第六章 ヴァルキュリア・マナーズ
【翌日 本土 某所 集合住宅内】
有給休暇を取得したソラは、無事に木島と面会することに成功した。ソラは自分側の誠意を見せるため、わざわざアタッシュケースに四千万の現金を丸ごと詰めて、木島の自室を訪れている。
これでも最初は、疑われたものだ。「弁済を肩代わりするから、天道院翼に関する、知っていることの全てを話せ」と言っても、木島は「四千万もある、他人の借金をほいほいと返すわけがない。私を嵌める気だろう?」等と言い、無碍にしようとしていたのである。だが、ソラが自分の預金口座の一つの残高を木島に公開したことで、木島は彼が嘘を吐こうとしたり、自分を嵌めようとしている下心が無いことを確信したらしい。事実、そこからは、とんとん拍子だった。
そして今。ソラは木島と対面してから。真っ先に違和感を抱いている。
木島はお茶の用意と称して、いそいそと給湯器や茶器やらを弄っているのだが。その彼の身なりや、その他仕草に、ソラの第六感が働いた。
「素敵なお召し物ですね。この日のために、ご用意してくださったのですか?」
「ええ、ええ。ソラ様には不肖の弁済を肩代わりして頂けるのですから、不格好は出来ませんし…」
「電話でお聞きしたのは、近頃はお仕事の回数も減らしていると…。確か、腰痛が悪化したとか。そのように動いて、平気でしょうか」
「ええ、まあ。病院での痛み止めの注射が効いているので。週三回ほど受ける必要がありますが…、健康には代えられません」
ソラの問いかけに、木原は笑顔で答えている。だが、ソラの冷たい瞳は変わらない。それどころか、彼は詰問にも等しい言葉の手を緩めなかった。
「日雇い仕事で欠勤が続くと、ご苦労も多いことでしょう。今回、四千万の弁済はさせて頂きますが、日常生活の支援まで出来ませんので、どうぞ、諸々の公的機関に頼ることを視野に入れてみては?」
「……、何が仰りたいのですか?ソラ様は、今日、私と取引をしに来たのでしょう?それとも、カネを出す代わりに、私の余生にまで口を出そうなどと―――」
「―――その余生が、此処で断ち切られないと良いな?木島?」
木島が訝しげな感情を抱いたときには、既に遅かった。手から溢れた湯呑みが、床へとまっ逆さまに落ちて、割れる。しかし、木島にそんなことを気にしている余裕は無い。何故なら、その首筋に、ソラのバタフライナイフが突き付けられていたから。
「シャツ一枚とて、プレタポルテか、オーダーメイドかくらいの区別はつかないとな?その柄は、ヒルカリオに在る本店限定のブランド商品だ。さぞ、良い値段がしただろうに。
腰痛治療のためとはいえ、週三回も注射治療が受けられるのか?此処から一番近い整形外科を抱えているのは、紹介状が無ければ治療が受けられないことで高名な大学病院だ。弁護士としての人脈が既に無いはずの貴方が、おいそれと受けられる医療行為は、あそこには揃っていない。
どういうことだろうな?四千万の借金を抱え、日雇い仕事でかろうじて食い繋ぐ日々を送っているはずの貴方が、…――――そう例えば、パトロンでも得たかのような生活に転身しているのは、何故だろうか?
――――答えろ、木島。ツバサの背景事情を握っている貴様が、ルカの存在を知らないとは言わせない。あの軍事兵器は、俺に喉を裂かれた老いぼれの死体を抱えて、無呼吸でヒルタス湾の海底に穴を掘って埋めることくらい、造作も無いぞ?」
ソラの声が一段と低くなる。そして、その温度も冷たくなる。それを聞いた木島は本能的に命を危機を感じて、「は、話します…ッ!しょ、正直に話しますからッ!」と絞り出すような声で言い、バタフライナイフが下げられた瞬間、床に額付いて、弁明を始める。
「べ、弁済は、既に肩代わりをして貰っていて…ッ!!その代わり、ソラ様が来ても何も言うな、悟られるなと!!口止め料として、生活に必要なカネにプラスした料金を定期的に頂戴していることは本当です…ッ!!で、ですが!私はあいつらのようにミセス・リーグスティを仕留めるために、ツバサさんを利用したりなんかしていません…!!し、信じて…ッ!!」
木島の言葉に、ソラは一気に殺気立った。納めようとしたバタフライナイフを、木島の横っ面スレスレの床に、チカラの限り、突き刺す。ナイフの切っ先がめり込む音と、「ヒィィィイ!!!!」という木島の間抜けな悲鳴が室内に同時に響くのであった。
ソラが木島の襟首を引っ掴み、強制的に上向かせる。そして、怒気を孕んだ視線と口調で詰問した。
「貴様にカネを握らせて、ツバサを…、俺の妹を利用している輩がいると?!それは誰だ?!
さっさと言え!!でないと、今度こそ本気で首筋を掻き切るッ!!言えないなら、書類でもデータでも、何でも出せ!!どうした?!やる気あるのか?!」
「ひぃぃッ!!だ、出します!!あいつらに渡された誓約書とか!!弁済の証明書とか!!ありますから!!出しますから!!た、たた、助けてくださいぃぃ!!」
必死に命乞いをする木島を見たソラが、掴んでいた彼の襟首を解放すると。木島はわたわたと慌てふためきながら、食器棚の横のカラーボックスをひっくり返すような勢いで、そこからファイル束を取り出した。震える手で差し出されたそれをソラは受け取り、中に挟まっている書類たちを検める。
それは確かに、四千万の借金を完済したこと証明するモノ、弁済の肩代わりを含めたその他関連情報を秘匿すると約束させる誓約書、それに付随する数々の法的書類など…。
だが、ソラにとって、肝心な情報は書類の内容ではなく。それらが、一体、誰によって作成されたかを指し示す署名欄に書かれた、名前であった。そう、誰かと言うと。
「―――…琉一…!」
署名欄には、しかと。『琉一=エリト=ステルバス』と書かれている。ソラの唇から怨嗟、後悔、怒気、悲哀、混乱―――…それらが綯い交ぜになった声が漏れ出て。その声は、現在、自分から謎の失踪と逃亡を続けている、親友の名を紡いだ。
しかも、書類の作成日時は、琉一が木島に初めて接触した頃合いのときになっているではないか。つまり、琉一はソラから、木島の捜索を頼まれて。そうして木島と接触した日には、もう借金の肩代わりをする約束を交わしていたことになる。
琉一が、「木島との接触に成功したが、初めはこちらの身分を疑われた」、「多額の借金を抱えているのを理由に、非協力的な態度を見せている」、「木島と話をしている間は、部屋の外に借金取りが待ち伏せている気配があった」というソラに報告した内容は、ほぼほぼ、嘘だったということ。そして、その後。ROYALBEATをソラと共に一晩で潰したのは、ミセス・リーグスティを揺さぶるためだったにせよ、それと同時に、琉一にとっては、木島に対して「その身の安全の担保を証明するための行動」と見せつけるために過ぎなかったのだ。むしろ、木島の借金の話題を餌に、ソラの責任感と正義感を釣り。共に、ROYALBEATを潰すよう誘導したようにも思える。
―――全部、最初から、琉一は。ソラの思惑外で、全くの別行動をしていた。ソラに黙って。ルカに悟られる危険性すら、無視して。
「……この俺を出し抜くとは…。だが所詮、貴様も俺と同じギフテッド(天才)という証左になるだけだ。
ダイヤモンドを削るのはダイヤモンドしかあり得ない、ということ…」
ソラがぶつぶつと独り言のように呟く。木島は急に静かになった、しかし、その隙間に殺気を駄々洩れにさせるソラに対して、化け物を見るかのような眼を向けていた。木島はとんでもない相手を敵に回し、また、違う化け物の懐に入ったのだと、こんなつもりではなかったと。心底、後悔していた。だが、もう遅い。
ソラの零度の視線が、木島に突き刺さり。その口から『命令』が飛び出る。
「木島。今すぐ、最低限の手荷物を纏めろ。貴様をヒルカリオへ保護目的で移送する。
琉一が敵だと分かった今、…そしてこの誓約書に書かれている事項を貴様が守らなかった現時点で、貴様は琉一に狙われる可能性が高い。
命が惜しいと思うなら、俺に従え。正直、貴様の安否には、最早、興味は無いが…。俺には琉一の名誉を守る責任が、奴の親友として、未だあると信じたいからだ。
―――…何を呆けている?さっさと動け!まだ俺から言わせないと気が済まんか!?」
「は、はい!あ、あの、か、カネは…?」
この期に及んで、未だに財産の心配をする木島の、その曲がった性根が垣間見えた。ソラはそれに苛立ちながらも、しかと答える。
「多額の現金を所持しているというなら、置いていけ。損をするであろう分は、俺が責任を以て補填する。
今はカネの心配より、命の心配をしろ。貴様の立場は、決して盤石ではない。―――琉一と俺、…双方の勢力から、同時に武器を向けられていると自覚しろ!三分は待ってやる!早くしないか!」
「は、は、はい!!い、今すぐに!!」
最終通告に等しいソラの台詞を聞いた木島が、ドタバタと自分の寝室方面に走っていくのを見届けて。ソラは手の中のファイル束を床に落とす。そして、突き刺さったままになっていたバタフライナイフを引き抜き、刃をハンドルに仕舞った。
切れかかっているのか、パチ、パチ…と、僅かに明滅している蛍光灯を見上げて、すぐに視線を逸らす。
その冷たい翡翠の視線は、ソラの怒りが見せる幻影の向こうに立っている、琉一の背中を、確かに射抜いていた。
「待っていろ、琉一。
二千年に一人の天才を真に怒らせることが出来るのは―――…、無恥な人間たちの愚行の極みか、或いは、研ぎ澄まされた純粋な嘘と猿芝居だけだ」
ソラが零した、その言葉の意味はきっと。ぶつかり合う天才児同士にしか通じ合えない、ダイヤモンドの刃でしかなくて―――…。
【夜 本土 某所】
窓の外は、激しい雷雨模様。風も出てきており、今夜の空は大荒れになるだろう。
風呂を終えた輝は、休みに来た娯楽室で、床に無造作に紙類を広げている琉一に出くわした。その紙は、新聞紙に挟まっているような広告チラシや、印刷に失敗したコピー用紙の裏紙のようで、ミミズが這ったような線の列が、びっしりと書き込まれているモノである。
「琉一さん。それは、一体、何ですか?」
スルーするには余りにも奇抜な光景だったこともあり、輝は、恐る恐るという気持ちを抱きながらも、思わず声を掛けてしまった。だが、琉一は何てことないと言った風に、眺めていた紙類たちから顔を上げて、口を開く。
「共有スペースを散らかしてしまい、申し訳ございません。
今後の作戦の方向を確認するために、大昔に書かれた『地図』を、改めて読み解いていたところです」
「地図…?それは、地図なのですか…?俺には、正直、線の列にしか見えませんが…」
「肯定します。幼い子どもが書いたモノですので、このような形になっています。しかし、これが今日まで現存していなければ、自分が今の作戦に乗り出すことは無かったと言えるほどの、貴重な資料です」
「そうですか…」
琉一が広げている紙が、彼曰く『作戦の指針を決めている地図』と言うこと以外の詳細が、全く掴めなかった輝だが。とりあえず、今の琉一の邪魔をしてはいけないことだけは悟る。
すると、テレビ前のソファーに座っていた矢槻が、輝を呼んだ。輝が風呂から上がってきたら、一緒に名作映画を観ようと、昼間に二人で約束していたのだ。
「良かったら、琉一くんもどうだい?今日の映画は、かの大女優レベッカ・ルーマンの意欲作『狂夜の館』だが?」
矢槻が振り向いて、琉一を誘う。だが。
「ありがとうございます。ですが、自分のことは、どうかお気になさらず」
「そうか。まあ、気が向いたらおいでよ。ポップコーンは、たくさん作っておいたからね」
琉一の淡泊な返答を聞いた矢槻は、同じくさっぱりと割り切って、そこで会話を切り上げる。俳優を自称し、そこに強い憧れを持つ矢槻は、基本的に割り切りが早い。周囲との温度差が常に激しい琉一に対して、矢槻が平和に交流が出来ているのも、演技以外での過干渉は御免被る矢槻の手法故だというのが、此処で垣間見える。
自分の隣に輝が収まったのを確認した矢槻は、早速、待機させておいたリモコンで、再生ボタンを押した。
大きな液晶画面に、ノイズ交じりの映像が流れ始め、『狂夜の館』のタイトル文字が浮かび上がる。そして、バイオリンとピアノで進行する、美しくも不気味な音楽を背景に、日本語訳されたナレーションが流れてきた。
――『その森には、不気味な屋敷がある。満月の夜にしか、部屋に灯りがともらない。そして、灯りが窓から零れる屋敷からは、賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくるのだ。…しかし、誰も知らない。その屋敷に誰が住んでいて、誰が灯りをともしていて、賑やかなパーティーに、一体、誰が参加しているのかさえも…』
冒頭ナレーションはそこで途切れ、画面は本編へと入っていく。古き良き時代の名を馳せた名女優が、この演目の始まりを告げる、第一の台詞を放った。
『嗚呼、裏切られた…!あの御者め!私と壊れた馬車を置いて、逃げてしまったのね!助けを呼んでくると言って、嘘を吐いたのだわ!』
不意に、琉一が視線を上げた。雨が降り注ぐ窓の外へと、意識を向ける。
「…、…肯定。…、しかし、「助けて」を言えなかった、あの子どもは、地図を残した。未来の大人に託した…。
…、否定。その子どもが、本当に成し遂げたかったのは、こんな復讐劇ではないはず…。
…、否定。何度も、計算し直してきた。幾筋もの道に迷ってきた。死ぬ気で足掻いてきた。…故に、これが、一番の最善策であるはず…」
ぶつぶつと独り言を零す、琉一。だが、その声は余りにも小さく。窓に叩きつけられる豪雨と、夜空に響く雷鳴、そして彼の背後のテレビ画面で再生されている恐怖映画の音に掻き消されて、―――…誰にも届きはしない。
【同時刻 ヒルカリオ 女性専用アパート『アパート・ミュレ』 205号室】
ツバサは自室へと帰ってきて、まず郵便受けに入っていた投げ込みのチラシたちを机に放った。それから鞄を置き、日除けのために着ていたカーディガンを脱ぎ、クローゼットへと仕舞う。
それから、座椅子に腰かけて、鞄から一通の封筒を取り出した。投げ込みチラシと一緒に、郵便受けに入っていたモノ。だが、封筒には何も書かれていない。誰かが、この部屋の主人がツバサと認識して、直接、投函したモノだろう。
「…。」
ツバサはまず封筒を開けずに、手で触って、違和感が無いかを探る。開け口辺りは入念に調べようとした。カミソリの刃が仕込まれているとしたら、間違いなく此処だから。
だが、金属的な手触りは確認できない。次に、部屋の電灯に中身を透かしてみた。不自然な影は無し。厚さからも考えると、中身は便箋一枚ほどと見て、妥当だろう。
次に、指先で、ぱちんっ、と封筒ごと弾いてみた。薄っぺらい紙が曲がって、跳ね返ってきただけで、何なら少し折れてしまった。
そこまで試して、やっとツバサは、開封する。
中身は便箋一枚、と、写真が入っていた。
綺麗に折り畳まれた便箋を開くと、万年筆のようなインクで書かれた文章。
『彩葉へ
△月〇日、トルバドール・セキュリティーへ、いらっしゃい。
拒否することは、出来ない。子は母からは、絶対に逃げられないのだから。
貴女の母、イヴェット・リーグスティより』
そう綴られた便箋から、ツバサは視線をずらして。今度は写真を確認する。そこに映っていたのは、―――ローザリンデだった。
写真に切り取られたローザリンデは、実家のテイスワート邸の縁側に座っており。飼い猫を構っているという、実に無防備な姿を晒していた。画角から見て、明らかに遠方から撮影されたモノであることは、ツバサが見ても分かる。つまりこれは、ミセス・リーグスティの手の者が、ローザリンデを常時監視している、という証拠。
そしてそれを突き付けてきたということは、―――ツバサが指定した日にトルバドール・セキュリティーへと赴かなければ、ローザリンデに危害が及ぶという、宣告。
「…。」
ツバサは沈黙のまま、写真を見つめる。写真の中の己の親友は、監視されていることなど知らない無邪気な笑顔で、猫とじゃれついている。外界では高貴な令嬢として振る舞うローザリンデの素を知る者は、実に少ない。その少ない人物の一人であるツバサは、彼女の親友として、ローザリンデが素で過ごせるささやかな日常が、どれほど尊いモノかを知っていた。故に。
「……、礼儀作法がなっていないひとね…」
ツバサが、そう呟いたとき。
鞄に入ったままの、彼女のスマートフォンが通知を鳴らした。
通知画面の内容は、――『激しい雷雨を伴う雨雲が、お住まいの地域に近付いています。』
【第七章へ、続く…。】
有給休暇を取得したソラは、無事に木島と面会することに成功した。ソラは自分側の誠意を見せるため、わざわざアタッシュケースに四千万の現金を丸ごと詰めて、木島の自室を訪れている。
これでも最初は、疑われたものだ。「弁済を肩代わりするから、天道院翼に関する、知っていることの全てを話せ」と言っても、木島は「四千万もある、他人の借金をほいほいと返すわけがない。私を嵌める気だろう?」等と言い、無碍にしようとしていたのである。だが、ソラが自分の預金口座の一つの残高を木島に公開したことで、木島は彼が嘘を吐こうとしたり、自分を嵌めようとしている下心が無いことを確信したらしい。事実、そこからは、とんとん拍子だった。
そして今。ソラは木島と対面してから。真っ先に違和感を抱いている。
木島はお茶の用意と称して、いそいそと給湯器や茶器やらを弄っているのだが。その彼の身なりや、その他仕草に、ソラの第六感が働いた。
「素敵なお召し物ですね。この日のために、ご用意してくださったのですか?」
「ええ、ええ。ソラ様には不肖の弁済を肩代わりして頂けるのですから、不格好は出来ませんし…」
「電話でお聞きしたのは、近頃はお仕事の回数も減らしていると…。確か、腰痛が悪化したとか。そのように動いて、平気でしょうか」
「ええ、まあ。病院での痛み止めの注射が効いているので。週三回ほど受ける必要がありますが…、健康には代えられません」
ソラの問いかけに、木原は笑顔で答えている。だが、ソラの冷たい瞳は変わらない。それどころか、彼は詰問にも等しい言葉の手を緩めなかった。
「日雇い仕事で欠勤が続くと、ご苦労も多いことでしょう。今回、四千万の弁済はさせて頂きますが、日常生活の支援まで出来ませんので、どうぞ、諸々の公的機関に頼ることを視野に入れてみては?」
「……、何が仰りたいのですか?ソラ様は、今日、私と取引をしに来たのでしょう?それとも、カネを出す代わりに、私の余生にまで口を出そうなどと―――」
「―――その余生が、此処で断ち切られないと良いな?木島?」
木島が訝しげな感情を抱いたときには、既に遅かった。手から溢れた湯呑みが、床へとまっ逆さまに落ちて、割れる。しかし、木島にそんなことを気にしている余裕は無い。何故なら、その首筋に、ソラのバタフライナイフが突き付けられていたから。
「シャツ一枚とて、プレタポルテか、オーダーメイドかくらいの区別はつかないとな?その柄は、ヒルカリオに在る本店限定のブランド商品だ。さぞ、良い値段がしただろうに。
腰痛治療のためとはいえ、週三回も注射治療が受けられるのか?此処から一番近い整形外科を抱えているのは、紹介状が無ければ治療が受けられないことで高名な大学病院だ。弁護士としての人脈が既に無いはずの貴方が、おいそれと受けられる医療行為は、あそこには揃っていない。
どういうことだろうな?四千万の借金を抱え、日雇い仕事でかろうじて食い繋ぐ日々を送っているはずの貴方が、…――――そう例えば、パトロンでも得たかのような生活に転身しているのは、何故だろうか?
――――答えろ、木島。ツバサの背景事情を握っている貴様が、ルカの存在を知らないとは言わせない。あの軍事兵器は、俺に喉を裂かれた老いぼれの死体を抱えて、無呼吸でヒルタス湾の海底に穴を掘って埋めることくらい、造作も無いぞ?」
ソラの声が一段と低くなる。そして、その温度も冷たくなる。それを聞いた木島は本能的に命を危機を感じて、「は、話します…ッ!しょ、正直に話しますからッ!」と絞り出すような声で言い、バタフライナイフが下げられた瞬間、床に額付いて、弁明を始める。
「べ、弁済は、既に肩代わりをして貰っていて…ッ!!その代わり、ソラ様が来ても何も言うな、悟られるなと!!口止め料として、生活に必要なカネにプラスした料金を定期的に頂戴していることは本当です…ッ!!で、ですが!私はあいつらのようにミセス・リーグスティを仕留めるために、ツバサさんを利用したりなんかしていません…!!し、信じて…ッ!!」
木島の言葉に、ソラは一気に殺気立った。納めようとしたバタフライナイフを、木島の横っ面スレスレの床に、チカラの限り、突き刺す。ナイフの切っ先がめり込む音と、「ヒィィィイ!!!!」という木島の間抜けな悲鳴が室内に同時に響くのであった。
ソラが木島の襟首を引っ掴み、強制的に上向かせる。そして、怒気を孕んだ視線と口調で詰問した。
「貴様にカネを握らせて、ツバサを…、俺の妹を利用している輩がいると?!それは誰だ?!
さっさと言え!!でないと、今度こそ本気で首筋を掻き切るッ!!言えないなら、書類でもデータでも、何でも出せ!!どうした?!やる気あるのか?!」
「ひぃぃッ!!だ、出します!!あいつらに渡された誓約書とか!!弁済の証明書とか!!ありますから!!出しますから!!た、たた、助けてくださいぃぃ!!」
必死に命乞いをする木島を見たソラが、掴んでいた彼の襟首を解放すると。木島はわたわたと慌てふためきながら、食器棚の横のカラーボックスをひっくり返すような勢いで、そこからファイル束を取り出した。震える手で差し出されたそれをソラは受け取り、中に挟まっている書類たちを検める。
それは確かに、四千万の借金を完済したこと証明するモノ、弁済の肩代わりを含めたその他関連情報を秘匿すると約束させる誓約書、それに付随する数々の法的書類など…。
だが、ソラにとって、肝心な情報は書類の内容ではなく。それらが、一体、誰によって作成されたかを指し示す署名欄に書かれた、名前であった。そう、誰かと言うと。
「―――…琉一…!」
署名欄には、しかと。『琉一=エリト=ステルバス』と書かれている。ソラの唇から怨嗟、後悔、怒気、悲哀、混乱―――…それらが綯い交ぜになった声が漏れ出て。その声は、現在、自分から謎の失踪と逃亡を続けている、親友の名を紡いだ。
しかも、書類の作成日時は、琉一が木島に初めて接触した頃合いのときになっているではないか。つまり、琉一はソラから、木島の捜索を頼まれて。そうして木島と接触した日には、もう借金の肩代わりをする約束を交わしていたことになる。
琉一が、「木島との接触に成功したが、初めはこちらの身分を疑われた」、「多額の借金を抱えているのを理由に、非協力的な態度を見せている」、「木島と話をしている間は、部屋の外に借金取りが待ち伏せている気配があった」というソラに報告した内容は、ほぼほぼ、嘘だったということ。そして、その後。ROYALBEATをソラと共に一晩で潰したのは、ミセス・リーグスティを揺さぶるためだったにせよ、それと同時に、琉一にとっては、木島に対して「その身の安全の担保を証明するための行動」と見せつけるために過ぎなかったのだ。むしろ、木島の借金の話題を餌に、ソラの責任感と正義感を釣り。共に、ROYALBEATを潰すよう誘導したようにも思える。
―――全部、最初から、琉一は。ソラの思惑外で、全くの別行動をしていた。ソラに黙って。ルカに悟られる危険性すら、無視して。
「……この俺を出し抜くとは…。だが所詮、貴様も俺と同じギフテッド(天才)という証左になるだけだ。
ダイヤモンドを削るのはダイヤモンドしかあり得ない、ということ…」
ソラがぶつぶつと独り言のように呟く。木島は急に静かになった、しかし、その隙間に殺気を駄々洩れにさせるソラに対して、化け物を見るかのような眼を向けていた。木島はとんでもない相手を敵に回し、また、違う化け物の懐に入ったのだと、こんなつもりではなかったと。心底、後悔していた。だが、もう遅い。
ソラの零度の視線が、木島に突き刺さり。その口から『命令』が飛び出る。
「木島。今すぐ、最低限の手荷物を纏めろ。貴様をヒルカリオへ保護目的で移送する。
琉一が敵だと分かった今、…そしてこの誓約書に書かれている事項を貴様が守らなかった現時点で、貴様は琉一に狙われる可能性が高い。
命が惜しいと思うなら、俺に従え。正直、貴様の安否には、最早、興味は無いが…。俺には琉一の名誉を守る責任が、奴の親友として、未だあると信じたいからだ。
―――…何を呆けている?さっさと動け!まだ俺から言わせないと気が済まんか!?」
「は、はい!あ、あの、か、カネは…?」
この期に及んで、未だに財産の心配をする木島の、その曲がった性根が垣間見えた。ソラはそれに苛立ちながらも、しかと答える。
「多額の現金を所持しているというなら、置いていけ。損をするであろう分は、俺が責任を以て補填する。
今はカネの心配より、命の心配をしろ。貴様の立場は、決して盤石ではない。―――琉一と俺、…双方の勢力から、同時に武器を向けられていると自覚しろ!三分は待ってやる!早くしないか!」
「は、は、はい!!い、今すぐに!!」
最終通告に等しいソラの台詞を聞いた木島が、ドタバタと自分の寝室方面に走っていくのを見届けて。ソラは手の中のファイル束を床に落とす。そして、突き刺さったままになっていたバタフライナイフを引き抜き、刃をハンドルに仕舞った。
切れかかっているのか、パチ、パチ…と、僅かに明滅している蛍光灯を見上げて、すぐに視線を逸らす。
その冷たい翡翠の視線は、ソラの怒りが見せる幻影の向こうに立っている、琉一の背中を、確かに射抜いていた。
「待っていろ、琉一。
二千年に一人の天才を真に怒らせることが出来るのは―――…、無恥な人間たちの愚行の極みか、或いは、研ぎ澄まされた純粋な嘘と猿芝居だけだ」
ソラが零した、その言葉の意味はきっと。ぶつかり合う天才児同士にしか通じ合えない、ダイヤモンドの刃でしかなくて―――…。
【夜 本土 某所】
窓の外は、激しい雷雨模様。風も出てきており、今夜の空は大荒れになるだろう。
風呂を終えた輝は、休みに来た娯楽室で、床に無造作に紙類を広げている琉一に出くわした。その紙は、新聞紙に挟まっているような広告チラシや、印刷に失敗したコピー用紙の裏紙のようで、ミミズが這ったような線の列が、びっしりと書き込まれているモノである。
「琉一さん。それは、一体、何ですか?」
スルーするには余りにも奇抜な光景だったこともあり、輝は、恐る恐るという気持ちを抱きながらも、思わず声を掛けてしまった。だが、琉一は何てことないと言った風に、眺めていた紙類たちから顔を上げて、口を開く。
「共有スペースを散らかしてしまい、申し訳ございません。
今後の作戦の方向を確認するために、大昔に書かれた『地図』を、改めて読み解いていたところです」
「地図…?それは、地図なのですか…?俺には、正直、線の列にしか見えませんが…」
「肯定します。幼い子どもが書いたモノですので、このような形になっています。しかし、これが今日まで現存していなければ、自分が今の作戦に乗り出すことは無かったと言えるほどの、貴重な資料です」
「そうですか…」
琉一が広げている紙が、彼曰く『作戦の指針を決めている地図』と言うこと以外の詳細が、全く掴めなかった輝だが。とりあえず、今の琉一の邪魔をしてはいけないことだけは悟る。
すると、テレビ前のソファーに座っていた矢槻が、輝を呼んだ。輝が風呂から上がってきたら、一緒に名作映画を観ようと、昼間に二人で約束していたのだ。
「良かったら、琉一くんもどうだい?今日の映画は、かの大女優レベッカ・ルーマンの意欲作『狂夜の館』だが?」
矢槻が振り向いて、琉一を誘う。だが。
「ありがとうございます。ですが、自分のことは、どうかお気になさらず」
「そうか。まあ、気が向いたらおいでよ。ポップコーンは、たくさん作っておいたからね」
琉一の淡泊な返答を聞いた矢槻は、同じくさっぱりと割り切って、そこで会話を切り上げる。俳優を自称し、そこに強い憧れを持つ矢槻は、基本的に割り切りが早い。周囲との温度差が常に激しい琉一に対して、矢槻が平和に交流が出来ているのも、演技以外での過干渉は御免被る矢槻の手法故だというのが、此処で垣間見える。
自分の隣に輝が収まったのを確認した矢槻は、早速、待機させておいたリモコンで、再生ボタンを押した。
大きな液晶画面に、ノイズ交じりの映像が流れ始め、『狂夜の館』のタイトル文字が浮かび上がる。そして、バイオリンとピアノで進行する、美しくも不気味な音楽を背景に、日本語訳されたナレーションが流れてきた。
――『その森には、不気味な屋敷がある。満月の夜にしか、部屋に灯りがともらない。そして、灯りが窓から零れる屋敷からは、賑やかなパーティーの喧騒が聞こえてくるのだ。…しかし、誰も知らない。その屋敷に誰が住んでいて、誰が灯りをともしていて、賑やかなパーティーに、一体、誰が参加しているのかさえも…』
冒頭ナレーションはそこで途切れ、画面は本編へと入っていく。古き良き時代の名を馳せた名女優が、この演目の始まりを告げる、第一の台詞を放った。
『嗚呼、裏切られた…!あの御者め!私と壊れた馬車を置いて、逃げてしまったのね!助けを呼んでくると言って、嘘を吐いたのだわ!』
不意に、琉一が視線を上げた。雨が降り注ぐ窓の外へと、意識を向ける。
「…、…肯定。…、しかし、「助けて」を言えなかった、あの子どもは、地図を残した。未来の大人に託した…。
…、否定。その子どもが、本当に成し遂げたかったのは、こんな復讐劇ではないはず…。
…、否定。何度も、計算し直してきた。幾筋もの道に迷ってきた。死ぬ気で足掻いてきた。…故に、これが、一番の最善策であるはず…」
ぶつぶつと独り言を零す、琉一。だが、その声は余りにも小さく。窓に叩きつけられる豪雨と、夜空に響く雷鳴、そして彼の背後のテレビ画面で再生されている恐怖映画の音に掻き消されて、―――…誰にも届きはしない。
【同時刻 ヒルカリオ 女性専用アパート『アパート・ミュレ』 205号室】
ツバサは自室へと帰ってきて、まず郵便受けに入っていた投げ込みのチラシたちを机に放った。それから鞄を置き、日除けのために着ていたカーディガンを脱ぎ、クローゼットへと仕舞う。
それから、座椅子に腰かけて、鞄から一通の封筒を取り出した。投げ込みチラシと一緒に、郵便受けに入っていたモノ。だが、封筒には何も書かれていない。誰かが、この部屋の主人がツバサと認識して、直接、投函したモノだろう。
「…。」
ツバサはまず封筒を開けずに、手で触って、違和感が無いかを探る。開け口辺りは入念に調べようとした。カミソリの刃が仕込まれているとしたら、間違いなく此処だから。
だが、金属的な手触りは確認できない。次に、部屋の電灯に中身を透かしてみた。不自然な影は無し。厚さからも考えると、中身は便箋一枚ほどと見て、妥当だろう。
次に、指先で、ぱちんっ、と封筒ごと弾いてみた。薄っぺらい紙が曲がって、跳ね返ってきただけで、何なら少し折れてしまった。
そこまで試して、やっとツバサは、開封する。
中身は便箋一枚、と、写真が入っていた。
綺麗に折り畳まれた便箋を開くと、万年筆のようなインクで書かれた文章。
『彩葉へ
△月〇日、トルバドール・セキュリティーへ、いらっしゃい。
拒否することは、出来ない。子は母からは、絶対に逃げられないのだから。
貴女の母、イヴェット・リーグスティより』
そう綴られた便箋から、ツバサは視線をずらして。今度は写真を確認する。そこに映っていたのは、―――ローザリンデだった。
写真に切り取られたローザリンデは、実家のテイスワート邸の縁側に座っており。飼い猫を構っているという、実に無防備な姿を晒していた。画角から見て、明らかに遠方から撮影されたモノであることは、ツバサが見ても分かる。つまりこれは、ミセス・リーグスティの手の者が、ローザリンデを常時監視している、という証拠。
そしてそれを突き付けてきたということは、―――ツバサが指定した日にトルバドール・セキュリティーへと赴かなければ、ローザリンデに危害が及ぶという、宣告。
「…。」
ツバサは沈黙のまま、写真を見つめる。写真の中の己の親友は、監視されていることなど知らない無邪気な笑顔で、猫とじゃれついている。外界では高貴な令嬢として振る舞うローザリンデの素を知る者は、実に少ない。その少ない人物の一人であるツバサは、彼女の親友として、ローザリンデが素で過ごせるささやかな日常が、どれほど尊いモノかを知っていた。故に。
「……、礼儀作法がなっていないひとね…」
ツバサが、そう呟いたとき。
鞄に入ったままの、彼女のスマートフォンが通知を鳴らした。
通知画面の内容は、――『激しい雷雨を伴う雨雲が、お住まいの地域に近付いています。』
【第七章へ、続く…。】