第二章 二面性
【Room EL】
地下鉄のホーム内で起こった喧嘩騒ぎにより、かなりの遅刻状態で出勤したナオトと琉一だったが。出迎えたソラとツバサは、遅刻の理由を、琉一からメッセージアプリにて明確に報告されていたため、特に動揺しているような素振りは無かった。此処がこの調子であるならば、鞠絵が向かった社長室も、きっと同じような空気感で、彼女を出迎えているに違いない。そう考えると、ナオトは何処かホッとしたような気持ちになるのだった。
「さて…、バタつく最中でも、きちんと出勤してくれたことを、まずはありがとう。そして、全員が無事で何よりだ。
出来ることなら、このまま二人には午前休を与え、仮眠室へ案内したいところだが、…残念ながら、幸福劇場の面々には「待つ」ことや「一旦休憩」という考えは、持ち合わせていないらしい」
ソラはそう言いながら、さり気なく琉一とナオトを、応接用のソファーへと促し、座らせる。二人が着席すると、そこへツバサが、いま居る人数分の温かい紅茶を持ってきた。その後、琉一とナオトの対面に、書類を持ったソラと、社用端末を手にしたツバサが腰かける。
ツバサが自分の紅茶に角砂糖を一粒入れて、スプーンで、くるくる、とかき混ぜるのを合図にしたかのように、甘党の琉一も四粒の角砂糖をカップ内に放り込んだ。無糖派のソラとナオトは、そのままティーカップに口を付ける。
皆が皆、一口二口と紅茶を飲み、カップをソーサーに置いた後。ソラが膝上で重ねていた書類を、各自に配りながら、喋り始めた。
「まずは、こちらを見てくれ。
弊社の社長自らが、ローザリンデ、セイラと手分けをして、幸福劇場の第一脚本『アンチ・アグリー』について、各主要なSNSと、検索エンジンからヒットした情報などを纏めてくださったモノだ。…紙媒体で渡すのは、弊社内のネット回線上とは言え、万が一でも第三者から侵入される可能性のある場所に、この情報を載せたくないからだ。どうか理解して欲しい」
ソラの非常に説明は分かり易く、そして納得の行くモノである。
幸福劇場が敷いた『アンチ・アグリー』が動いたのは、平日の朝、通勤時間帯のど真ん中、「演出を開始致します」という無機質な少女の声を模したアナウンスが触れ回ったからであり。その詳しい説明が書いてあると誘導した先は、インターネットのURLであった。故に、アンチ・アグリーの実態は、間違いなく、近代化のインフレ代表格であるSNSに在るだろう。
そもそも、幸福劇場は初手で、インターネット回線を使うやり口を見せていた。サウザンド・メガロポリス計画のデータを、ROG. COMPANY本社内の回線を使うカタチで、ルカのもとへ転送しようとしていたときの話だ。
これすなわち、幸福劇場は、この世界のインターネットを主軸にして、活動を広げていく可能性が高い。ならば、彼らに悟られてはいけない情報は、どういうカタチであれ、インターネット回線に繋がる場に持ち込むわけにはいかず、現状のRoom ELでは、こうして紙媒体におこすしかないだろう。
ソラが一抹の憂いを帯びた眼をした。
「この場にルカが居れば、例えそれがルカの独断であろうとも、ヒルカリオ全体のインターネット回線関係の全てを、彼自身のセキュリティー技術で護ることが可能だっただろうが…。残念ながら、本人が不在である以上、ルカのチカラに頼ること出来ない我々に出来るのは、これが精一杯だ。
…これ以上、此処に居ないヤツの話をしても仕方がない。仕事を始めよう。…ツバサ、頼む」
挟みかけた私情を引っ込めて、ソラは冷静な視線を取り戻し、隣のツバサへと指示を飛ばす。それを受理した彼女が、即座に口を開いた。
「はい、かしこまりました。それでは皆さま、まずは一番最初のページをご覧ください…」
ツバサの言葉通り、皆が一斉に最初のページに視線を落とす。そこには、『アンチ・アグリーの概要』と書いてある。ツバサが説明を始めた。
「まず、アンチ・アグリーとは…、幸福劇場が提唱したサウザンド・メガロポリス計画の第一脚本である…、とのことですが、我々の世界線で言語化するならば、要するに、『幸福劇場が敷いた、第一回目の政策・施策』と翻訳するのが妥当でありましょう。
つまり、この先、少なくとも第二脚本、第三脚本と銘打ったモノが、次々と幸福劇場側から放り込まれる可能性が高い、…というより、まず間違いはございません」
ツバサの言葉に対して、皆が納得の意を示す沈黙を確認した後、彼女は続ける。
「そして、肝心のアンチ・アグリーの概要そのものは、…そちらに書いてあります通り、脚本名の直訳である『醜さの排除』を謳い文句とし、その内容は『民衆自らが考え、動くことで、己たちの中の醜さを曝け出し、時には他者同士で醜さを指摘し合い、そのうえで、心身の浄化をはかるものである。』とのことです。
こちらは、幸福劇場が発信したURLから飛べる、謂わば公式サイトに書かれている文言となります」
…酷い話だ。
幸福劇場の脚本と言う名の政策・施策たちが、インターネット上に放たれている以上、それは誰でも見られる、誰でも共有できる、誰でも「正しい」と言えるモノに変化し得る。
―――…つまり、そういう顔をしている思想。
怪人の演説でも、秘密文書でもない。堂々とインターネットに置かれた『正義ヅラをした虚言』とも言えるだろうか。
だからこそ、と称するべきか。ルカが居ないとはいえ、ヒルカリオにアンチ・アグリーの思想が侵入することを堰き止めることが出来なかったし、何も知らずしてアンチ・アグリーの否定をすると『悪』にされて、そこからまた知らぬ間にインターネットを通して広がっていく…。
この時点で、幸福劇場はもう『舞台』を完成させているのだ。
段々と幸福劇場の真の在り方が分かってきた皆に対して、ツバサが更に続ける。
「次のページをご覧ください。…こちらは、我が国に於ける主要なSNSから、『幸福劇場』、『アンチ・アグリー』という単語で検索し、ヒットした投稿の中から、一番有用性の高いモノを抜粋した一覧になります。
…ちなみに、本資料にサンプルとして使用することを踏まえ、これらの投稿は全て、ローザリンデ五級高等幹部と、セイラさんの、現実世界でのご友人やお知り合いの手で直接投稿され、その後も管理されているモノであることが確約されている投稿文です。使用の許諾を取るにあたり、金品の授受は一切、発生しておりません。
では、本題に戻ります…」
世の中にはきちんと踏まなければならない段階や、手順が在る。それをしかと裏付けてから、ツバサは言葉を重ね始めた。
「ご覧の通り、アンチ・アグリーに関する投稿内容は、賛否が二極化しているか、全くの見当違いの意見が跋扈しているのが、酷く目立ちます。…読み上げます。
サンプル1『この世には美しい物も醜い物の存在するからこそ、本当に美しいのに…。醜い物だけを排除するだなんて、それこそ美意識が欠けているのでは…?』
サンプル2『自分が認めたもの以外は醜いって思ってたところだから、この政策はちょうどよかった。明日からありがたく拝借しよ。』
サンプル3『海外に飛んで本格的な整形までした私からすれば、この世のブサイクは等しく醜いので、全員死滅してどうぞw』
サンプル4『美醜なんて個人の価値観だろ?そこに幸福劇場とかがツッコんできたとしても、揺らぐ奴なんて、まずいない。まあ仮にいたとしても、ソイツはそれまでの人間だったってことだろうし…。』
サンプル5『醜いと思ったもの=自分が認めないもの、に対するリンチが広がりそうで怖い。でも俺はリモートワークがメインだから、しばらく街の中は歩かないし、被害は無さそう』
…ザっと読み上げた数項の中だけも、このように、まるでまだら模様な投稿が見受けられます」
なるほど。『まだら模様』とは、実に的確な表現である。サンプルとして列挙された投稿文から鑑みて、アンチ・アグリーの下では、誰もが加害者と被害者の両方になり得ることを示唆しており、或いは、自分は完全な傍観者と決め込んで、リアルスティックな損害から目を背けている。…本当に見えていないのかもしれないが。
ツバサが紅茶で喉を潤した後、ごくごく小さな咳払いをしてから、淡々と続けた。
「次のページをご覧ください…。
現段階で、アンチ・アグリーは、政策にしては、非常に抽象的であり、また施策と称するにも、かなり具体的な成果を挙げています。
…まず、先日の週末休み、ソラさんがヒルカリオの商業区画で遭遇した、フラッペ屋の騒動…。事件の発端は、店主と客による、些細な意見の食い違いだったのことです。
先に吹っ掛けたのは客側だったようで、曰く、「ヒルカリオで屋台を出すのは簡単ではない。ズルをしているか、役所に賄賂を渡しているんだろう?」という根も葉も無いデタラメを店主に言い放ったそうです。勿論、店主は正式な許可証を提示し、反論を試みました。すると、客が「許可証にウォーターマークが入っていない」や「そんな紙切れ一枚、スマホの無料アプリでも簡単に作れる」と更に言いがかりをつけ、終いには「そんなに必死になって反論するということは、絶対にやましいことをしているからだ」と勝手に結論を出したとのことです」
具体例として挙げられた案件に関して、ソラの顔色が僅かに曇る。あのフラッペ屋の店主が泣き崩れながら、自分に追い縋ってきた光景を、思い出したのだ。それと同時に、彼の店の前で大騒ぎをしていた群衆の、あの異様な視線と、狂気めいた行動も…。ソラも紅茶を一口飲んで、己の中に湧き上がってきた黒い感情の制御を試みた。その僅かな間すら、きちんと置いて、ツバサはソラがティーカップをソーサーに戻すのを見た後、フラッペ屋での騒動の実態を明かし始める。
「事態が急転したのは、店主と客がそのまま言い合いをしているのを見ていただけの『ただの通行人だった外野たち』が、突然、両者に介入したことです。彼らは一斉に「アンチ・アグリーの出番だ!」といった風の台詞を口にし始め、店主と、そして彼と揉めていた客の両陣営に分かれて、互いの主張の正しさについて、激しく言い争いを始めたそうです。
この時点で、フラッペ屋の店主は、これ以上の喧嘩はやめてくれと、懇願しています。近隣店舗の防犯カメラに、その様子が映っておりますが、…喧嘩の土俵が両陣営に分かれた瞬間、明らかに中心人物であるはずの店主自身が、蚊帳の外へハブかれている光景が見えます。
…そして、あっという間に罵詈雑言の嵐となり、その場にいきなり乱入する人間も微増、…店主は警察に通報することを決意し、スマートフォンで緊急通報を試みました。しかし、それを見咎めた誰かが、今度は店主に向かって、攻撃します。「アンチ・アグリーに刃向かうな」、「自分たちは正しいことをしている」「それを止めるお前は、幸福劇場のアンチだ」等、一斉に怒鳴りつけ…、そこで店主は遂に精神的に追い詰められてしまいました。…その直後、ソラさんが現場に到着したのです。
これ以降のことは、ソラさんから我々に届いている報告の通りであり、その他の項目については、グレイス隊による正式な事後処理の記録がトルバドール・セキュリティーのサーバーに在りますので、必要でしたら、各自そちらをご覧ください。…あ、ナオト先生にアクセスの権限は与えられていないので、もし読みたかったら、私かソラさんに申告してください…。
本資料の説明は以上でございます。此処まで、質問、疑問、ご意見等は皆様、様々な形でお抱えかとは存じますが、…現段階では、明確な解決策、対案、正解等は、我々だけで論じるのは不可能だと思われます。
…今、KALASの方に「ルカと本件に関する対話をさせて欲しい」という旨のメールを送り、その返答を待っている状況です。次の段階に進むには、KALASからの返答次第になるかと…」
ツバサはそこまで言い切ってから、己の虚ろな緑眼を、僅かに下向きにした。そしてそれは、他の三人も同じ気持ちである。
―――…結局、Room ELでは、ルカに頼らないと、眼前の問題すら何一つ解決することが出来ない。
そう、此処は、Room EL。ルカを閉じ込める巨大ビルの檻の中の、更に深奥に造られた檻。それすなわち、「ルカが此処に居ることが前提条件で、全ての歯車が噛み合い、正しく動く場所」なのである。
ルカが居ない。
たったそれだけ。されど、それこそが、Room ELが本来発揮するべき機能の至る所をフリーズさせてしまっている。
重たい空気が室内に垂れ込み始めた。そのとき。
ツバサのデスクから、彼女のスマートフォンが鳴る音が響いた。電話の着信だ。会社員として平日勤務を全うしているツバサ宛に、直接的に電話をかけてくるなど、まず居ないのだが…。
…何故だろう。無視してはいけない気がして。ツバサは、ソファーから立ち上がり、心なしか足早にデスクまで駆け寄り、着信を告げ続けるスマートフォンを手に取る。
「…、…知らない番号…」
液晶画面に表示されているのは、ツバサのスマートフォンには登録されていない番号だった。最近は、個人電話とて、受話したら最後とばかりに、特殊詐欺へと巻き込まれるケースも非常に多い。―――…しかし、何故だろうか。本当に、何故かは分からないが。
この番号は、無視してはいけない気がした。
「…はい、ツバサです」
ツバサが鳴り響く電話を繋ぎ、定型文の挨拶をした瞬間。
『ちょっと!電話一本だけで、一体、何秒も待たせるつもりなの?!KALASは今、ルカ様の修理と調整で多忙を極めていることは、貴女が一番良く分かっているはずでしょう?!あんなにたくさんの確認メールだの、進捗要請だのを送り付けておいて!!
ほんっと!貴女って、それでもルカ様のホルダーのつもり!?自覚が足りないなら、その座をさっさと私に譲りなさい!!』
ヒステリック気味とも取れる女の大きな声が、ツバサの鼓膜をつんざく。思わずスマートフォンを耳から離したツバサは、相手の主張に区切りがついた隙に、再び、己の耳に本体を当てて、至極当然の質問をする。
「え、あの…?どちらさまですか…?」
『…嘘でしょう?!私の声に聞き覚えが無いとか…ッ!…こほん、まあ、良いわ。復帰記念を兼ねて、堂々と宣言してあげる。さあ、今すぐスピーカーモードにしなさい。Room ELのメンバーに、私のことを名乗ってあげるわ』
「はあ…、まあ、それくらいなら別に構いませんが…」
ツバサは通話の相手の指示に従い(逆らうメリットも無いので…)、スマートフォンをスピーカーモードにしてから、ソファーに腰かけて「何事か?」とこちらを見やる男三人の方へと向ける。すると、その気配を察知したらしい、画面の向こうの女が、威風堂々たる声で名乗った。
『お久しぶりです、ツバサさん、ソラ秘書官、鈴ヶ原先生。そして、初めまして。顧問弁護士の、琉一=エリト=ステルバスさん。
ふふ。私は、エルイーネ・スコット。…覚えているでしょう?そう、あのエルイーネよ!
何を隠そう、この度、私、エルイーネは、この身一つでKALASの主任の椅子へ復活させて頂きました。これから、どうぞよろしくお願いいたします』
―――エルイーネ…ッ!!??
その名前を聞いた刹那、琉一以外の三人が、文字通り、震撼した。
エルイーネとは、何者か?
かつて、KALASの主任に就いていた女性管理職。だが、彼女は己の職権を濫用し、周囲の人間を踏み躙り、挙句の果てに『ルカ専用の施設の責任者』であることを手段として、ルカそのものを掌握し、この世界を丸ごと覆すような悪辣な計画を立てていた人間だ。…だが当然、それはルカは勿論、ソラ、ツバサ、ナオト、ローザリンデが結託し、更に当時は未だKALASの雑用アルバイトだったセイラも協力したことから、この世から綺麗さっぱりと粛清されたのである。…エルイーネの精神崩壊と共に…。…そうだったはずなのだが…?
ぽかん、とするRoom EL側の空気を読み取ったらしいエルイーネは、ふんぞり返るような勢いで、言葉を続ける。
『まあ当然だけれど、そちらは勘違いしてそうだから、きちんと教えてさしあげるわ。
私のKALAS主任への復活は、真っ当な手順とルートを辿った結果に行き着いた、至極当然の答えよ。どうしても疑いたいと言うのであれば、そちらの社長、…ああ、そう言えば、私が警察病院の地下病棟に入院している間に、本社の社長の座は、あの古狸のジジイから、実の息子へ代替わりしたんですってね…。まあ、それは良いわ。とにかく、私の復権に関する質問は、ROG. COMPANYの現社長が答えてくださるでしょう。だから、そちらに問い合わせてちょうだい。
…此処に帰ると決めたあの日から、血を吐いて、泥も食べるような勢いで努力したわ…!だからこそ、この復活した椅子で、私が出来ることの全部を、ルカ様に捧げると決めたの。絶対に失敗しないと約束するし、この私が帰って来た以上、KALASが失敗なんてするわけないのだから、―――…Room ELは今まで通り、堂々と胸を張って、ヒルカリオ全体を監視していれば良いのよ。分かって?』
スピーカーの向こうのエルイーネの饒舌ぶりは、悪役としての正体を晒したあの日を、そっくりそのまま想起させるモノだった。しかし、その波に呑まれはしない人間こそ、このRoom ELのメンバーでもある。
ソラがスマートフォンに向かって、口を開いた。
「エルイーネ…、お前は現時点で更生ないし、改心したことを前提条件として、KALASの主任に返り咲いている、という認識で正解か?」
ソラの質問を聞いた途端、エルイーネは、ふんっ、と鼻を鳴らすかのような反応を示した後。変わらず、悪辣な口調で続けてきた。
『随分とつまらない解釈ね。これだから凡人は、…って、そう言えば、ソラ秘書官は二千年に一人の天才児だったわね。ごめんなさい。私ってば、どれだけ努力したって報われなかったばかりの底辺育ちなもので、つい、自分より上位存在の思考パターンが読めなくなってしまうの。次にお話する場面が来るまでに、科学者兼技術者としての初心を、今一度、取り戻しておくことにするわ』
エルイーネの不遜極まる言葉に、ソラの視線が細まる。手に持ったままだった書類たちが握り締めた反動で、ぐしゃ、と歪んだ。
「べらべらと不必要なことばかり喋り散らかして、本題を誤魔化そうとするな」
『何処も誤魔化してなどいないわ。ソラ秘書官が、こちら側の事情を想像しようとしないだけ。私は先ほど、きちんと言ったでしょう?
「私のKALAS主任への復活は、真っ当な手順とルートを辿った結果に行き着いた、至極当然の答えよ」と…』
冷たい声を発するソラの追求にも、エルイーネは動じる様子を一切見せない。…どうやら、相当に、自分の復権に関する事柄と、それに付随してきたであろう責任やら権威には、自信やプライドを持っているらしい。
最早、自分の過去に犯した罪そのものを忘れ切ったかのような、いっそ潔いまでに威風堂々としたエルイーネの口振りに対して、ソラが閉口していると、エルイーネが畳み掛けてきた。
『KALASの主任として、これ以上のルカ様に関する情報は渡せないけれど、…まあ、一つだけなら、良いニュースを教えてあげても良いでしょう。
幸福劇場の第一脚本『アンチ・アグリー』、…アレに関係する騒動は、もうすぐ終わる。
この意味が分かる?貴方たちが、そんな狭い室内でウジウジと悩む時間は、もう必要ないということ。次のフェーズは、とっくに動き始めているということなの』
その言葉に、誰もが口を閉ざした。だが、エルイーネは構わずに続ける。
『アンチ・アグリーのおかげで、思い知ったでしょう?ルカ様の居ないRoom ELは完全に機能停止に陥るという現状が、しっかりと、はっきりと。
だからこそ、留守番をしている貴方たちなりに、常に最前線の情報を追いかけて、つまらない現実に突き当たりなさい。嘆くも、喚くも、怒るも、好きにすれば良いわ。どうせ、ルカ様の居ないRoom ELなんて、ただの箱。例えるなら、メインのフィギュアが飾られていないだけの、空っぽのガラスケースに過ぎないのだから』
エルイーネがそこまで言ったときだった。ピキンッ、という、何かが割れた音が響く。それはエルイーネにも聞こえたらしく、彼女の弁舌が止まった。しかし彼女には見えていない。―――何故なら、割れていたのは、ツバサが手に持っていたスマートフォンに嵌まっている、アクリル製ケースだったからだ。
みしみし…、と音を立てさせながら、ツバサは右手だけの握力で、自分のスマートフォンに物理的な圧を掛けつつ。そのマイクに向かって、声を振り絞る。
「…、エルイーネ主任、私は貴女がどんな経緯を経て、此処まで帰って来たのかは、今は知らないし、想像も出来ない…。それでも、私は貴女に、この場で言いたいことがある…。
―――…ルカ不在の当室が機能不全に陥っているのは、疑いようのない事実。それでも私たち自身はそこを反省しつつ、現段階で出来ることをしようとしている…。それは別に良い。ただの事実だから…。
だけど、その事実だけを非難したいからと言って、例え話とてルカのことを『ガラスケースの中で飾られているだけのフィギュア』と表現するのは、…許さない…。
ルカは飾って遊ばれるだけの人形じゃない…。世間知らずでも浮世離れしていても確固たる自我を持っていて、稼働歴二百年以上の間にたくさんの人間たちに裏切られ続けても、…そう、かつてのエルイーネ主任もその一人…、それでも尚、軍事兵器としての自分を全うするために、ヒルカリオのために戦ってきてくれた…。
ルカは、此処で生きている人間たちより、余程、人間のことを知り尽くしている。…だからじゃないの?自分の故障だって、ルカなら本来、自分で何とか出来るはずなのに、KALASへの収容を自ら選んだのは…。『人間の手で軍事兵器として調整された自分』を任せてもいいと、KALASのスタッフたちになら委ねても構わないと、ルカ自身がそう判断したからでしょう…?
その組織のリーダー格として返り咲いた貴女に、そんなことすら分からない、とは言わせない…!」
ツバサが地を這うような低い声で、言い切る。その間にも、彼女の驚異の握力は、下手すればスマートフォンを砕くのではないかと思うほどのパワーを見せつけていた。
…忘れている者も多いかもしれないが、彼女は高校時代、強豪サッカー部の正ゴールキーパーであった。元サッカー部という括りでは、奇しくも兄のソラと同じ道を歩んでいる。
現役時代のツバサは絶対にゴールを割らせなかった。飛んで来るボールはことごとく跳ね返す。跳ね返せないなら、鉄壁の如く、ホールドした。その守護神めいた勇姿が理由で、当時サッカー部界隈でツバサに与えられた通り名は、『ウルトラセキュリティー』。そして今も、彼女の母校では『伝説』として語り継がれている。
その鉄壁の守護神の片鱗を、声だけで見せ付けたツバサに対して。エルイーネは暫しの沈黙をもたらした後。はあ…、とわざとらしく溜め息を吐いてから、話し始めた。
『焚き付けられたのなら、きちんとお仕事しなさい。この高給取りたちめ。…それじゃあ、私はルカ様の修理データの調整に入るから、これで失礼するわ』
言い残すことだけを捨て置きカタチで、エルイーネは電話を切った。ツー、ツー、ツー、という通話が切断されたことを示す無機質な音が、スピーカーから響き、不可解な沈黙に包まれたRoom EL内に落ちる。
「………、……。」
ツバサの長い前髪が、彼女の表情を隠してしまい、そこを伺うことは出来ない。だが、ソラは兄として妹を最も心配し、ナオトは最推しが不安になっていることに精神が同期して、琉一は庇護の心が暴走しそうになっている。
だが、ツバサは視線を上げた。その緑眼は、常日頃と変わらず、陰鬱な印象こそ振り撒くものの。その虚ろな色の奥底にしか見えない、激情の炎が灯っていた。
「…、…お兄様、……いいえ、ソラ秘書官…」
「…なんだ?」
ツバサの視線が、ソラに向く。射抜かれたような気持ちになりながらも、ソラはしかと答えた。ツバサが続ける。
「私はルカ三級高等幹部のホルダーとして、正式に、社長直談判をしに行きます。…私に、Room ELのセキュリティーの権限の一端を寄越せ、と。つきましては、社長室まで同行していただけますでしょうか。何故なら、社長とのレスバは私一人で事足りますが、…彼の秘書を兼任しているローザリンデ五級高等幹部の説得には、ソラ秘書官のお立場が必要ですので…」
末恐ろしいことを言い出し始めた。だがしかし、反論する者は居なかった。一見すれば、ルカのホルダーである立場を濫用しようとする兆候にも見えるだろうが。そんなことは無い。
ツバサは、覚悟を決めただけだ。本気で外敵要因と立ち向かうための、戦支度をスタートさせたのである。
どいつもこいつも、身勝手な主張を繰り返し、無軌道に行動しまくり、おおてんぷらな物差しで非常識なことを正義と騙り、―――…こちらが黙っているからと、図に乗り上げては、炎上騒ぎ。
「…もう、私は、…黙りません。暴力や戦争は専門外ですが、…それ以外で出来ることは、何でも処理しましょう。
ええ、だって私は、…Room ELの事務員ですから。計算、演算、関数、書類作成、データ整理、…お望みならば、当室の運用に必要なデータの全てのバックアップと、ブラッシュアップも余さずに行いましょう…。事務員ですからね。大事なことなので二回言いました…」
ツバサの宣言は、静かに成された。
その声の表面に在る冷たさと、裏側に潜む人間味は、兄・ソラに良く似ていると同時に、彼と同じ上司を持つ事務員の肩書きが相応しい女性であることを証明している。
「ルカの秘書官として、お前の兄として、…俺はお前の決断に従おう。異論の在るものは居るか?」
ソラが冷静な声が、琉一とナオトに向けられる。
「否定します。妹姫こそ、この場で最も尊重されるべき人材です。それに本来、ホルダーとはルカ三級高等幹部が護るべき存在ですが…、彼が不在である今、国家機関がその代替をしないことに、些かの不審感すら覚えていたところです」
そう言う琉一の台詞の中には、本土の政治機関への嫌味が混じっている。琉一は叩き上げの戦士である以前に、ROG. COMPANY内ではあくまで一介の顧問弁護士でしかないため、今の今まで発言を控えていたようにも見えた。次いで、ナオトが答え始めた。
「僕も琉一さんと同意見です。ツバサさんの本来のお立場が証明される、良い機会だと思います。そもそも何処かで、どなたかが仰っていませんでしたか?「ヒルカリオの統制機関は、仕事がずさんだ」的な台詞…。おや?何処で聞いたんでしたっけ…?本当に忘れてしまいましたね…」
実に筋の通った意見である。後半はただのブラックジョークなのか、はたまた、本当に何処かの誰かが言っていたのを聞いたのか、…それはソラと琉一には、判断がつきかねた。
「意見は無事に纏まったようだな。感謝する。…では、各自、本格的に仕事を始めるとしよう。
―――では、よろしくお願いします」
いつもなら、ルカが言っている台詞だが、…今はソラがその役割を担う。そして、彼の言葉に合わせて、残りの三人も「よろしくお願いします」と返答したのであった。
発生した仕事は、きちんと納めて当然である。何故なら、我々は社会人なのだから。
常時荒波で、断続的に大雨大雪警報発令中に等しい、この現代社会。
「ちゃんとした人間」をするのであれば、誰にも見せていない一面の一つや二つ、あってもいい。自分の中の二面性を知るに足ると確信した人物の前で、本音は曝け出すべきである。
それが出来ないのであれば、―――…不特定多数の前で、己の無知を晒すだけ晒した後に、一人で勝手に恥の海へと沈むだけなのだ。
――fin.
地下鉄のホーム内で起こった喧嘩騒ぎにより、かなりの遅刻状態で出勤したナオトと琉一だったが。出迎えたソラとツバサは、遅刻の理由を、琉一からメッセージアプリにて明確に報告されていたため、特に動揺しているような素振りは無かった。此処がこの調子であるならば、鞠絵が向かった社長室も、きっと同じような空気感で、彼女を出迎えているに違いない。そう考えると、ナオトは何処かホッとしたような気持ちになるのだった。
「さて…、バタつく最中でも、きちんと出勤してくれたことを、まずはありがとう。そして、全員が無事で何よりだ。
出来ることなら、このまま二人には午前休を与え、仮眠室へ案内したいところだが、…残念ながら、幸福劇場の面々には「待つ」ことや「一旦休憩」という考えは、持ち合わせていないらしい」
ソラはそう言いながら、さり気なく琉一とナオトを、応接用のソファーへと促し、座らせる。二人が着席すると、そこへツバサが、いま居る人数分の温かい紅茶を持ってきた。その後、琉一とナオトの対面に、書類を持ったソラと、社用端末を手にしたツバサが腰かける。
ツバサが自分の紅茶に角砂糖を一粒入れて、スプーンで、くるくる、とかき混ぜるのを合図にしたかのように、甘党の琉一も四粒の角砂糖をカップ内に放り込んだ。無糖派のソラとナオトは、そのままティーカップに口を付ける。
皆が皆、一口二口と紅茶を飲み、カップをソーサーに置いた後。ソラが膝上で重ねていた書類を、各自に配りながら、喋り始めた。
「まずは、こちらを見てくれ。
弊社の社長自らが、ローザリンデ、セイラと手分けをして、幸福劇場の第一脚本『アンチ・アグリー』について、各主要なSNSと、検索エンジンからヒットした情報などを纏めてくださったモノだ。…紙媒体で渡すのは、弊社内のネット回線上とは言え、万が一でも第三者から侵入される可能性のある場所に、この情報を載せたくないからだ。どうか理解して欲しい」
ソラの非常に説明は分かり易く、そして納得の行くモノである。
幸福劇場が敷いた『アンチ・アグリー』が動いたのは、平日の朝、通勤時間帯のど真ん中、「演出を開始致します」という無機質な少女の声を模したアナウンスが触れ回ったからであり。その詳しい説明が書いてあると誘導した先は、インターネットのURLであった。故に、アンチ・アグリーの実態は、間違いなく、近代化のインフレ代表格であるSNSに在るだろう。
そもそも、幸福劇場は初手で、インターネット回線を使うやり口を見せていた。サウザンド・メガロポリス計画のデータを、ROG. COMPANY本社内の回線を使うカタチで、ルカのもとへ転送しようとしていたときの話だ。
これすなわち、幸福劇場は、この世界のインターネットを主軸にして、活動を広げていく可能性が高い。ならば、彼らに悟られてはいけない情報は、どういうカタチであれ、インターネット回線に繋がる場に持ち込むわけにはいかず、現状のRoom ELでは、こうして紙媒体におこすしかないだろう。
ソラが一抹の憂いを帯びた眼をした。
「この場にルカが居れば、例えそれがルカの独断であろうとも、ヒルカリオ全体のインターネット回線関係の全てを、彼自身のセキュリティー技術で護ることが可能だっただろうが…。残念ながら、本人が不在である以上、ルカのチカラに頼ること出来ない我々に出来るのは、これが精一杯だ。
…これ以上、此処に居ないヤツの話をしても仕方がない。仕事を始めよう。…ツバサ、頼む」
挟みかけた私情を引っ込めて、ソラは冷静な視線を取り戻し、隣のツバサへと指示を飛ばす。それを受理した彼女が、即座に口を開いた。
「はい、かしこまりました。それでは皆さま、まずは一番最初のページをご覧ください…」
ツバサの言葉通り、皆が一斉に最初のページに視線を落とす。そこには、『アンチ・アグリーの概要』と書いてある。ツバサが説明を始めた。
「まず、アンチ・アグリーとは…、幸福劇場が提唱したサウザンド・メガロポリス計画の第一脚本である…、とのことですが、我々の世界線で言語化するならば、要するに、『幸福劇場が敷いた、第一回目の政策・施策』と翻訳するのが妥当でありましょう。
つまり、この先、少なくとも第二脚本、第三脚本と銘打ったモノが、次々と幸福劇場側から放り込まれる可能性が高い、…というより、まず間違いはございません」
ツバサの言葉に対して、皆が納得の意を示す沈黙を確認した後、彼女は続ける。
「そして、肝心のアンチ・アグリーの概要そのものは、…そちらに書いてあります通り、脚本名の直訳である『醜さの排除』を謳い文句とし、その内容は『民衆自らが考え、動くことで、己たちの中の醜さを曝け出し、時には他者同士で醜さを指摘し合い、そのうえで、心身の浄化をはかるものである。』とのことです。
こちらは、幸福劇場が発信したURLから飛べる、謂わば公式サイトに書かれている文言となります」
…酷い話だ。
幸福劇場の脚本と言う名の政策・施策たちが、インターネット上に放たれている以上、それは誰でも見られる、誰でも共有できる、誰でも「正しい」と言えるモノに変化し得る。
―――…つまり、そういう顔をしている思想。
怪人の演説でも、秘密文書でもない。堂々とインターネットに置かれた『正義ヅラをした虚言』とも言えるだろうか。
だからこそ、と称するべきか。ルカが居ないとはいえ、ヒルカリオにアンチ・アグリーの思想が侵入することを堰き止めることが出来なかったし、何も知らずしてアンチ・アグリーの否定をすると『悪』にされて、そこからまた知らぬ間にインターネットを通して広がっていく…。
この時点で、幸福劇場はもう『舞台』を完成させているのだ。
段々と幸福劇場の真の在り方が分かってきた皆に対して、ツバサが更に続ける。
「次のページをご覧ください。…こちらは、我が国に於ける主要なSNSから、『幸福劇場』、『アンチ・アグリー』という単語で検索し、ヒットした投稿の中から、一番有用性の高いモノを抜粋した一覧になります。
…ちなみに、本資料にサンプルとして使用することを踏まえ、これらの投稿は全て、ローザリンデ五級高等幹部と、セイラさんの、現実世界でのご友人やお知り合いの手で直接投稿され、その後も管理されているモノであることが確約されている投稿文です。使用の許諾を取るにあたり、金品の授受は一切、発生しておりません。
では、本題に戻ります…」
世の中にはきちんと踏まなければならない段階や、手順が在る。それをしかと裏付けてから、ツバサは言葉を重ね始めた。
「ご覧の通り、アンチ・アグリーに関する投稿内容は、賛否が二極化しているか、全くの見当違いの意見が跋扈しているのが、酷く目立ちます。…読み上げます。
サンプル1『この世には美しい物も醜い物の存在するからこそ、本当に美しいのに…。醜い物だけを排除するだなんて、それこそ美意識が欠けているのでは…?』
サンプル2『自分が認めたもの以外は醜いって思ってたところだから、この政策はちょうどよかった。明日からありがたく拝借しよ。』
サンプル3『海外に飛んで本格的な整形までした私からすれば、この世のブサイクは等しく醜いので、全員死滅してどうぞw』
サンプル4『美醜なんて個人の価値観だろ?そこに幸福劇場とかがツッコんできたとしても、揺らぐ奴なんて、まずいない。まあ仮にいたとしても、ソイツはそれまでの人間だったってことだろうし…。』
サンプル5『醜いと思ったもの=自分が認めないもの、に対するリンチが広がりそうで怖い。でも俺はリモートワークがメインだから、しばらく街の中は歩かないし、被害は無さそう』
…ザっと読み上げた数項の中だけも、このように、まるでまだら模様な投稿が見受けられます」
なるほど。『まだら模様』とは、実に的確な表現である。サンプルとして列挙された投稿文から鑑みて、アンチ・アグリーの下では、誰もが加害者と被害者の両方になり得ることを示唆しており、或いは、自分は完全な傍観者と決め込んで、リアルスティックな損害から目を背けている。…本当に見えていないのかもしれないが。
ツバサが紅茶で喉を潤した後、ごくごく小さな咳払いをしてから、淡々と続けた。
「次のページをご覧ください…。
現段階で、アンチ・アグリーは、政策にしては、非常に抽象的であり、また施策と称するにも、かなり具体的な成果を挙げています。
…まず、先日の週末休み、ソラさんがヒルカリオの商業区画で遭遇した、フラッペ屋の騒動…。事件の発端は、店主と客による、些細な意見の食い違いだったのことです。
先に吹っ掛けたのは客側だったようで、曰く、「ヒルカリオで屋台を出すのは簡単ではない。ズルをしているか、役所に賄賂を渡しているんだろう?」という根も葉も無いデタラメを店主に言い放ったそうです。勿論、店主は正式な許可証を提示し、反論を試みました。すると、客が「許可証にウォーターマークが入っていない」や「そんな紙切れ一枚、スマホの無料アプリでも簡単に作れる」と更に言いがかりをつけ、終いには「そんなに必死になって反論するということは、絶対にやましいことをしているからだ」と勝手に結論を出したとのことです」
具体例として挙げられた案件に関して、ソラの顔色が僅かに曇る。あのフラッペ屋の店主が泣き崩れながら、自分に追い縋ってきた光景を、思い出したのだ。それと同時に、彼の店の前で大騒ぎをしていた群衆の、あの異様な視線と、狂気めいた行動も…。ソラも紅茶を一口飲んで、己の中に湧き上がってきた黒い感情の制御を試みた。その僅かな間すら、きちんと置いて、ツバサはソラがティーカップをソーサーに戻すのを見た後、フラッペ屋での騒動の実態を明かし始める。
「事態が急転したのは、店主と客がそのまま言い合いをしているのを見ていただけの『ただの通行人だった外野たち』が、突然、両者に介入したことです。彼らは一斉に「アンチ・アグリーの出番だ!」といった風の台詞を口にし始め、店主と、そして彼と揉めていた客の両陣営に分かれて、互いの主張の正しさについて、激しく言い争いを始めたそうです。
この時点で、フラッペ屋の店主は、これ以上の喧嘩はやめてくれと、懇願しています。近隣店舗の防犯カメラに、その様子が映っておりますが、…喧嘩の土俵が両陣営に分かれた瞬間、明らかに中心人物であるはずの店主自身が、蚊帳の外へハブかれている光景が見えます。
…そして、あっという間に罵詈雑言の嵐となり、その場にいきなり乱入する人間も微増、…店主は警察に通報することを決意し、スマートフォンで緊急通報を試みました。しかし、それを見咎めた誰かが、今度は店主に向かって、攻撃します。「アンチ・アグリーに刃向かうな」、「自分たちは正しいことをしている」「それを止めるお前は、幸福劇場のアンチだ」等、一斉に怒鳴りつけ…、そこで店主は遂に精神的に追い詰められてしまいました。…その直後、ソラさんが現場に到着したのです。
これ以降のことは、ソラさんから我々に届いている報告の通りであり、その他の項目については、グレイス隊による正式な事後処理の記録がトルバドール・セキュリティーのサーバーに在りますので、必要でしたら、各自そちらをご覧ください。…あ、ナオト先生にアクセスの権限は与えられていないので、もし読みたかったら、私かソラさんに申告してください…。
本資料の説明は以上でございます。此処まで、質問、疑問、ご意見等は皆様、様々な形でお抱えかとは存じますが、…現段階では、明確な解決策、対案、正解等は、我々だけで論じるのは不可能だと思われます。
…今、KALASの方に「ルカと本件に関する対話をさせて欲しい」という旨のメールを送り、その返答を待っている状況です。次の段階に進むには、KALASからの返答次第になるかと…」
ツバサはそこまで言い切ってから、己の虚ろな緑眼を、僅かに下向きにした。そしてそれは、他の三人も同じ気持ちである。
―――…結局、Room ELでは、ルカに頼らないと、眼前の問題すら何一つ解決することが出来ない。
そう、此処は、Room EL。ルカを閉じ込める巨大ビルの檻の中の、更に深奥に造られた檻。それすなわち、「ルカが此処に居ることが前提条件で、全ての歯車が噛み合い、正しく動く場所」なのである。
ルカが居ない。
たったそれだけ。されど、それこそが、Room ELが本来発揮するべき機能の至る所をフリーズさせてしまっている。
重たい空気が室内に垂れ込み始めた。そのとき。
ツバサのデスクから、彼女のスマートフォンが鳴る音が響いた。電話の着信だ。会社員として平日勤務を全うしているツバサ宛に、直接的に電話をかけてくるなど、まず居ないのだが…。
…何故だろう。無視してはいけない気がして。ツバサは、ソファーから立ち上がり、心なしか足早にデスクまで駆け寄り、着信を告げ続けるスマートフォンを手に取る。
「…、…知らない番号…」
液晶画面に表示されているのは、ツバサのスマートフォンには登録されていない番号だった。最近は、個人電話とて、受話したら最後とばかりに、特殊詐欺へと巻き込まれるケースも非常に多い。―――…しかし、何故だろうか。本当に、何故かは分からないが。
この番号は、無視してはいけない気がした。
「…はい、ツバサです」
ツバサが鳴り響く電話を繋ぎ、定型文の挨拶をした瞬間。
『ちょっと!電話一本だけで、一体、何秒も待たせるつもりなの?!KALASは今、ルカ様の修理と調整で多忙を極めていることは、貴女が一番良く分かっているはずでしょう?!あんなにたくさんの確認メールだの、進捗要請だのを送り付けておいて!!
ほんっと!貴女って、それでもルカ様のホルダーのつもり!?自覚が足りないなら、その座をさっさと私に譲りなさい!!』
ヒステリック気味とも取れる女の大きな声が、ツバサの鼓膜をつんざく。思わずスマートフォンを耳から離したツバサは、相手の主張に区切りがついた隙に、再び、己の耳に本体を当てて、至極当然の質問をする。
「え、あの…?どちらさまですか…?」
『…嘘でしょう?!私の声に聞き覚えが無いとか…ッ!…こほん、まあ、良いわ。復帰記念を兼ねて、堂々と宣言してあげる。さあ、今すぐスピーカーモードにしなさい。Room ELのメンバーに、私のことを名乗ってあげるわ』
「はあ…、まあ、それくらいなら別に構いませんが…」
ツバサは通話の相手の指示に従い(逆らうメリットも無いので…)、スマートフォンをスピーカーモードにしてから、ソファーに腰かけて「何事か?」とこちらを見やる男三人の方へと向ける。すると、その気配を察知したらしい、画面の向こうの女が、威風堂々たる声で名乗った。
『お久しぶりです、ツバサさん、ソラ秘書官、鈴ヶ原先生。そして、初めまして。顧問弁護士の、琉一=エリト=ステルバスさん。
ふふ。私は、エルイーネ・スコット。…覚えているでしょう?そう、あのエルイーネよ!
何を隠そう、この度、私、エルイーネは、この身一つでKALASの主任の椅子へ復活させて頂きました。これから、どうぞよろしくお願いいたします』
―――エルイーネ…ッ!!??
その名前を聞いた刹那、琉一以外の三人が、文字通り、震撼した。
エルイーネとは、何者か?
かつて、KALASの主任に就いていた女性管理職。だが、彼女は己の職権を濫用し、周囲の人間を踏み躙り、挙句の果てに『ルカ専用の施設の責任者』であることを手段として、ルカそのものを掌握し、この世界を丸ごと覆すような悪辣な計画を立てていた人間だ。…だが当然、それはルカは勿論、ソラ、ツバサ、ナオト、ローザリンデが結託し、更に当時は未だKALASの雑用アルバイトだったセイラも協力したことから、この世から綺麗さっぱりと粛清されたのである。…エルイーネの精神崩壊と共に…。…そうだったはずなのだが…?
ぽかん、とするRoom EL側の空気を読み取ったらしいエルイーネは、ふんぞり返るような勢いで、言葉を続ける。
『まあ当然だけれど、そちらは勘違いしてそうだから、きちんと教えてさしあげるわ。
私のKALAS主任への復活は、真っ当な手順とルートを辿った結果に行き着いた、至極当然の答えよ。どうしても疑いたいと言うのであれば、そちらの社長、…ああ、そう言えば、私が警察病院の地下病棟に入院している間に、本社の社長の座は、あの古狸のジジイから、実の息子へ代替わりしたんですってね…。まあ、それは良いわ。とにかく、私の復権に関する質問は、ROG. COMPANYの現社長が答えてくださるでしょう。だから、そちらに問い合わせてちょうだい。
…此処に帰ると決めたあの日から、血を吐いて、泥も食べるような勢いで努力したわ…!だからこそ、この復活した椅子で、私が出来ることの全部を、ルカ様に捧げると決めたの。絶対に失敗しないと約束するし、この私が帰って来た以上、KALASが失敗なんてするわけないのだから、―――…Room ELは今まで通り、堂々と胸を張って、ヒルカリオ全体を監視していれば良いのよ。分かって?』
スピーカーの向こうのエルイーネの饒舌ぶりは、悪役としての正体を晒したあの日を、そっくりそのまま想起させるモノだった。しかし、その波に呑まれはしない人間こそ、このRoom ELのメンバーでもある。
ソラがスマートフォンに向かって、口を開いた。
「エルイーネ…、お前は現時点で更生ないし、改心したことを前提条件として、KALASの主任に返り咲いている、という認識で正解か?」
ソラの質問を聞いた途端、エルイーネは、ふんっ、と鼻を鳴らすかのような反応を示した後。変わらず、悪辣な口調で続けてきた。
『随分とつまらない解釈ね。これだから凡人は、…って、そう言えば、ソラ秘書官は二千年に一人の天才児だったわね。ごめんなさい。私ってば、どれだけ努力したって報われなかったばかりの底辺育ちなもので、つい、自分より上位存在の思考パターンが読めなくなってしまうの。次にお話する場面が来るまでに、科学者兼技術者としての初心を、今一度、取り戻しておくことにするわ』
エルイーネの不遜極まる言葉に、ソラの視線が細まる。手に持ったままだった書類たちが握り締めた反動で、ぐしゃ、と歪んだ。
「べらべらと不必要なことばかり喋り散らかして、本題を誤魔化そうとするな」
『何処も誤魔化してなどいないわ。ソラ秘書官が、こちら側の事情を想像しようとしないだけ。私は先ほど、きちんと言ったでしょう?
「私のKALAS主任への復活は、真っ当な手順とルートを辿った結果に行き着いた、至極当然の答えよ」と…』
冷たい声を発するソラの追求にも、エルイーネは動じる様子を一切見せない。…どうやら、相当に、自分の復権に関する事柄と、それに付随してきたであろう責任やら権威には、自信やプライドを持っているらしい。
最早、自分の過去に犯した罪そのものを忘れ切ったかのような、いっそ潔いまでに威風堂々としたエルイーネの口振りに対して、ソラが閉口していると、エルイーネが畳み掛けてきた。
『KALASの主任として、これ以上のルカ様に関する情報は渡せないけれど、…まあ、一つだけなら、良いニュースを教えてあげても良いでしょう。
幸福劇場の第一脚本『アンチ・アグリー』、…アレに関係する騒動は、もうすぐ終わる。
この意味が分かる?貴方たちが、そんな狭い室内でウジウジと悩む時間は、もう必要ないということ。次のフェーズは、とっくに動き始めているということなの』
その言葉に、誰もが口を閉ざした。だが、エルイーネは構わずに続ける。
『アンチ・アグリーのおかげで、思い知ったでしょう?ルカ様の居ないRoom ELは完全に機能停止に陥るという現状が、しっかりと、はっきりと。
だからこそ、留守番をしている貴方たちなりに、常に最前線の情報を追いかけて、つまらない現実に突き当たりなさい。嘆くも、喚くも、怒るも、好きにすれば良いわ。どうせ、ルカ様の居ないRoom ELなんて、ただの箱。例えるなら、メインのフィギュアが飾られていないだけの、空っぽのガラスケースに過ぎないのだから』
エルイーネがそこまで言ったときだった。ピキンッ、という、何かが割れた音が響く。それはエルイーネにも聞こえたらしく、彼女の弁舌が止まった。しかし彼女には見えていない。―――何故なら、割れていたのは、ツバサが手に持っていたスマートフォンに嵌まっている、アクリル製ケースだったからだ。
みしみし…、と音を立てさせながら、ツバサは右手だけの握力で、自分のスマートフォンに物理的な圧を掛けつつ。そのマイクに向かって、声を振り絞る。
「…、エルイーネ主任、私は貴女がどんな経緯を経て、此処まで帰って来たのかは、今は知らないし、想像も出来ない…。それでも、私は貴女に、この場で言いたいことがある…。
―――…ルカ不在の当室が機能不全に陥っているのは、疑いようのない事実。それでも私たち自身はそこを反省しつつ、現段階で出来ることをしようとしている…。それは別に良い。ただの事実だから…。
だけど、その事実だけを非難したいからと言って、例え話とてルカのことを『ガラスケースの中で飾られているだけのフィギュア』と表現するのは、…許さない…。
ルカは飾って遊ばれるだけの人形じゃない…。世間知らずでも浮世離れしていても確固たる自我を持っていて、稼働歴二百年以上の間にたくさんの人間たちに裏切られ続けても、…そう、かつてのエルイーネ主任もその一人…、それでも尚、軍事兵器としての自分を全うするために、ヒルカリオのために戦ってきてくれた…。
ルカは、此処で生きている人間たちより、余程、人間のことを知り尽くしている。…だからじゃないの?自分の故障だって、ルカなら本来、自分で何とか出来るはずなのに、KALASへの収容を自ら選んだのは…。『人間の手で軍事兵器として調整された自分』を任せてもいいと、KALASのスタッフたちになら委ねても構わないと、ルカ自身がそう判断したからでしょう…?
その組織のリーダー格として返り咲いた貴女に、そんなことすら分からない、とは言わせない…!」
ツバサが地を這うような低い声で、言い切る。その間にも、彼女の驚異の握力は、下手すればスマートフォンを砕くのではないかと思うほどのパワーを見せつけていた。
…忘れている者も多いかもしれないが、彼女は高校時代、強豪サッカー部の正ゴールキーパーであった。元サッカー部という括りでは、奇しくも兄のソラと同じ道を歩んでいる。
現役時代のツバサは絶対にゴールを割らせなかった。飛んで来るボールはことごとく跳ね返す。跳ね返せないなら、鉄壁の如く、ホールドした。その守護神めいた勇姿が理由で、当時サッカー部界隈でツバサに与えられた通り名は、『ウルトラセキュリティー』。そして今も、彼女の母校では『伝説』として語り継がれている。
その鉄壁の守護神の片鱗を、声だけで見せ付けたツバサに対して。エルイーネは暫しの沈黙をもたらした後。はあ…、とわざとらしく溜め息を吐いてから、話し始めた。
『焚き付けられたのなら、きちんとお仕事しなさい。この高給取りたちめ。…それじゃあ、私はルカ様の修理データの調整に入るから、これで失礼するわ』
言い残すことだけを捨て置きカタチで、エルイーネは電話を切った。ツー、ツー、ツー、という通話が切断されたことを示す無機質な音が、スピーカーから響き、不可解な沈黙に包まれたRoom EL内に落ちる。
「………、……。」
ツバサの長い前髪が、彼女の表情を隠してしまい、そこを伺うことは出来ない。だが、ソラは兄として妹を最も心配し、ナオトは最推しが不安になっていることに精神が同期して、琉一は庇護の心が暴走しそうになっている。
だが、ツバサは視線を上げた。その緑眼は、常日頃と変わらず、陰鬱な印象こそ振り撒くものの。その虚ろな色の奥底にしか見えない、激情の炎が灯っていた。
「…、…お兄様、……いいえ、ソラ秘書官…」
「…なんだ?」
ツバサの視線が、ソラに向く。射抜かれたような気持ちになりながらも、ソラはしかと答えた。ツバサが続ける。
「私はルカ三級高等幹部のホルダーとして、正式に、社長直談判をしに行きます。…私に、Room ELのセキュリティーの権限の一端を寄越せ、と。つきましては、社長室まで同行していただけますでしょうか。何故なら、社長とのレスバは私一人で事足りますが、…彼の秘書を兼任しているローザリンデ五級高等幹部の説得には、ソラ秘書官のお立場が必要ですので…」
末恐ろしいことを言い出し始めた。だがしかし、反論する者は居なかった。一見すれば、ルカのホルダーである立場を濫用しようとする兆候にも見えるだろうが。そんなことは無い。
ツバサは、覚悟を決めただけだ。本気で外敵要因と立ち向かうための、戦支度をスタートさせたのである。
どいつもこいつも、身勝手な主張を繰り返し、無軌道に行動しまくり、おおてんぷらな物差しで非常識なことを正義と騙り、―――…こちらが黙っているからと、図に乗り上げては、炎上騒ぎ。
「…もう、私は、…黙りません。暴力や戦争は専門外ですが、…それ以外で出来ることは、何でも処理しましょう。
ええ、だって私は、…Room ELの事務員ですから。計算、演算、関数、書類作成、データ整理、…お望みならば、当室の運用に必要なデータの全てのバックアップと、ブラッシュアップも余さずに行いましょう…。事務員ですからね。大事なことなので二回言いました…」
ツバサの宣言は、静かに成された。
その声の表面に在る冷たさと、裏側に潜む人間味は、兄・ソラに良く似ていると同時に、彼と同じ上司を持つ事務員の肩書きが相応しい女性であることを証明している。
「ルカの秘書官として、お前の兄として、…俺はお前の決断に従おう。異論の在るものは居るか?」
ソラが冷静な声が、琉一とナオトに向けられる。
「否定します。妹姫こそ、この場で最も尊重されるべき人材です。それに本来、ホルダーとはルカ三級高等幹部が護るべき存在ですが…、彼が不在である今、国家機関がその代替をしないことに、些かの不審感すら覚えていたところです」
そう言う琉一の台詞の中には、本土の政治機関への嫌味が混じっている。琉一は叩き上げの戦士である以前に、ROG. COMPANY内ではあくまで一介の顧問弁護士でしかないため、今の今まで発言を控えていたようにも見えた。次いで、ナオトが答え始めた。
「僕も琉一さんと同意見です。ツバサさんの本来のお立場が証明される、良い機会だと思います。そもそも何処かで、どなたかが仰っていませんでしたか?「ヒルカリオの統制機関は、仕事がずさんだ」的な台詞…。おや?何処で聞いたんでしたっけ…?本当に忘れてしまいましたね…」
実に筋の通った意見である。後半はただのブラックジョークなのか、はたまた、本当に何処かの誰かが言っていたのを聞いたのか、…それはソラと琉一には、判断がつきかねた。
「意見は無事に纏まったようだな。感謝する。…では、各自、本格的に仕事を始めるとしよう。
―――では、よろしくお願いします」
いつもなら、ルカが言っている台詞だが、…今はソラがその役割を担う。そして、彼の言葉に合わせて、残りの三人も「よろしくお願いします」と返答したのであった。
発生した仕事は、きちんと納めて当然である。何故なら、我々は社会人なのだから。
常時荒波で、断続的に大雨大雪警報発令中に等しい、この現代社会。
「ちゃんとした人間」をするのであれば、誰にも見せていない一面の一つや二つ、あってもいい。自分の中の二面性を知るに足ると確信した人物の前で、本音は曝け出すべきである。
それが出来ないのであれば、―――…不特定多数の前で、己の無知を晒すだけ晒した後に、一人で勝手に恥の海へと沈むだけなのだ。
――fin.
