第六章 ヴァルキュリア・マナーズ

【ヒルカリオ 某所 廃ビル内】

まだ高い位置にある夕陽の光がビル内に入り込む。明るい内に、ナオトは、アンジェリカの傷の消毒と、包帯の交換を終えたかった。アンジェリカがレオーネ隊の支援兵から、ランタンを奪い取ってはいるが。心許ない灯りの中で、外科的な医療行為は行いたくないのが、ナオトの本心だった。

包帯を巻き終えて、ナオトが使用済みの手袋の処理をする頃には。アンジェリカはいつものオーバーサイズのパーカーを羽織りながら、彼に向かって口を開く。

「ありがとう。さて、食事にしましょう。陽が高い内にシャワーを終えておくのが良いと言うのは、確かにそうね。暗い中に水場に行くのは危険だわ。さすがの進言ね、ナオトくん」
「恐縮です。それで、本日は食べればよろしいでしょうか?」
「缶詰と乾パンは日持ちするから、まだ置いておきたいわね。その、『水で作る炒飯』とやらにしましょうか。用意してくれる?」
「かしこまりました」

端から見れば、自分の患者に甲斐甲斐しく世話を焼く、慈愛の医者の図。だが、実態は、ルカのセキュリティーから脱獄している逃亡者と、彼女に拉致された人質である。此処は清潔な病院ではなく、ルカの包囲網を潜り抜ける唯一の拠点となるべき廃ビル。そして、十分な薬品はおろか食料も揃っておらず、そこは随時、アンジェリカが肩の怪我を押して、レオーネ隊の支援兵から奪い取ることで、何とか補填している。
だが、アンジェリカも、そしてナオトも、とうに理解していた。レオーネ隊の支援兵から物資を奪うことが成功しているのは、紛れもない、『ルカの意思そのもの』であると。
マトモな兵士が考えるならば、まず、人質の奪還を考えるのが妥当だ。だが、ルカは残念ながら、軍事兵器としての己を全うすることを第一としているので。彼がまず考えるのは、『ナオトの身の安全』である。ついでに補足するなら、それさえ保証されるのであれば、ナオトが多少過酷な状況に置かれようとも、ルカはゴーサインを出してしまう。そう、それが例え、レオーネ隊への襲撃に繋がろうとも。アンジェリカが襲った兵士が持っている食料を奪って、それでナオトを食い繋がせてくれるのであれば、―――それでナオトが生きていられるのであれば、ルカは「大丈夫」と判断する。
つまり、アンジェリカとナオトは、現時点で、『ルカに生かされている』のだ。そして、その自覚は、二人にも在る。

「口惜しい、とは言ってはいられないわ。ナオトくんを生かすためにも、そして、この母が再び顕現して、マム・システムの再始動≪Re;start≫をはかるためにも。今はルカの掌の上だとしても、野に付して待つべきなのよ。
 苦労を強いてしまうけれど、どうか今は我慢して頂戴。事が全て済めば、私のことは如何様に処罰する権利が、ナオトくんには与えられるべきなのだから」
「僕は医者ですから、誰かを傷つけるのではなく、常に誰かを救いたいと願っていますので。
 …詰まるところ。マム・システムの再始動≪Re;start≫とは、如何なるものだと考えれば良いのでしょうか?」

アンジェリカが炒飯と印字された袋へ、携帯水分を注ぎながら、ナオトとの会話を続ける。そんなアンジェリカは、このような過酷なサバイバルな状況下に於いても、思考を止めないナオトのことを、内心、高く再評価していた。これはいくら彼が医者だから、聡明だから、と言えど。それだけで片付けられるような一面ではない。やはり、ナオトの中には、その堅牢な精神が構築されるべきナニかが在る、と。アンジェリカは確信している。故に、彼女は、そんな彼だからこそ。自分の事情に少し足を踏み入れさせても良いと考えていた。
なので、マム・システムの再始動≪Re;start≫についての質問に、アンジェリカなりに誠意ある姿勢で、答えることにする。

「この地に在る、全ての母性への統制。
 簡単に言えば、間違った母性に鉄槌を下し、正しき道へ導くことへ、マム・システムは舵を切ると判断した、ということね」
「簡単に言い直されても、理解の及ばなかった浅学非才な僕を、どうぞお許しください」

アンジェリカの説明にピンと来なかったらしいナオトは、平素と変わらぬ穏やかな口調で詫びを入れた。が、それを聞いたアンジェリカは、意外そうな顔をした後、数秒間だけ考える素振りを見せる。どうやら自分の語彙と表現力では、彼の読解力と想像力には早すぎた、と思っているらしい。そう自然と考えてしまうのも、理由は一つ。アンジェリカは人間では無いからだ。人間の思考基準で考えて、モノを発信しなければ、理解に及んでくれないのだと。アンジェリカはこのとき、密かに学習した。そして、彼女は再び、口を開く。

「別に難しい話ではないわ。間違った母性を振りかざす存在に、「それは駄目」と突き付けるだけの話よ。しかし、母性というのは、母の数だけ存在する。私のマム・システムを以てしても、ある特定の母性にNOを突き付けることは、非常にデリケートな問題になってくる。故に、私は相手の同じ土俵に立って、相手と対等の立場を得て、そして全ての母性を統合したデータから計算され尽くした、一番最適解な言動を用いることを第一目標としているの」
「つまり、……アンジェリカさんは、マム・システムの基準値から外れた母性を持つ、特定の母親に鉄槌を下す、その下準備をしている真っ最中、だと?」
「説明が長くなるのは、私の悪い癖だわ。しかし、正しく理解してくれたようで、何よりよ」

無事に水で戻った炒飯を、備え付けのプラスチックのスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、アンジェリカは改めて、ナオトへ言葉のバトンを渡した。

「……さて、私の話は終わったわ。次は貴方の番よ?聞かせて頂戴。Room ELに、引いては此処に至るまでに、貴方は一体、どのような地獄を見てきたの?
 この母の秘めた想いを聞かせたのよ。それならば、貴方の心に秘めた傷跡も見せて頂戴。安心なさい。母は全てを受容する」
「……そうですね…。まあ、話の種くらいにしかなりませんが……」

ナオトは同じく、炒飯をかき混ぜつつ。左右で色の違う瞳に、一抹の憂いを乗せた。アンジェリカが手札を明かしたのであれば、彼もまた倣うべき。それは確かに、一種の礼儀とも言える。

「…、…僕が雪坂家から、軍用病棟へ出向を命じられたのは、もう十年も前になります。
 そこは、――――……この世の地獄かと見紛うものでした…」



【十年前 某国 某所】

此処は、某陸軍専用病院。つまり、軍用病棟。一ヶ月前、此処へ派遣された多国籍医療団『アシュヴィン』の顔ぶれに、二十二歳のナオトは居た。心療内科医として、傷付いた兵士の心のケアを行って欲しいという用命と。何より、ナオトは恩人である玄一が、このアシュヴィンの設立とバックアップを行っているという縁から、玄一より此度の派遣の命を受け入れたのだ。
ユキサカ製薬は玄一の代より、世界中の戦場医療の現場へ、自社の製薬を支援、または金銭的な出資を積極的に行っている。「戦争を助長している行為だ」、「兵士を生かせば、新たな争いが生まれるだけ」etc... 煩わしいバッシングは数多くあれど、玄一の信念は揺らがなかった。故に、ナオトは彼からの命を受け止めて、此処に居る。

―――…そこは、地獄であった。
一時間おきに、傷付いた兵士が半狂乱な精神状態で運ばれてくる。酷いときは、数分も待たずに、重症患者が波のように搬送されてきた。心療内科医だからと言ってはいられなかった。医者である以上、傷病に立ち向かう必要がある。ナオトは現場で外科的治療のルールを覚え、知識を叩き込んだその場で、傷の消毒や縫合などの処置を行っていった。痛みと戦いの興奮から精神に異常をきたし、意味不明なことを喚き散らかしたり、暴れようとする兵士には、鎮静剤を打つことを躊躇わなかった。…絶対に躊躇ってはいけないと、初日に先輩ドクターから厳しく叱咤されたのである。「躊躇ったら、お前が殺されるぞ。医者は生きてこそ、患者を生かすことが出来るんだ」と、ナオトに言ったその先輩ドクターは、数時間後、脚を負傷した兵士が暴れようとするのを抑え込もうとして、派手に殴り飛ばされていた。

地雷で左半身が吹き飛んだ者。敵軍の車輌に下半身を丸ごと轢き潰された者。塹壕戦に使用された火炎放射器で、全身に酷い火傷を負った者。頭を狙撃されたものの防護ヘルメットのおかげで一命は取り留めたが、重度の脳出血で昏睡状態になった者。悲惨な戦場に心を壊してしまった結果、幻覚症状を見て、常に泣き叫ぶ者。何もかもが嫌になり、無気力に陥って、食事や排泄すらも自主的に出来ない者。興奮状態になって暴れる余り、鎮静剤を打たれ過ぎてしまい、中毒症状が出た者。―――そして、それらの狭間で、次々と命を落としていった者。

このときのナオトは二十二歳とて、もう立派な医者に一人であった。だが、この有り様を毎日毎日、目の当たりにして。果たして今の自分が正常な精神状態か否かを、彼自身、判断することが出来なかった。ただただ、運ばれてくる兵士たちの傷に救急の手当てを施し、ときに呼ばれては、本来業務外である手術の補佐をして。その隙間に、希望する兵士たちのカウンセリングを行っていた。戦場で傷付いた兵士たちを治療する病院内では、医者による医者のための戦場が繰り広げられていたのである。

そして。医療行為以外にも、ナオトにとっては別の戦場が存在した。それは、入院中の兵士たちから向けられる好奇の視線。女性に見紛う美貌の持ち主であるナオトは、一部の性癖を持つ兵士たちから、性の対象としてロックオンされていた。だが、軍用病棟に運ばれていくる兵士たちは、明らかに自立歩行が出来ない重症者以外は、軍からの脱走を阻止するために、基本的にはベッドに拘束されている。なので、ナオトは、ねっとりとした厭らしい一部の視線をいなすことに集中し、それ以外は、医療行為へと注力した。

ナオトがカウンセリングを行う中、一際、異彩を放つ兵士が、一人だけ居た。東洋人の傭兵だということ以外、本人からも、国軍からも、一切、情報の無い青年。―――否、少年とも言える容姿の持ち主。他の医者と兵士たちの話によると、射撃の腕前はかなり良いらしいが。敵を殲滅し尽くすまで、または持っている弾倉を全て撃ち尽くすまで戦闘を止めないほどの、戦闘狂とのこと。事実、敵将の頭を撃ち抜いた数だけで言えば、彼に追随を許す者は、その段階では居なかった。
その証拠か、彼の鋭い眼は、何者の逃がしはしないとばかりに獰猛に光り続けては、カウンセリング中のナオトを常に射抜いている。しかし、ナオトが何を話しかけても、マトモに答えようとしない。黙秘の一点張りを主張する人間だった。
だが、この傭兵。この度、戦線を強制的に退くことが決まっている。それは、彼が眼に怪我を負ったから。聞こえは軽いが、要するに、彼の左眼が敵によって潰されたのだ。
潰された左眼の視力は、二度と戻らないだろう。それこそ、先進医療が発達した国で、喪った視力を補填してくれるような、強力な義眼でも入れない限り…。一縷の希望に縋って、ナオトは調べられる限り、調べ尽くしたが。その時点で、そのような未来的な義眼の開発が成功しているという情報は、何処にも無かった。
結局、左眼を喪った傭兵は。最期までナオトとマトモに会話をしないまま、戦場を後にしていった。―――病院の門を潜り去って行く、その背中が酷く小さく見えたのが。今のナオトには、何故か眼に焼き付いた光景の一つとなっている。


―――半年後。事実上の停戦協定が成立し、軍用病棟は徐々に店仕舞いの様相を見せていた。
家族のもとへ帰る者。施設生活へと移行する者。軍に留まり続ける決意をした者。中には、正式に軍を辞めた者同士で車団(コンボイ)を作り、世界中の戦争地を巡る、傭兵旅に出ようとする者たちも居た。
ナオトたち多国籍医療団・アシュヴィンのメンバーたちは、誉れ高い勲章を国軍から授かった後。国民と、元を含む兵士たちに笑顔で見送られながら、各々の故郷へと帰って行った。
だが、同士と共に笑顔で送られる中――、ナオトの胸に焼き付いていたのは。この病院という戦場で最期まで対話が出来なかった、あの若き傭兵の背中。そして、彼が背負っていた仄暗い沈黙だった。



【現代 ヒルカリオ 某所 廃ビル内】

ナオトは羽織っている白衣の懐を、捲って見せる。そこには、多国籍医療団『アシュヴィン』の、薄汚れたロゴワッペンと、あのとき軍より叙勲した、小さな勲章がついていた。彼の話が本物だという、何よりの証。

「所詮、一般人の僕が、その後の傭兵の足取りなど追えるはずもなく…。雪坂の旦那様にも、一度は相談しましたが、…当然、明確な答えが出るわけでもなく…。
 けれど、今でも時々、僕の眼の奥にチラつくんです。あの視線、あの背中、あの息遣い…。彼は何かを追い求めているような、それでいて、何かから逃げているようにも見えました。そう例えば、―――執念、とでも言うべき激情を、僕は唯一、彼から感じ取っていたと思います。
 …、僕が見た地獄と言うのは、以上になります。質問されても多くは答えられないとは思いますが…、何か気になることがあれば、どうぞ遠慮なく」

ナオトはそう締め括り、食べ終えた炒飯のゴミを片付け始める。一方で、まだ二匙分ほどの中身が残っているアンジェリカは、それをスプーンでこそげながら、彼へ問うた。

「その傭兵のことを、今でもそんなに気にしているのは、どうしてかしら?騒がしく、そして目まぐるしい環境と、少しの時間の中で、たった一度の対話すら成立しなかった人間のことを。貴方のような切り替えの早い子が、いつまでも引き摺っていることに、母は理解が出来ないわ」

無邪気で、且つ、無慈悲な問いかけである。しかし、これもまた、アンジェリカが人外の母性たらしめる故だった。だが、ナオトは何てことないと言った風に答える。

「むしろ、彼のことを何年も気に掛け続けているからこそ…、他の問題に対して、切り替えが早いとも言えましょう。とはいえ、これは自己分析に過ぎませんが…」
「なるほど。それで長年の間柄にあった雪坂家の令嬢のことも、すっぱりと切り捨てられたというわけね。この母に言わせれば、切り替えが早いというより、思い切りが良いと言えるわ。
 ひとの子の心は波が立ちやすい分、凪げば、その分、冷静にもなれると言えるでしょう。貴方の心は凪いでいる時間が長いだけ、かの傭兵のことを、今でも受け止め続けているのね。母は理解したわ。ありがとう。マム・システムにまた一つ、学習するべき項目が増えたわ。これは喜ばしい」

質問しても良いと言ったのはナオトであるが。それでもアンジェリカが、ナオトの過去のことを容赦なく分析していく様は、端から見れば、おぞましさがある。人間味が薄い、とでも言うべきか。過去に重たい光景を抱える男と、それを機械的に解釈して、自己学習へと繋げる人造の母。第三者が見ているとすれば、下手なホラー映画より、今の光景は、余程、恐怖に映ることだろう。人間の尊厳らしきものが、この場には全く存在していないのだから。

そうこうしているうちに、陽はすっかりと落ちてしまった。アンジェリカは、LEDランタンの電源を点ける。夜間の灯りは、これ一つで凌ぐ。廃ビルであるはずの此処に不自然な光源があると、外で警らをしているレオーネ隊が「異常」として検知するからだ。

ナオトの手によって、最低限の清潔が保たれている寝床に、アンジェリカが寝そべる。

「安心しなさい。ナオトくんを自由に出来る日も、近いわ。だから、今夜の暗闇も、この母と共に乗り越えましょう」
「…それは、マム・システムの再始動≪Re;start≫が近い、という宣告にも聞こえますが?」
「ええ、正解よ」
「…。」

アンジェリカの肯定に、ナオトは思わず押し黙る。このことをルカに知らせることが出来れば良いが、現時点で、その手段をナオトは持ち合わせていない。だが。
ルカならば、とっくの昔に予測しているだろう。とも信じられる。
少なくとも、文丘小学校でRoom ELが執り行った『クリーンアップ・ナイアガラ』で見せたアンジェリカの言動を、ルカが観測した結果。今の彼女の中のマム・システムが暴走していると確信した彼だ。「確信した」ということは、「それよりも前に、予測していた」と言うことを同意義。ルカに読めない先は無いならば、アンジェリカが近い日にマム・システムの再始動をすることを、ルカはまた予測済みだろう。

敷き詰めたボロボロの座布団の上に寝転んで、休息に入ったアンジェリカの、そのすぐ傍で。
ナオトは、控えめなLEDランタンの灯りの中に、―――…あの傭兵の沈黙した背中の幻影を、ふと、垣間見たのである。

「……対話すらさせてくれなかった、僕の心に、いつまでも憑りついて…。
 貴方が振りまいた何かへの激しい執着心は、…今でも僕の胸の内に、後悔に似た傷跡として、残っていますよ…?」

ナオトの独白は、既に寝息を立てているアンジェリカには、聞こえない。

―――…それは、過去の亡霊に焼き付けられた、激情のケロイド。



to be continued...
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