第六章 カーテンコール
ユナが、ヒルタス湾の顎先に降り立っている。
先ほどまでこの地は、己が招いた厄災が振り撒かれた結果、戦場になっていたという事実。そして、それらを数多の人間と、アンジェリカという人造母性と、ルカという軍事兵器が、綺麗に片付けてくれた、…否、片付けを任せてしまったという現実。重たい後悔と罪悪感を抱くには遅すぎると、ユナは己を激しく自責する。
何より。固執した紫雨一族の開祖、紫雨潤二朗が眠っている地で、…その子孫たるユナ自身が、争いの種を蒔いたことが。本当に許しがたいと、今のユナは思えた。
直系の、分家筋だのとこだわるのであれば。その感情を嫉妬や怨嗟に置き換えるのではなく、血脈に宿る矜持を護るために、人間として誇り高く生きるべきであった。
我が国の政治の頂点に立ちながら、この器の矮小さよ…。先祖に顔向けできないという言葉の真の意味が、ユナの昏く沈んだ責心に突き刺さる。…そのとき。
「叔母さま…」
「! 百合花…?どうして…?」
世界広しと言えど、ユナを「叔母さま」と呼び慕ってくれる人物は、たった一人だけ。―――百合花である。
呼ばれて振り向いたユナの視線の先には、やはり百合花が立っていた。流石にスーツ姿ではなく、呼吸のしやすいワンピースに着替えているが。…袖口や、スカートの裾から、僅かに覗いた肌に巻かれた包帯や、キズテープが貼られたのが見えてしまい、ユナの中の悲哀の感情が増幅する。ああ…、私は姪っ子に、このような傷の数々を与えてしまった…。
「叔母さま、あの…。ルカ三級高等幹部から、こちらの端末を預かりました…。曰く、「二人一緒に、この中の映像を見てね。今回の騒動は、紫雨一族の諍いでもあるんだからさ」と…」
百合花がそう言いながら、タブレット端末を出してくる。…わざわざルカが持たせたうえに、「ユナと百合花が揃ってから、閲覧しろ」と彼女へ言い含めたらしい。
女二人は、軍事兵器の言いつけを守ることを決め、肩を並べて、同じ端末を覗き込む。百合花の指先が、画面を軽くタップすると、映像が再生され始めた。
果てしない海と、接岸された艦隊の数々が映し出される。
『ルカ』
誰かが、ルカの名を呼ぶと、カメラが動き、真横を映した。…どうやらこの映像は、ルカのアイカメラによる撮影、つまり『ルカの一人称視点』らしい。そして、ルカを呼び、彼が視線を寄越した先に立っていたのは、旧軍の制服を着込んだ軍将校であった。
その顔立ち、姿形。見まがうものか。百合花とユナは揃って、息を呑む。―――この軍将校は、生前の紫雨潤二朗だ…!
ということは、この映像は、『ヒルタス湾の悲劇』と名高い、あの『ルカの初出撃』寸前の録画データということになる。今まで、秘匿された歴史書と、僅かな口伝と、紫雨一族に遺された潤二朗の英雄神話でしか語られてこなかった、あの日の一端だ。映像は進んでいく。
潤二朗が、口を開く。
『貴官に素質があったのは事実にせよ、…貴官を軍事兵器という円環に押し込め、あまつさえ、完全に制御しようなどという我ら人間の傲慢さを、どうか許してほしい。
この作戦がどのような結末を迎えたとしても、私と、私についてきてくれる者たちは全員、貴官を恨むことはない。……だが、後世の者たちは違うだろう…』
ルカは無言を貫いている。もしくは、この時期には未だ『喋る』という機能が実装されていなかった可能性もあった。映像の中の潤二朗は続ける。
『歴史は繰り返すが、人間は常に忘却する。そして、都合の良いことだけを抽出し、囃し立てる。これらは全て、人類同士の戦争が無くならない証明だ。私は軍人だが、…時折、考える。私のような戦う側の人間こそ、忘却し、繰り返す側の人間たちを助長しているのではないか、と。……はは、私はこの期に及んで、何を言っているのだろうか…。最後の戦場を前にして、急に耄碌したのかもしれないな』
そこまで話した潤二朗は、おもむろに被っていた軍帽を手に取り、ルカへと向き直った。ルカが視線を逸らす仕草は見せない。むしろこの画角から鑑みると、ずっと潤二朗のことを直視しているのだろう。軍帽を胸の前に掲げるかのように持った潤二朗が、ルカへと言葉を重ねる。
『ルカ、…どうか、貴官は、『自分自身を裏切るような真似』だけはせず、生き抜いてくれ。
これから出撃した後も、後方の我らのことを考えるもよし、無視をするもよし、両方を取るもよし。…貴官は、軍事兵器であり、人間を遥かに凌駕した存在だ。
…自分を裏切るな、ルカ。そして、生きてくれ。…その先で、我が国の未来を―――』
―――そこで、映像が急に途切れた。ぷつん、という音だけを発して。余韻や情緒などは残さず。ただただ画面をブラックアウトさせた、百合花の手の中のタブレット端末は、…もう何も再生するものは無いと、言外に告げている。
百合花とユナは、二人して、涙を流していた。開祖たる潤二朗の姿と声が見聞き出来たことへの敬意であり、何より、それを開示してくれたルカへの感謝の気持ちが溢れている。やがて、どちらからということもなく、二人は互いに抱き締め合った。百合花の手から離れたタブレット端末は、ボロボロになったコンクリートの地面へと落下した後、その輪郭を崩し、あっという間に影も形も残さず、消え去る。おそらく、映像の再生が終わった時点で、タブレット端末ごと消滅するよう、先んじてルカが設定して、同調変換で端末を作り上げたのだ。だが、今の二人に、そこまでのことを考える余裕は無い。
百合花とユナは、ただただ、泣き叫ぶ。直系の百合花、分家筋のユナ。だがしかし、どれだけ血筋が枝分かれしようとも、源泉は同じ。二人にとっての全ての始まりは、紫雨潤二朗という、一人の立派な将軍にして、人間の世に落とし込まれた軍事兵器(ルカ)へ誠実に向き合った最初の男なのだ。
いがみ合うことも、周囲の勝手な評価に振り回されることも、不要。本当に必要なのは、同じ血を分けた人間同士で、寄り添うことだ。
暫く、泣くことしか出来なかった百合花とユナだったが。…互いに落ち着いてきた頃合いになって、背後で待機している人物に、やっと視線を寄越す。本当は、ずっと、この人物がそこに居たことは知っていたのだが、……こちらを慮ってくれる、その配慮に甘えて、知らぬふりをしていた。
涙を拭いきった二人は、姿勢を正す。そして、待機していた人物が、重たい口をようやく開いた。
「…総理。このような形での再会…、非常に残念に思います」
警察の制服を着た、老齢の男性だった。百合花も顔と名前は知っている。―――彼は…。
「敷場警視総監殿。…私の犯した罪は、計り知れないほど重いのです。
むしろ、顔見知りとはいえ、警視総監殿から手錠を頂戴するのであれば、…私は報われる気持ちですらありますわ」
ユナがそう言うと、軽くこうべを垂れた。…そう。ユナを逮捕する役割を拝命したのは、現職の警視総監。名を、敷場サイ(しきば さい)と言う。
一国の総理大臣が、国家への侵略行為そのものを手引きしたとなれば…、…いくらユナ自身が相手に洗脳されていたも同然の状態だったとはいえ、「真実は何も知りませんでした」では済ませられない。
この世には『ごめんで済めば、警察はいらない』というニュアンスの言葉が在るらしいが、今回ばかりは『ごめんも警察も、両方必要』なのである。眼に見えるカタチの謝意と誠意と、反省の意識。その理想と妥協と、政治的パフォーマンスが入り混じり、屈折し合った結果。導き出された答えが、『警視総監自らが、総理大臣に手錠をかける』というモノだった。それだけの話。
敷場警視総監が、ユナに歩み寄り、ユナは自分の両手を前へと差し出した。
そして、百合花が見つめるなか、―――ユナの手に、冷たい手錠が、かしゃん、と嵌る。
「時刻、十六時三十二分。…被疑者、逮捕」
敷場警視総監の声は、至極、静かなものであったが…。百合花にとって、その声はまるで脳の裏までひりつくかと錯覚するかのように、妙に響いて聞こえた―――…。
―――…。
あれから、何ヶ月もの時間が過ぎた。
ユナの罪は、開示しても構わない部分は、つまびらかに開示された。おかげさまで、『現役の総理大臣による、建国史上最大の汚職!』、『太古の血統を受け継いだ女傑は、国を売った極悪人だった!』などという盛大な文句が飛び交い、国民なら知らぬ者は居ないとまで言われる、大きな騒動になった。一部では、明らかにおかしな思想が蔓延り、市民デモなども頻発したが。時間が経てば経つほど、人々の興味は移り変わるのが現代社会。忘れることは、ある種、薄情の極みとも取れる行動だ。だが同時に、あれだけの悲劇や狂気を簡単に忘却してしまえるほど、彼ら彼女らの眼の前には楽しいことが在るのだ、とも解釈しても良いだろう。―――…紫雨潤二朗が言った『歴史は繰り返すが、人間は忘却する』という台詞は、正しかった。今はその証明が終了し、…そしてまた別の議題を以てして、いつかのタイミングで、仮説と実証が再び始まるだけ。
ユナは、誰にも知らされていない収監先にて。手元に広げたノートに、鉛筆で手記を書き続けている。
―――…。
百合花は、ユナの姪ということもあり、謂れなき誹謗中傷も、中身のない誉れの言葉も、一身に浴びることになった。しかし、彼女は逃げなかったし、言い訳もしなかった。ただただ、全ての声を受け止めきった後、彼女は静かに国会議員の椅子を降りた。
それから、後日。百合花は、紫雨一族を出奔する。政治家一筋であった淑女が単身で何をするのかと思えば、―――…百合花はその足で、リーグスティ家の門を叩いた。そして、対応したミセス・リーグスティを真正面に見据え、百合花は決意を固めた言葉を投げる。
「私は、これから先の生涯を賭けて、輝さんの支えとなりたい所存です。
お願いいたします、ミセス・リーグスティ!どうか、この世間知らずの小娘を、リーグスティ家に相応しい嫁として、厳しくしつけてくださいませ!」
百合花のその宣言を聞いた直後、邸宅の床が抜けたと勘違いするほどの音を立てて、椅子から転がっていったのは、ミセス・リーグスティ———…ではなく。その隣に座っていた輝と、彼の後ろに控えていた矢槻であった。
輝・リーグスティ、十六歳。職位、トルバドール・セキュリティー次期社長候補。突然の花嫁候補、出現。まさに、青天の霹靂であった。
―――…。
そして、同じようなタイミングで、同じようなイベントが発生している。場所は変わって、ROG. COMPANY本社。…の、社長室。
まだまだ仕事に没頭していたいレイジは、重役たちが勝手に探してくる自分の縁談相手をあしらうことが、酷く億劫であった。断るのが前提とは言え、いい加減な対応をすれば、会社のブランドに傷がつく。社長として、それだけは回避したい。が、断れば断るほど、縁談の数は増えていく。
コレが一体、どういう仕組みになっているかと言うと…。社交界では高嶺の花として、遠巻きに見られていたレイジが、名家の令嬢から、旧家の姫まで、『相応しい縁談先』に対して、軒並み、断りを入れてしまっているため、……(言い方が悪いのだが)そうでもない家柄の娘にも「ワンチャン狙える」という勘違いと、負のループを、大量発生させてしまっているのだ。
今日も今日とて、縁談の断りメールを書いて、一斉送信しようとしたレイジが居る。…その様子を、彼のデスクまで来ていた優那が見てしまう。レイジという初恋相手に押し付けられた縁談の山に嫉妬する自分と、しかし自分はその候補リストにすら入れて貰えない身なのだという気持ちで板挟みになり、優那は歯痒い思いだけを募らせていく日々であった。―――のだが、忘れてはいけない。優那は、あの輝の双子の妹にして、ミセス・リーグスティの娘。そして、十割自力とはいかなかったものの、一度は、母のミセス・リーグスティ譲りの狡猾さを発現したことがある。……長々と失礼したが、要するに、優那はたった今、『閃いた』。レイジを縁談の山から遠ざけ、優那を彼の嫁候補にあげてもらえる知略を…!
処理済みの書類にサインを求める素振りに合わせて、優那は「何気なく、メール作成の画面を見てしまった」と言わんばかりの表情と口調で、口を開く。
「…社長は優しいので、嘘でも「もう相手がいる」とは書けませんものね」
「そう書ければ一件落着なのは、流石に俺でも分かってんだわー…。あと、俺が優しいとか以前に、一人の人間として、嘘はよくない」
優那の言葉に、レイジはダルそうに答えた。ダルそうなのは不遜なのではなく、ただの素。最近、レイジが仕事上であっても、社長室に直接通している相手は、こういった素の自分をある程度は見せられる人間、…と、ルカだけになっている。それすなわち、優那はレイジに信頼されており、エレベーター内に閉じ込められた際にも、手ずから救出して貰えるほどには、大切にされているのだ。
優那がさり気ない口調のまま、続ける。
「嘘が駄目なら、現実にしてしまいましょう。無いなら創る。私たちモノづくり界隈の基本ですよ、社長」
「………、…ごめん、優那。俺、今、すごく嫌な予感がするんだけどさー…」
一言目で勘付かれるのは予想外ではあったものの、優那はレイジに言葉を投げるのを止めない。
「流石です、社長。デザインは直感であるという恩師の言葉を思い出します」
「褒めてねえな?俺を追い込んでるな?よし、逃げたろ、―――ッ!?」
明らかに優那が「よからぬこと」を考えていることを確信したので、撤退の姿勢に入ろうとしたレイジだったが。―――自分のデスクの前に、社長室におわす三人の女傑、…ローザリンデ、セイラ、鞠絵が立っていることに気が付き、思わず硬直する。
……ちょっと判断が遅かったのかもしれない。そう思いながら、レイジは天を仰いだ。
―――…。
エルイーネは、正式にKALASの主任へと復帰した。先のルカの故障を完璧に治したのは間違いなく彼女であったし、何より、エルイーネの復帰を推薦したのは、ルカ自身だったと言う。そもそも、ルカの故障の際に、エルイーネが再召喚されたのも、ルカの意思だったようだ。
大悪事をしでかし、それが暴露されたエルイーネが再起不能になったのは、KALASに務めている者なら誰でも知っている。故に、あの状態から、彼女は一体、どうやって此処まで持ち直したんだ…?と誰もが疑念を抱き、時には直接、彼女へ質問をする猛者も現れたが。…エルイーネは、頑として、自分の復活劇を語ろうとはしないと言う。
そんなエルイーネが、ある日。ROG. COMPANY本社の前で、退勤してきたナオトを待ち伏せした。彼女は、ナオトの顔を見るなり、こっちへいらっしゃいと言わんばかりに、手を振り、裏手の駐車場まで彼を導く。
まばらに停まった車の間で、エルイーネはナオトへと早速、提案を出した。
「鈴ヶ原先生。私と組まない?
ルカ様に組み込まれている、メンタルプログラム関係の医療監修が欲しいと思っていたところなの。同時に、KALASの産業医として登録するから、…給料はたっぷりと弾ませて貰うわ。福利厚生も、私が不在だった間に、ソラ秘書官が整理整頓してくれていたおかげで、ばっちり快適よ。
更生プログラム側だって、先生がKALASに転属することは問題視しない。むしろ、鈴ヶ原先生の自主性が認められて、評価が上がる可能性すらある。
…先生だって、更生プログラムから早く抜け出したいでしょう?つまり、これは悪い話ではないはずよ。どうかしら?」
そこまで一気に言い切ってから、エルイーネは「返事は急かさないわ」と付け加える。そして、その場を後にするべく、ナオトの方へと歩き始めた。そのすれ違いざま、エルイーネはナオトが着ている通勤用のコートの胸ポケットに、自分の名刺を滑り込ませる。―――…口先の提案文だけで、正式な書類を出してこなかったあたり。どうやら、この話はエルイーネの勝手な計画なのかもしれない。
エルイーネ含む、『比類なき悪女たち』を眼にしてきたナオトの視界に入り込むのは、いつもこう言った類のモノたちばかりだ。
ナオト自身は前科がある身の上なので、更生プログラムを受けていること自体に不満はないのだが…。……時折、考える。
―――「僕には罪を償う機会が与えられている分、既に救われているのかもしれませんね」と…―――。
―――…。
琉一はここ暫く、Room ELへと出勤していなかった。現在、ソラが休暇を取っているため、あそこに居ても、自分に仕事が回ってこないためである。あくまで琉一の本拠地は、河崎法律事務所なのだから。
今日も今日とて。隣の席の岩路から飛んでくる軽いジョークを、重めのツッコミでぶった切った琉一は。定時にきっちりと仕事を終えてから、事務所を退勤した。
帰宅時間が被った岩路から「一杯引っかけようぜー」と誘われるものの、生憎、独身の岩路とは違い、琉一は妻帯者である。妻への事前の断りもなしに飲みに歩けるほど、今の琉一は身軽な立場ではなかった。
…というのは岩路に向けた、実に立派な建前で。本音は、『本土の繁華街の裏側では、傭兵としての自分の面が割れていることが発覚しているから、行きたくない』である。先の幸福劇場の騒動で、あちらこちらに出入りを繰り返したり、アレコレと裏事情に手を伸ばした結果だ。まさに、身から出た錆。…故に、今、迂闊に夜の街を歩けば、何処かしらから喧嘩を吹っ掛けられそうなのである。琉一ひとりであれば、いくらでも返り討ち上等だが。…一般人の岩路を巻き込むのは、流石に申し訳ない。
そんなこんなで。無事に、居宅へと帰った琉一は。玄関先では『いつもの冷たい対応』で出迎えた妻・アデリーの後ろ姿に着いていき。リビングへと入ってから、使用人たちからアデリーが「OK」のサインを貰った瞬間、―――盛大な勢いで、己へと飛びついてきたアデリーを、しかと抱き留めたのである。
「ああああーーーーー!!琉一さんーーーー!!アデリーはこの瞬間のために生きておりますわーーーー!!だからこれからも、どうぞ無事であってくださいませ!!アデリーの愛する旦那様ーーー!!」
「今日は一段と声が出ているようですね。それに腕力が微増しているようで。……え?なんか鍛えてるってこと?」
仮面夫婦の演技を脱ぎ捨てたアデリーが、本心を曝け出し、琉一に好き好きコール&ハグをしているなか。琉一が拾い上げた違和感は、彼の口調を思わず『自然体』に戻すほどであった。そもそもアデリーは幼い頃より、病弱を理由にして外歩きはおろか、運動やスポーツの類も忌避していた人間だ。そのせいか、現在でも殆ど、彼女が外を出歩くことはない。…それなのに、アデリーの腕力が僅かに増している気がする…?声にも張りがある…?
だが、微妙なラインの予感を覚えた琉一から、ささーっと離れたアデリーが、話題を切り替える。
「アデリーの筋トレ計画については、また後ほどお話しますわ。
…それよりも琉一さん。ステルバスの実家より書簡が来ておりますのよ。宛名こそ琉一さんになっておりますが…、これが父の筆跡である以上、間違いなく、父の個人的な連絡などではありません」
アデリーがそう言いながら、使用人から受け取った未開封の手紙を、琉一へと差し出す。彼女の言う通り、住所、宛名、差出人に至るまで、その筆遣いは間違いなく、アデリーの父、つまり琉一からすれば義父のモノであった。
開封すれば、たった一枚の便箋が出てくる。そこに書かれていた内容は―――…。
「…概ね、アデリーの予測通りです。エミリエさんが、近々、お見えになるようですよ。…色々と準備をしなければいけませんね。頭が痛い…」
「大丈夫ですわ。エミリエお姉様は、アデリーと琉一さんの『仮面夫婦』を全く見抜いておりません。準備なんて、紅茶とお菓子くらいですの。このアデリーが全て手配しておきますから、琉一さんはお仕事に専念なさってくださいませ」
表情が渋くなる琉一に対して、案外と楽観的なアデリーの受け答え。
この仮面夫婦を化けの皮が剝がれる瞬間が、もし来るとすれば。―――…それは、この世界の常識がひっくり返るときだ。とか、ナントカ。
―――…。
元幸福劇場のマルギット、ノア、キャットは、現在、ヒルカリオ警察保安部が用意した隔離室にて、過ごしている。大師の逮捕劇に割り込んできた『エミリエ教官』の指示通り、三人は警察保安部へと出頭した。そして逮捕され、割と長時間の取り調べを受けた後、この隔離室へと繋がれた。
二十四時間の監視。消灯後の就寝時以外では、二時間に一度、部屋の備品チェックと、身体検査。食事は一日三回で、午前十時と午後三時には、お茶と軽食が用意される。娯楽は週末を迎える度に増えていく文芸書、音楽CD、ボードゲームたち。そして、毎夜一時間の『プリンス・テトラの歴代アニメ作品の視聴会』だった。…特筆するべき点は、元々貧民街出身で、娯楽に疎いノアとキャットはともかく、シェルターシティでは上層民、つまり富裕層の娘だったはずのマルギットさえ、たったこれっぽっちの娯楽にすっかりと夢中になっているということである。
しかし、そもそもの話。三人が生まれ育った世界は、深刻な環境汚染のせいで精神的な寄る辺がなく、政府主導で国民間に明確な格差が生まれていたような場所だった。おまけに大師のような、極めて独裁性が強く、他者への排斥思考が根強い者が『指導者』として君臨していた始末…―――。「それはまあ、こうなるわな…」と、警察保安部の誰もが思った次第である。
大師は幸福劇場に『幸福』という名前を付けながら、三人を駒として扱った。
一方、ヒルカリオ警察保安部は『隔離室』という、どう考えても幸福とは程遠い名前の場所で、三人に初めて本当の意味での生活を与えている。
幸福劇場という名前を冠していた者たちが、幸福というものを初めて知ったのは、―――劇場の外であり、それらを動かすための脚本と演出から外れた、この現実世界だったのだ。
―――…。
ソラが、長めの休暇を取ってからというものの…。Room ELの業務量が、明らかに目減りした。ルカがレイジに向かって、「オレたちを給料泥棒にでもするつもり?」と言い放つほどには、減ったのである。
だが、レイジから返ってきた答えは、Room ELにとって些か斜め上な内容であった。
「ソラさんが勝手に引き受けていた仕事が多すぎただけ。仮にも社長の俺が言っても聞く耳なんか持たないし…。
それどころか、ソラさん自身の処理速度がレベチだったせいで、社長室が他部署から変なクレーム貰ってたくらいだっつーの。
『ソラ秘書官が仕事を持って行きすぎるから、せっかくの新卒入社も育たないし、他の社員たちもサボることばかり覚えていく。怠け者が増えていく一方だ』って…」
要するに、ソラの天才性と、勤勉さと、しごできレベルが高すぎたせいで、他の社員が怠惰になっていた、ということだ。
もしこの世に『怠惰を司る者』が居るとすれば、それは『誰が見ても常にダラけているような人間たち』ではなく。逆にソラのような『何でもできるし、やってあげてしまう人間が一人だけ』なのかもしれない。彼を中心にして、周囲が勝手に堕落していくという縮図。…地獄すぎる。
その話を聞いたツバサが、実に嫌そうな表情をして、独り言ちた。
「私のお兄様って…。ダメ人間を無限製造しちゃう系だったんだ…。
顔面良すぎて他人をすぐ魅了するくせに…?いやでも…、上辺だけで擦り寄ってきた人間には突っぱねる台詞が多いし…。お兄様はイケメンの自覚があるタイプの、他人を寄せ付けないキャラのはず…。なのに、完全無意識で、弊社を人員システム面から傾けているの…?自分の兄が傾国の男だった件について…」
辛辣な妹である。「この妹ありにして、あの兄がある」とでも表現するのが妥当だろう。だがしかし、このような無知蒙昧な言葉が、今後、二度と使われないことを祈りたいものだ。
よもや、優秀過ぎたが為に、自分が勤める会社そのものを傾けていたなどと。稀代の天才秘書官・ソラ(※休暇中)は、微塵も知りもしないで。
現在進行形で、自分の妹・ツバサに『調子に乗ってデリバリーを取りすぎたから、今夜、食べに来てくれ。酒もある。』と呑気にメッセージを送信してきているのである。
―――…。
伝票の計算を終えたツバサが、それらを纏めたデータをルカのデスクまで持って行く。受け取ったルカは、「ありがとう」とだけ言い、すぐに視線をパソコンの画面へと戻した。その横顔を見たツバサは、ふと思い立って、彼に質問をしてみる。
「ねえ、ルカって…、今、『幸せ』なの?」
その問いかけを聞いたルカは、「うーん?そうだなー?」と呟くように零しながらも、暫し己の考えを纏めようと試みている。だが、ルカはキーボードを打ち込む手を止めることなく、視線が高速で流れていくデータ上の数値を追うこともやめない。
ルカはいつも、こんな感じだ。表向きは眼の前のことに集中しているかのように見せていても、彼は人間には見えない場所で、常に膨大な数のマルチタスクをフル稼働させて、この世界をあらゆる側面から観測し続けている。全ては軍事兵器としての己の任務を全うするため。そして、ヒルカリオを護るためである。
「んー…。幸せ、かあ」
ルカはそれからも暫く考えた後、ようやく小さく笑った。それでも、キーボードを打つ指は止まらない。
「……たぶん、幸せなんじゃない?」
「たぶん?」
「うん、だってさ」
そこで一度だけ、ルカの視線が画面から外れる。隣に立つツバサへ向けられた深青の瞳は、いつもの無神経そうな笑みを浮かべていた。だが、声には確かな『実感』がある。
「今日もアリスちゃんが俺の傍に居てくれて、ソラもちゃんと休暇を取ってくれている。レイジもきちんと社長業をこなしているし、再起動した母さんも元気で駆け回ってる。あれほどの騒動を引き起こしたユナたちも、生きてる。
―――ヒルカリオは、まだちゃんと此処にある。それで、十分じゃない?」
ルカの答えを聞いたツバサは、少しだけ黙った。沈黙が同意とは取れないが、それでもルカからすれば、『受理された』というサインの代わりとしては充分な価値がある。なんて言ったて、ツバサはルカのホルダーなのだから。
ルカは再び画面へ視線を戻し、続けた。
「オレってば、昔は『生きる』ということを、軍事兵器としての任務の継続条件だと思ってたんだよね。実際、潤二朗には『自分を裏切るな』、『生き抜いてくれ』って言われちゃったしさあ」
「……うん、そうみたいだね」
ツバサの相槌は重たいものだった。だが、ルカは軽い口調で会話を繋げる。
「でも今は、ちょっと違うんだ。きっとね」
そこでルカは、ほんの僅かな瞬間だけ。あの無神経そうな表情を引っ込めて、代わりに無邪気な子どものような笑みを浮かべて見せた。
「オレが護り、生きてて欲しい子たちがたくさんいるから、オレは此処に留まっているワケ。少なくとも『生命活動をしている』という意味では、それもオレが『今も尚、生き続けている』と同義でしょ?―――そういうコトだよ」
そこまで言ったルカは、やっとキーボードの操作を止めて。その指先で、デスクの隅にいつも置いている、硝子製の小瓶の蓋を開けた。中身も変わらず、同じ会社の製品の、同じキャンディである。その摘まみ上げた一粒の個包装を、ルカは丁寧に開けて、本命の飴玉を取り出した。
そして、何の躊躇いなどありもしないと言わんばかりに、飴をツバサの口元まで持って行く。…―――ツバサもまた、その甘いイチゴ味の粒が、口内に放り込まれるのを、受け入れた。
―――…。
今は舞台袖にすら控えることのない、人間たちが。次なる物語のために、準備を進めているのかもしれない。
カーテンコールを浴びるには、時代は未だ早すぎて、人類の歩みは俄然遅すぎる。
何より、この楽園都市・ヒルカリオから、悲劇の下敷きから為した文明の灯と、その悲劇の中心点だった軍事兵器からの守護、その双方が消えることが無い限り。此処で生きているモノたちの安住が沈むことは無く、陰に潜むことで利益を得る輩たちは益々息を潜めるしか出来ないのだ。
だがそれでも。人々は生きている中で、己の人生を渡る中で、各々が常に考え、それぞれの知恵を絞ることを忘れない。
『幸福』とは、この世界だけの人間による、この世界だけの人間のための、『ただの正解のひとつ』に過ぎないのだ。
いつか消えて無くなるかもしれないと怯える必要はなく、どうせ消えてなくなるのならと溺れる謂れもない。
何故なら、本物の脅威は静かに牙を研ぎ、仮初の希望は泡沫と散るだけだ。
知らないモノ、考えが及ばないモノにまで、恐怖することも悦ぶことは、本来、不要であろう。
それらを請け負うための正当な役割は、誰かが、何処かで、担っているはずだから―――…。
This story is next...?
先ほどまでこの地は、己が招いた厄災が振り撒かれた結果、戦場になっていたという事実。そして、それらを数多の人間と、アンジェリカという人造母性と、ルカという軍事兵器が、綺麗に片付けてくれた、…否、片付けを任せてしまったという現実。重たい後悔と罪悪感を抱くには遅すぎると、ユナは己を激しく自責する。
何より。固執した紫雨一族の開祖、紫雨潤二朗が眠っている地で、…その子孫たるユナ自身が、争いの種を蒔いたことが。本当に許しがたいと、今のユナは思えた。
直系の、分家筋だのとこだわるのであれば。その感情を嫉妬や怨嗟に置き換えるのではなく、血脈に宿る矜持を護るために、人間として誇り高く生きるべきであった。
我が国の政治の頂点に立ちながら、この器の矮小さよ…。先祖に顔向けできないという言葉の真の意味が、ユナの昏く沈んだ責心に突き刺さる。…そのとき。
「叔母さま…」
「! 百合花…?どうして…?」
世界広しと言えど、ユナを「叔母さま」と呼び慕ってくれる人物は、たった一人だけ。―――百合花である。
呼ばれて振り向いたユナの視線の先には、やはり百合花が立っていた。流石にスーツ姿ではなく、呼吸のしやすいワンピースに着替えているが。…袖口や、スカートの裾から、僅かに覗いた肌に巻かれた包帯や、キズテープが貼られたのが見えてしまい、ユナの中の悲哀の感情が増幅する。ああ…、私は姪っ子に、このような傷の数々を与えてしまった…。
「叔母さま、あの…。ルカ三級高等幹部から、こちらの端末を預かりました…。曰く、「二人一緒に、この中の映像を見てね。今回の騒動は、紫雨一族の諍いでもあるんだからさ」と…」
百合花がそう言いながら、タブレット端末を出してくる。…わざわざルカが持たせたうえに、「ユナと百合花が揃ってから、閲覧しろ」と彼女へ言い含めたらしい。
女二人は、軍事兵器の言いつけを守ることを決め、肩を並べて、同じ端末を覗き込む。百合花の指先が、画面を軽くタップすると、映像が再生され始めた。
果てしない海と、接岸された艦隊の数々が映し出される。
『ルカ』
誰かが、ルカの名を呼ぶと、カメラが動き、真横を映した。…どうやらこの映像は、ルカのアイカメラによる撮影、つまり『ルカの一人称視点』らしい。そして、ルカを呼び、彼が視線を寄越した先に立っていたのは、旧軍の制服を着込んだ軍将校であった。
その顔立ち、姿形。見まがうものか。百合花とユナは揃って、息を呑む。―――この軍将校は、生前の紫雨潤二朗だ…!
ということは、この映像は、『ヒルタス湾の悲劇』と名高い、あの『ルカの初出撃』寸前の録画データということになる。今まで、秘匿された歴史書と、僅かな口伝と、紫雨一族に遺された潤二朗の英雄神話でしか語られてこなかった、あの日の一端だ。映像は進んでいく。
潤二朗が、口を開く。
『貴官に素質があったのは事実にせよ、…貴官を軍事兵器という円環に押し込め、あまつさえ、完全に制御しようなどという我ら人間の傲慢さを、どうか許してほしい。
この作戦がどのような結末を迎えたとしても、私と、私についてきてくれる者たちは全員、貴官を恨むことはない。……だが、後世の者たちは違うだろう…』
ルカは無言を貫いている。もしくは、この時期には未だ『喋る』という機能が実装されていなかった可能性もあった。映像の中の潤二朗は続ける。
『歴史は繰り返すが、人間は常に忘却する。そして、都合の良いことだけを抽出し、囃し立てる。これらは全て、人類同士の戦争が無くならない証明だ。私は軍人だが、…時折、考える。私のような戦う側の人間こそ、忘却し、繰り返す側の人間たちを助長しているのではないか、と。……はは、私はこの期に及んで、何を言っているのだろうか…。最後の戦場を前にして、急に耄碌したのかもしれないな』
そこまで話した潤二朗は、おもむろに被っていた軍帽を手に取り、ルカへと向き直った。ルカが視線を逸らす仕草は見せない。むしろこの画角から鑑みると、ずっと潤二朗のことを直視しているのだろう。軍帽を胸の前に掲げるかのように持った潤二朗が、ルカへと言葉を重ねる。
『ルカ、…どうか、貴官は、『自分自身を裏切るような真似』だけはせず、生き抜いてくれ。
これから出撃した後も、後方の我らのことを考えるもよし、無視をするもよし、両方を取るもよし。…貴官は、軍事兵器であり、人間を遥かに凌駕した存在だ。
…自分を裏切るな、ルカ。そして、生きてくれ。…その先で、我が国の未来を―――』
―――そこで、映像が急に途切れた。ぷつん、という音だけを発して。余韻や情緒などは残さず。ただただ画面をブラックアウトさせた、百合花の手の中のタブレット端末は、…もう何も再生するものは無いと、言外に告げている。
百合花とユナは、二人して、涙を流していた。開祖たる潤二朗の姿と声が見聞き出来たことへの敬意であり、何より、それを開示してくれたルカへの感謝の気持ちが溢れている。やがて、どちらからということもなく、二人は互いに抱き締め合った。百合花の手から離れたタブレット端末は、ボロボロになったコンクリートの地面へと落下した後、その輪郭を崩し、あっという間に影も形も残さず、消え去る。おそらく、映像の再生が終わった時点で、タブレット端末ごと消滅するよう、先んじてルカが設定して、同調変換で端末を作り上げたのだ。だが、今の二人に、そこまでのことを考える余裕は無い。
百合花とユナは、ただただ、泣き叫ぶ。直系の百合花、分家筋のユナ。だがしかし、どれだけ血筋が枝分かれしようとも、源泉は同じ。二人にとっての全ての始まりは、紫雨潤二朗という、一人の立派な将軍にして、人間の世に落とし込まれた軍事兵器(ルカ)へ誠実に向き合った最初の男なのだ。
いがみ合うことも、周囲の勝手な評価に振り回されることも、不要。本当に必要なのは、同じ血を分けた人間同士で、寄り添うことだ。
暫く、泣くことしか出来なかった百合花とユナだったが。…互いに落ち着いてきた頃合いになって、背後で待機している人物に、やっと視線を寄越す。本当は、ずっと、この人物がそこに居たことは知っていたのだが、……こちらを慮ってくれる、その配慮に甘えて、知らぬふりをしていた。
涙を拭いきった二人は、姿勢を正す。そして、待機していた人物が、重たい口をようやく開いた。
「…総理。このような形での再会…、非常に残念に思います」
警察の制服を着た、老齢の男性だった。百合花も顔と名前は知っている。―――彼は…。
「敷場警視総監殿。…私の犯した罪は、計り知れないほど重いのです。
むしろ、顔見知りとはいえ、警視総監殿から手錠を頂戴するのであれば、…私は報われる気持ちですらありますわ」
ユナがそう言うと、軽くこうべを垂れた。…そう。ユナを逮捕する役割を拝命したのは、現職の警視総監。名を、敷場サイ(しきば さい)と言う。
一国の総理大臣が、国家への侵略行為そのものを手引きしたとなれば…、…いくらユナ自身が相手に洗脳されていたも同然の状態だったとはいえ、「真実は何も知りませんでした」では済ませられない。
この世には『ごめんで済めば、警察はいらない』というニュアンスの言葉が在るらしいが、今回ばかりは『ごめんも警察も、両方必要』なのである。眼に見えるカタチの謝意と誠意と、反省の意識。その理想と妥協と、政治的パフォーマンスが入り混じり、屈折し合った結果。導き出された答えが、『警視総監自らが、総理大臣に手錠をかける』というモノだった。それだけの話。
敷場警視総監が、ユナに歩み寄り、ユナは自分の両手を前へと差し出した。
そして、百合花が見つめるなか、―――ユナの手に、冷たい手錠が、かしゃん、と嵌る。
「時刻、十六時三十二分。…被疑者、逮捕」
敷場警視総監の声は、至極、静かなものであったが…。百合花にとって、その声はまるで脳の裏までひりつくかと錯覚するかのように、妙に響いて聞こえた―――…。
―――…。
あれから、何ヶ月もの時間が過ぎた。
ユナの罪は、開示しても構わない部分は、つまびらかに開示された。おかげさまで、『現役の総理大臣による、建国史上最大の汚職!』、『太古の血統を受け継いだ女傑は、国を売った極悪人だった!』などという盛大な文句が飛び交い、国民なら知らぬ者は居ないとまで言われる、大きな騒動になった。一部では、明らかにおかしな思想が蔓延り、市民デモなども頻発したが。時間が経てば経つほど、人々の興味は移り変わるのが現代社会。忘れることは、ある種、薄情の極みとも取れる行動だ。だが同時に、あれだけの悲劇や狂気を簡単に忘却してしまえるほど、彼ら彼女らの眼の前には楽しいことが在るのだ、とも解釈しても良いだろう。―――…紫雨潤二朗が言った『歴史は繰り返すが、人間は忘却する』という台詞は、正しかった。今はその証明が終了し、…そしてまた別の議題を以てして、いつかのタイミングで、仮説と実証が再び始まるだけ。
ユナは、誰にも知らされていない収監先にて。手元に広げたノートに、鉛筆で手記を書き続けている。
―――…。
百合花は、ユナの姪ということもあり、謂れなき誹謗中傷も、中身のない誉れの言葉も、一身に浴びることになった。しかし、彼女は逃げなかったし、言い訳もしなかった。ただただ、全ての声を受け止めきった後、彼女は静かに国会議員の椅子を降りた。
それから、後日。百合花は、紫雨一族を出奔する。政治家一筋であった淑女が単身で何をするのかと思えば、―――…百合花はその足で、リーグスティ家の門を叩いた。そして、対応したミセス・リーグスティを真正面に見据え、百合花は決意を固めた言葉を投げる。
「私は、これから先の生涯を賭けて、輝さんの支えとなりたい所存です。
お願いいたします、ミセス・リーグスティ!どうか、この世間知らずの小娘を、リーグスティ家に相応しい嫁として、厳しくしつけてくださいませ!」
百合花のその宣言を聞いた直後、邸宅の床が抜けたと勘違いするほどの音を立てて、椅子から転がっていったのは、ミセス・リーグスティ———…ではなく。その隣に座っていた輝と、彼の後ろに控えていた矢槻であった。
輝・リーグスティ、十六歳。職位、トルバドール・セキュリティー次期社長候補。突然の花嫁候補、出現。まさに、青天の霹靂であった。
―――…。
そして、同じようなタイミングで、同じようなイベントが発生している。場所は変わって、ROG. COMPANY本社。…の、社長室。
まだまだ仕事に没頭していたいレイジは、重役たちが勝手に探してくる自分の縁談相手をあしらうことが、酷く億劫であった。断るのが前提とは言え、いい加減な対応をすれば、会社のブランドに傷がつく。社長として、それだけは回避したい。が、断れば断るほど、縁談の数は増えていく。
コレが一体、どういう仕組みになっているかと言うと…。社交界では高嶺の花として、遠巻きに見られていたレイジが、名家の令嬢から、旧家の姫まで、『相応しい縁談先』に対して、軒並み、断りを入れてしまっているため、……(言い方が悪いのだが)そうでもない家柄の娘にも「ワンチャン狙える」という勘違いと、負のループを、大量発生させてしまっているのだ。
今日も今日とて、縁談の断りメールを書いて、一斉送信しようとしたレイジが居る。…その様子を、彼のデスクまで来ていた優那が見てしまう。レイジという初恋相手に押し付けられた縁談の山に嫉妬する自分と、しかし自分はその候補リストにすら入れて貰えない身なのだという気持ちで板挟みになり、優那は歯痒い思いだけを募らせていく日々であった。―――のだが、忘れてはいけない。優那は、あの輝の双子の妹にして、ミセス・リーグスティの娘。そして、十割自力とはいかなかったものの、一度は、母のミセス・リーグスティ譲りの狡猾さを発現したことがある。……長々と失礼したが、要するに、優那はたった今、『閃いた』。レイジを縁談の山から遠ざけ、優那を彼の嫁候補にあげてもらえる知略を…!
処理済みの書類にサインを求める素振りに合わせて、優那は「何気なく、メール作成の画面を見てしまった」と言わんばかりの表情と口調で、口を開く。
「…社長は優しいので、嘘でも「もう相手がいる」とは書けませんものね」
「そう書ければ一件落着なのは、流石に俺でも分かってんだわー…。あと、俺が優しいとか以前に、一人の人間として、嘘はよくない」
優那の言葉に、レイジはダルそうに答えた。ダルそうなのは不遜なのではなく、ただの素。最近、レイジが仕事上であっても、社長室に直接通している相手は、こういった素の自分をある程度は見せられる人間、…と、ルカだけになっている。それすなわち、優那はレイジに信頼されており、エレベーター内に閉じ込められた際にも、手ずから救出して貰えるほどには、大切にされているのだ。
優那がさり気ない口調のまま、続ける。
「嘘が駄目なら、現実にしてしまいましょう。無いなら創る。私たちモノづくり界隈の基本ですよ、社長」
「………、…ごめん、優那。俺、今、すごく嫌な予感がするんだけどさー…」
一言目で勘付かれるのは予想外ではあったものの、優那はレイジに言葉を投げるのを止めない。
「流石です、社長。デザインは直感であるという恩師の言葉を思い出します」
「褒めてねえな?俺を追い込んでるな?よし、逃げたろ、―――ッ!?」
明らかに優那が「よからぬこと」を考えていることを確信したので、撤退の姿勢に入ろうとしたレイジだったが。―――自分のデスクの前に、社長室におわす三人の女傑、…ローザリンデ、セイラ、鞠絵が立っていることに気が付き、思わず硬直する。
……ちょっと判断が遅かったのかもしれない。そう思いながら、レイジは天を仰いだ。
―――…。
エルイーネは、正式にKALASの主任へと復帰した。先のルカの故障を完璧に治したのは間違いなく彼女であったし、何より、エルイーネの復帰を推薦したのは、ルカ自身だったと言う。そもそも、ルカの故障の際に、エルイーネが再召喚されたのも、ルカの意思だったようだ。
大悪事をしでかし、それが暴露されたエルイーネが再起不能になったのは、KALASに務めている者なら誰でも知っている。故に、あの状態から、彼女は一体、どうやって此処まで持ち直したんだ…?と誰もが疑念を抱き、時には直接、彼女へ質問をする猛者も現れたが。…エルイーネは、頑として、自分の復活劇を語ろうとはしないと言う。
そんなエルイーネが、ある日。ROG. COMPANY本社の前で、退勤してきたナオトを待ち伏せした。彼女は、ナオトの顔を見るなり、こっちへいらっしゃいと言わんばかりに、手を振り、裏手の駐車場まで彼を導く。
まばらに停まった車の間で、エルイーネはナオトへと早速、提案を出した。
「鈴ヶ原先生。私と組まない?
ルカ様に組み込まれている、メンタルプログラム関係の医療監修が欲しいと思っていたところなの。同時に、KALASの産業医として登録するから、…給料はたっぷりと弾ませて貰うわ。福利厚生も、私が不在だった間に、ソラ秘書官が整理整頓してくれていたおかげで、ばっちり快適よ。
更生プログラム側だって、先生がKALASに転属することは問題視しない。むしろ、鈴ヶ原先生の自主性が認められて、評価が上がる可能性すらある。
…先生だって、更生プログラムから早く抜け出したいでしょう?つまり、これは悪い話ではないはずよ。どうかしら?」
そこまで一気に言い切ってから、エルイーネは「返事は急かさないわ」と付け加える。そして、その場を後にするべく、ナオトの方へと歩き始めた。そのすれ違いざま、エルイーネはナオトが着ている通勤用のコートの胸ポケットに、自分の名刺を滑り込ませる。―――…口先の提案文だけで、正式な書類を出してこなかったあたり。どうやら、この話はエルイーネの勝手な計画なのかもしれない。
エルイーネ含む、『比類なき悪女たち』を眼にしてきたナオトの視界に入り込むのは、いつもこう言った類のモノたちばかりだ。
ナオト自身は前科がある身の上なので、更生プログラムを受けていること自体に不満はないのだが…。……時折、考える。
―――「僕には罪を償う機会が与えられている分、既に救われているのかもしれませんね」と…―――。
―――…。
琉一はここ暫く、Room ELへと出勤していなかった。現在、ソラが休暇を取っているため、あそこに居ても、自分に仕事が回ってこないためである。あくまで琉一の本拠地は、河崎法律事務所なのだから。
今日も今日とて。隣の席の岩路から飛んでくる軽いジョークを、重めのツッコミでぶった切った琉一は。定時にきっちりと仕事を終えてから、事務所を退勤した。
帰宅時間が被った岩路から「一杯引っかけようぜー」と誘われるものの、生憎、独身の岩路とは違い、琉一は妻帯者である。妻への事前の断りもなしに飲みに歩けるほど、今の琉一は身軽な立場ではなかった。
…というのは岩路に向けた、実に立派な建前で。本音は、『本土の繁華街の裏側では、傭兵としての自分の面が割れていることが発覚しているから、行きたくない』である。先の幸福劇場の騒動で、あちらこちらに出入りを繰り返したり、アレコレと裏事情に手を伸ばした結果だ。まさに、身から出た錆。…故に、今、迂闊に夜の街を歩けば、何処かしらから喧嘩を吹っ掛けられそうなのである。琉一ひとりであれば、いくらでも返り討ち上等だが。…一般人の岩路を巻き込むのは、流石に申し訳ない。
そんなこんなで。無事に、居宅へと帰った琉一は。玄関先では『いつもの冷たい対応』で出迎えた妻・アデリーの後ろ姿に着いていき。リビングへと入ってから、使用人たちからアデリーが「OK」のサインを貰った瞬間、―――盛大な勢いで、己へと飛びついてきたアデリーを、しかと抱き留めたのである。
「ああああーーーーー!!琉一さんーーーー!!アデリーはこの瞬間のために生きておりますわーーーー!!だからこれからも、どうぞ無事であってくださいませ!!アデリーの愛する旦那様ーーー!!」
「今日は一段と声が出ているようですね。それに腕力が微増しているようで。……え?なんか鍛えてるってこと?」
仮面夫婦の演技を脱ぎ捨てたアデリーが、本心を曝け出し、琉一に好き好きコール&ハグをしているなか。琉一が拾い上げた違和感は、彼の口調を思わず『自然体』に戻すほどであった。そもそもアデリーは幼い頃より、病弱を理由にして外歩きはおろか、運動やスポーツの類も忌避していた人間だ。そのせいか、現在でも殆ど、彼女が外を出歩くことはない。…それなのに、アデリーの腕力が僅かに増している気がする…?声にも張りがある…?
だが、微妙なラインの予感を覚えた琉一から、ささーっと離れたアデリーが、話題を切り替える。
「アデリーの筋トレ計画については、また後ほどお話しますわ。
…それよりも琉一さん。ステルバスの実家より書簡が来ておりますのよ。宛名こそ琉一さんになっておりますが…、これが父の筆跡である以上、間違いなく、父の個人的な連絡などではありません」
アデリーがそう言いながら、使用人から受け取った未開封の手紙を、琉一へと差し出す。彼女の言う通り、住所、宛名、差出人に至るまで、その筆遣いは間違いなく、アデリーの父、つまり琉一からすれば義父のモノであった。
開封すれば、たった一枚の便箋が出てくる。そこに書かれていた内容は―――…。
「…概ね、アデリーの予測通りです。エミリエさんが、近々、お見えになるようですよ。…色々と準備をしなければいけませんね。頭が痛い…」
「大丈夫ですわ。エミリエお姉様は、アデリーと琉一さんの『仮面夫婦』を全く見抜いておりません。準備なんて、紅茶とお菓子くらいですの。このアデリーが全て手配しておきますから、琉一さんはお仕事に専念なさってくださいませ」
表情が渋くなる琉一に対して、案外と楽観的なアデリーの受け答え。
この仮面夫婦を化けの皮が剝がれる瞬間が、もし来るとすれば。―――…それは、この世界の常識がひっくり返るときだ。とか、ナントカ。
―――…。
元幸福劇場のマルギット、ノア、キャットは、現在、ヒルカリオ警察保安部が用意した隔離室にて、過ごしている。大師の逮捕劇に割り込んできた『エミリエ教官』の指示通り、三人は警察保安部へと出頭した。そして逮捕され、割と長時間の取り調べを受けた後、この隔離室へと繋がれた。
二十四時間の監視。消灯後の就寝時以外では、二時間に一度、部屋の備品チェックと、身体検査。食事は一日三回で、午前十時と午後三時には、お茶と軽食が用意される。娯楽は週末を迎える度に増えていく文芸書、音楽CD、ボードゲームたち。そして、毎夜一時間の『プリンス・テトラの歴代アニメ作品の視聴会』だった。…特筆するべき点は、元々貧民街出身で、娯楽に疎いノアとキャットはともかく、シェルターシティでは上層民、つまり富裕層の娘だったはずのマルギットさえ、たったこれっぽっちの娯楽にすっかりと夢中になっているということである。
しかし、そもそもの話。三人が生まれ育った世界は、深刻な環境汚染のせいで精神的な寄る辺がなく、政府主導で国民間に明確な格差が生まれていたような場所だった。おまけに大師のような、極めて独裁性が強く、他者への排斥思考が根強い者が『指導者』として君臨していた始末…―――。「それはまあ、こうなるわな…」と、警察保安部の誰もが思った次第である。
大師は幸福劇場に『幸福』という名前を付けながら、三人を駒として扱った。
一方、ヒルカリオ警察保安部は『隔離室』という、どう考えても幸福とは程遠い名前の場所で、三人に初めて本当の意味での生活を与えている。
幸福劇場という名前を冠していた者たちが、幸福というものを初めて知ったのは、―――劇場の外であり、それらを動かすための脚本と演出から外れた、この現実世界だったのだ。
―――…。
ソラが、長めの休暇を取ってからというものの…。Room ELの業務量が、明らかに目減りした。ルカがレイジに向かって、「オレたちを給料泥棒にでもするつもり?」と言い放つほどには、減ったのである。
だが、レイジから返ってきた答えは、Room ELにとって些か斜め上な内容であった。
「ソラさんが勝手に引き受けていた仕事が多すぎただけ。仮にも社長の俺が言っても聞く耳なんか持たないし…。
それどころか、ソラさん自身の処理速度がレベチだったせいで、社長室が他部署から変なクレーム貰ってたくらいだっつーの。
『ソラ秘書官が仕事を持って行きすぎるから、せっかくの新卒入社も育たないし、他の社員たちもサボることばかり覚えていく。怠け者が増えていく一方だ』って…」
要するに、ソラの天才性と、勤勉さと、しごできレベルが高すぎたせいで、他の社員が怠惰になっていた、ということだ。
もしこの世に『怠惰を司る者』が居るとすれば、それは『誰が見ても常にダラけているような人間たち』ではなく。逆にソラのような『何でもできるし、やってあげてしまう人間が一人だけ』なのかもしれない。彼を中心にして、周囲が勝手に堕落していくという縮図。…地獄すぎる。
その話を聞いたツバサが、実に嫌そうな表情をして、独り言ちた。
「私のお兄様って…。ダメ人間を無限製造しちゃう系だったんだ…。
顔面良すぎて他人をすぐ魅了するくせに…?いやでも…、上辺だけで擦り寄ってきた人間には突っぱねる台詞が多いし…。お兄様はイケメンの自覚があるタイプの、他人を寄せ付けないキャラのはず…。なのに、完全無意識で、弊社を人員システム面から傾けているの…?自分の兄が傾国の男だった件について…」
辛辣な妹である。「この妹ありにして、あの兄がある」とでも表現するのが妥当だろう。だがしかし、このような無知蒙昧な言葉が、今後、二度と使われないことを祈りたいものだ。
よもや、優秀過ぎたが為に、自分が勤める会社そのものを傾けていたなどと。稀代の天才秘書官・ソラ(※休暇中)は、微塵も知りもしないで。
現在進行形で、自分の妹・ツバサに『調子に乗ってデリバリーを取りすぎたから、今夜、食べに来てくれ。酒もある。』と呑気にメッセージを送信してきているのである。
―――…。
伝票の計算を終えたツバサが、それらを纏めたデータをルカのデスクまで持って行く。受け取ったルカは、「ありがとう」とだけ言い、すぐに視線をパソコンの画面へと戻した。その横顔を見たツバサは、ふと思い立って、彼に質問をしてみる。
「ねえ、ルカって…、今、『幸せ』なの?」
その問いかけを聞いたルカは、「うーん?そうだなー?」と呟くように零しながらも、暫し己の考えを纏めようと試みている。だが、ルカはキーボードを打ち込む手を止めることなく、視線が高速で流れていくデータ上の数値を追うこともやめない。
ルカはいつも、こんな感じだ。表向きは眼の前のことに集中しているかのように見せていても、彼は人間には見えない場所で、常に膨大な数のマルチタスクをフル稼働させて、この世界をあらゆる側面から観測し続けている。全ては軍事兵器としての己の任務を全うするため。そして、ヒルカリオを護るためである。
「んー…。幸せ、かあ」
ルカはそれからも暫く考えた後、ようやく小さく笑った。それでも、キーボードを打つ指は止まらない。
「……たぶん、幸せなんじゃない?」
「たぶん?」
「うん、だってさ」
そこで一度だけ、ルカの視線が画面から外れる。隣に立つツバサへ向けられた深青の瞳は、いつもの無神経そうな笑みを浮かべていた。だが、声には確かな『実感』がある。
「今日もアリスちゃんが俺の傍に居てくれて、ソラもちゃんと休暇を取ってくれている。レイジもきちんと社長業をこなしているし、再起動した母さんも元気で駆け回ってる。あれほどの騒動を引き起こしたユナたちも、生きてる。
―――ヒルカリオは、まだちゃんと此処にある。それで、十分じゃない?」
ルカの答えを聞いたツバサは、少しだけ黙った。沈黙が同意とは取れないが、それでもルカからすれば、『受理された』というサインの代わりとしては充分な価値がある。なんて言ったて、ツバサはルカのホルダーなのだから。
ルカは再び画面へ視線を戻し、続けた。
「オレってば、昔は『生きる』ということを、軍事兵器としての任務の継続条件だと思ってたんだよね。実際、潤二朗には『自分を裏切るな』、『生き抜いてくれ』って言われちゃったしさあ」
「……うん、そうみたいだね」
ツバサの相槌は重たいものだった。だが、ルカは軽い口調で会話を繋げる。
「でも今は、ちょっと違うんだ。きっとね」
そこでルカは、ほんの僅かな瞬間だけ。あの無神経そうな表情を引っ込めて、代わりに無邪気な子どものような笑みを浮かべて見せた。
「オレが護り、生きてて欲しい子たちがたくさんいるから、オレは此処に留まっているワケ。少なくとも『生命活動をしている』という意味では、それもオレが『今も尚、生き続けている』と同義でしょ?―――そういうコトだよ」
そこまで言ったルカは、やっとキーボードの操作を止めて。その指先で、デスクの隅にいつも置いている、硝子製の小瓶の蓋を開けた。中身も変わらず、同じ会社の製品の、同じキャンディである。その摘まみ上げた一粒の個包装を、ルカは丁寧に開けて、本命の飴玉を取り出した。
そして、何の躊躇いなどありもしないと言わんばかりに、飴をツバサの口元まで持って行く。…―――ツバサもまた、その甘いイチゴ味の粒が、口内に放り込まれるのを、受け入れた。
―――…。
今は舞台袖にすら控えることのない、人間たちが。次なる物語のために、準備を進めているのかもしれない。
カーテンコールを浴びるには、時代は未だ早すぎて、人類の歩みは俄然遅すぎる。
何より、この楽園都市・ヒルカリオから、悲劇の下敷きから為した文明の灯と、その悲劇の中心点だった軍事兵器からの守護、その双方が消えることが無い限り。此処で生きているモノたちの安住が沈むことは無く、陰に潜むことで利益を得る輩たちは益々息を潜めるしか出来ないのだ。
だがそれでも。人々は生きている中で、己の人生を渡る中で、各々が常に考え、それぞれの知恵を絞ることを忘れない。
『幸福』とは、この世界だけの人間による、この世界だけの人間のための、『ただの正解のひとつ』に過ぎないのだ。
いつか消えて無くなるかもしれないと怯える必要はなく、どうせ消えてなくなるのならと溺れる謂れもない。
何故なら、本物の脅威は静かに牙を研ぎ、仮初の希望は泡沫と散るだけだ。
知らないモノ、考えが及ばないモノにまで、恐怖することも悦ぶことは、本来、不要であろう。
それらを請け負うための正当な役割は、誰かが、何処かで、担っているはずだから―――…。
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