第六章 ヴァルキュリア・マナーズ
【リーグスティ邸】
平日の昼前だと言うのに、ミセス・リーグスティは珍しくトルバドール・セキュリティーに出勤していなかった。今朝一番に、執事長から受けた驚愕の報告に腰を抜かした彼女は、慌てて会社の役員に連絡を入れて、急遽、二日間の有給休暇を取得したのである。そうまでする必要のあった、驚くべき報告とは―――…
「なんてことを!!優那の家出を許したどころか!!連れて帰れなかったうえに!!あのROG. COMPANYに、優那の吸収されてしまうなんて!!」
怒髪天のミセス・リーグスティの手の中にあるモノ。それは、『優那・リーグスティの雇用通知書』である。ROG. COMPANYのロゴマークが入っているうえに、上質紙で印刷されている。優那がROG. COMPANYに雇われたことを通知するものであるが、レイジ曰く「労働者本人が未成年」ということを理由にして、保護者であるミセス・リーグスティに向けて、わざわざ、もう一通分を印刷してから。彼がリーグスティ邸に送付したものだ。おまけに、雇用通知書の署名は、社長のレイジのモノである『Reiji Maeiwada』に加えて。優那の上司にあたるのが音色だからと、『乙女樹音色』という達筆な字が。これは最早、レイジと音色がタッグを組んでいると宣言していると言っても、差し支えない内容だ。
「優那が未成年」という理由は、完全なる表向きなのは分かっている。だからこそ、ミセス・リーグスティは、顔を真っ赤にしていた。
「あの若社長め!!優那を丸め込んだことを!!この私にわざわざ見せ付けてきたのだわ!!許せない!!この屈辱、末代まで許すものかッッ!!」
―――完全なる、挑発行為。
年若き社長一年目であるレイジに、一本取られたことが。今のミセス・リーグスティのプライドを見事にへし折っている。
優那にこれからの未来を託していたミセス・リーグスティだからこそ、娘を敵陣の真っ只中であるROG. COMPANYに吸い取られたことは、断じて許されない分岐だった。優那の『回収』に向かわせた矢槻が、己を武闘派を名乗っていた割には、実際の現場ではレイジ一人に部下たちを制圧されたうえに、矢槻自身は真っ先に逃げたという報告も、彼女の導火線を短くする。
その矢槻はというと。怒り狂うミセス・リーグスティの前で、正座をさせれており、顔を真っ青にさせては、ぶるぶると全身を恐怖で震わせていた。
武闘派だと見栄を張ったのは認める。だが、レイジがあそこまで強いだなんて、彼は全く知らなかったのだ。社交界の裏側で手下を一人二人とけしかけたことはあるが、それも少人数だからこそ、レイジがいなしていたのだと思っていた。だが、違った。あの大人数相手にも、レイジは呼吸一つ乱さず、立ち回り。そのうえ、こちらの人員に怪我らしい怪我を負わせることもなく、あの場を制圧せしめたのだ。
あのときのレイジが、矢槻を真っ直ぐに射抜いた視線。――――震えあがるほど、冷たかった。
矢槻はそうミセス・リーグスティに釈明をした。だが、彼女の怒りを静めるための、要石にはならなかった。
「さて…、言い訳はあるかしら?矢槻坊ちゃま?
貴方が雪坂社長の甥っ子でなければ、さっさと粛清してるところでしてよ?お分かり?」
ミセス・リーグスティの声で、矢槻はハッと顔を上げる。そこには、怒りに燃え上がる彼女の眼。すると。
「お待ちください、リーグスティ社長。甥の不始末の責任は、私に取らせてください」
そこへ。割って入った声があった。ミセス・リーグスティと矢槻が振り向くと、事を静観していたミドルが、精緻な細工の杖を突いた状態ではあるが、しかとそこに立っている。
彼こそ、雪坂玄一(ゆきさか げんいち)。ユキサカ製薬の現社長にして、オーロラの魔女の主犯格だった綺子の実父。そして、矢槻の伯父だ。ナオトにとっては、恩人でもある。
ミセス・リーグスティは眼を眇めたが、玄一は粛々とはしつつも、委縮はしていなかった。その証拠に、ピンと背筋を伸ばしたまま、正座させられていた矢槻の肩を軽く叩いて、立ち上がらせる。
自分の許可なく勝手に矢槻を立たせたことに、眼を眇めるミセス・リーグスティだったが。彼女のトルバドール・セキュリティーより、玄一のユキサカ製薬の方が社史が上なので、とりあえずは、黙っておいた。怒りに身を震わせていたとしても、女社長としての体裁は、最低限でも保っていきたいのである。そう考えていたミセス・リーグスティが、無意識に下唇を嚙み締めたときだった。
「―――、誰だね?」
玄一が突然、そう言って。リビングルームの出口付近に鋭い視線を寄越す。杖を持っていない方の手が、懐の中に伸びていた。…が、そこに在るはずの護身用の拳銃は、ホルスターから引き抜かれることはなかった。何故なら、リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、顔面蒼白の輝、―――…と、彼のこめかみにユースティティアの銃口を突き付けて、背後から拘束している琉一の姿が、在ったから。
その光景に、リビング中に居た者たちが、震撼した。
「お、おかあ、さま…!た、た、すけて…!」
輝がやつれた顔で、眼に薄らと涙の跡を滲ませた状態で、母であるミセス・リーグスティに助けを請う。だが。
「否定します。既に説明した通り、貴方の母親は、既に貴方を見限っています。故に、自分と一緒に来るのが賢明と判断するべきです」
琉一の声が、輝の希望を一刀両断した。そして、琉一はミセス・リーグスティへと視線を投げて、口を開く。
「ミセス・リーグスティ、質問します。今の貴女にとって、ご子息は必要な存在ですか?もう不要だと仰るならば、この場で自分が貰っていきますが、よろしいでしょうか?」
琉一はそう言うや否や、輝のこめかみに今一度、銃口を当て直した。腕の拘束もキツくする。琉一の規格外のチカラに手首を締め上げられた輝が、苦悶の表情を浮かべた。…だが。
「あら、そう。そんな不出来で、未熟で、くちばしの黄色いお子ちゃまで良ければ、差し上げてもよろしくてよ?
むしろ、本土の精神病棟へ送る手間が省けたから、…まあ、不法侵入のことは多めに見てあげましょう。…今は、ね」
ミセス・リーグスティの決断は、恐ろしいまでに冷血だった。玄一と矢槻の顔に、僅かな驚きの表情が浮かぶ。彼女の返答を受けた琉一が続けた。
「否定します。ご子息は、こちらの界隈では未来を嘱望されるべき、立派な逸材。故に、貴女の傍で飼い殺しにされるなら、自分の手元で育て上げます。
続いて、貴宅に土足で踏み込んだことを、謝罪します。しかし、今回の不法侵入については、ルカ三級高等幹部は関係がないことを、自分から先んじて釈明させて頂きます」
琉一は、「謝罪」と「釈明」という単語を使う割には、その双眸から物騒な光が、一切、消えない。そして、沈黙を以て肯定としたミセス・リーグスティに向かって、再度、口を開く。
「覚えておいてください、ミセス・リーグスティ。
貴女が蒔いた因果の種は、必ず、銀の銃弾となって、貴女に裁きを下しに再臨します」
「突然の中二病?それとも、何かの呪文かしら?」
「否定します。ですが、最低限の忠告はしました。ご子息も、同意の上で頂いていきます。
くれぐれも、ご自身の重ねた罪の重さを、お忘れなきよう。それでは、御前を失礼します」
琉一はそこまで言い切ると、嫌がる素振りを見せる輝を、半ば引き摺るようにして連行して行った。その様子を、ミセス・リーグスティは、まるでペットの譲渡会でも見学しているかのような眼付きで眺めている。そして、玄一は信じられないと言った風に、彼女を見つめていたが。
「…輝くんの安否確認は、私めにお任せください。すぐに兵を手配し、拉致された先を割り出します。
では、矢槻を戦力に加えますので、彼共々、私はこれにて失礼致します」
玄一はそう言うと、矢槻を促してから。自身はミセス・リーグスティへ一礼を入れて、その場を後にした。
そして、残されたミセス・リーグスティはというと。
「はあ…。面倒事が増える一方だわ…。
お風呂を沸かしてちょうだい。冷えた炭酸水も用意して。それから、カットフルーツと、チョコレートも。
その後のランチは、海老のクリームを絡めた冷製パスタが良いわ。デザートは任せる。シェフに伝えておいて」
そう一気に自分の主張と指示を飛ばして。ミセス・リーグスティは、自分専用の猫足ソファーに、どかり、と座ったのである。
――――…。
【本土 某所】
目隠しに、耳栓までされて。輝は何処ぞと知れぬ郊外まで、連れて来られていた。外見は廃墟と見紛うような屋敷だが、内部はきちんと整備がされている。屋敷のすぐ裏手は、木々深き山だ。近くには大きな河川もある。
だが、輝の眼を白黒させているのは、そんな壮大なロケーションよりも、遥かに衝撃度の高い人物の登場だった。
琉一に目隠しを取られた輝の視界の、ど真ん中に映り込んだ人物。それは。
「どうだ?気に入ったか?気に入ったであろう!このような恵まれた地で、お前は存分に訓練が積めるのだからな!
なんだ?遠慮せずに笑え!そして、まずは食え!風呂にゆっくり浸かれ!それから、明日の朝陽が昇るまで、たっぷりと寝ろ!話はそれからだ!!」
そう言いながら、豪快に笑うのは。―――…乙女樹バルドラ(おとめぎ ばるどら)。サクラメンス・バンクの頭取であり、音色の実父だ。
一代で巨財を築き、投資銀行を起ち上げたという栄華は語り草であるが。その実態は、バルドラが凄腕の傭兵であった、という過去に帰結する。フランス海軍で兵士として教育を受けた彼は、基盤が出来上がると当時に、たった数年で海軍を退役。それから、傭兵として、世界各地の戦場を渡り歩く。そして、行く先々で、派手な戦績を残していった。
その証拠とも言えるのが、バルドラは禍々しい蜘蛛のシルバー細工が入った革製の眼帯で右目を覆っていること。曰く、「唯一、儂を打ち負かした男が居る。傷跡をそのままにしているのは、その男への経緯だ」、と。そして、筋骨隆々とした体躯は、実に勇ましい。何より、スーツを派手に着崩していることで、はだけた胸元から見える浅黒い肌に入った大小数多の古傷が、彼の此処までの武勲を、雄弁に語る。
そのバルドラを前にして、輝は、肉料理を中心にした、出来立ての温かい料理を並べられて。―――非常に困惑していた。
「え、えと…」
輝が戸惑いの呟きを零していると、グラスにミネラルウォーターを注ぎに来た琉一が、諭すように彼へと話しかける。
「肯定します。バルドラ頭取の言う通りです。今は、食欲が沸くままに、心行くまで料理を召し上がってください。それとも、こちらの洋食仕立てでは、お口に合いませんか?」
「そ、そんなことは…。あの、俺は、お母様を脅すために拉致されてきたんじゃ…?」
「否定します。この程度で脅しになる相手ならば、最初から苦労していません。ご子息に於きましては、ミセス・リーグスティに抗うべき立派な戦士になって貰うために、此処までお越し頂いたのです」
「…戦士?俺を、お母様と戦わせる…?」
琉一の言葉に、輝は疑念を飛ばした。だが、そのとき。バルドラの豪快な笑い声が聞こえる。驚いてそちらを向くと、バルドラは自分の分の料理に手を付け始めながら、輝に鋭い視線を寄越した。その右手に持ったフォークが、厚切りのハムステーキに、突き刺さる。
「堅苦しい前置きは良い!!まずは食え!!腹を満たせ!!自分を蔑ろに母親に一矢報いたいならならば、尚更よ!!
では、儂は先に食べるぞ!!小童、お前も続け!!一人の食卓は寂しかろうて、この儂が席に着いたもだからな!!では、いただきます!!」
バルドラはそう言うと、厚切りハムステーキに、がぶり!、と噛み付いた。品の無い行為に、輝は嫌悪感を覚えそうになったが。しかし、良く考えると、美味しそうな料理の匂いが、食欲を刺激してくるではないか。そういえば、最近は。情緒不安定に陥る余り、食事を美味しいと思いながら、食べたことが無かった。
ごくり…、と喉を鳴らしながら、輝は自分の前に置かれたハンバーグにナイフを入れる。一切れ分を切り分けて、フォークで口に運んだ。
すると。肉汁溢れる旨味と、濃厚なデミグラスソースが、輝の本能を刺激する。―――食べたい…!もっと食べたい!そうだ!俺は生きるんだ!!
途端。輝は作法も何もかも忘れて、ガツガツと眼の前の料理を食べ始めた。ハンバーグはあっという間に消えて、次のトンカツへと手を伸ばす。そして、サラダで一旦、お口直しをしてから、白身魚のカルパッチョを掻き込んだ。「お水もどうぞ」と、促してくれた琉一の厚意に甘えて、輝はグラス一杯に注がれたミネラルウォーターを一気に飲み干した。喉の渇きを覚えていたことも、忘れていた。そして、輝は料理を食べながら(お母様の前では…、こんな風に美味しいと思ったことはなかった…)と思っていた。何故だろう?赤の他人、しかも、自分を拉致した犯人を前したご飯の方が、こんなにも美味しいだなんて…。
気が付いたら、輝の眼からは、涙が零れていた。うぐ、ひぐ、と泣きながらも。料理を食べる手を止まらない。母に捨てられた現実とようやく向き合った少年は、哀しみに暮れながらも。この料理を食べ終えた先に、希望があるのだと縋りたかった。すると。
「おお、おお。良い食べっぷりではないですか。さすが、若いですなあ」
「これから訓練が始まれば、もっと食べるでしょう。これは腕が鳴りますよ、伯父様」
部屋に入ってきた二人分の人影が、そう会話しながら、バルドラの近くへと歩いて行った。その姿を見とめた輝は、ギョッとする。―――玄一と、矢槻ではないか…!?何故?彼らは、ミセス・リーグスティ側に居る戦力のはずでは…。
すると。輝の心中などお見通しとばかりに、ははは、と玄一は笑ってから、説明を始めた。
「苛烈な女社長に黙って従うような、小さな器では無いつもりですよ。この雪坂玄一、ユキサカ製薬百七年の歴史を背負う男です。それに、私の甥っ子とて、ただの傾奇者ではございません」
玄一がそう言うと、隣の矢槻は、やれやれ、とでも言いたげな風に、肩を竦めた。
「傾奇者で結構ですよ、伯父様。どのみち、ぼくはユキサカ製薬の社長に座るつもりはありませんし。再起不能になった綺子の代わりは、御免ですからね」
紫色の紅を塗った、矢槻の唇から溜め息と共に、愚痴っぽい言葉が漏れ出る。それを聞いた玄一は、大袈裟に驚く仕草を見せつつも、微笑みを絶やさずに、甥に構い続けた。
「おやおや、とても冷たいことを言うものだ。それとも、それも得意の演技かい?」
「俳優としてのぼくは、『優那嬢の捕り物劇場』で十分に披露させて頂きました。この子の前では、もう必要ないでしょう」
矢槻の態度、口調、仕草はどれを取っても、レイジと対峙したときとは、百八十度、違うものだ。まるで、別人。否、矢槻は『俳優としてのぼく』と言った。つまり、それは。
「ぼくの演技も、なかなかのものだろう?ミセス・リーグスティは、今や、すっかりぼくを、『女を人形扱いする変態男』、『レイジ一人に手間取る腰抜け』と認識してくれている。社交界の皆と同じように…。ね?」
矢槻は、輝に向かってそう言うと、いたずらっ子のように、軽くウインクしてみせる。
そう。矢槻は演技をしていたのだ。否、ずっと、演技をしている。社交界で『変態男』、『伯父に尻拭いをしてもらってばかりのボンクラ』と認識して貰うために、彼はずっと周囲の信頼の置ける友人と手を組んでは、定期的に騒動を起こすフリをして、ダメ男のイメージを保ち続けているのだ。その目的はただ一つ。ユキサカ製薬の社長になりたくない。その一心である。
すると。ハムステーキの三枚目を食べ終えたバルドラが、口を開く。
「役者が揃ったか。
輝よ。儂を含む、彼奴らは全て、お前を戦士として訓練するために用意した、謂わば、お前のための切り札。
明日の朝陽が昇ってから、お前を『ミセス・リーグスティに反抗するための戦士』として、儂らがきっちりと鍛える。
安心するが良い。命は取らん。それに、弱音だって吐いて良いぞ。弱い言葉は罪では無い。それを引き摺って、いつまでも前に進まないことが、罪なのだ。
母親の呪縛から解き放たれ、過去を断ち切り、新しい自分を戦士として昇華させるのだ、輝」
「…呪縛から解き放たれ…、…新しい、自分…、昇華…」
「では、まずは食事を進めるとしよう。輝よ、玄一と矢槻のことは、追々と説明する。まずは、食事を済ませるが良い」
「あ…、は、はい…!」
バルドラの言葉にハッとした輝は、止めていたフォークを動かし始めた。腹の虫はまだ喚いており、本能も食事を寄越せと唸っている。輝は、食べ続けた。
(生きる。まずは生きる。過去を断ち切る。―――そして、新しい自分へ…!)
輝はその言葉を胸中で反芻しながら、眼の前の料理に手を伸ばし続ける。
ミセス・リーグスティの傍に居たときには感じたことの無い、瑞々しい生気が、彼は己の中に湧いて出るのが分かった。
to be continued...
平日の昼前だと言うのに、ミセス・リーグスティは珍しくトルバドール・セキュリティーに出勤していなかった。今朝一番に、執事長から受けた驚愕の報告に腰を抜かした彼女は、慌てて会社の役員に連絡を入れて、急遽、二日間の有給休暇を取得したのである。そうまでする必要のあった、驚くべき報告とは―――…
「なんてことを!!優那の家出を許したどころか!!連れて帰れなかったうえに!!あのROG. COMPANYに、優那の吸収されてしまうなんて!!」
怒髪天のミセス・リーグスティの手の中にあるモノ。それは、『優那・リーグスティの雇用通知書』である。ROG. COMPANYのロゴマークが入っているうえに、上質紙で印刷されている。優那がROG. COMPANYに雇われたことを通知するものであるが、レイジ曰く「労働者本人が未成年」ということを理由にして、保護者であるミセス・リーグスティに向けて、わざわざ、もう一通分を印刷してから。彼がリーグスティ邸に送付したものだ。おまけに、雇用通知書の署名は、社長のレイジのモノである『Reiji Maeiwada』に加えて。優那の上司にあたるのが音色だからと、『乙女樹音色』という達筆な字が。これは最早、レイジと音色がタッグを組んでいると宣言していると言っても、差し支えない内容だ。
「優那が未成年」という理由は、完全なる表向きなのは分かっている。だからこそ、ミセス・リーグスティは、顔を真っ赤にしていた。
「あの若社長め!!優那を丸め込んだことを!!この私にわざわざ見せ付けてきたのだわ!!許せない!!この屈辱、末代まで許すものかッッ!!」
―――完全なる、挑発行為。
年若き社長一年目であるレイジに、一本取られたことが。今のミセス・リーグスティのプライドを見事にへし折っている。
優那にこれからの未来を託していたミセス・リーグスティだからこそ、娘を敵陣の真っ只中であるROG. COMPANYに吸い取られたことは、断じて許されない分岐だった。優那の『回収』に向かわせた矢槻が、己を武闘派を名乗っていた割には、実際の現場ではレイジ一人に部下たちを制圧されたうえに、矢槻自身は真っ先に逃げたという報告も、彼女の導火線を短くする。
その矢槻はというと。怒り狂うミセス・リーグスティの前で、正座をさせれており、顔を真っ青にさせては、ぶるぶると全身を恐怖で震わせていた。
武闘派だと見栄を張ったのは認める。だが、レイジがあそこまで強いだなんて、彼は全く知らなかったのだ。社交界の裏側で手下を一人二人とけしかけたことはあるが、それも少人数だからこそ、レイジがいなしていたのだと思っていた。だが、違った。あの大人数相手にも、レイジは呼吸一つ乱さず、立ち回り。そのうえ、こちらの人員に怪我らしい怪我を負わせることもなく、あの場を制圧せしめたのだ。
あのときのレイジが、矢槻を真っ直ぐに射抜いた視線。――――震えあがるほど、冷たかった。
矢槻はそうミセス・リーグスティに釈明をした。だが、彼女の怒りを静めるための、要石にはならなかった。
「さて…、言い訳はあるかしら?矢槻坊ちゃま?
貴方が雪坂社長の甥っ子でなければ、さっさと粛清してるところでしてよ?お分かり?」
ミセス・リーグスティの声で、矢槻はハッと顔を上げる。そこには、怒りに燃え上がる彼女の眼。すると。
「お待ちください、リーグスティ社長。甥の不始末の責任は、私に取らせてください」
そこへ。割って入った声があった。ミセス・リーグスティと矢槻が振り向くと、事を静観していたミドルが、精緻な細工の杖を突いた状態ではあるが、しかとそこに立っている。
彼こそ、雪坂玄一(ゆきさか げんいち)。ユキサカ製薬の現社長にして、オーロラの魔女の主犯格だった綺子の実父。そして、矢槻の伯父だ。ナオトにとっては、恩人でもある。
ミセス・リーグスティは眼を眇めたが、玄一は粛々とはしつつも、委縮はしていなかった。その証拠に、ピンと背筋を伸ばしたまま、正座させられていた矢槻の肩を軽く叩いて、立ち上がらせる。
自分の許可なく勝手に矢槻を立たせたことに、眼を眇めるミセス・リーグスティだったが。彼女のトルバドール・セキュリティーより、玄一のユキサカ製薬の方が社史が上なので、とりあえずは、黙っておいた。怒りに身を震わせていたとしても、女社長としての体裁は、最低限でも保っていきたいのである。そう考えていたミセス・リーグスティが、無意識に下唇を嚙み締めたときだった。
「―――、誰だね?」
玄一が突然、そう言って。リビングルームの出口付近に鋭い視線を寄越す。杖を持っていない方の手が、懐の中に伸びていた。…が、そこに在るはずの護身用の拳銃は、ホルスターから引き抜かれることはなかった。何故なら、リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、顔面蒼白の輝、―――…と、彼のこめかみにユースティティアの銃口を突き付けて、背後から拘束している琉一の姿が、在ったから。
その光景に、リビング中に居た者たちが、震撼した。
「お、おかあ、さま…!た、た、すけて…!」
輝がやつれた顔で、眼に薄らと涙の跡を滲ませた状態で、母であるミセス・リーグスティに助けを請う。だが。
「否定します。既に説明した通り、貴方の母親は、既に貴方を見限っています。故に、自分と一緒に来るのが賢明と判断するべきです」
琉一の声が、輝の希望を一刀両断した。そして、琉一はミセス・リーグスティへと視線を投げて、口を開く。
「ミセス・リーグスティ、質問します。今の貴女にとって、ご子息は必要な存在ですか?もう不要だと仰るならば、この場で自分が貰っていきますが、よろしいでしょうか?」
琉一はそう言うや否や、輝のこめかみに今一度、銃口を当て直した。腕の拘束もキツくする。琉一の規格外のチカラに手首を締め上げられた輝が、苦悶の表情を浮かべた。…だが。
「あら、そう。そんな不出来で、未熟で、くちばしの黄色いお子ちゃまで良ければ、差し上げてもよろしくてよ?
むしろ、本土の精神病棟へ送る手間が省けたから、…まあ、不法侵入のことは多めに見てあげましょう。…今は、ね」
ミセス・リーグスティの決断は、恐ろしいまでに冷血だった。玄一と矢槻の顔に、僅かな驚きの表情が浮かぶ。彼女の返答を受けた琉一が続けた。
「否定します。ご子息は、こちらの界隈では未来を嘱望されるべき、立派な逸材。故に、貴女の傍で飼い殺しにされるなら、自分の手元で育て上げます。
続いて、貴宅に土足で踏み込んだことを、謝罪します。しかし、今回の不法侵入については、ルカ三級高等幹部は関係がないことを、自分から先んじて釈明させて頂きます」
琉一は、「謝罪」と「釈明」という単語を使う割には、その双眸から物騒な光が、一切、消えない。そして、沈黙を以て肯定としたミセス・リーグスティに向かって、再度、口を開く。
「覚えておいてください、ミセス・リーグスティ。
貴女が蒔いた因果の種は、必ず、銀の銃弾となって、貴女に裁きを下しに再臨します」
「突然の中二病?それとも、何かの呪文かしら?」
「否定します。ですが、最低限の忠告はしました。ご子息も、同意の上で頂いていきます。
くれぐれも、ご自身の重ねた罪の重さを、お忘れなきよう。それでは、御前を失礼します」
琉一はそこまで言い切ると、嫌がる素振りを見せる輝を、半ば引き摺るようにして連行して行った。その様子を、ミセス・リーグスティは、まるでペットの譲渡会でも見学しているかのような眼付きで眺めている。そして、玄一は信じられないと言った風に、彼女を見つめていたが。
「…輝くんの安否確認は、私めにお任せください。すぐに兵を手配し、拉致された先を割り出します。
では、矢槻を戦力に加えますので、彼共々、私はこれにて失礼致します」
玄一はそう言うと、矢槻を促してから。自身はミセス・リーグスティへ一礼を入れて、その場を後にした。
そして、残されたミセス・リーグスティはというと。
「はあ…。面倒事が増える一方だわ…。
お風呂を沸かしてちょうだい。冷えた炭酸水も用意して。それから、カットフルーツと、チョコレートも。
その後のランチは、海老のクリームを絡めた冷製パスタが良いわ。デザートは任せる。シェフに伝えておいて」
そう一気に自分の主張と指示を飛ばして。ミセス・リーグスティは、自分専用の猫足ソファーに、どかり、と座ったのである。
――――…。
【本土 某所】
目隠しに、耳栓までされて。輝は何処ぞと知れぬ郊外まで、連れて来られていた。外見は廃墟と見紛うような屋敷だが、内部はきちんと整備がされている。屋敷のすぐ裏手は、木々深き山だ。近くには大きな河川もある。
だが、輝の眼を白黒させているのは、そんな壮大なロケーションよりも、遥かに衝撃度の高い人物の登場だった。
琉一に目隠しを取られた輝の視界の、ど真ん中に映り込んだ人物。それは。
「どうだ?気に入ったか?気に入ったであろう!このような恵まれた地で、お前は存分に訓練が積めるのだからな!
なんだ?遠慮せずに笑え!そして、まずは食え!風呂にゆっくり浸かれ!それから、明日の朝陽が昇るまで、たっぷりと寝ろ!話はそれからだ!!」
そう言いながら、豪快に笑うのは。―――…乙女樹バルドラ(おとめぎ ばるどら)。サクラメンス・バンクの頭取であり、音色の実父だ。
一代で巨財を築き、投資銀行を起ち上げたという栄華は語り草であるが。その実態は、バルドラが凄腕の傭兵であった、という過去に帰結する。フランス海軍で兵士として教育を受けた彼は、基盤が出来上がると当時に、たった数年で海軍を退役。それから、傭兵として、世界各地の戦場を渡り歩く。そして、行く先々で、派手な戦績を残していった。
その証拠とも言えるのが、バルドラは禍々しい蜘蛛のシルバー細工が入った革製の眼帯で右目を覆っていること。曰く、「唯一、儂を打ち負かした男が居る。傷跡をそのままにしているのは、その男への経緯だ」、と。そして、筋骨隆々とした体躯は、実に勇ましい。何より、スーツを派手に着崩していることで、はだけた胸元から見える浅黒い肌に入った大小数多の古傷が、彼の此処までの武勲を、雄弁に語る。
そのバルドラを前にして、輝は、肉料理を中心にした、出来立ての温かい料理を並べられて。―――非常に困惑していた。
「え、えと…」
輝が戸惑いの呟きを零していると、グラスにミネラルウォーターを注ぎに来た琉一が、諭すように彼へと話しかける。
「肯定します。バルドラ頭取の言う通りです。今は、食欲が沸くままに、心行くまで料理を召し上がってください。それとも、こちらの洋食仕立てでは、お口に合いませんか?」
「そ、そんなことは…。あの、俺は、お母様を脅すために拉致されてきたんじゃ…?」
「否定します。この程度で脅しになる相手ならば、最初から苦労していません。ご子息に於きましては、ミセス・リーグスティに抗うべき立派な戦士になって貰うために、此処までお越し頂いたのです」
「…戦士?俺を、お母様と戦わせる…?」
琉一の言葉に、輝は疑念を飛ばした。だが、そのとき。バルドラの豪快な笑い声が聞こえる。驚いてそちらを向くと、バルドラは自分の分の料理に手を付け始めながら、輝に鋭い視線を寄越した。その右手に持ったフォークが、厚切りのハムステーキに、突き刺さる。
「堅苦しい前置きは良い!!まずは食え!!腹を満たせ!!自分を蔑ろに母親に一矢報いたいならならば、尚更よ!!
では、儂は先に食べるぞ!!小童、お前も続け!!一人の食卓は寂しかろうて、この儂が席に着いたもだからな!!では、いただきます!!」
バルドラはそう言うと、厚切りハムステーキに、がぶり!、と噛み付いた。品の無い行為に、輝は嫌悪感を覚えそうになったが。しかし、良く考えると、美味しそうな料理の匂いが、食欲を刺激してくるではないか。そういえば、最近は。情緒不安定に陥る余り、食事を美味しいと思いながら、食べたことが無かった。
ごくり…、と喉を鳴らしながら、輝は自分の前に置かれたハンバーグにナイフを入れる。一切れ分を切り分けて、フォークで口に運んだ。
すると。肉汁溢れる旨味と、濃厚なデミグラスソースが、輝の本能を刺激する。―――食べたい…!もっと食べたい!そうだ!俺は生きるんだ!!
途端。輝は作法も何もかも忘れて、ガツガツと眼の前の料理を食べ始めた。ハンバーグはあっという間に消えて、次のトンカツへと手を伸ばす。そして、サラダで一旦、お口直しをしてから、白身魚のカルパッチョを掻き込んだ。「お水もどうぞ」と、促してくれた琉一の厚意に甘えて、輝はグラス一杯に注がれたミネラルウォーターを一気に飲み干した。喉の渇きを覚えていたことも、忘れていた。そして、輝は料理を食べながら(お母様の前では…、こんな風に美味しいと思ったことはなかった…)と思っていた。何故だろう?赤の他人、しかも、自分を拉致した犯人を前したご飯の方が、こんなにも美味しいだなんて…。
気が付いたら、輝の眼からは、涙が零れていた。うぐ、ひぐ、と泣きながらも。料理を食べる手を止まらない。母に捨てられた現実とようやく向き合った少年は、哀しみに暮れながらも。この料理を食べ終えた先に、希望があるのだと縋りたかった。すると。
「おお、おお。良い食べっぷりではないですか。さすが、若いですなあ」
「これから訓練が始まれば、もっと食べるでしょう。これは腕が鳴りますよ、伯父様」
部屋に入ってきた二人分の人影が、そう会話しながら、バルドラの近くへと歩いて行った。その姿を見とめた輝は、ギョッとする。―――玄一と、矢槻ではないか…!?何故?彼らは、ミセス・リーグスティ側に居る戦力のはずでは…。
すると。輝の心中などお見通しとばかりに、ははは、と玄一は笑ってから、説明を始めた。
「苛烈な女社長に黙って従うような、小さな器では無いつもりですよ。この雪坂玄一、ユキサカ製薬百七年の歴史を背負う男です。それに、私の甥っ子とて、ただの傾奇者ではございません」
玄一がそう言うと、隣の矢槻は、やれやれ、とでも言いたげな風に、肩を竦めた。
「傾奇者で結構ですよ、伯父様。どのみち、ぼくはユキサカ製薬の社長に座るつもりはありませんし。再起不能になった綺子の代わりは、御免ですからね」
紫色の紅を塗った、矢槻の唇から溜め息と共に、愚痴っぽい言葉が漏れ出る。それを聞いた玄一は、大袈裟に驚く仕草を見せつつも、微笑みを絶やさずに、甥に構い続けた。
「おやおや、とても冷たいことを言うものだ。それとも、それも得意の演技かい?」
「俳優としてのぼくは、『優那嬢の捕り物劇場』で十分に披露させて頂きました。この子の前では、もう必要ないでしょう」
矢槻の態度、口調、仕草はどれを取っても、レイジと対峙したときとは、百八十度、違うものだ。まるで、別人。否、矢槻は『俳優としてのぼく』と言った。つまり、それは。
「ぼくの演技も、なかなかのものだろう?ミセス・リーグスティは、今や、すっかりぼくを、『女を人形扱いする変態男』、『レイジ一人に手間取る腰抜け』と認識してくれている。社交界の皆と同じように…。ね?」
矢槻は、輝に向かってそう言うと、いたずらっ子のように、軽くウインクしてみせる。
そう。矢槻は演技をしていたのだ。否、ずっと、演技をしている。社交界で『変態男』、『伯父に尻拭いをしてもらってばかりのボンクラ』と認識して貰うために、彼はずっと周囲の信頼の置ける友人と手を組んでは、定期的に騒動を起こすフリをして、ダメ男のイメージを保ち続けているのだ。その目的はただ一つ。ユキサカ製薬の社長になりたくない。その一心である。
すると。ハムステーキの三枚目を食べ終えたバルドラが、口を開く。
「役者が揃ったか。
輝よ。儂を含む、彼奴らは全て、お前を戦士として訓練するために用意した、謂わば、お前のための切り札。
明日の朝陽が昇ってから、お前を『ミセス・リーグスティに反抗するための戦士』として、儂らがきっちりと鍛える。
安心するが良い。命は取らん。それに、弱音だって吐いて良いぞ。弱い言葉は罪では無い。それを引き摺って、いつまでも前に進まないことが、罪なのだ。
母親の呪縛から解き放たれ、過去を断ち切り、新しい自分を戦士として昇華させるのだ、輝」
「…呪縛から解き放たれ…、…新しい、自分…、昇華…」
「では、まずは食事を進めるとしよう。輝よ、玄一と矢槻のことは、追々と説明する。まずは、食事を済ませるが良い」
「あ…、は、はい…!」
バルドラの言葉にハッとした輝は、止めていたフォークを動かし始めた。腹の虫はまだ喚いており、本能も食事を寄越せと唸っている。輝は、食べ続けた。
(生きる。まずは生きる。過去を断ち切る。―――そして、新しい自分へ…!)
輝はその言葉を胸中で反芻しながら、眼の前の料理に手を伸ばし続ける。
ミセス・リーグスティの傍に居たときには感じたことの無い、瑞々しい生気が、彼は己の中に湧いて出るのが分かった。
to be continued...