第四章 Specter’s Shot
幸福劇場の第二脚本『ペルソナ・システム』の名前は、彼らが運営する新しいSNSの正式名称として、そのまま流用されている。利用者の間では既に『ペルシ』という略称で呼ばれているようだ。
そして、このペルシの最大の謳い文句が、「IPアドレスの完全非公開」である。これまでのSNS及び、インターネット全体にうっすらと蔓延っていた「完全匿名性への願望」を、このペルシは叶えてくれるのだ。…故に、第二脚本が演出を開始してから七日間が経とうとしている現時点で、既に目に余るような犯罪意識の温床になっている。実際に被害が出たケースもあり、警察機関によって捜査がなされている事案も多数ある。しかし、IPアドレス完全非公開の条件が、警察機関に対する大きすぎる壁となっているのは、もう想像に容易いであろう。ペルシに関連した被害者の数は勿論、エマージェンシーコールにも虚報が爆増し、今現在、我が国の警察及び捜査機関は、混迷の真っ只中に落とされている。
そんな情勢に成り下がった世間の最中で。さくらは、自分の夫である、飛騨アケル(ひだ あける)が、このペルシを通して知り合った女性と、不倫関係にあることを知ってしまった。
きっかけは些細な、しかし、確実に重要なタイミングである。
元々、恋人時代からゲームが大好きだったアケルは、休日は部屋にこもり、通話用アプリを使っては、ゲーム仲間たちをワイワイと騒ぎながら、ゲームを楽しむ趣味があった。結婚後もその趣味は手放さず、さくらも、「普段からお仕事を頑張ってくれているから…」と考えていたので、咎めるとか、横槍を入れるようなことが考えていた。…実際にさくらが専業主婦になれたのも、アケルがかなりの高収入であることが理由である。アケルは所謂「自分の稼ぎのおかげで、嫁がラクをしている」という、典型的なモラルハラスメントタイプの思考回路の持ち主ではなかったが、………それでも、『違和感』というモノは、さくらの中に芽生えていった。
それが、『ゲーム中の通話の内容を、不意に耳にしてしまったから』、である。
アケルが休日にゲームのための部屋にこもると、さくらは決まって、昼食と、合間のおやつを、彼の部屋の前に置く。ある程度、時間が経つと、部屋の前には空っぽになった皿と、ごく稀に、そこにメモ用紙に「リクエスト」が書かれているモノが置かれている。さくらはそれらを回収して、皿は片づけて、リクエストがあったものに関しては、速やかに用意して、またアケルの部屋の前に再設置するのだ。その際、彼女は軽くノックをする。「リクエストのもの、ちゃんと置いておくね」の意味だ。
いつもの通り。さくらは、アケルのリクエストにあった、「抹茶のアイスクリームと、のりしお味のチップスが食べたい」というメモに従って、それらを迅速に用意した。そして、それらを乗せた盆を、アケルの部屋の前に置こうとしたときだった。あはは!とアケルが笑う声が聞こえた。きっとゲームが盛り上がっているのだろう。詳しくは知らないが、レイドイベントなるものが、ラストスパートなんだとか。きっとそれだろう。…と、さくらは自己完結しながら、扉を軽くノックしようとして、そのとき。
―――「本当だって!メリスちゃんは初心者とは思えないほど上手だし、飲み込みも早いし、オマケに可愛いし、文句のつけようがないって!」
部屋の中から聞こえてきたアケルの、その台詞に、さくらの挙動が止まった。ノックしようとした手が止まり、背筋に冷たい汗が浮かぶ。
アケルはさくらが部屋の前に居るとは露知らず、通話相手に向かって、喋り続けている。
―――「てか、メリスちゃんのペルシ、見たよ?なになに?あのけしからんコスプレ、って感じ!ヒロインの限定衣装は完全再現してるし、ウィッグも完璧!しかも、限定衣装の売りだった谷間の見え方、めちゃくちゃエロくて良かったわ~!」
アケルの声から、自分の夫の声から、さくらの前では決して言わないような下劣な言葉や表現が、飛び出してくるではないか。しかも今、彼は『ペルシ』と言っただろうか?
幸福劇場が第二脚本を開始した当初、アケルは夕食の席で、さくらに宣言していた。「あんな下品な設定のSNSなんて、俺は絶対に使わない。犯罪の温床じゃないか。さくらを養うためにも、俺は今の地位と収入を維持しないといけないんだ。そんな危ないもの、まっぴらごめんだよ」と…。
さくらの中で、何かが崩壊した。
彼女は盆を置いたのをそのままに、アケルに気取られないようにリビングへと帰り、机の上に放置していたスマートフォンを手に取った。アケル宛てに、個人メッセージをしたためて、送信する。
『リクエストのものは置いておいたよ。でも、今日は何だか調子が悪いから、もう休ませて貰うね。夕飯は、冷凍の炒飯があるから、必要な量をレンジで温めて食べてね。サラダが欲しかったら、カット野菜のキャベツが残っているから、それを使ってね。』
それに既読の報せがつくのは、秒速だった。次いで、『了解。ゆっくり休んで。アイスとチップス、ありがとう。もし夜中に体調が悪化したら、病院に付き添うから、遠慮なく起こして。』と、アケルからの返事が届く。
―――ー…。
面談室内に、さくらが泣きながら、自分の訴えを告げる声が響く。あまりにも内容が痛ましいうえに、現実的な問題点が大きすぎるものだ。
琉一がメモを取りながら、沈黙で続きを促すと。さくらは、更に証言を続ける。
「…それから、アケルの行動に、私は次々と違和感を覚えるようになっていって…。最初は、精神的な病気を疑いました…。家事に疲れているとか、家の中で過ごしているからストレスを溜めているとか、そんな理由をつけて…。
でも、それ以降、アケルの部屋の前で盗み聞きを続けているうちに、…その『メリスちゃん』と呼んでいるゲーム仲間の女性と、アケルが仕事終わりに会っていることが分かってきて…。
「金曜日のラブホテルの内装が、メリスちゃんのコスプレとマッチしていてエロかった」とか…、「うちの嫁はコスプレ映えしないから、メリスちゃんの完璧なコスプレが新鮮だよ」とか…、あとは、「そろそろ出張の日が決まりそうだから、現地で落ち合おうよ。前に話した、野外でのシチュエーション、楽しみだね」とか、聞いちゃって…。
あの、これが、その音声ファイルです…。スマホで咄嗟に録音したものだし、アケルは部屋の中だから、ちょっと音がくぐもってるんですけど…」
そう言いながら、さくらはマイクロサイズのSDカードを琉一に差し出してきた。彼女の言うことが正しければ、アケルの不倫疑惑に紐付けられる言葉の数々が、この中に録音データとして入っているのだろう。
涙目のさくらが、琉一に必死に縋るように言う。
「ペルシは完全匿名性を謳っているし、警察機関もペルシ内で起こった犯罪の捜査は、ほぼ出来ないって、あちこちで聞いてはいるんです…。でも、私、…アケルがペルシの特性を悪用して不倫しているのを、黙って見過ごせない…。それにアケルから離れないと、これ以上は私が壊れてしまいそうで…。彼と離婚するなら、子どもがいない今のうちに、って思っていて…。だから、今日、此処に連れてきて貰ったんです…!相談に乗ってくれたローザリンデに頼んで…!
琉一先生、お願いします…、助けてください…!私はもう、アケルのこと、信じられない…!」
そこまで言うと、さくらは、ぼろぼろと両眼から大粒の涙を零し、今度こそ、隠しきれない嗚咽を漏らし始めた。ローザリンデが宥め始める。…この光景、あと何度、見ることになるのだろう…。
琉一は、メモを取る手を止めてから、さくらに向かって、正式な書類を差し出した。
「ご依頼は受けましょう。しかし、我が河崎法律事務所は、所長のご意向により、他の弁護士事務所より、厳しい契約内容を重んじています。
例えば、一番多いパターンで…、『契約不履行』というものがあります。これは、契約書で結んだ内容とは異なるものや、それに反する行動を取った結果、双方どちらかに不利益が生じたり、契約そのものが続行不可能になった場合などに、発生するものになります」
琉一の説明は淀みなく始まる。取り乱しかけていたさくらも、隣で彼女を宥めることに徹しようとしたローザリンデも、思わず聞き入るほどの、口調であった。しかし、その小川のような流れの如き、台詞の支流から、次の瞬間、爆弾級の発言が飛び出す。
「大抵の場合は、賠償金の支払いで解決されますが…、…自分の場合、『武装許可』が降りている身の上です。一般人の飛騨さんが軍事行動を起こすとは考えにくいものの、…人間とは、常に無軌道です。もし「その瞬間」に遭遇した場合、…依頼人であれ、契約内容に反した以上、自分は撃ちます。
…その覚悟があるのでしたら、どうぞ、そちらの書類をご一読のうえ、サインをしてください」
―――「自分は撃ちます」。
その一言に込められた、重さ。覚悟の大きさ。その二挺拳銃は、決して飾りではなく、ましてや琉一が恐怖している故の防御でもない、という事実。彼は何一つ恐れていない。脅威とみなしたものに対して、すべからく銃口を向けることに躊躇いが無い。
さくらは書類と一緒に差し出されたボールペンを握り締めて、―――じっくりと書面に書かれた文章を読み込んだ後、自分の名前を書き込んだ。
契約成立だ。
「これから、お世話になります。どうぞよろしくお願いします、琉一先生」
さくらは立ち上がって、そう言いながら、琉一へと頭を深々と下げた。
「契約した以上、自分は全力を尽くします。飛騨さんもどうぞ、これからのご自分の身辺には、お気を付けください」
その琉一の言葉を聞いたさくらは、「はい…」と小さく返事をしてから、滲んでいた涙をハンカチで拭ったのであった。
――――…。
面談後。さくらから受けた依頼を始める下準備に取り掛かった琉一は、早速、その第一歩といった段階まで進めた。…ところで、定時を告げるベルが鳴る。
所長の染子からの挨拶を貰った後、残業を申告している者以外は、一斉に帰り支度を整えた。岩路は残業組らしく、帰る様子を見せる琉一に向かって、「バッテリー、助かったわー。コーヒーは、また明日なー」と言いながら、彼から借りていたモバイルバッテリーを返却しつつ、明日もまた一緒に働こうと言外に告げる。琉一はそれに対して、簡素な返事をしてから、事務所を出た。
外に出ると、迎えの者が待っていた。…琉一は送迎など頼んでいない。
だとすれば、この迎えの者たちは、琉一が婿入りしているステルバス一族の末端たる、彼の妻が仕向けたもの。―――その夫婦の居宅へ、直に帰るための案内人だ。どうやら、「余計な寄り道をせずに、真っ直ぐに帰宅しなさい」と、彼の妻が圧力を掛けてきている様子…。まあ確かに、最近は夜中に帰ることも多かった、と琉一は内省しつつ、送迎係の案内に従って、車へと乗り込む。
数十分後。
半ば郊外に近い場所に建っている豪邸の門前で、琉一を乗せた車が横付けされた。運転手がドアを開けて、琉一が車を降りる。すると。
「おかえりなさいませ、旦那様」
無機質な女性の声が聞こえた。琉一が視線を上げると、そこに立っていたのは、着物姿の女性―――琉一の妻たる女、名前を、アデリー=レベッカ=ステルバスと言う―――、と、彼女の取り巻くように、まばらに並んだ女性たちだった。
どうやらアデリーは、お茶会を開いていたようである。招待された女性たちの顔には、皆、見覚えがあった。誰もが琉一を、蔑むような、憐れむような、…とにかく「格下の相手」を見る視線を投げてくる。
何も言わないまま琉一が門を潜ったところで、アデリーが、口を開く。
「旦那様に於きましては、不貞行為の心配こそないものの、……よくもまあ、このステルバス一族出身の若妻を置き去りにして、夜中まで仕事に打ち込めますこと。
流石、御国から立派な拳銃を提げる許可を貰っているような身分の御方は、考えが違いますのね」
アデリーのその台詞と共に、周囲の女性たちが、クスクス…、と秘めた嗤いを零した。しかし、琉一の視線は揺るがず、アデリーを射抜くだけ。アデリーは、着物の裾を翻すかのように、彼から身体ごと背き、集まっていた茶会の客たちに向かって、挨拶を出す。
「我が家の旦那様もお帰りになりましたことですし、本日のお茶会は、これにて終了とさせて頂きます。皆様、本日はありがとうございました」
アデリーがそう言って、丁寧に腰を折ると。お茶会の主催者としての彼女を賛辞するための拍手が、実に乾いた音を立てて、その場に沸き起こったである。
琉一は神経質な瞳の奥で、その茶番めいた光景を、ただただ眺めているだけだった。
間も無く。
アデリーが招待していた女性たちが全員、邸内の庭先から出ていったこと。そして、その送迎車の全てが、少なくとも、アデリーの視界から完全に消えてなくなったことを確認した彼女は。おもむろに、琉一の方へと向いて、言葉を放った。
「ご自分は仕事帰りだというのに、わざわざ妻の客人を見送るなど…、…殊勝ですこと。
…まあ、極貧の庶民出身とはいえ、ステルバス一族に飛び込んできただけはありますね。その強い根性だけは認めてあげても宜しいわ。
さて、冷えますわね。さっさと室内に入ってしまいましょう…」
アデリーはほぼ一方的な台詞を投げるだけ投げて、琉一からそっぽを向くようにして、邸内へと入っていく。琉一も、彼女のその背を追うようにして、静かに『帰宅』した。
玄関口を潜り、リビングルームへと夫婦揃って、入る。
途端、アデリーは、きょろ…、と周囲に視線を配った。彼女が自ら面接を行い、選別して、雇っている、この屋敷の使用人たちが、各々の仕事をしつつも、アデリーに向かって、「YES.」のアイコンタクトを送る。―――…途端。
「あああああ~~~~!三日ぶりの琉一さんだわ~~~~!琉一さん!琉一さん!りゅーいちさーーん!!」
「そんなに連呼しなくても。貴女の中で、自分は一体何人いるのですか?」
「その冷めきったクール系ツッコミも素敵…、じゃなくて!三日ですわよ?三日!
このアデリーという妻が居りながら!琉一さんったら、仕事なんかにかまけて!何様のつもりですの?!アデリーの旦那様ですのよ?!もっともっと構ってくれないと、アデリーは寂しくて死んでしまいますわ!」
アデリーのキャラが、変わった。先ほどまでの、鬼嫁ならぬ、鬼妻の振る舞いは何処へ…―――?……否、こちらが、正解なのだ。
アデリーは、本当は、琉一が好きで好きで、堪らない。ただ、彼が極貧の庶民から、由緒正しいステルバス一族に飛び込んできたことは、正直、一族全体、そしてそれを取り巻く上流階級の人間たちからは、決して良く思われていない。故に、外界に触れている間だけでも、「アデリーは琉一を嫌っている」という演技が必要なのである。……正直、ややこしい。
そんな自分の胸に飛び込んできたアデリーの頭を撫でながら、琉一は理路整然と答える。
「仕事にかまけるのが、この国の社会人としては正常です。夫として妻の貴女に構う時間が捻出できなかったのは詫びますが…、まあ、『寂しくて死ぬ系』の発言は、そろそろ食傷気味です。飽きました」
琉一は淡々と返しながら、手荷物を使用人に預けてから、アデリーを慎重に引き剝がした。もっとハグしていたかったらしいアデリーは不満そうな表情を見せたものの、琉一が装備している二挺拳銃のホルスターに手を掛けたを見て、―――…きちんと察した。
「愛銃さんたちに、メンテナンスをしますのね?」
「肯定します。法律事務所を通して、依頼が入りましたので。…メンテナンスが必要なかったと思える結末を、是非とも用意したいとは、考えておりますが…」
琉一の言葉に、アデリーはすぐに順応した態度を見せる。
「承知しましたわ。それでしたら、琉一さんのためのお食事を、すぐに用意させましょう。琉一さんのお部屋に、直接、運ばせますわ。お風呂の準備は既に終わらせておりますので、どうぞ、お好きなタイミングでお入りくださいませ」
「ありがとうございます。貴女が飢えていた三日分と、これから更に積みあがるであろう「構え攻撃」の埋め合わせは、―――…今回の案件さえ終えれば、可能と予想します」
「それでしたら、アデリーはきちんとお待ち申し上げておりますわ。
琉一さんからの愛情は何時だって欲しいですけれど…、それで夫のキャリアの邪魔をするなど、妻の風上にも置けませんもの」
的確な解答を寄越す琉一と、理解の早いアデリー。端から見れば、これほどの『理想の夫婦』は居ないだろうに…。
しかし、「名族の血を引く女と、そこに婿入りした庶民出身の男」という色眼鏡が、どうしても、この夫婦の真なる像を隠せざるを得ない。
故に、この屋敷の使用人たちの全員が、一様に思う。―――…「この夫婦が持つ尊さが世に出ないことが、本当に惜しい」と…。
to be continued...
そして、このペルシの最大の謳い文句が、「IPアドレスの完全非公開」である。これまでのSNS及び、インターネット全体にうっすらと蔓延っていた「完全匿名性への願望」を、このペルシは叶えてくれるのだ。…故に、第二脚本が演出を開始してから七日間が経とうとしている現時点で、既に目に余るような犯罪意識の温床になっている。実際に被害が出たケースもあり、警察機関によって捜査がなされている事案も多数ある。しかし、IPアドレス完全非公開の条件が、警察機関に対する大きすぎる壁となっているのは、もう想像に容易いであろう。ペルシに関連した被害者の数は勿論、エマージェンシーコールにも虚報が爆増し、今現在、我が国の警察及び捜査機関は、混迷の真っ只中に落とされている。
そんな情勢に成り下がった世間の最中で。さくらは、自分の夫である、飛騨アケル(ひだ あける)が、このペルシを通して知り合った女性と、不倫関係にあることを知ってしまった。
きっかけは些細な、しかし、確実に重要なタイミングである。
元々、恋人時代からゲームが大好きだったアケルは、休日は部屋にこもり、通話用アプリを使っては、ゲーム仲間たちをワイワイと騒ぎながら、ゲームを楽しむ趣味があった。結婚後もその趣味は手放さず、さくらも、「普段からお仕事を頑張ってくれているから…」と考えていたので、咎めるとか、横槍を入れるようなことが考えていた。…実際にさくらが専業主婦になれたのも、アケルがかなりの高収入であることが理由である。アケルは所謂「自分の稼ぎのおかげで、嫁がラクをしている」という、典型的なモラルハラスメントタイプの思考回路の持ち主ではなかったが、………それでも、『違和感』というモノは、さくらの中に芽生えていった。
それが、『ゲーム中の通話の内容を、不意に耳にしてしまったから』、である。
アケルが休日にゲームのための部屋にこもると、さくらは決まって、昼食と、合間のおやつを、彼の部屋の前に置く。ある程度、時間が経つと、部屋の前には空っぽになった皿と、ごく稀に、そこにメモ用紙に「リクエスト」が書かれているモノが置かれている。さくらはそれらを回収して、皿は片づけて、リクエストがあったものに関しては、速やかに用意して、またアケルの部屋の前に再設置するのだ。その際、彼女は軽くノックをする。「リクエストのもの、ちゃんと置いておくね」の意味だ。
いつもの通り。さくらは、アケルのリクエストにあった、「抹茶のアイスクリームと、のりしお味のチップスが食べたい」というメモに従って、それらを迅速に用意した。そして、それらを乗せた盆を、アケルの部屋の前に置こうとしたときだった。あはは!とアケルが笑う声が聞こえた。きっとゲームが盛り上がっているのだろう。詳しくは知らないが、レイドイベントなるものが、ラストスパートなんだとか。きっとそれだろう。…と、さくらは自己完結しながら、扉を軽くノックしようとして、そのとき。
―――「本当だって!メリスちゃんは初心者とは思えないほど上手だし、飲み込みも早いし、オマケに可愛いし、文句のつけようがないって!」
部屋の中から聞こえてきたアケルの、その台詞に、さくらの挙動が止まった。ノックしようとした手が止まり、背筋に冷たい汗が浮かぶ。
アケルはさくらが部屋の前に居るとは露知らず、通話相手に向かって、喋り続けている。
―――「てか、メリスちゃんのペルシ、見たよ?なになに?あのけしからんコスプレ、って感じ!ヒロインの限定衣装は完全再現してるし、ウィッグも完璧!しかも、限定衣装の売りだった谷間の見え方、めちゃくちゃエロくて良かったわ~!」
アケルの声から、自分の夫の声から、さくらの前では決して言わないような下劣な言葉や表現が、飛び出してくるではないか。しかも今、彼は『ペルシ』と言っただろうか?
幸福劇場が第二脚本を開始した当初、アケルは夕食の席で、さくらに宣言していた。「あんな下品な設定のSNSなんて、俺は絶対に使わない。犯罪の温床じゃないか。さくらを養うためにも、俺は今の地位と収入を維持しないといけないんだ。そんな危ないもの、まっぴらごめんだよ」と…。
さくらの中で、何かが崩壊した。
彼女は盆を置いたのをそのままに、アケルに気取られないようにリビングへと帰り、机の上に放置していたスマートフォンを手に取った。アケル宛てに、個人メッセージをしたためて、送信する。
『リクエストのものは置いておいたよ。でも、今日は何だか調子が悪いから、もう休ませて貰うね。夕飯は、冷凍の炒飯があるから、必要な量をレンジで温めて食べてね。サラダが欲しかったら、カット野菜のキャベツが残っているから、それを使ってね。』
それに既読の報せがつくのは、秒速だった。次いで、『了解。ゆっくり休んで。アイスとチップス、ありがとう。もし夜中に体調が悪化したら、病院に付き添うから、遠慮なく起こして。』と、アケルからの返事が届く。
―――ー…。
面談室内に、さくらが泣きながら、自分の訴えを告げる声が響く。あまりにも内容が痛ましいうえに、現実的な問題点が大きすぎるものだ。
琉一がメモを取りながら、沈黙で続きを促すと。さくらは、更に証言を続ける。
「…それから、アケルの行動に、私は次々と違和感を覚えるようになっていって…。最初は、精神的な病気を疑いました…。家事に疲れているとか、家の中で過ごしているからストレスを溜めているとか、そんな理由をつけて…。
でも、それ以降、アケルの部屋の前で盗み聞きを続けているうちに、…その『メリスちゃん』と呼んでいるゲーム仲間の女性と、アケルが仕事終わりに会っていることが分かってきて…。
「金曜日のラブホテルの内装が、メリスちゃんのコスプレとマッチしていてエロかった」とか…、「うちの嫁はコスプレ映えしないから、メリスちゃんの完璧なコスプレが新鮮だよ」とか…、あとは、「そろそろ出張の日が決まりそうだから、現地で落ち合おうよ。前に話した、野外でのシチュエーション、楽しみだね」とか、聞いちゃって…。
あの、これが、その音声ファイルです…。スマホで咄嗟に録音したものだし、アケルは部屋の中だから、ちょっと音がくぐもってるんですけど…」
そう言いながら、さくらはマイクロサイズのSDカードを琉一に差し出してきた。彼女の言うことが正しければ、アケルの不倫疑惑に紐付けられる言葉の数々が、この中に録音データとして入っているのだろう。
涙目のさくらが、琉一に必死に縋るように言う。
「ペルシは完全匿名性を謳っているし、警察機関もペルシ内で起こった犯罪の捜査は、ほぼ出来ないって、あちこちで聞いてはいるんです…。でも、私、…アケルがペルシの特性を悪用して不倫しているのを、黙って見過ごせない…。それにアケルから離れないと、これ以上は私が壊れてしまいそうで…。彼と離婚するなら、子どもがいない今のうちに、って思っていて…。だから、今日、此処に連れてきて貰ったんです…!相談に乗ってくれたローザリンデに頼んで…!
琉一先生、お願いします…、助けてください…!私はもう、アケルのこと、信じられない…!」
そこまで言うと、さくらは、ぼろぼろと両眼から大粒の涙を零し、今度こそ、隠しきれない嗚咽を漏らし始めた。ローザリンデが宥め始める。…この光景、あと何度、見ることになるのだろう…。
琉一は、メモを取る手を止めてから、さくらに向かって、正式な書類を差し出した。
「ご依頼は受けましょう。しかし、我が河崎法律事務所は、所長のご意向により、他の弁護士事務所より、厳しい契約内容を重んじています。
例えば、一番多いパターンで…、『契約不履行』というものがあります。これは、契約書で結んだ内容とは異なるものや、それに反する行動を取った結果、双方どちらかに不利益が生じたり、契約そのものが続行不可能になった場合などに、発生するものになります」
琉一の説明は淀みなく始まる。取り乱しかけていたさくらも、隣で彼女を宥めることに徹しようとしたローザリンデも、思わず聞き入るほどの、口調であった。しかし、その小川のような流れの如き、台詞の支流から、次の瞬間、爆弾級の発言が飛び出す。
「大抵の場合は、賠償金の支払いで解決されますが…、…自分の場合、『武装許可』が降りている身の上です。一般人の飛騨さんが軍事行動を起こすとは考えにくいものの、…人間とは、常に無軌道です。もし「その瞬間」に遭遇した場合、…依頼人であれ、契約内容に反した以上、自分は撃ちます。
…その覚悟があるのでしたら、どうぞ、そちらの書類をご一読のうえ、サインをしてください」
―――「自分は撃ちます」。
その一言に込められた、重さ。覚悟の大きさ。その二挺拳銃は、決して飾りではなく、ましてや琉一が恐怖している故の防御でもない、という事実。彼は何一つ恐れていない。脅威とみなしたものに対して、すべからく銃口を向けることに躊躇いが無い。
さくらは書類と一緒に差し出されたボールペンを握り締めて、―――じっくりと書面に書かれた文章を読み込んだ後、自分の名前を書き込んだ。
契約成立だ。
「これから、お世話になります。どうぞよろしくお願いします、琉一先生」
さくらは立ち上がって、そう言いながら、琉一へと頭を深々と下げた。
「契約した以上、自分は全力を尽くします。飛騨さんもどうぞ、これからのご自分の身辺には、お気を付けください」
その琉一の言葉を聞いたさくらは、「はい…」と小さく返事をしてから、滲んでいた涙をハンカチで拭ったのであった。
――――…。
面談後。さくらから受けた依頼を始める下準備に取り掛かった琉一は、早速、その第一歩といった段階まで進めた。…ところで、定時を告げるベルが鳴る。
所長の染子からの挨拶を貰った後、残業を申告している者以外は、一斉に帰り支度を整えた。岩路は残業組らしく、帰る様子を見せる琉一に向かって、「バッテリー、助かったわー。コーヒーは、また明日なー」と言いながら、彼から借りていたモバイルバッテリーを返却しつつ、明日もまた一緒に働こうと言外に告げる。琉一はそれに対して、簡素な返事をしてから、事務所を出た。
外に出ると、迎えの者が待っていた。…琉一は送迎など頼んでいない。
だとすれば、この迎えの者たちは、琉一が婿入りしているステルバス一族の末端たる、彼の妻が仕向けたもの。―――その夫婦の居宅へ、直に帰るための案内人だ。どうやら、「余計な寄り道をせずに、真っ直ぐに帰宅しなさい」と、彼の妻が圧力を掛けてきている様子…。まあ確かに、最近は夜中に帰ることも多かった、と琉一は内省しつつ、送迎係の案内に従って、車へと乗り込む。
数十分後。
半ば郊外に近い場所に建っている豪邸の門前で、琉一を乗せた車が横付けされた。運転手がドアを開けて、琉一が車を降りる。すると。
「おかえりなさいませ、旦那様」
無機質な女性の声が聞こえた。琉一が視線を上げると、そこに立っていたのは、着物姿の女性―――琉一の妻たる女、名前を、アデリー=レベッカ=ステルバスと言う―――、と、彼女の取り巻くように、まばらに並んだ女性たちだった。
どうやらアデリーは、お茶会を開いていたようである。招待された女性たちの顔には、皆、見覚えがあった。誰もが琉一を、蔑むような、憐れむような、…とにかく「格下の相手」を見る視線を投げてくる。
何も言わないまま琉一が門を潜ったところで、アデリーが、口を開く。
「旦那様に於きましては、不貞行為の心配こそないものの、……よくもまあ、このステルバス一族出身の若妻を置き去りにして、夜中まで仕事に打ち込めますこと。
流石、御国から立派な拳銃を提げる許可を貰っているような身分の御方は、考えが違いますのね」
アデリーのその台詞と共に、周囲の女性たちが、クスクス…、と秘めた嗤いを零した。しかし、琉一の視線は揺るがず、アデリーを射抜くだけ。アデリーは、着物の裾を翻すかのように、彼から身体ごと背き、集まっていた茶会の客たちに向かって、挨拶を出す。
「我が家の旦那様もお帰りになりましたことですし、本日のお茶会は、これにて終了とさせて頂きます。皆様、本日はありがとうございました」
アデリーがそう言って、丁寧に腰を折ると。お茶会の主催者としての彼女を賛辞するための拍手が、実に乾いた音を立てて、その場に沸き起こったである。
琉一は神経質な瞳の奥で、その茶番めいた光景を、ただただ眺めているだけだった。
間も無く。
アデリーが招待していた女性たちが全員、邸内の庭先から出ていったこと。そして、その送迎車の全てが、少なくとも、アデリーの視界から完全に消えてなくなったことを確認した彼女は。おもむろに、琉一の方へと向いて、言葉を放った。
「ご自分は仕事帰りだというのに、わざわざ妻の客人を見送るなど…、…殊勝ですこと。
…まあ、極貧の庶民出身とはいえ、ステルバス一族に飛び込んできただけはありますね。その強い根性だけは認めてあげても宜しいわ。
さて、冷えますわね。さっさと室内に入ってしまいましょう…」
アデリーはほぼ一方的な台詞を投げるだけ投げて、琉一からそっぽを向くようにして、邸内へと入っていく。琉一も、彼女のその背を追うようにして、静かに『帰宅』した。
玄関口を潜り、リビングルームへと夫婦揃って、入る。
途端、アデリーは、きょろ…、と周囲に視線を配った。彼女が自ら面接を行い、選別して、雇っている、この屋敷の使用人たちが、各々の仕事をしつつも、アデリーに向かって、「YES.」のアイコンタクトを送る。―――…途端。
「あああああ~~~~!三日ぶりの琉一さんだわ~~~~!琉一さん!琉一さん!りゅーいちさーーん!!」
「そんなに連呼しなくても。貴女の中で、自分は一体何人いるのですか?」
「その冷めきったクール系ツッコミも素敵…、じゃなくて!三日ですわよ?三日!
このアデリーという妻が居りながら!琉一さんったら、仕事なんかにかまけて!何様のつもりですの?!アデリーの旦那様ですのよ?!もっともっと構ってくれないと、アデリーは寂しくて死んでしまいますわ!」
アデリーのキャラが、変わった。先ほどまでの、鬼嫁ならぬ、鬼妻の振る舞いは何処へ…―――?……否、こちらが、正解なのだ。
アデリーは、本当は、琉一が好きで好きで、堪らない。ただ、彼が極貧の庶民から、由緒正しいステルバス一族に飛び込んできたことは、正直、一族全体、そしてそれを取り巻く上流階級の人間たちからは、決して良く思われていない。故に、外界に触れている間だけでも、「アデリーは琉一を嫌っている」という演技が必要なのである。……正直、ややこしい。
そんな自分の胸に飛び込んできたアデリーの頭を撫でながら、琉一は理路整然と答える。
「仕事にかまけるのが、この国の社会人としては正常です。夫として妻の貴女に構う時間が捻出できなかったのは詫びますが…、まあ、『寂しくて死ぬ系』の発言は、そろそろ食傷気味です。飽きました」
琉一は淡々と返しながら、手荷物を使用人に預けてから、アデリーを慎重に引き剝がした。もっとハグしていたかったらしいアデリーは不満そうな表情を見せたものの、琉一が装備している二挺拳銃のホルスターに手を掛けたを見て、―――…きちんと察した。
「愛銃さんたちに、メンテナンスをしますのね?」
「肯定します。法律事務所を通して、依頼が入りましたので。…メンテナンスが必要なかったと思える結末を、是非とも用意したいとは、考えておりますが…」
琉一の言葉に、アデリーはすぐに順応した態度を見せる。
「承知しましたわ。それでしたら、琉一さんのためのお食事を、すぐに用意させましょう。琉一さんのお部屋に、直接、運ばせますわ。お風呂の準備は既に終わらせておりますので、どうぞ、お好きなタイミングでお入りくださいませ」
「ありがとうございます。貴女が飢えていた三日分と、これから更に積みあがるであろう「構え攻撃」の埋め合わせは、―――…今回の案件さえ終えれば、可能と予想します」
「それでしたら、アデリーはきちんとお待ち申し上げておりますわ。
琉一さんからの愛情は何時だって欲しいですけれど…、それで夫のキャリアの邪魔をするなど、妻の風上にも置けませんもの」
的確な解答を寄越す琉一と、理解の早いアデリー。端から見れば、これほどの『理想の夫婦』は居ないだろうに…。
しかし、「名族の血を引く女と、そこに婿入りした庶民出身の男」という色眼鏡が、どうしても、この夫婦の真なる像を隠せざるを得ない。
故に、この屋敷の使用人たちの全員が、一様に思う。―――…「この夫婦が持つ尊さが世に出ないことが、本当に惜しい」と…。
to be continued...
