは一つも見当たらないんだケド…。ちょっとだけ、裏付け用の確認作業をさせてね?」
輝の質問に対して、ルカはあっさりとした表情で返した後。すぐにその深青の瞳を動かして、ツバサが座っているデスクへと視線を投げると同時に、薄付きのリップが塗られた唇を開いた。
「アリスちゃん、どういうコト?オレに隠れて、遊んじゃうなんて。そんなに浮気調査がしたかったの?オレはいつだってキミのコトを考えているのに~?」
「…輝くんから事情はちゃんと説明して貰ったし、私自身も納得したから。だから、輝くんにとって、今回のルカの行動記録を見ることは、当然の権利だと思ったの…。ルカのホルダーとしてKALASの情報の閲覧を、彼に許可した理由は、たったそれだけ…。あ、浮気は疑っていないよ…」
ルカが意地の悪そうな言葉だけをツバサへと放り込む。だが、それに返答する彼女は口調こそ淡々としているものの(最近、この辺が兄のソラに似てきている…)、特段、この会話の本質に対する重要性を意識している素振りは見せない。否、むしろ、素振りを見せないからこそ、当然と捉えているからこそ、逆に『ルカのホルダーとしての権利の一部を行使した』ことへの責任を負っているのだ。…本当に良い仕事の過程ほど、安易に他人へは見せないものである。
「あ、そう?まあ、そういうことなら、別に問題は無いね。オッケー、確認作業終了。
じゃあ、話を戻そうね。はい、輝、続けて良いよ。どうぞ?」
ツバサへの確認をさっさと終えたルカは、恐ろしいほどの切り替えの早さを見せつけながら、輝に会話のターンを譲った。輝が続ける。
「ありがとうございます。では、本題に入ります。
ルカさん、貴方がセキュリティールームに訪問した際、その数日後に起こったテロ事件の可能性、…そう例えば、既に室内に居たであろう内通者の特定、議場内に設置されていた爆発物の気配、偽物が紛れ込んでいた警備列の挙動の乱れなど…、…そういったモノを、本当に貴方は何一つ、検出していませんでしたか?
もし検出していなかったのであれば、それでこのお話は終わりですが…。万が一、あの時点で、テロ事件への要因を少しでも検出していたのであれば、貴方が事前に芽を摘むよう、行動することは、充分に可能だったはずです」
「…。」
輝の質問に対して、まるで不意を突かれたとでも言いたげに、ルカが黙った。―――…ルカが沈黙する、というのは、珍しい。故に、それを『違和感』と捉えたソラは、議事録代わりと、この場の会話のメモを取っていた社用端末から顔を上げて、ルカに視線を寄越す。何故なら、今の輝の指摘してきた内容への返答次第では、ルカが軍事兵器として以前に、機械的生命体としての不具合を起こしている可能性があるからだ。
程よい時間の静寂が続いた後。ルカの唇が、動く。
「…なるほどねえ。たくさんの人間たちが心身を壊すまで働き続ける理由、オレ、ちょっと分かったかもしれない」
そう零したルカの声色には、関心半分、呆れ半分といった感情が見て取れた。だが、肝心の台詞の真意が掴めない。誰もがルカが喋り出すのを待とうとしたとき。意外な方角から、意外な声が割り込んできた。
「そうだね。ちゃんと自覚してくれたなら、私はそれで良いと思うよ、ルカ…」
―――…ツバサだ。
彼女は自分のデスクの椅子から立ち上がり、静かに歩いてきて、ルカの顔を覗き込むようにしながら、彼と視線を合わせる。そして、状況の説明を始めた。
「セキュリティールームを訪れた際に、貴方はテロ事件の要因になる情報が検出が出来なかったことはおろか、今こうして輝くんが問い質している時点で、過去の自分のログを遡ることもしなかった…。おまけに、私(ホルダー)の権限だったにせよ、KALASに保管されている自分の行動記録を第三者に覗かれたことすら、貴方は初見…。
…ルカ、貴方は、『故障している』。先日、幸福劇場が此処に入り込んできたとき、キャットと琉一さんに対して、セリカ隊が正しく制御されていなかったのも、それが原因でしょう?確かに、セリカ隊の直接的な指揮権は、レイが握っていた…。でも結局、このROG. COMPANY本社に関わるセキュリティーの根幹の全ては、ルカが元締め。それなのに、セリカ隊が本来のプログラムに準じた行動をしなかった時点で、ルカはそれを検知もしなかったし、その結果、暴走も止められなかった。…琉一さんが『強かった』から、あの場ではセリカ隊が木っ端微塵にされただけで終わったけれど…。それで終わりにしているのも、おかしいよ…?セリカ隊が配備されていたのは、法務部の廊下だった…。分からない?琉一さんが居なかったら、法務部に人的被害が出ていたかもしれない…。その可能性すら、今の段階でルカの中で予測されていない…。もしそうじゃないって言うなら、此処までの話、貴方はとっくに否定している。
…だからルカ、貴方は故障している。ルカ自身が今、自覚したように…」
そのツバサの語り口は、まるで物語でも聞かせるかのように滔々としているが、その内容は紛れもなく衝撃的な現実を突きつけている他ならない。現に、静まり返ったRoom EL内には、先ほどまでの緊張感とは全く別物のそれが漂い始めた。
Room ELから見た外野、という意味では、普段からルカと接する機会が少ない方である輝、八槻、ミセス・リーグスティは勿論。ナオトも琉一も、…たった数分前まで、誰よりも先にルカの不具合の可能性を少しでも考えていたはずのソラでさえ、まさか本当に彼に不具合、…否、明確に「ルカが故障している」という事実に、面食らっているではないか。
しかし、沈黙による思考の滞留は許されなかった。ルカがソラに向かって、しかと指示を出す。
「オレに抵抗の意思は微塵も無いケド…、まあ、形式上、なるモノは必要だよね。分かってるよ。
ソラ?出来るよね?キミはオレの専属秘書官であり、このヒルカリオの中で誰よりも賢い子なんだから」
上司としてそう命じるルカの視線には、何の戸惑いは見えず。むしろ、そうして当然とばかりの感情さえ見てとれた。だが、相反するように、ソラの翡翠の眼は僅かに揺れ動いた後、その色素の薄い唇が動く。
「………グレイス隊、前へ。これより、ルカ三級高等幹部を、KALASへ連行し、収容する。道中の護送任務に入れ」
言葉尻だけでも毅然としていたのは、最早、ルカの秘書官として在るための、ソラなりの矜持だった。
―――……間も無く。
グレイス隊に囲まれたルカが、全くの無抵抗で連行されると共に。KALASまでのルカの護送任務にあたるために、ソラが慌ただしく外回りの支度を整えて、Room ELを出て行った。
此処までの光景を始終、呆気に取られた表情で見守っているしかなかった輝、八槻、ミセス・リーグスティに向かって、ツバサが事務員として口を開く。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、大変失礼を致しました。ルカ三級高等幹部の故障に関する対応は、今後、KALASに一任されるため、トルバドール・セキュリティー様への我々からの進捗状況などの報告や共有等は、一切出来かねます。ご理解ください。
何より、この度は、輝さまに当室を代表して、そしてルカ三級高等幹部のホルダーとして、私から、心より感謝申し上げます。貴方様のご指摘が無ければ、ルカ三級高等幹部の故障を裏付ける情報が引き出せなかったからです。重ねて御礼申し上げます」
ツバサはそこまで淀み無く言い切ると、丁寧に腰を折った。
to be continued...
――≪幸福劇場から、全国民の皆さまへお知らせを致します。繰り返します。幸福劇場から、全国民の皆さまへお知らせを致します。≫
各家庭のテレビ、ラジオ、防災無線のスピーカー、動画配信サービス、街頭テレビ、駅構内のデジタル掲示板に至るまで。音と画を出力するための、全てのツールから。一斉に、無邪気な少女のような声が響き渡る。
朝の支度中。登校、登園。通勤、或いは退勤。散歩に、ランニング。コンビニまでの行き帰り。さっきまで寝ていたのに起き上がった。単にぼーっと外を歩いていただけetc...
そうやって、今日という朝を消費していた人間全員が、急に見知らぬ現象に立ち会ったことにより。それぞれの手元に一番近い媒体へと、眼と耳が釘付けになる。それと同時に、人々が物理的に動いていたことにより、同じく息をしていたはずの町中の呼吸そのものが、止まった。
無邪気な少女を模した声が、発信を続ける。
――≪幸福劇場による第一脚本『アンチ・アグリー』の演出を開始致します。こちらに関しての詳しい説明は、後ほど表示されるコードからご覧いただける公式ページにて、ご確認ください。
繰り返します。幸福劇場による第一脚本『アンチ・アグリー』の演出を開始致します。こちらに関しての詳しい説明は、後ほど表示されるコードからご覧いただける公式ページにて、ご確認ください。≫
静まり返っていたはずの人々が、にわかに騒ぎ始めた。なんだ?なんだ?、と波紋のように動揺が広がっていく。
――≪それでは皆さま、どうか素敵な幸福を。≫
無邪気な声は、そう締め括る言葉を残して、沈黙した。そして空気を切り替えるかのように、各媒体に、公式ページに飛ぶための専用のコードが浮かび上がった。ラジオなどの音声ツールからは、ページのURLの音読が始まる。
皆が一斉に、公式ページへとアクセスを開始した。…が、忘れてはならない。今現在は、一般的に、朝の通勤時間帯なのである。
混乱が混乱を招き、混迷を極めようとしたところで。公共交通機関のスタッフたちや、通報を受けた警察機関は、敢え無く、大規模な交通誘導を開始することを、余儀なくされたのだった。
【Room EL】
幸福劇場の突然の発信のせいで、普段は余り遭遇しないタイプの通勤ラッシュにもみくちゃにされてしまったツバサは。半分泣きたい気持ちを抑えながら、Room ELへと無事に出勤した。
「おはようございます…」
扉を潜って、挨拶をしながら室内に入ると。…こういうときでも、自分より早く出勤しているのが、ルカとソラである。ルカはお決まりの朝の紅茶タイム中のようだが、ツバサの顔を見るなり、ティーカップを置いてから、笑顔で口を開いた。
「ちょっとアリスちゃんってば、へにょへにょ~ってなってるよ?大丈夫そ?やっぱり、朝のアレの余波に巻き込まれちゃった感じ?」
「うん…、まあ、そんな感じ…」
「大変だったよねえ。次からは何か対策を打っておくから、安心してて」
「うん、ありがとう、ルカ…」
ルカが指摘するくらいには、今の自分は疲れているように見えるらしい、と思いながら。ツバサは自分のロッカーに、荷物を仕舞う。すると、Room ELの扉が開く音がした。ツバサが視線を寄越すと、ナオトと琉一が連れ立って入ってくるのが見えた。彼女が二人に「おはようございます」と挨拶すれば、二人からも同じ言葉が返ってくる。
琉一もナオト同様、本土から通勤しているため、経路はほぼ一緒だ。タイミングさえ合えば、こうして二人が同時に打刻するのは、珍しい光景ではない。これは、ただの蛇足的な補足になるが、いつか聞いた話によると、ナオトは、妹の鞠絵と共にテイスワート邸でお世話になっているため、朝イチでシフトが入っている場合の鞠絵とも当然、琉一は鉢合わせることになるが。年頃の娘であるものの、万年ポジティブギャルマインドを持っている鞠絵は、琉一を怖がったり、変に距離を取ったりするどころか、ぐいぐいと仲良くしたがるという。そこにセイラが加われば、成人男性二人とギャル女子高生二人という割と大所帯になりつつ、賑やかで、且つ、華やかな出勤時間になるらしい。その光景を想像したツバサは、ちょっと羨ましいな…、と、心の隅っこで思ってしまったり…。
そんなことを思い返しながら、デスク回りをセットアップしていたツバサは、ふと、ソラがルカが厳しい口調で話しているのが聞こえた。
「今朝の騒動…、まさか、お前は自分が敷いているセキュリティーの側面に於いて、何も問題視していないつもりか?
今朝はたまたま大事にならなかっただけで、…一歩、否、あと半歩ほど間違えていれば、あっという間に動乱や騒動が起きていたはずだ。そしてこれから先、幸福劇場が同じ手口を使い続けるというのなら、どういった形であれ死傷者が出る危険性は多いに想像が出来るだろう?」
ソラの厳しい詰めに対して、ルカはいつもの風景を眺めているとばかりの表情をしながら、口を開く。
「ヒルカリオの中のセキュリティーについては、オレの方でちゃんと対策と強化はしておくよ。此処はオレを閉じ込めるための檻だからね。
でも、本土のコトは知らないな。あっちの話は、あっちの人間同士でやっておいてくれる?、というのがオレという軍事兵器の出す『正解』だよ。だって、そうでしょ?オレが本土でウロつくのが嫌だから、人間たちはこんな楽園都市を築いたんだから、ね?」
「…その『正解』で、本土の政治家たちが、納得してくれることを祈るしかいないか…」
「そうそう。今はそれくらいの考え方で良いんだよぅ。幸福劇場が演出するという第一脚本とやらが、一体何者なのかを、まずは拝見しないとねえ。本題はそこから始まるんだからさあ」
ルカはそこまでのやり取りをソラと交わしながら、ティーカップの中身を飲み干した。
直接会話に加わっていたわけではないので、この場では何も言うつもりは無いが。ツバサからすれば、ルカの言わんとしていることは、充分に理解が出来る。
遠い昔、ヒルタス湾の海底からルカを掘り起こし、ルカ自身にそもそもの才能があったといはいえ、最終的に破壊の軍事兵器として調整したのに、後々の悲劇を眼の当たりしたからと、勝手にルカに恐怖して、彼をヒルカリオに閉じ込めるという、現在の在り方を確立させて、その状態を今でも維持しているのは。…間違いなく、本土の人間たちの意思である。故に、ルカはあくまで、『自分はヒルカリオに繋がれたモノである』として振る舞うだけなのだ。己を閉じ込めたい檻が在るのなら、それを壊すこともさせない。だが、それ以外の話は、別問題として扱う。ルカの視点から考えてみれば、容易に想像が出来るものだ。そして勿論、これくらいのことは、ツバサでなくとも、ソラもナオトも琉一も分かっている。―――…ルカの部下になる、とは、そういうことなのだから。
Room ELの全員が沈黙を以て、納得と理解の意を示し合った。
間も無く、始業のベルが鳴る―――…。
今日の、ルカの一番最初の仕事は、『トルバドール・セキュリティーからの来客の対応』であった。先んじてソラが受けていたアポイントメールの内容の通り。Room ELへと訪ねてきたのは、輝、八槻、そして、ミセス・リーグスティの三名。何とも豪華なメンバーであるが、この面子が揃っていること自体に懸念点が挙がるのも、また然り。
ツバサが、ミセス・リーグスティが好物と公言する『紅茶の女王』こと、レミサレ・ブレンドを淹れたカップを、来客三名の前へとサーブする。
対面するルカの後ろにはソラが立ち、その手には社内用タブレットが既に起動して、待機状態に入っていた。ナオトと琉一は、各々のデスクで通常業務をこなしている。ツバサは特に指示を受けなかったが、ルカの傍に居る必要が無いのであればと、彼女もまた自分のデスクへと戻って行った。
「さて、ご用件をどうぞ。何も遠慮しなくて良いからね?だってキミたちは、既にオレの内情を知っている側の人間だからさ?」
ルカはいつものように微笑みながら、真っ直ぐに三人を見詰めて、そう言う。すると、まずはミセス・リーグスティが切り出した。
「ルカ殿。先日、本土の国会議事堂がテロ行為に見舞われたこと、そして、それを鎮圧したのが輝ほぼ一人であったことは、もうご存知でしょう?
本日は、そちらの事案に関して、輝からルカ殿へ質問したいことがあるそうですわ。是非、弊社の可愛い次期社長候補の言葉に、耳を傾けてくださいな」
ミセス・リーグスティがそう言って、自分と八槻に挟まれる形で、中央に座っている輝へと視線を寄越す。ターンを譲られた輝は、早速とばかりに話し始めた。
「では、お言葉に甘えて。
ルカさん、先日のテロ事件が起こる数日前、より具体的に言えば、幸福劇場の招致に成功した紫雨百合花先生の国会での演説時、貴方は国会議事堂のセキュリティールームを訪問していますね?議事堂のセキュリティールームの入退室記録と、トルバドール・セキュリティーが飛ばしている追跡データ、そして、ツバサさんのホルダー権限により閲覧可能であるKALASの正式なルカさんの行動記録…、これら全てが証明してくれています。まず間違いないとこちらでは判断していますが、一応、聞いておきます。…此処まで、何か異論はありますか?」
「キミが問うてきたコトそのものに異論は無いし、間違いは一つも見当たらないんだケド…。ちょっとだけ、裏付け用の確認作業をさせてね?」
輝の質問に対して、ルカはあっさりとした表情で返した後。すぐにその深青の瞳を動かして、ツバサが座っているデスクへと視線を投げると同時に、薄付きのリップが塗られた唇を開いた。
「アリスちゃん、どういうコト?オレに隠れて、遊んじゃうなんて。そんなに浮気調査がしたかったの?オレはいつだってキミのコトを考えているのに~?」
「…輝くんから事情はちゃんと説明して貰ったし、私自身も納得したから。だから、輝くんにとって、今回のルカの行動記録を見ることは、当然の権利だと思ったの…。ルカのホルダーとしてKALASの情報の閲覧を、彼に許可した理由は、たったそれだけ…。あ、浮気は疑っていないよ…」
ルカが意地の悪そうな言葉だけをツバサへと放り込む。だが、それに返答する彼女は口調こそ淡々としているものの(最近、この辺が兄のソラに似てきている…)、特段、この会話の本質に対する重要性を意識している素振りは見せない。否、むしろ、素振りを見せないからこそ、当然と捉えているからこそ、逆に『ルカのホルダーとしての権利の一部を行使した』ことへの責任を負っているのだ。…本当に良い仕事の過程ほど、安易に他人へは見せないものである。
「あ、そう?まあ、そういうことなら、別に問題は無いね。オッケー、確認作業終了。
じゃあ、話を戻そうね。はい、輝、続けて良いよ。どうぞ?」
ツバサへの確認をさっさと終えたルカは、恐ろしいほどの切り替えの早さを見せつけながら、輝に会話のターンを譲った。輝が続ける。
「ありがとうございます。では、本題に入ります。
ルカさん、貴方がセキュリティールームに訪問した際、その数日後に起こったテロ事件の可能性、…そう例えば、既に室内に居たであろう内通者の特定、議場内に設置されていた爆発物の気配、偽物が紛れ込んでいた警備列の挙動の乱れなど…、…そういったモノを、本当に貴方は何一つ、検出していませんでしたか?
もし検出していなかったのであれば、それでこのお話は終わりですが…。万が一、あの時点で、テロ事件への要因を少しでも検出していたのであれば、貴方が事前に芽を摘むよう、行動することは、充分に可能だったはずです」
「…。」
輝の質問に対して、まるで不意を突かれたとでも言いたげに、ルカが黙った。―――…ルカが沈黙する、というのは、珍しい。故に、それを『違和感』と捉えたソラは、議事録代わりと、この場の会話のメモを取っていた社用端末から顔を上げて、ルカに視線を寄越す。何故なら、今の輝の指摘してきた内容への返答次第では、ルカが軍事兵器として以前に、機械的生命体としての不具合を起こしている可能性があるからだ。
程よい時間の静寂が続いた後。ルカの唇が、動く。
「…なるほどねえ。たくさんの人間たちが心身を壊すまで働き続ける理由、オレ、ちょっと分かったかもしれない」
そう零したルカの声色には、関心半分、呆れ半分といった感情が見て取れた。だが、肝心の台詞の真意が掴めない。誰もがルカが喋り出すのを待とうとしたとき。意外な方角から、意外な声が割り込んできた。
「そうだね。ちゃんと自覚してくれたなら、私はそれで良いと思うよ、ルカ…」
―――…ツバサだ。
彼女は自分のデスクの椅子から立ち上がり、静かに歩いてきて、ルカの顔を覗き込むようにしながら、彼と視線を合わせる。そして、状況の説明を始めた。
「セキュリティールームを訪れた際に、貴方はテロ事件の要因になる情報が検出が出来なかったことはおろか、今こうして輝くんが問い質している時点で、過去の自分のログを遡ることもしなかった…。おまけに、私(ホルダー)の権限だったにせよ、KALASに保管されている自分の行動記録を第三者に覗かれたことすら、貴方は初見…。
…ルカ、貴方は、『故障している』。先日、幸福劇場が此処に入り込んできたとき、キャットと琉一さんに対して、セリカ隊が正しく制御されていなかったのも、それが原因でしょう?確かに、セリカ隊の直接的な指揮権は、レイが握っていた…。でも結局、このROG. COMPANY本社に関わるセキュリティーの根幹の全ては、ルカが元締め。それなのに、セリカ隊が本来のプログラムに準じた行動をしなかった時点で、ルカはそれを検知もしなかったし、その結果、暴走も止められなかった。…琉一さんが『強かった』から、あの場ではセリカ隊が木っ端微塵にされただけで終わったけれど…。それで終わりにしているのも、おかしいよ…?セリカ隊が配備されていたのは、法務部の廊下だった…。分からない?琉一さんが居なかったら、法務部に人的被害が出ていたかもしれない…。その可能性すら、今の段階でルカの中で予測されていない…。もしそうじゃないって言うなら、此処までの話、貴方はとっくに否定している。
…だからルカ、貴方は故障している。ルカ自身が今、自覚したように…」
そのツバサの語り口は、まるで物語でも聞かせるかのように滔々としているが、その内容は紛れもなく衝撃的な現実を突きつけている他ならない。現に、静まり返ったRoom EL内には、先ほどまでの緊張感とは全く別物のそれが漂い始めた。
Room ELから見た外野、という意味では、普段からルカと接する機会が少ない方である輝、八槻、ミセス・リーグスティは勿論。ナオトも琉一も、…たった数分前まで、誰よりも先にルカの不具合の可能性を少しでも考えていたはずのソラでさえ、まさか本当に彼に不具合、…否、明確に「ルカが故障している」という事実に、面食らっているではないか。
しかし、沈黙による思考の滞留は許されなかった。ルカがソラに向かって、しかと指示を出す。
「オレに抵抗の意思は微塵も無いケド…、まあ、形式上、なるモノは必要だよね。分かってるよ。
ソラ?出来るよね?キミはオレの専属秘書官であり、このヒルカリオの中で誰よりも賢い子なんだから」
上司としてそう命じるルカの視線には、何の戸惑いは見えず。むしろ、そうして当然とばかりの感情さえ見てとれた。だが、相反するように、ソラの翡翠の眼は僅かに揺れ動いた後、その色素の薄い唇が動く。
「………グレイス隊、前へ。これより、ルカ三級高等幹部を、KALASへ連行し、収容する。道中の護送任務に入れ」
言葉尻だけでも毅然としていたのは、最早、ルカの秘書官として在るための、ソラなりの矜持だった。
―――……間も無く。
グレイス隊に囲まれたルカが、全くの無抵抗で連行されると共に。KALASまでのルカの護送任務にあたるために、ソラが慌ただしく外回りの支度を整えて、Room ELを出て行った。
此処までの光景を始終、呆気に取られた表情で見守っているしかなかった輝、八槻、ミセス・リーグスティに向かって、ツバサが事務員として口を開く。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、大変失礼を致しました。ルカ三級高等幹部の故障に関する対応は、今後、KALASに一任されるため、トルバドール・セキュリティー様への我々からの進捗状況などの報告や共有等は、一切出来かねます。ご理解ください。
何より、この度は、輝さまに当室を代表して、そしてルカ三級高等幹部のホルダーとして、私から、心より感謝申し上げます。貴方様のご指摘が無ければ、ルカ三級高等幹部の故障を裏付ける情報が引き出せなかったからです。重ねて御礼申し上げます」
ツバサはそこまで淀み無く言い切ると、丁寧に腰を折った。
to be continued...
