第七章 再始動
これは死ぬ前の走馬灯。或いは、死の世界へ続く道という名前のついた悪夢なのだというのは、すぐに分かった。
銃撃と剣戟の音。それから、無意味に命と尊厳を奪われる悲鳴。兵士は死に絶え、残された女と子どもに、未来は与えられない。
戦場を渡り歩くなかで、いつも見聞きしていた光景であり、日常。過ぎ往く、残響。追い縋る価値も無い、背景処理。
ふと、自分の姿が、傭兵時代に身に付けていた洋服ではなく。弁護士として振る舞うためのスーツ姿であることに、気が付いた。両手に持っているのも、量産型の拳銃やライフルとは違って。あの軍事兵器たる男から与えられたユースティティアであることも、同じく見とめる。その銃身と、グリップを握る己の手は、真っ赤な血と、灰色の塵に塗れていた。
遂に、積み重ねてきた過去の罪を、清算するときが来たのだと。朧気に自覚する。
背景だと思っていたはずの周囲の風景と影たちが、迫りくる。怨嗟の言葉と、救いを求める祈りを、譫言のように囁き合いながら、自分の足元に手を伸ばし、指先を這わせ、縋りついてきた。拒みはしない。そんな権利など無い。
亡者たちが全身に絡み付き、喉元まで迫ってきたときだった。
不意に、前方から光が差し込んで来る。亡者たちはそれを浴びた途端、恐れるような悲鳴をあげて、自分から離れていった。光の差す方角を見やった。すると。くっきりと浮かぶ人影が、逆光を背にして立っている。ああ、あれが自分を導くモノの姿か。
無理な肉体改造を受け入れ、余命三年という運命と現実を背負い、あの幼き姫が自由になるためなら何でもしようと足掻いてきた。―――もう解放されるべきあの子は、最強の男のお膝元で、これからも安全に暮らすことだろう。もう、自分の戦いは終わったのだ。…終わって良いんだ。
両手から、ユースティティアが落ちる。血と塵に塗れていたはずの両手は、いつの間にか、元通り、綺麗な肌を晒していた。この血色の良い肌色さえ、人工物なのだけれど。
光の背にした立つモノへと、歩み出す。一歩一歩が酷く重たいが。そんなこと、もう気にしなくて良い。全ての戦いから解放されるなら、この身も魂も自我も、虚無へと崩れてしまって構わない。もう、生きるのには、疲れた。
温かい白光が降り注ぐ。慈愛の光だ。未だに顔の見えない相手に、手を伸ばす。相手も手を差し伸べてくれた。―――…、
「さっさと起きろと言っている!!この寝坊助が!!三発までなら許してやるから、とっとと目を覚ませ!!聞こえないのか?!返事をしろ!!起きる気が無いなら無いと言え!!!!」
「―――ッッ!!??」
ばすんッ!!、というベッドとシーツをぶん殴る音が、琉一の耳元ギリギリで響く。そして眼の前には、怒りで表情を染めたソラの顔。こんなに感情的に怒っていても、尚、イケメンだ。いや、朗らかに笑うことすらも、余り無いのではあるが…。
怒り心頭のソラは、ベッドに寝かされた琉一に向かって拳を突き出しており、しかし、ソラの背後には困り顔の輝と八槻が立っていて、「一旦、落ち着きましょうよ…!」、「まあまあ、深呼吸でもしたまえ」と口々に彼を宥めている。どうやらソラは先ほど怒鳴った内容の通り、琉一を殴ろうとしたのだが。それをソラの背後から輝と八槻が止めたことで、拳は琉一から逸れて、彼の耳元スレスレのシーツの海に突き刺さったことで、事なきを得たらしい。病室にあるまじき、物騒極まりない光景である。
そう。此処は病室。より詳しく説明するならば、クロックヴィール・アカデミー有する大学病院の、VIP待遇専門の個室。琉一はその病床に寝かされ、その彼の周りには、親友であるソラと、先の戦場の盟友である輝、八槻。そして、一番奥のソファーにはバルドラと音色の乙女樹親子と、彼らに挟まれるカタチで、ツバサが、揃って座っている。ツバサの傍にルカが居ないことに違和感を抱くが、今やそこを論じる気はない。
「あの、自分は…」
「安心しろ。バッチリと生きている。だが、意識が戻る予定の時間を過ぎた後も、いつまでもすやすやと呑気に眠っているから、俺が焦れて起こそうとしただけだ。そうだ。気にすることは無い。何一つ、気にするな。決して、一瞬でも裏切られたことに腹を立てて八つ当たりをしようとしたわけではない、断じて」
琉一は「何故、未だ自分は生きているのか?」と問いたかっただけであり、ソラの言い訳を聞かされる予測はしていなかった。だが、天才児同士、そして親友同士、通じ合うモノは在る。ソラは琉一が無事に生き延びたことを嬉しく思っているだけなのだが、土壇場での感情の出力の仕方が微妙すぎて、結局、照れ隠ししか出来ないだけ。何ともむず痒い二十七歳だ。そのとき、病室の扉がノックされる。バルドラが入室を許可すると、扉が開き、そこからルカ、レイジ、それからミセス・リーグスティが入ってきた。三人の傍にはレオーネ隊が配備されている。
ちなみに先の戦場で、一番被害が少なかったのは、レオーネ隊であった。逆に、ルカの同調変換の礎になったグレイス隊は、残存数という意味では壊滅。イルフィーダ隊は装備品とロボット兵たちの破損が酷く、故にその修理と再調整が必要な個体が多いだけで、被害のレベルだけで見れば、然程、高くもないとも言える。
「復帰するための医療行為と最低限の調整を行ったとはいえ、完全に意識を飛ばしてから、約二時間で目を覚ますのはさすがだね。一応、『改造人間』とカテゴライズされるだけのコトはあるよ。
でも、キミが倒れた直後、ナオトなんて半狂乱になる勢いで心配していたんだから、ちゃんとフォローしてあげてね?」
ルカはまるで世間話でもしているかのような口調でそう言うが。その台詞に含まれる情報の数々には、琉一のなかの疑問点を膨らませるのに十分すぎる威力があった。しかし、ルカはそんな琉一が抱く疑念など、とっくにお見通しとばかりに、喋り始める。
「まずは、その義眼ね。代替品、というか、新開発されたモノがこの病院に到着次第、交換してあげるね。少なくとも、予後、失明の心配は無くなるよ。
そして、炭素繊維から作られた筋肉に、バイオ遺伝子の関節義肢、そして外傷の自然治癒が早まる人工皮膚だっけ?それも全部、最新にして、今あるモノよりもっと良い製品へ、フル換装するコトが決まったからね。キミが心配していた、自前の心臓と内臓への負荷は、大分、減るよ?
まあ、換装手術さえ受けてくれれば、『余命三年』っていう未来からは、即座に脱却可能ってコト。
どうする?どうしても、こちらが提案する換装手術が受け入れがたいって言うなら…、オレはこれら全てを白紙に戻し、キミに解雇通知を出して、この騒動に一旦の区切りをつけるケド?」
ルカの言葉が終わった瞬間、琉一の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。それは痛みではなく、ただの『生存本能』の音。生きたくても死ぬしかなかった、かつて戦場で散って逝った命たちは。きっとこの音を最期まで感じ取りながら、失意の血池に沈んで行ったのだろう…。
しかし、これは許されるのか?―――琉一の中で果てしない問いかけが生まれる。
三歳のときに出逢った小さい命―――今はツバサという一人の立派な女性に成長して、こちらを見つめている彼女を護りたい、救いたい、という一心で。いつしか、その願望が捻じ曲がり、ミセス・リーグスティを殺すという執着となって。己の執念を振り撒き、身勝手に生きてきた。実の両親には、自らが天才児であることを明かしたうえで、ステルバス一族に養子の打診を検討する手紙を何通も書かせるよう、巧妙に仕向けた。結果、ステルバス家に迎え入れて貰えたものの、その後の一族からの待遇は、お世辞にも良いとは言えなかったが…。だが、ステルバスの姓を手にした結果、自分は親友と盟友を手に入れた。ソラという、自分と同じ天才児。傭兵としての琉一の価値を見初めてくれた、バルドラ。バルドラに誘われるカタチで、琉一の計画の支援を請け負ってくれた玄一と八槻。そして、ミセス・リーグスティのもとから、かどわかしてしまったという過程が付いて回るとしても、戦士として立派に育ち、その後も琉一を慕ってくれる輝。
「ねえ?人間?
『人間の業や罪』とやらを、キミたちはそんなに重たく背負い込む必要、あると思う?」
ルカの問いかけが聞こえてきて、琉一はハッと我に返った。視線を寄越すと、深青の瞳と眼が合う。ルカは続けた。
「オレは所詮、軍事兵器だから、各人間の個体が抱える死生観そのものには、介入しないつもりだケド。…でもね、マム・システムという、オレと人類との共通の敵を倒すお手伝いをしてくれた人間の一人が、眼の前で生きるか死ぬかの選択をしているときくらい、説教や講釈を垂れても問題は無いと思うんだよねえ。オレにも自我はあるしさ。
あ、話、戻すね。つまり、琉一がアリスちゃんを護ろうと必死になって生きてきた結果、周りのひとたちに沢山のご迷惑をおかけしたワケじゃん?で、それがツラくて、キミは「自分は生き延びて良いのか?」的な葛藤に苛まれているワケでしょ?…それね、必要ないの。全然、要らない。不要。可燃ごみ。火曜日と金曜日に捨てておいて。
人間って寿命が短いから、ついつい、生きることに対して価値を見出してこそ!って息巻いている子たちが多いよねえ。オレからすれば、生きることに理由なんて一つしか無いよ?―――『生きたいと思った』。それだけ。それで良いの。まあ、仕事やおカネは無いと生きてはいけないケド、それこそ命が無いとどうにもならないからねえ。
だからまずは、『生きたいと思ったかどうか』。それだけだよ。―――キミの眼を見たら、答えなんて、もう分かっちゃうケドね」
軍事兵器、引いては機械的生命体のルカに於いても、最低限の生命活動はしている。だが、その人間離れが過ぎる言動と、突飛な発想を鑑みれば、とても「人間社会に完璧に紛れている」とは言い難い。否、言えない。だから、ルカはヒルカリオから出ることが許されないのだ。それなのに。
どうしてだろう?軍事兵器として死生観を論じるつもりは無いと言ったはずの、その唇は。琉一の『生きたい』という気持ちを激しく揺さぶり、増強させるではないか。
長い前置きは、このくらいにしておこう。もう、この議論の幕は、閉じるべきだ。空論は机上にしか現れないが、現実はいつだって眼前に突き付けられて、そうして人間に答えを求めてくる。故に、琉一の出した答え。それこそ。
「…、…生きたい…。まだ、…生きて、いたい…」
絞り出すような声で、琉一がそう呟いた途端。ドライアイを防ぐ目的でしか機能しないはずの涙腺が、動いた。―――人工皮膚で覆われた頬に、温度のある涙が伝わる。
その場の誰もが、たった一人の人間の『生』が蘇る瞬間を、しかと見届けた。
――――…。
【同時刻 KALAS 第四区画内】
打って変わって。此処は、ヒルカリオに建てられている、ルカ専用のラボ『KALAS(カラス)』。そこの奥深い敷地に在るラボの中にて、治療ポッドに入った少女と、傍らで彼女を見守る男の姿が在った。誰と見紛うこともないだろう。治療ポッド内に寝ているのはアンジェリカであり、見守っているのはナオトであった。
そして、二人のことを。その背後から静かに見張る、正体知れずのブラックスーツの集団。否、ナオトに彼らの情報が渡されていないだけであり、KALASに出入りしている人間、そして更生プログラム中のナオトを監視する役割を、Room ELのメンバーに代わって担っているという時点で、十中八九、『ルカ側の誰かたち』であることは明白である。
治療ポッドが、プロセスの終了を告げた。蓋が開くと、ひやりとした人工的な空気が、ナオトの足元を撫でる。同時にアンジェリカが、薄らと眼を開いた。その瞳には、暴走していたときの濁った黄金色はもう無く。元通りの、青、黄、アクアの三色に戻っている。
「…、約束を、覚えていたのね。偉いわ、ナオトくん」
「ええ、勿論です。アンジェリカさんは僕を連れ去り、逃亡生活をしている間に、確かに仰いましたから。『事が全て済めば、私のことは如何様に処罰する権利が、ナオトくんには与えられるべきなのだから』と…」
「それに対して、貴方はこう答えたわ。『僕は医者ですから、誰かを傷つけるのではなく、常に誰かを救いたいと願っていますので』と、ね」
唐突に始まったアンジェリカの言葉にも、ナオトはきちんとついていった。アンジェリカが続ける。
「さあ、思うがままに、私を裁きなさい。最早、私は母性ではない。ただの、空っぽの器になっただけの機械…。本来ならば、こうして治療を受けられる価値も無かったはずよ。きっと事情を聞いたであろうルカが、ナオトくんに約束を果たすチャンスを与えるために、私への治療を命じたのね?」
全てを察したように眼を細めるアンジェリカだったが。ナオトは首を横に振る。
「いいえ、違います。僕がルカさんに貴女の治療をお願いしたのです。ルカさんは、貴女の主電源を切り、機体の保存だけを考えておられましたから…。
なので、貴女と交わした約束の話を、僕から打ち明けて、恐れながらも、ルカさんを説得したのです。その際、ツバサさんとソラさんも援護してくださいました。やはり僕の最推しは、偉大です」
「そう…。ならば、尚更ね…」
ナオトの説明に対して、アンジェリカは諦観した声音で返した。すると、ナオトは手に持っていた、二つの小型のメモリースティックを彼女へと見せ、口を開く。
「KALASの方々を通して、ルカさんから託されました。
赤色のメモリースティックが、貴女の主電源が二度と入らないように、且つ、機体の保存が叶う、『永遠のスリープモード』へと移行させるウィルスが入ったモノ。
青色のメモリースティックが、ルカさん主導のもと再構築された『試験段階の新マム・システム』が入ったモノ。
…必ずどちらかを治療ポッドのメモリー口に差し込み、アンジェリカさんとの約束を果たすように、厳命されました」
ナオトの掌の中、青と赤のスティックが、無機質な光を放つ。その光が、彼のオッドアイに反射して、わずかに揺れた。
「本当に僕は…、ただの一介の医者に過ぎないというのに…。ヒルカリオ全方位を揺るがすような、このような決定権を、まるで玩具でも渡すかのように扱うルカさんの無神経さには、……心から呆れるばかりです。親の顔が見てみたいと言う言葉を、僕の人生で初めて口にします」
「…かつての母は、此処で寝転がっているけれど?」
何処か陰鬱としていたナオトだったが、アンジェリカのジョークに少しばかり顔色が晴れた。迷うような素振りを見せていても、結局、ナオトの心は、とうに決まっているらしい。
「約束は果たします。アンジェリカさん、あのとき、僕の昔話を聞いてくださり、ありがとうございました。あそこで琉一さんのことを改めて思い出さなければ…、僕はきっと、先の戦場で、もっと違う選択をしていたと思います」
「そう、それは良かったわ。さあ、私は今一度、眠るときね…。
次に逢えたら、…そうね、そのときは、美味しいお茶とマカロンでも囲んで、一緒にヒルカリオの未来について語り合いましょう」
「もう次の約束ですか?…ええ、勿論、善処致しますとも。
今日まで、本当にお疲れ様でした。この後は、どうぞゆっくりとお休みになってください。…お大事に」
そうやり取りをしながらも、瞼を閉じたアンジェリカを前にして、ナオトが治療ポッドのメモリー口に、スティックを差し込む。
治療ポッドの蓋が閉じられて、施術中を報せるランプが付き、再び稼働を開始した。からん…、という音と共に、リノリウムの床に転がったのは、―――赤色のメモリースティックであった。
治療ポッドのランプが、やがて柔らかなアクアブルーに変わる。それは、安らぎを意味する色。かつて彼女の瞳に宿っていた光そのものだった。
背後に控えていたブラックスーツから、一人が前に出てきて、ナオトに向かって声を掛ける。
「鈴ヶ原ナオト先生。難しいご判断を乗り越えてくださり、感謝申し上げます。
…つきましては、『新マム・システム』がスタートしたことを証明するために、こちらにサインをお願い致します」
そう、転がったのは赤色のメモリー。つまり、治療ポッドに差し込まれているのは、青色の方。
ナオトは選んだ。アンジェリカの再生と、マム・システムの真の再始動≪Re;start≫を。
ブラックスーツが出してきた電子書類に、既にルカの署名が入っているのを見たナオトは。何処か達観した笑みを浮かべたまま、ペンを滑らせて、自分のサインを書き込んだのであった。
――――…。
【クロックヴィール大学附属病院 VIP専用個室病棟 B101号室】
生きる決断をした琉一が、ひとしきり涙を流し切るのを、優しい眼差しで見届けた一同は。さて、誰から、そして何から彼に問うか。そして声を掛けるか。の、空気を読むバトルを静かに開始する。ちなみに、その間。ルカは手元に握っていた端末で、同時刻、KALASで、ナオトに手によりアンジェリカに新しいマム・システムの初期設定プログラムが打ち込まれたことに関する、リアルタイム更新の報告文章を読んでいた。ルカからすれば、「空気を読むのは、人間の習性」だと思っているので、自分は自分で、勝手に仕事を進めているだけである。
「ねえ?弁護士さんって、わたしのパパと、どのタイミングで知り合ったのかしらあ?パパが傭兵として現役だったのは、ママと出逢う前の話だし。ママと結婚してからはサクラメンス・バンクの頭取として仕事に打ち込んできたんだから、弁護士さんが傭兵だった頃に戦場に行くだなんて、そんな無茶は出来なかったはずだもの~。パパは「儂が話して良い内容ではないのだ」の一点張りだし。もしよかったら、聞かせてくださる?」
空気が読めない、というか、マイペースの極みにあるが故に。音色がいち早く発言をする。その質問内容も相まって、思わぬところから鉄砲玉が飛んできた気持ちになるものの。その回答そのものは、この場の全員が気になるモノという共通項は有していた。すると、音色の問いには八槻が反応を示した。
「乙女樹主任、それは僕の方が第三者として語れるだろうから…。病床の琉一くんと、深い事情を抱えるバルドラ様の代わりに、この雪坂八槻がお答えさせて頂くよ」
「あら、そう?じゃあ、お任せするわあ」
八槻が一歩前に出るようにして、音色に対して、少し昔の話を聞かせ始める。
「バルドラ様が琉一くんを見初めたのは、彼が軍医集団に改造の手術に関して、交渉事をしているときだったんだ。
そのときの軍医集団は、琉一くんに改造を受け入れて貰う代わりに、多額の報酬を渡していた。でも、医療に関わらず、研究に溶かす費用にはいつも限界がある。つまり、軍医集団は金欠を起こしてしまい、それを理由に琉一くんに渡す報酬の値切りを行うという、何ともさもしい取引のテーブルを用意していたんだよ。
…で、ユキサカ製薬の玄一社長、…僕の伯父さんの視察に、たまたま同伴していたバルドラ様が、なんの偶然か、その席を目撃して…。軍医集団と琉一くんの間の事情を聞いた途端、バルドラ様は「そのカネ!儂が用意してやる!医療の未来も、若者の未来も!儂のカネで成長するが良い!」と豪語なさった。…それからさ。琉一くんがバルドラ様に気に入られて、彼が我が国のあちこちで、『打倒ミセス・リーグスティ計画』の工作が出来るようになったのは…」
「確かに、それを聞くと、大いに納得したわあ。
つまり、弁護士さんが裏でアレコレと用意周到に計画を練ることが出来たのは、わたしのパパという究極のパトロンを手に入れたから、ということだったわけねえ?それは確かに、トルバドール・セキュリティーの女社長の首を狙うような大それたこと、仕出かせるわけだわあ。だって自分の背後には、『巨大銀行のトップ』が聳えているのだから、ねえ?」
「ご理解頂きありがとうございます、乙女樹主任」
語り終えた八槻に対しての音色の言葉に、八槻自身は、丁寧に腰を折った。その仕草、まさしく舞台に立つ名俳優そのもの。
すると、次に口を開いたのは、輝だった。
「あの、琉一さん…。貴方が俺を攫い、戦士として育て上げた目的は…、お母様への復讐に駆り立てるため、すなわち、お母様の首を狙う琉一さんの手助けをするためだった、のですが…。マム・システムが予測不能の暴走を起こして、結局、戦士として生まれ変わった俺は、マム・システム討伐作戦が初陣になってしまって…、…えーっと、その、つまり…、あれ?何て言うのが正解なんだろう…?すみません、なんか、上手く語彙力が働かなくて」
輝の言いたいことは、確かに的を得ていない表現力により、ぼんやりとしている。だが、それを汲み取れない人間は、此処には居ない。何故なら、皆、『大人』だから。
先の戦場では凛々しかった戦士の顔とは違い、年相応の不安が滲み出ている輝に向かって、レイジが答える。
「優那から事情を少し齧って聞いてきたけど…、あんた、聖クロス学園の生徒会長しておきながら、裏で身勝手なことばっかりしてたらしいな…?そもそも、此処に来るまで、一回、凋落したのも、学園のOBである姉ちゃんのこと、馬鹿にしたからだろ?
…まあ、これからの身の振り方は、真剣に考えておいた方がいいんじゃね?復学したとしても、もう聖クロス学園には、居場所が無いだろうから…。まあ、このままフェードアウトするのは、ほぼ確定だな。それに、実家に一人で帰るのも、気まずいだろ…?
バルドラのおっさんから貰える今回の報奨金を使って、ヒルカリオで就職先でも探しながら、暫くビジホ生活でもしてな。どーせ、ルカ兄の秘密を共有された以上、そのまま本土へと還す気は、ルカ兄自身の中にも無いだろーし…」
レイジがそこまで言ったとき、ルカは手元の端末から顔を上げて、気持ち程度の反論を始めた。
「別に?「おうちにかえりたい」って言うなら、解放はしてあげるよ?その代わり、今後、輝は二度とヒルカリオには足を踏み入れなくなるし、本土に還って貰った後も、向こう十年は監視を付ける羽目になるだけで」
「それが駄目だって言いたいわけ…。輝はまだ十六歳だぞ?子どもなんだよ…。ろくな大人の庇護も受けられないまま、みすみすと本土へ還せるかっつーの。ヒルカリオの統括機関の中でも、本土方面を管轄するグループの仕事がめっちゃずさんなの、俺は知ってるからな?だから、父さんがアンジェリカを幽閉した場所すら、アイツら全く気が付いてなかったんじゃん?」
「うーわっ、レイジってば真面目だねー。誰に似たんだかー?」
「うーわっ、俺を此処まで育てた男がなんかいってらぁ、無視したろー…」
ルカとレイジのやり取りは軽妙なモノではあるが。輝が置かれている現実を冷たくも示しているので、聞かされている輝からすれば、その顔色が益々悪くなるばかりである。しかし。輝の背中に、豪快な笑い声が飛ばされる。誰であろうものか、バルドラだ。
「はははは!!そんなに自分の未来を暗く見るな!!レイジも、若い者を脅すようなことを簡単に口にするものではないぞ!?そもそもこの儂が、手ずから育てた戦士を、用が無くなったからと捨て置くような軽い男と思うでないわ!!
輝!儂はサクラメンス・バンクの頭取として!そして、トルバドール・セキュリティーの株主として!お前を次代のトルバドール・セキュリティーの社長として推薦する気だ!!勿論、椅子だけを用意して、放り投げる気は毛頭無いぞ!そこのミセス・リーグスティを名誉会長、そして、儂と八槻を相談役と据え置いたうえで、お前が一人前の社長として成長するまで、全力でサポートする!!」
バルドラの豪快な笑い声による通達が、病室に響く。静かにしろ、という注意は通らないので、誰もしない。が、ストップをかけた勇者が、たった一人だけ居た。八槻である。
「っちょ、ちょっとお待ちください、バルドラ様?!僕がトルバドール・セキュリティーの相談役って…、初耳ですけれども?!」
どうやらバルドラが言う「トルバドール・セキュリティーの相談役にバルドラ自身と八槻を据え置く」という話は、彼にとって寝耳に水だったようだ。バルドラは更に笑う。
「当たり前だ!いま初めて言ったからな!!
案ずるな八槻!!玄一は、この話を手放しで喜び、そして秒速で許可を出したぞ?!そろそろお前も社交界の傾奇者なんぞ辞めて、それなりの役職に就く時期だと心得よ!!
あのちんまかったレイジが、ROG. COMPANYの社長へと成った時代が、やっと来たのだ!!そこと同い年のお前が、いつまでも放蕩できると思うでない!!がははははは!!」
寝耳に水状態なのは、八槻だけではなく。当然、輝も同じであった。
「お、俺が…、トルバドール・セキュリティーの…次期社長…?え?あの?その…。世襲制の是非はこの際ともかく…、社長業という家督は、俺ではなく、今や優那が継ぐべきではないでしょうか?俺は優那を…、妹を金銭的に搾取してきたし…。レイジさんの仰る通り、高校では生徒会長職の裏で悪事を働いていました。そのうえ、もう一般人とは言い難い世界にまで、足を突っ込んでいて…」
そう零す輝の葛藤は、悲哀に満ちている。降って湧いた出世話に舞い上がることのない姿は、過去に「自分こそリーグスティ家の家督を継ぐべき!」と豪語し、二面性のある顔を使い分け、子どもらしい悪徳を積み上げてきた、あの頃の少年からは、もう遠くかけ離れていて。如何に輝という子が、此処に至るまでに成長したかと物語る。
そこに。迷いを見せる輝に対して、ソラが本来の冷静さを取り戻した声で、彼へと告げた。
「過去の罪を顧みるのは良いことだ。しかし、乙女樹頭取にトルバドール・セキュリティーの次期社長の椅子を用意させられたということは、お前が正当に評価されるべき位置まで立ち返ることが出来たという意味に他ならない。おまけに実母のミセス・リーグスティの手からは完全に離させず、彼女ともう一度「親子」として対話するチャンスを設け、且つ、これからは「ビジネスパートナー」として扱われる、対等な立場まで与えられてる。健全な交友関係を築いているであろう八槻氏すらも巻き込んだカタチの図式すら用意されていることも計算して、―――総合的に、かなり高い評価を頂戴していることを自覚するといい。…輝・リーグスティ。お前はもう、充分に、前へ進めるはずだ」
ソラの言葉に、輝の目尻に薄らと涙が浮かび始める。周囲の大人の温かい眼差しが、本当に身に染みた。同時に、此処に至るまでに、たくさんの迷惑をかけてきた人物たちの顔も、輝の脳裏に思い浮かぶ。
ルカが笑いながら、口を開いた。
「高校生が仕出かしたイタズラとて、自分の罪は忘れないコトだよ。それを抱えて、これから再始動すればいいだけ。
だって。そうでしょ?十六歳の子ども未来なんて、無限大だよ。それに、子どもの夢を護り、時に創造するのは、ROG. COMPANYが玩具会社として、一番に大切にしているコトだしね~。あとは、輝が自分の眼の前にあるチャンスをどう活かすか…、それだけだよ」
それは、最後の一押しである。輝の眼に、迷いが消えた。
「…はい!俺、やってみせます!これからもご指導のほどよろしくお願いします!」
輝はそう宣言すると、深く腰を折り、周囲の大人たちに頭を下げる。その潔さの中に垣間見える、若々しいと言う名の未熟さ。一見すると、心許ない印象を抱けるが、此処に居る大人たちにとって、その輝の姿は、これからの『未来』と『希望』の象徴だった。勿論、輝に全てを背負わせる気は毛頭無い。これからも自分たちが導いていく。
そのとき。ミセス・リーグスティが、珍しくおずおずと言った風に、病床の琉一へと声を掛けた。
「ねえ、りゅーちゃん。貴方、ステルバス家に養子入りしてから、余り良い待遇を受けていないのではなくて?あの一族は身内に甘く、外からの血筋には一等厳しいことは、私たちの社交界でもかなり有名よ?
…りゅーちゃん、もしかして、ステルバス家に『自分の計画』を見逃したり、バックアップをして貰う代わりに、一族から何か厳しい条件や制約を飲まされていないかしら…?でないと、いくら貴方がギフテッドだからと言っても、あのステルバス一族が、易々と外部の人間を受け入れるはずが無いわ」
「…概ね、肯定します。ステルバス一族は確かに自分に、とある条件を課しました。ですが、それで不自由を感じたことはありません」
質問に答える琉一の顔には憂いは無かったが、相反するようにミセス・リーグスティの表情が曇る。そして、彼女は意を決したように、本題に入った。
「りゅーちゃん、ステルバス一族から抜けなさい。身元は私が引き受けるわ。私の息子として、…輝と優那の義兄として、リーグスティ家にいらっしゃい。
あの一族は余りにも外部に厳しいきらいが漂い過ぎている…。りゅーちゃんはもう、今までの苦しみから一つでも多く、解放されるべきだわ。ステルバス一族に養子入りするにあたって飲んだ条件とやらの解除に、資金や手続きが必要だと言うならば、このイヴェット・リーグスティが全て担いましょう」
その瞬間、ルカの瞳が瞬いた。事象の観測。ヒルカリオに繋がれた軍事兵器として、この楽園都市で起こるレギュラーとイレギュラーの全てを、彼は把握する義務があり、宿命ですらある。
つまり。今まで復讐の対象として見ていたミセス・リーグスティからの提案に、琉一がどう答えるのかが、今のルカにとって、一番、興味深い瞬間なのだ。
そのとき。珍しく、…本当に珍しく、琉一の表情が「気まずい」と言いたげなそれになった。生来の気質と、改造の影響で、文字通り、表情筋が仕事をしにくい体質になっている彼が、感情や自我を表に出すのは、(何度も言うが)非常に珍しい。
「申し出はありがたく存じます。しかし、…ステルバス一族に入るにあたり、今の妻との結婚を条件に出され、そのうえ、生涯、離別することを禁じられておりますので。
どの方面からアプローチしたところで、ミセス・リーグスティのご提案が成功する確率は、限りなく低いでしょう」
「ああ、結婚しているのね。それなら養子縁組は、…って、けけ、けっ、結婚ッ?!りゅーちゃん、結婚しているのッ?!」
琉一からの衝撃的なカミングアウトに、ミセス・リーグスティは素っ頓狂な声をあげた。だが、それは彼女だけではなく。
「待て待て待て!!待たないか!!お前、『今の妻』と言ったな?!この時点で既婚者なのか?!いつ?!どのタイミングだ?!何で隠していた!?というか、戸籍情報では、お前はステルバス家の本家の四男坊扱いになっていたぞ?!なんで?!ルカの権限で閲覧した情報に間違いなどあり得ないだろう?!」
親友からの新情報にソラが取り乱しつつ、一気に琉一の病床と距離を詰める。右手には一瞬で展開されたバタフライナイフが握られており、その刃先が琉一の向けられていた。対して、琉一は、冷静に釈明を始めようとする。
「落ち着いてください。順を追って、説明致します。なので、そのナイフは一旦、仕舞いましょうか、ソラ」
「俺が心の底から納得する説明を、お前が五行で成し遂げられたらな?」
「昼のオフィス街でも、夜の繁華街でも人気者なイケメンも、その嫉妬深ささえ無ければ、今頃、パートナーが居たはずですが?」
「黙れ、黙れ。非常にうるさい。
さっさと最後の真実を話せ。此処に来て、まだ隠し事をしようなどど、面の皮が厚いヤツめ…!」
ソラと琉一のやり取りには、物騒な雰囲気こそ漂うものの。その根底にあるのは、互いに背中を預け合う信頼であり、親友という絆である。それが分かっているからこそ、周囲は、嫉妬深いソラの言動も、琉一がそれをわざと煽る姿も、やれやれとばかりに、呆れ笑いで見守っていけるのだ。
改めて、琉一の弁明が始まる。
「自分がステルバス家に養子入りしたのは、五歳のときです。ミセス・リーグスティの言う通り、ステルバス一族は外部の血筋を嫌う傾向にありました。しかし、本家の現当主、今は自分の父にあたる御方が、分家筋にある娘と自分が結婚し、生涯を添い遂げるように努めよ、と条件を課しました。それさえ守れば、ステルバスの姓を名乗ること、そこから預かれる恩寵の全ては、好き勝手にして貰って構わない、と。
故に、戦場から生き延び、帰国して、粗方の身辺整理と、計画実行への下準備を終わらせた自分を待っていたのは、…今の妻との結婚式でした。飾りだけの儀式でしたが、この人生に於いては貴重な経験値として積ませて頂きました」
琉一の説明は、ソラの要求通り、簡潔に纏められていた。しかし、それ故、事務的な説明になっているが為に、却って彼の持つ人間味の薄さが増している。
ソラはナイフをハンドルへと収め、右太腿に着けているナイフ専用のポケットへと仕舞い込んだ。納得はしたという意思表示ではあるが、その表情は「理解しかねる」と大きく書いてあるようで。
「オレの権限でソラが閲覧した戸籍情報は、恐らく『間違い』ではないと思うんだよね~。結婚とは銘打っていても、キミとキミの奥さんは、「現法上の夫婦ではない」ってコトでしょ?要するに、事実婚ってモノなんじゃない?だから、ソラが検めた戸籍情報上では、キミは未だにステルバス一族の本家の四男坊である、と表示されているってコト。これが、正解だね」
ルカの補足に、琉一は頷いた。
「肯定します。自分と、自分の妻は、役所に婚姻届を提出しておりません。敢えて俗的に表現すれば、我々は内縁状態に他なりません。
勘違いしないで頂きたいのは、この事実婚を選択したのは、妻からの提言であり、そこにソラや、ルカ三級高等幹部を騙す意図など、一つも無かったということです。ですが、それを逆手に取ったのは、紛れもない自分自身です。それに対して咎めるというのであれば、受け入れましょう」
「咎める点なんて無いよ。逆境の中で、賢い知恵が働いただけでしょ?それって、人間が持つ生存本能に過ぎないんだから、オレが高見から叱る理由にはならないね~」
ルカは超常とした態度で、言ってのける。彼が判断したことに対して、この場の誰もが反抗することしない。ヒルカリオでルカの庇護下に居る以上、ある意味、彼の言うことは絶対でもあるからだ。ソラも未だに何処か不満そうなオーラを出してはいるものの、これ以上の追求はしないでおく。
「さあ、もうこれで琉一から聞けるお話は、一旦、終わりでしょ?彼は一応、というか、れっきとした重症であり、手術待ちの患者さんだからさ。オレたちはもう引き上げてあげようね」
ルカからの明確な指示が出たところで、皆は一斉に動き出した。
―――夜明けは、近い。
to be continued...
銃撃と剣戟の音。それから、無意味に命と尊厳を奪われる悲鳴。兵士は死に絶え、残された女と子どもに、未来は与えられない。
戦場を渡り歩くなかで、いつも見聞きしていた光景であり、日常。過ぎ往く、残響。追い縋る価値も無い、背景処理。
ふと、自分の姿が、傭兵時代に身に付けていた洋服ではなく。弁護士として振る舞うためのスーツ姿であることに、気が付いた。両手に持っているのも、量産型の拳銃やライフルとは違って。あの軍事兵器たる男から与えられたユースティティアであることも、同じく見とめる。その銃身と、グリップを握る己の手は、真っ赤な血と、灰色の塵に塗れていた。
遂に、積み重ねてきた過去の罪を、清算するときが来たのだと。朧気に自覚する。
背景だと思っていたはずの周囲の風景と影たちが、迫りくる。怨嗟の言葉と、救いを求める祈りを、譫言のように囁き合いながら、自分の足元に手を伸ばし、指先を這わせ、縋りついてきた。拒みはしない。そんな権利など無い。
亡者たちが全身に絡み付き、喉元まで迫ってきたときだった。
不意に、前方から光が差し込んで来る。亡者たちはそれを浴びた途端、恐れるような悲鳴をあげて、自分から離れていった。光の差す方角を見やった。すると。くっきりと浮かぶ人影が、逆光を背にして立っている。ああ、あれが自分を導くモノの姿か。
無理な肉体改造を受け入れ、余命三年という運命と現実を背負い、あの幼き姫が自由になるためなら何でもしようと足掻いてきた。―――もう解放されるべきあの子は、最強の男のお膝元で、これからも安全に暮らすことだろう。もう、自分の戦いは終わったのだ。…終わって良いんだ。
両手から、ユースティティアが落ちる。血と塵に塗れていたはずの両手は、いつの間にか、元通り、綺麗な肌を晒していた。この血色の良い肌色さえ、人工物なのだけれど。
光の背にした立つモノへと、歩み出す。一歩一歩が酷く重たいが。そんなこと、もう気にしなくて良い。全ての戦いから解放されるなら、この身も魂も自我も、虚無へと崩れてしまって構わない。もう、生きるのには、疲れた。
温かい白光が降り注ぐ。慈愛の光だ。未だに顔の見えない相手に、手を伸ばす。相手も手を差し伸べてくれた。―――…、
「さっさと起きろと言っている!!この寝坊助が!!三発までなら許してやるから、とっとと目を覚ませ!!聞こえないのか?!返事をしろ!!起きる気が無いなら無いと言え!!!!」
「―――ッッ!!??」
ばすんッ!!、というベッドとシーツをぶん殴る音が、琉一の耳元ギリギリで響く。そして眼の前には、怒りで表情を染めたソラの顔。こんなに感情的に怒っていても、尚、イケメンだ。いや、朗らかに笑うことすらも、余り無いのではあるが…。
怒り心頭のソラは、ベッドに寝かされた琉一に向かって拳を突き出しており、しかし、ソラの背後には困り顔の輝と八槻が立っていて、「一旦、落ち着きましょうよ…!」、「まあまあ、深呼吸でもしたまえ」と口々に彼を宥めている。どうやらソラは先ほど怒鳴った内容の通り、琉一を殴ろうとしたのだが。それをソラの背後から輝と八槻が止めたことで、拳は琉一から逸れて、彼の耳元スレスレのシーツの海に突き刺さったことで、事なきを得たらしい。病室にあるまじき、物騒極まりない光景である。
そう。此処は病室。より詳しく説明するならば、クロックヴィール・アカデミー有する大学病院の、VIP待遇専門の個室。琉一はその病床に寝かされ、その彼の周りには、親友であるソラと、先の戦場の盟友である輝、八槻。そして、一番奥のソファーにはバルドラと音色の乙女樹親子と、彼らに挟まれるカタチで、ツバサが、揃って座っている。ツバサの傍にルカが居ないことに違和感を抱くが、今やそこを論じる気はない。
「あの、自分は…」
「安心しろ。バッチリと生きている。だが、意識が戻る予定の時間を過ぎた後も、いつまでもすやすやと呑気に眠っているから、俺が焦れて起こそうとしただけだ。そうだ。気にすることは無い。何一つ、気にするな。決して、一瞬でも裏切られたことに腹を立てて八つ当たりをしようとしたわけではない、断じて」
琉一は「何故、未だ自分は生きているのか?」と問いたかっただけであり、ソラの言い訳を聞かされる予測はしていなかった。だが、天才児同士、そして親友同士、通じ合うモノは在る。ソラは琉一が無事に生き延びたことを嬉しく思っているだけなのだが、土壇場での感情の出力の仕方が微妙すぎて、結局、照れ隠ししか出来ないだけ。何ともむず痒い二十七歳だ。そのとき、病室の扉がノックされる。バルドラが入室を許可すると、扉が開き、そこからルカ、レイジ、それからミセス・リーグスティが入ってきた。三人の傍にはレオーネ隊が配備されている。
ちなみに先の戦場で、一番被害が少なかったのは、レオーネ隊であった。逆に、ルカの同調変換の礎になったグレイス隊は、残存数という意味では壊滅。イルフィーダ隊は装備品とロボット兵たちの破損が酷く、故にその修理と再調整が必要な個体が多いだけで、被害のレベルだけで見れば、然程、高くもないとも言える。
「復帰するための医療行為と最低限の調整を行ったとはいえ、完全に意識を飛ばしてから、約二時間で目を覚ますのはさすがだね。一応、『改造人間』とカテゴライズされるだけのコトはあるよ。
でも、キミが倒れた直後、ナオトなんて半狂乱になる勢いで心配していたんだから、ちゃんとフォローしてあげてね?」
ルカはまるで世間話でもしているかのような口調でそう言うが。その台詞に含まれる情報の数々には、琉一のなかの疑問点を膨らませるのに十分すぎる威力があった。しかし、ルカはそんな琉一が抱く疑念など、とっくにお見通しとばかりに、喋り始める。
「まずは、その義眼ね。代替品、というか、新開発されたモノがこの病院に到着次第、交換してあげるね。少なくとも、予後、失明の心配は無くなるよ。
そして、炭素繊維から作られた筋肉に、バイオ遺伝子の関節義肢、そして外傷の自然治癒が早まる人工皮膚だっけ?それも全部、最新にして、今あるモノよりもっと良い製品へ、フル換装するコトが決まったからね。キミが心配していた、自前の心臓と内臓への負荷は、大分、減るよ?
まあ、換装手術さえ受けてくれれば、『余命三年』っていう未来からは、即座に脱却可能ってコト。
どうする?どうしても、こちらが提案する換装手術が受け入れがたいって言うなら…、オレはこれら全てを白紙に戻し、キミに解雇通知を出して、この騒動に一旦の区切りをつけるケド?」
ルカの言葉が終わった瞬間、琉一の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。それは痛みではなく、ただの『生存本能』の音。生きたくても死ぬしかなかった、かつて戦場で散って逝った命たちは。きっとこの音を最期まで感じ取りながら、失意の血池に沈んで行ったのだろう…。
しかし、これは許されるのか?―――琉一の中で果てしない問いかけが生まれる。
三歳のときに出逢った小さい命―――今はツバサという一人の立派な女性に成長して、こちらを見つめている彼女を護りたい、救いたい、という一心で。いつしか、その願望が捻じ曲がり、ミセス・リーグスティを殺すという執着となって。己の執念を振り撒き、身勝手に生きてきた。実の両親には、自らが天才児であることを明かしたうえで、ステルバス一族に養子の打診を検討する手紙を何通も書かせるよう、巧妙に仕向けた。結果、ステルバス家に迎え入れて貰えたものの、その後の一族からの待遇は、お世辞にも良いとは言えなかったが…。だが、ステルバスの姓を手にした結果、自分は親友と盟友を手に入れた。ソラという、自分と同じ天才児。傭兵としての琉一の価値を見初めてくれた、バルドラ。バルドラに誘われるカタチで、琉一の計画の支援を請け負ってくれた玄一と八槻。そして、ミセス・リーグスティのもとから、かどわかしてしまったという過程が付いて回るとしても、戦士として立派に育ち、その後も琉一を慕ってくれる輝。
「ねえ?人間?
『人間の業や罪』とやらを、キミたちはそんなに重たく背負い込む必要、あると思う?」
ルカの問いかけが聞こえてきて、琉一はハッと我に返った。視線を寄越すと、深青の瞳と眼が合う。ルカは続けた。
「オレは所詮、軍事兵器だから、各人間の個体が抱える死生観そのものには、介入しないつもりだケド。…でもね、マム・システムという、オレと人類との共通の敵を倒すお手伝いをしてくれた人間の一人が、眼の前で生きるか死ぬかの選択をしているときくらい、説教や講釈を垂れても問題は無いと思うんだよねえ。オレにも自我はあるしさ。
あ、話、戻すね。つまり、琉一がアリスちゃんを護ろうと必死になって生きてきた結果、周りのひとたちに沢山のご迷惑をおかけしたワケじゃん?で、それがツラくて、キミは「自分は生き延びて良いのか?」的な葛藤に苛まれているワケでしょ?…それね、必要ないの。全然、要らない。不要。可燃ごみ。火曜日と金曜日に捨てておいて。
人間って寿命が短いから、ついつい、生きることに対して価値を見出してこそ!って息巻いている子たちが多いよねえ。オレからすれば、生きることに理由なんて一つしか無いよ?―――『生きたいと思った』。それだけ。それで良いの。まあ、仕事やおカネは無いと生きてはいけないケド、それこそ命が無いとどうにもならないからねえ。
だからまずは、『生きたいと思ったかどうか』。それだけだよ。―――キミの眼を見たら、答えなんて、もう分かっちゃうケドね」
軍事兵器、引いては機械的生命体のルカに於いても、最低限の生命活動はしている。だが、その人間離れが過ぎる言動と、突飛な発想を鑑みれば、とても「人間社会に完璧に紛れている」とは言い難い。否、言えない。だから、ルカはヒルカリオから出ることが許されないのだ。それなのに。
どうしてだろう?軍事兵器として死生観を論じるつもりは無いと言ったはずの、その唇は。琉一の『生きたい』という気持ちを激しく揺さぶり、増強させるではないか。
長い前置きは、このくらいにしておこう。もう、この議論の幕は、閉じるべきだ。空論は机上にしか現れないが、現実はいつだって眼前に突き付けられて、そうして人間に答えを求めてくる。故に、琉一の出した答え。それこそ。
「…、…生きたい…。まだ、…生きて、いたい…」
絞り出すような声で、琉一がそう呟いた途端。ドライアイを防ぐ目的でしか機能しないはずの涙腺が、動いた。―――人工皮膚で覆われた頬に、温度のある涙が伝わる。
その場の誰もが、たった一人の人間の『生』が蘇る瞬間を、しかと見届けた。
――――…。
【同時刻 KALAS 第四区画内】
打って変わって。此処は、ヒルカリオに建てられている、ルカ専用のラボ『KALAS(カラス)』。そこの奥深い敷地に在るラボの中にて、治療ポッドに入った少女と、傍らで彼女を見守る男の姿が在った。誰と見紛うこともないだろう。治療ポッド内に寝ているのはアンジェリカであり、見守っているのはナオトであった。
そして、二人のことを。その背後から静かに見張る、正体知れずのブラックスーツの集団。否、ナオトに彼らの情報が渡されていないだけであり、KALASに出入りしている人間、そして更生プログラム中のナオトを監視する役割を、Room ELのメンバーに代わって担っているという時点で、十中八九、『ルカ側の誰かたち』であることは明白である。
治療ポッドが、プロセスの終了を告げた。蓋が開くと、ひやりとした人工的な空気が、ナオトの足元を撫でる。同時にアンジェリカが、薄らと眼を開いた。その瞳には、暴走していたときの濁った黄金色はもう無く。元通りの、青、黄、アクアの三色に戻っている。
「…、約束を、覚えていたのね。偉いわ、ナオトくん」
「ええ、勿論です。アンジェリカさんは僕を連れ去り、逃亡生活をしている間に、確かに仰いましたから。『事が全て済めば、私のことは如何様に処罰する権利が、ナオトくんには与えられるべきなのだから』と…」
「それに対して、貴方はこう答えたわ。『僕は医者ですから、誰かを傷つけるのではなく、常に誰かを救いたいと願っていますので』と、ね」
唐突に始まったアンジェリカの言葉にも、ナオトはきちんとついていった。アンジェリカが続ける。
「さあ、思うがままに、私を裁きなさい。最早、私は母性ではない。ただの、空っぽの器になっただけの機械…。本来ならば、こうして治療を受けられる価値も無かったはずよ。きっと事情を聞いたであろうルカが、ナオトくんに約束を果たすチャンスを与えるために、私への治療を命じたのね?」
全てを察したように眼を細めるアンジェリカだったが。ナオトは首を横に振る。
「いいえ、違います。僕がルカさんに貴女の治療をお願いしたのです。ルカさんは、貴女の主電源を切り、機体の保存だけを考えておられましたから…。
なので、貴女と交わした約束の話を、僕から打ち明けて、恐れながらも、ルカさんを説得したのです。その際、ツバサさんとソラさんも援護してくださいました。やはり僕の最推しは、偉大です」
「そう…。ならば、尚更ね…」
ナオトの説明に対して、アンジェリカは諦観した声音で返した。すると、ナオトは手に持っていた、二つの小型のメモリースティックを彼女へと見せ、口を開く。
「KALASの方々を通して、ルカさんから託されました。
赤色のメモリースティックが、貴女の主電源が二度と入らないように、且つ、機体の保存が叶う、『永遠のスリープモード』へと移行させるウィルスが入ったモノ。
青色のメモリースティックが、ルカさん主導のもと再構築された『試験段階の新マム・システム』が入ったモノ。
…必ずどちらかを治療ポッドのメモリー口に差し込み、アンジェリカさんとの約束を果たすように、厳命されました」
ナオトの掌の中、青と赤のスティックが、無機質な光を放つ。その光が、彼のオッドアイに反射して、わずかに揺れた。
「本当に僕は…、ただの一介の医者に過ぎないというのに…。ヒルカリオ全方位を揺るがすような、このような決定権を、まるで玩具でも渡すかのように扱うルカさんの無神経さには、……心から呆れるばかりです。親の顔が見てみたいと言う言葉を、僕の人生で初めて口にします」
「…かつての母は、此処で寝転がっているけれど?」
何処か陰鬱としていたナオトだったが、アンジェリカのジョークに少しばかり顔色が晴れた。迷うような素振りを見せていても、結局、ナオトの心は、とうに決まっているらしい。
「約束は果たします。アンジェリカさん、あのとき、僕の昔話を聞いてくださり、ありがとうございました。あそこで琉一さんのことを改めて思い出さなければ…、僕はきっと、先の戦場で、もっと違う選択をしていたと思います」
「そう、それは良かったわ。さあ、私は今一度、眠るときね…。
次に逢えたら、…そうね、そのときは、美味しいお茶とマカロンでも囲んで、一緒にヒルカリオの未来について語り合いましょう」
「もう次の約束ですか?…ええ、勿論、善処致しますとも。
今日まで、本当にお疲れ様でした。この後は、どうぞゆっくりとお休みになってください。…お大事に」
そうやり取りをしながらも、瞼を閉じたアンジェリカを前にして、ナオトが治療ポッドのメモリー口に、スティックを差し込む。
治療ポッドの蓋が閉じられて、施術中を報せるランプが付き、再び稼働を開始した。からん…、という音と共に、リノリウムの床に転がったのは、―――赤色のメモリースティックであった。
治療ポッドのランプが、やがて柔らかなアクアブルーに変わる。それは、安らぎを意味する色。かつて彼女の瞳に宿っていた光そのものだった。
背後に控えていたブラックスーツから、一人が前に出てきて、ナオトに向かって声を掛ける。
「鈴ヶ原ナオト先生。難しいご判断を乗り越えてくださり、感謝申し上げます。
…つきましては、『新マム・システム』がスタートしたことを証明するために、こちらにサインをお願い致します」
そう、転がったのは赤色のメモリー。つまり、治療ポッドに差し込まれているのは、青色の方。
ナオトは選んだ。アンジェリカの再生と、マム・システムの真の再始動≪Re;start≫を。
ブラックスーツが出してきた電子書類に、既にルカの署名が入っているのを見たナオトは。何処か達観した笑みを浮かべたまま、ペンを滑らせて、自分のサインを書き込んだのであった。
――――…。
【クロックヴィール大学附属病院 VIP専用個室病棟 B101号室】
生きる決断をした琉一が、ひとしきり涙を流し切るのを、優しい眼差しで見届けた一同は。さて、誰から、そして何から彼に問うか。そして声を掛けるか。の、空気を読むバトルを静かに開始する。ちなみに、その間。ルカは手元に握っていた端末で、同時刻、KALASで、ナオトに手によりアンジェリカに新しいマム・システムの初期設定プログラムが打ち込まれたことに関する、リアルタイム更新の報告文章を読んでいた。ルカからすれば、「空気を読むのは、人間の習性」だと思っているので、自分は自分で、勝手に仕事を進めているだけである。
「ねえ?弁護士さんって、わたしのパパと、どのタイミングで知り合ったのかしらあ?パパが傭兵として現役だったのは、ママと出逢う前の話だし。ママと結婚してからはサクラメンス・バンクの頭取として仕事に打ち込んできたんだから、弁護士さんが傭兵だった頃に戦場に行くだなんて、そんな無茶は出来なかったはずだもの~。パパは「儂が話して良い内容ではないのだ」の一点張りだし。もしよかったら、聞かせてくださる?」
空気が読めない、というか、マイペースの極みにあるが故に。音色がいち早く発言をする。その質問内容も相まって、思わぬところから鉄砲玉が飛んできた気持ちになるものの。その回答そのものは、この場の全員が気になるモノという共通項は有していた。すると、音色の問いには八槻が反応を示した。
「乙女樹主任、それは僕の方が第三者として語れるだろうから…。病床の琉一くんと、深い事情を抱えるバルドラ様の代わりに、この雪坂八槻がお答えさせて頂くよ」
「あら、そう?じゃあ、お任せするわあ」
八槻が一歩前に出るようにして、音色に対して、少し昔の話を聞かせ始める。
「バルドラ様が琉一くんを見初めたのは、彼が軍医集団に改造の手術に関して、交渉事をしているときだったんだ。
そのときの軍医集団は、琉一くんに改造を受け入れて貰う代わりに、多額の報酬を渡していた。でも、医療に関わらず、研究に溶かす費用にはいつも限界がある。つまり、軍医集団は金欠を起こしてしまい、それを理由に琉一くんに渡す報酬の値切りを行うという、何ともさもしい取引のテーブルを用意していたんだよ。
…で、ユキサカ製薬の玄一社長、…僕の伯父さんの視察に、たまたま同伴していたバルドラ様が、なんの偶然か、その席を目撃して…。軍医集団と琉一くんの間の事情を聞いた途端、バルドラ様は「そのカネ!儂が用意してやる!医療の未来も、若者の未来も!儂のカネで成長するが良い!」と豪語なさった。…それからさ。琉一くんがバルドラ様に気に入られて、彼が我が国のあちこちで、『打倒ミセス・リーグスティ計画』の工作が出来るようになったのは…」
「確かに、それを聞くと、大いに納得したわあ。
つまり、弁護士さんが裏でアレコレと用意周到に計画を練ることが出来たのは、わたしのパパという究極のパトロンを手に入れたから、ということだったわけねえ?それは確かに、トルバドール・セキュリティーの女社長の首を狙うような大それたこと、仕出かせるわけだわあ。だって自分の背後には、『巨大銀行のトップ』が聳えているのだから、ねえ?」
「ご理解頂きありがとうございます、乙女樹主任」
語り終えた八槻に対しての音色の言葉に、八槻自身は、丁寧に腰を折った。その仕草、まさしく舞台に立つ名俳優そのもの。
すると、次に口を開いたのは、輝だった。
「あの、琉一さん…。貴方が俺を攫い、戦士として育て上げた目的は…、お母様への復讐に駆り立てるため、すなわち、お母様の首を狙う琉一さんの手助けをするためだった、のですが…。マム・システムが予測不能の暴走を起こして、結局、戦士として生まれ変わった俺は、マム・システム討伐作戦が初陣になってしまって…、…えーっと、その、つまり…、あれ?何て言うのが正解なんだろう…?すみません、なんか、上手く語彙力が働かなくて」
輝の言いたいことは、確かに的を得ていない表現力により、ぼんやりとしている。だが、それを汲み取れない人間は、此処には居ない。何故なら、皆、『大人』だから。
先の戦場では凛々しかった戦士の顔とは違い、年相応の不安が滲み出ている輝に向かって、レイジが答える。
「優那から事情を少し齧って聞いてきたけど…、あんた、聖クロス学園の生徒会長しておきながら、裏で身勝手なことばっかりしてたらしいな…?そもそも、此処に来るまで、一回、凋落したのも、学園のOBである姉ちゃんのこと、馬鹿にしたからだろ?
…まあ、これからの身の振り方は、真剣に考えておいた方がいいんじゃね?復学したとしても、もう聖クロス学園には、居場所が無いだろうから…。まあ、このままフェードアウトするのは、ほぼ確定だな。それに、実家に一人で帰るのも、気まずいだろ…?
バルドラのおっさんから貰える今回の報奨金を使って、ヒルカリオで就職先でも探しながら、暫くビジホ生活でもしてな。どーせ、ルカ兄の秘密を共有された以上、そのまま本土へと還す気は、ルカ兄自身の中にも無いだろーし…」
レイジがそこまで言ったとき、ルカは手元の端末から顔を上げて、気持ち程度の反論を始めた。
「別に?「おうちにかえりたい」って言うなら、解放はしてあげるよ?その代わり、今後、輝は二度とヒルカリオには足を踏み入れなくなるし、本土に還って貰った後も、向こう十年は監視を付ける羽目になるだけで」
「それが駄目だって言いたいわけ…。輝はまだ十六歳だぞ?子どもなんだよ…。ろくな大人の庇護も受けられないまま、みすみすと本土へ還せるかっつーの。ヒルカリオの統括機関の中でも、本土方面を管轄するグループの仕事がめっちゃずさんなの、俺は知ってるからな?だから、父さんがアンジェリカを幽閉した場所すら、アイツら全く気が付いてなかったんじゃん?」
「うーわっ、レイジってば真面目だねー。誰に似たんだかー?」
「うーわっ、俺を此処まで育てた男がなんかいってらぁ、無視したろー…」
ルカとレイジのやり取りは軽妙なモノではあるが。輝が置かれている現実を冷たくも示しているので、聞かされている輝からすれば、その顔色が益々悪くなるばかりである。しかし。輝の背中に、豪快な笑い声が飛ばされる。誰であろうものか、バルドラだ。
「はははは!!そんなに自分の未来を暗く見るな!!レイジも、若い者を脅すようなことを簡単に口にするものではないぞ!?そもそもこの儂が、手ずから育てた戦士を、用が無くなったからと捨て置くような軽い男と思うでないわ!!
輝!儂はサクラメンス・バンクの頭取として!そして、トルバドール・セキュリティーの株主として!お前を次代のトルバドール・セキュリティーの社長として推薦する気だ!!勿論、椅子だけを用意して、放り投げる気は毛頭無いぞ!そこのミセス・リーグスティを名誉会長、そして、儂と八槻を相談役と据え置いたうえで、お前が一人前の社長として成長するまで、全力でサポートする!!」
バルドラの豪快な笑い声による通達が、病室に響く。静かにしろ、という注意は通らないので、誰もしない。が、ストップをかけた勇者が、たった一人だけ居た。八槻である。
「っちょ、ちょっとお待ちください、バルドラ様?!僕がトルバドール・セキュリティーの相談役って…、初耳ですけれども?!」
どうやらバルドラが言う「トルバドール・セキュリティーの相談役にバルドラ自身と八槻を据え置く」という話は、彼にとって寝耳に水だったようだ。バルドラは更に笑う。
「当たり前だ!いま初めて言ったからな!!
案ずるな八槻!!玄一は、この話を手放しで喜び、そして秒速で許可を出したぞ?!そろそろお前も社交界の傾奇者なんぞ辞めて、それなりの役職に就く時期だと心得よ!!
あのちんまかったレイジが、ROG. COMPANYの社長へと成った時代が、やっと来たのだ!!そこと同い年のお前が、いつまでも放蕩できると思うでない!!がははははは!!」
寝耳に水状態なのは、八槻だけではなく。当然、輝も同じであった。
「お、俺が…、トルバドール・セキュリティーの…次期社長…?え?あの?その…。世襲制の是非はこの際ともかく…、社長業という家督は、俺ではなく、今や優那が継ぐべきではないでしょうか?俺は優那を…、妹を金銭的に搾取してきたし…。レイジさんの仰る通り、高校では生徒会長職の裏で悪事を働いていました。そのうえ、もう一般人とは言い難い世界にまで、足を突っ込んでいて…」
そう零す輝の葛藤は、悲哀に満ちている。降って湧いた出世話に舞い上がることのない姿は、過去に「自分こそリーグスティ家の家督を継ぐべき!」と豪語し、二面性のある顔を使い分け、子どもらしい悪徳を積み上げてきた、あの頃の少年からは、もう遠くかけ離れていて。如何に輝という子が、此処に至るまでに成長したかと物語る。
そこに。迷いを見せる輝に対して、ソラが本来の冷静さを取り戻した声で、彼へと告げた。
「過去の罪を顧みるのは良いことだ。しかし、乙女樹頭取にトルバドール・セキュリティーの次期社長の椅子を用意させられたということは、お前が正当に評価されるべき位置まで立ち返ることが出来たという意味に他ならない。おまけに実母のミセス・リーグスティの手からは完全に離させず、彼女ともう一度「親子」として対話するチャンスを設け、且つ、これからは「ビジネスパートナー」として扱われる、対等な立場まで与えられてる。健全な交友関係を築いているであろう八槻氏すらも巻き込んだカタチの図式すら用意されていることも計算して、―――総合的に、かなり高い評価を頂戴していることを自覚するといい。…輝・リーグスティ。お前はもう、充分に、前へ進めるはずだ」
ソラの言葉に、輝の目尻に薄らと涙が浮かび始める。周囲の大人の温かい眼差しが、本当に身に染みた。同時に、此処に至るまでに、たくさんの迷惑をかけてきた人物たちの顔も、輝の脳裏に思い浮かぶ。
ルカが笑いながら、口を開いた。
「高校生が仕出かしたイタズラとて、自分の罪は忘れないコトだよ。それを抱えて、これから再始動すればいいだけ。
だって。そうでしょ?十六歳の子ども未来なんて、無限大だよ。それに、子どもの夢を護り、時に創造するのは、ROG. COMPANYが玩具会社として、一番に大切にしているコトだしね~。あとは、輝が自分の眼の前にあるチャンスをどう活かすか…、それだけだよ」
それは、最後の一押しである。輝の眼に、迷いが消えた。
「…はい!俺、やってみせます!これからもご指導のほどよろしくお願いします!」
輝はそう宣言すると、深く腰を折り、周囲の大人たちに頭を下げる。その潔さの中に垣間見える、若々しいと言う名の未熟さ。一見すると、心許ない印象を抱けるが、此処に居る大人たちにとって、その輝の姿は、これからの『未来』と『希望』の象徴だった。勿論、輝に全てを背負わせる気は毛頭無い。これからも自分たちが導いていく。
そのとき。ミセス・リーグスティが、珍しくおずおずと言った風に、病床の琉一へと声を掛けた。
「ねえ、りゅーちゃん。貴方、ステルバス家に養子入りしてから、余り良い待遇を受けていないのではなくて?あの一族は身内に甘く、外からの血筋には一等厳しいことは、私たちの社交界でもかなり有名よ?
…りゅーちゃん、もしかして、ステルバス家に『自分の計画』を見逃したり、バックアップをして貰う代わりに、一族から何か厳しい条件や制約を飲まされていないかしら…?でないと、いくら貴方がギフテッドだからと言っても、あのステルバス一族が、易々と外部の人間を受け入れるはずが無いわ」
「…概ね、肯定します。ステルバス一族は確かに自分に、とある条件を課しました。ですが、それで不自由を感じたことはありません」
質問に答える琉一の顔には憂いは無かったが、相反するようにミセス・リーグスティの表情が曇る。そして、彼女は意を決したように、本題に入った。
「りゅーちゃん、ステルバス一族から抜けなさい。身元は私が引き受けるわ。私の息子として、…輝と優那の義兄として、リーグスティ家にいらっしゃい。
あの一族は余りにも外部に厳しいきらいが漂い過ぎている…。りゅーちゃんはもう、今までの苦しみから一つでも多く、解放されるべきだわ。ステルバス一族に養子入りするにあたって飲んだ条件とやらの解除に、資金や手続きが必要だと言うならば、このイヴェット・リーグスティが全て担いましょう」
その瞬間、ルカの瞳が瞬いた。事象の観測。ヒルカリオに繋がれた軍事兵器として、この楽園都市で起こるレギュラーとイレギュラーの全てを、彼は把握する義務があり、宿命ですらある。
つまり。今まで復讐の対象として見ていたミセス・リーグスティからの提案に、琉一がどう答えるのかが、今のルカにとって、一番、興味深い瞬間なのだ。
そのとき。珍しく、…本当に珍しく、琉一の表情が「気まずい」と言いたげなそれになった。生来の気質と、改造の影響で、文字通り、表情筋が仕事をしにくい体質になっている彼が、感情や自我を表に出すのは、(何度も言うが)非常に珍しい。
「申し出はありがたく存じます。しかし、…ステルバス一族に入るにあたり、今の妻との結婚を条件に出され、そのうえ、生涯、離別することを禁じられておりますので。
どの方面からアプローチしたところで、ミセス・リーグスティのご提案が成功する確率は、限りなく低いでしょう」
「ああ、結婚しているのね。それなら養子縁組は、…って、けけ、けっ、結婚ッ?!りゅーちゃん、結婚しているのッ?!」
琉一からの衝撃的なカミングアウトに、ミセス・リーグスティは素っ頓狂な声をあげた。だが、それは彼女だけではなく。
「待て待て待て!!待たないか!!お前、『今の妻』と言ったな?!この時点で既婚者なのか?!いつ?!どのタイミングだ?!何で隠していた!?というか、戸籍情報では、お前はステルバス家の本家の四男坊扱いになっていたぞ?!なんで?!ルカの権限で閲覧した情報に間違いなどあり得ないだろう?!」
親友からの新情報にソラが取り乱しつつ、一気に琉一の病床と距離を詰める。右手には一瞬で展開されたバタフライナイフが握られており、その刃先が琉一の向けられていた。対して、琉一は、冷静に釈明を始めようとする。
「落ち着いてください。順を追って、説明致します。なので、そのナイフは一旦、仕舞いましょうか、ソラ」
「俺が心の底から納得する説明を、お前が五行で成し遂げられたらな?」
「昼のオフィス街でも、夜の繁華街でも人気者なイケメンも、その嫉妬深ささえ無ければ、今頃、パートナーが居たはずですが?」
「黙れ、黙れ。非常にうるさい。
さっさと最後の真実を話せ。此処に来て、まだ隠し事をしようなどど、面の皮が厚いヤツめ…!」
ソラと琉一のやり取りには、物騒な雰囲気こそ漂うものの。その根底にあるのは、互いに背中を預け合う信頼であり、親友という絆である。それが分かっているからこそ、周囲は、嫉妬深いソラの言動も、琉一がそれをわざと煽る姿も、やれやれとばかりに、呆れ笑いで見守っていけるのだ。
改めて、琉一の弁明が始まる。
「自分がステルバス家に養子入りしたのは、五歳のときです。ミセス・リーグスティの言う通り、ステルバス一族は外部の血筋を嫌う傾向にありました。しかし、本家の現当主、今は自分の父にあたる御方が、分家筋にある娘と自分が結婚し、生涯を添い遂げるように努めよ、と条件を課しました。それさえ守れば、ステルバスの姓を名乗ること、そこから預かれる恩寵の全ては、好き勝手にして貰って構わない、と。
故に、戦場から生き延び、帰国して、粗方の身辺整理と、計画実行への下準備を終わらせた自分を待っていたのは、…今の妻との結婚式でした。飾りだけの儀式でしたが、この人生に於いては貴重な経験値として積ませて頂きました」
琉一の説明は、ソラの要求通り、簡潔に纏められていた。しかし、それ故、事務的な説明になっているが為に、却って彼の持つ人間味の薄さが増している。
ソラはナイフをハンドルへと収め、右太腿に着けているナイフ専用のポケットへと仕舞い込んだ。納得はしたという意思表示ではあるが、その表情は「理解しかねる」と大きく書いてあるようで。
「オレの権限でソラが閲覧した戸籍情報は、恐らく『間違い』ではないと思うんだよね~。結婚とは銘打っていても、キミとキミの奥さんは、「現法上の夫婦ではない」ってコトでしょ?要するに、事実婚ってモノなんじゃない?だから、ソラが検めた戸籍情報上では、キミは未だにステルバス一族の本家の四男坊である、と表示されているってコト。これが、正解だね」
ルカの補足に、琉一は頷いた。
「肯定します。自分と、自分の妻は、役所に婚姻届を提出しておりません。敢えて俗的に表現すれば、我々は内縁状態に他なりません。
勘違いしないで頂きたいのは、この事実婚を選択したのは、妻からの提言であり、そこにソラや、ルカ三級高等幹部を騙す意図など、一つも無かったということです。ですが、それを逆手に取ったのは、紛れもない自分自身です。それに対して咎めるというのであれば、受け入れましょう」
「咎める点なんて無いよ。逆境の中で、賢い知恵が働いただけでしょ?それって、人間が持つ生存本能に過ぎないんだから、オレが高見から叱る理由にはならないね~」
ルカは超常とした態度で、言ってのける。彼が判断したことに対して、この場の誰もが反抗することしない。ヒルカリオでルカの庇護下に居る以上、ある意味、彼の言うことは絶対でもあるからだ。ソラも未だに何処か不満そうなオーラを出してはいるものの、これ以上の追求はしないでおく。
「さあ、もうこれで琉一から聞けるお話は、一旦、終わりでしょ?彼は一応、というか、れっきとした重症であり、手術待ちの患者さんだからさ。オレたちはもう引き上げてあげようね」
ルカからの明確な指示が出たところで、皆は一斉に動き出した。
―――夜明けは、近い。
to be continued...