第六章 ヴァルキュリア・マナーズ
【Room EL】
アンジェリカが、隔離エリアから脱獄した。現在、逃走中。ルカの宇宙衛星・ヴィアンカにも追跡・発見が叶わない。
その報告を受けたルカは、「あ、そう」とだけ溢した後。手元に届けられた報告書や、アンジェリカの逃走経路の予測などを集めた資料を斜め読みしつつ、口元はぺらぺらと滑り続ける。
「ヴィアンカの設置を、母さんに手伝って貰ったのが失敗だったね。あそこの段階で、ヴィアンカの情報を盗んでいたワケだ。今頃きっと、ヴィアンカの軌道を読みながら、その間を縫うように移動、活動しているハズ。手癖が悪いんだから~、もう~。
あと、状況から察するに、切断させていたはずの機械義足の神経ケーブルは、きっと自然治癒したんだね。元々が人間なんだから、時間が経過すれば怪我が治るのは、まあ、当たり前か。
うーん。オレにしては珍しく、完全に後手に回っちゃったなあ。…ま、いっか。たまにはそういうのも、悪くないよねえ」
思わぬ事態に直面しても、ルカは相変わらず、正解しか言わない。そして、不意に、アンジェリカ脱獄の報告をしていたソラの背後に、視線を移した。ソラもつられて、振り向くと。Room ELの出入り口のインターホンが鳴った。琉一は未だ出勤してきていない。そもそも、彼ならインターホンを鳴らすことはない。ツバサが対応に行くと。
「兄貴が!!兄貴が!!あの義足の女子に拉致られたんだ!!るかっちのママを名乗ってた、あの女子に!!」
鞠絵のヒステリックな喚き声が響いてきた。その内容は、穏やかなモノではない。ソラは思わず、出迎えに走った。
「鞠絵、まずは事情を聞かせてくれないか?」
ソラはそう言いながら、呼吸の荒い鞠絵を宥めるかのように背中をさするツバサと目配せをしあって、鞠絵を応接用のソファーへと誘導して、座らせる。ルカはすぐさま、その対面に来て、口を開いた。
「オレの母さんが―――…アンジェリカが、キミの前でナオトを誘拐したってコトかな?」
「そう!そうなの!!ウチにしか見えない位置から、兄貴にナイフを突き付けて!!兄貴ことは腕を拘束して!!「今の私には、貴女のお兄さんが必要なの。余計な怪我人を増やしたくないなら、大人しくこの場を去りなさい」って!!
で、ウチが頷いたら、アンジェリカ、そのまま、兄貴をその辺の脇道に引き込んで…!!もう、ウチ、このこと、るかっちに言うしかないって、必死に此処まで…!!」
ルカの問いに、鞠絵は半ば叫ぶかのように答える。だが、感情的になってはいるものの、その返答の内容は的確だった。さすが、生まれてきた腹が違うとはいえ、あのナオトの妹である。そのうえ、現時点でアルバイトとして社長室に雇われている、その評価の高さも伺えた。
ツバサが差し出したティッシュペーパーで、涙を拭っている鞠絵を見ながら、ルカは「えーとね」と考えを巡らせた後。瞬時に、答えを口にする。
「ナオトを連れ去ったのは、医療従事者としての彼が目的だったのか、あるいは、単に非武装勢力である人間を選びたかったのか…。どっちにせよ、レオーネ隊を出してから陽動をかけてみないと、分からないね。
それにしても、オレの絶対領域(ヒルカリオ)内で、オレの身内に手を出すだなんて―――…、…母さんってば、そんなにオレが怒った姿が見たいのかなあ?」
ルカの軽い口調で、そう言ったとき。―――確かに、室内に。ぞくり、とした寒気が走った。
監視下に置かれているとはいえ、このヒルカリオは、謂わばルカのお膝元。その中を盗み出していた衛星の経路を利用して、包囲網を搔い潜り、あまつさえ、武力的に抵抗の出来ないナオトを拉致した。彼の妹の前で。―――鞠絵からすれば、ジョウが過去に仕出かしたことの再来だ。あのときは、鞠絵が彫刻刀を振り回して、ナオトを守ろうとした結果。自分も兄と一緒に誘拐される羽目になったが。結局、それが今の彼女の立場を得るきっかけには転じたものの。今回は、敵に本物の刃物を出されてしまい、ナオトは無抵抗にならざるを得ないまま、アンジェリカに攫われるという事態。鞠絵は本当に必死になって此処まで走り切ったのだろう。美容意識の高い彼女が、滅茶苦茶に走ったせいで、ぼさぼさになった髪の毛も。涙を垂れ流し続けて、落ちてしまったメイクも。今は全く気に留めていない。ただただ、ルカに縋りたい、兄を助けて欲しい一心のまま。ルカを見上げるだけだ。例え、その男が、史上最強の軍事兵器で、特定の人間に悪意を向けられ続けているが故に。自身もまた人間に対して少なからず、その存在意義を提起したいと思っているとか、そんなことを考えていたりしても―――…。
【ヒルカリオ某所】
ナオトは慎重な手付きで、深い傷跡の縫合を行っていた。そこは、何処ぞの廃ビルの中で、清潔も衛生も、何もあったもんではないが。最低限の消毒液と道具が揃っていたことだけは、感謝したい。どうやらアンジェリカは着の身着のまま、隔離エリアから脱獄したわけではなく。持てるだけの医療用具と食料を持ち出していたようだ。その証拠に、今、ナオトがアンジェリカの処置をしている一室の隅には、缶詰食料の空や、携帯水分のパウチのゴミが、寄せて集められている。そして何より、アンジェリカが持ち出した医療用具があるからこそ、彼女の肩口から背中にかけての、深い切り傷の消毒と縫合を行えているのだ。
ナオトは神経内科の医者であるが、その明晰な頭脳と、貪欲な知識欲故に。他部門の医療知識も持ち合わせている。実際に行使するか否かは、別として。しかし、だからこそ、アンジェリカに目を付けられたのだ。
脱獄の際に、阻止してきたレオーネ隊の片手剣で、派手に傷つけられたアンジェリカは。手負いながらもからがらに逃げ出した後、ヴィアンカの包囲網を潜れる唯一の拠点が、この廃ビルだと割り出して。それから、一日半ほど伏して。―――通勤途中の鈴ヶ原兄妹を襲った。鞠絵に用は無い。むしろ、ナオトを拉致したことを、ルカに知らせて貰う必要があったので。アンジェリカは最初から、鞠絵のことは見逃すつもりだった。
縫合を終えたナオトが、血塗れになった手袋を脱ぎ捨てて。それから、アンジェリカの傷へと包帯を巻きつけ始める。
「終わりました。…何かの念仏と思われても仕方がありませんが…、せめて表面だけでも傷が塞がるまで、安静になさってください」
「ええ、そのつもりよ。でも、この傷を縫って欲しいだけで、貴方を誘拐してきたのではないわ」
「まあ、そうでしょうね。…命さえあれば、僕の手足ぐらいはどうなっても構いませんが…。出来れば、最期の瞬間が来るとすれば、そのときは、最推しに逢いたいものです」
美貌の医者と、母性の顕現。本来なら、仕事以外で交わることが無かったであろう二人の会話が、静かに続く。
「安心なさい。この母の懐に居させる以上、死なせはしないし、怪我もさせないわ。ただ、穏便に協力してくれれば良いの。
鞠絵ちゃんを逃したのは、彼女からナオトくん誘拐の報せを聞いたルカが放つレオーネ隊が、警らを始めるのを狙っているから…」
「なるほど…。僕を囮にして、レオーネ隊から、武器か通信機器でも鹵獲でもするおつもりですか?」
ナオトが使用済みの手袋や、ガーゼなどを処分するために視線を泳がせていると、アンジェリカが適当なビニール袋を差し出してきながら、彼との会話を続ける。
「良い勘しているわ。医者というたった一つの型に嵌めておくのは、実に勿体ない。
でも、正解は…。レオーネ隊には民間人への緊急救護用品として、携帯食料を装備している兵士が、警らのチームに一定の間隔で編成されている。私が狙いたいのは、武器よりも、そちらね。食い扶持が増えるのなら、尚更だわ」
「…僕のことは、当分は解放してくれないのですね。ならば、せめてシャワーぐらいは浴びさせてください」
アンジェリカの言葉を聞いたナオトは、あからさまに落胆したような表情を見せた。だが、手元はしっかりと処分するべき廃棄物の処理を進めている。そのうえ、軽口が叩ける余裕も垣間見せるあたり、彼の精神的な堅牢さが伺えた。それを裏付ける証拠こそ、アンジェリカが会話を止めない、今の現状に在るだろう。
座っていた椅子から立ち上がり、ぼろ切れ寸前の何枚もの座布団やブルーシートで構成された寝床の方へと歩きながら、アンジェリカは言葉を続ける。
「このビルの地下に引いてある水道が、かろうじて生きているわ。冷水しか出ないうえに、少し濁っているから飲用が出来ないけれど…。まあ、この時期ならシャワー代わりとしては、許容範囲内だわ。そうでしょう?」
「…。…若い頃、雪坂家から一時期、研修として出向させられた軍用病棟よりかは、まだマシな環境ですね…」
ナオトの返答に思わぬ単語を聞いたアンジェリカは、寝床に転がることはせず、座ることで、彼へと視線を合わせた。ナオトは、アンジェリカのその視線の意味が分からないような男ではなかった。が、敢えて知らぬフリを決め込み、彼女の寝床へと近づきながら、口を開く。
「このような環境です。完全な無菌を求めることは出来ませんが、…少しでも清潔を保つ方は、治るべき怪我も、助かるべき命も、掬い上げる可能性が高くなります」
「地下の水道水は濁っていると言ったでしょう?それに、石鹸類だって、此処には無いわ」
アンジェリカの言葉は半分ほどスルーして、ナオトは寝床になっていた座布団を一枚ずつ剥がしていき、尚も、会話を重ねる。
対話することを止めてはいけない。この母性少女が、一体、自分を攫った陰で、本当は何を企んでいるのかが、未だに分からないのだから。ナオトは微笑みのまま、続ける。
「水洗いだけでも、そのベッド代わりのクッションたちは随分と綺麗になりますよ。傷病と疾病の治療の第一歩は、清潔なシーツからです。戦争で傷付いた兵士たちを導いた、かの看護の天使たる女性が起こした革命の一歩は、病棟のトイレ掃除と、患者のシーツの交換からだったと伝わっておりますので」
「確かに、そうだわ。理にかなっている。
では、ナオトくんには人質の医者らしく、まずは主人の寝床の清掃でもして貰いましょう。そのついでに、貴方の寝床も作っておいて頂戴。地下にはまだ、同じような寝床の材料が転がっているから」
「かしこまりました。では、遠慮なく」
「終わったら、座布団の乾燥待ちついでに、レオーネ隊の巡回ルートを探りに行くわ。見張りがいないから、当然、ついてきて貰うわよ」
アンジェリカの最後の台詞を聞き取る頃には、ナオトはとうに座布団の全てを回収して、地下に続く階段へと歩を進めていたのだった。
その手際の良さと、此処までの彼の医療技術を見ていたアンジェリカは、胸中で、密かに思う。
(…案外と、『アタリ』だったのかもしれないわ)
―――…、と。
【Room EL】
ソラが珍しく苛立った様子で、私用のスマートフォンを睨みながら、操作をしている。白手袋が嵌った彼の手には、怒りのチカラが込められており、ふとした瞬間にでも、その端末を握り潰してしまいそうで。端から見ているツバサは、内心、ハラハラとしていたり。
ルカが自分のデスクから、ソラの方へと声を掛ける。
「やっぱり、琉一との連絡は、つかない感じ~?」
「…、それどころか、位置情報まで切られた。Room EL専用の位置情報アプリごと消しよってからに…、立派な規定違反だ。弁護士のくせに、自らルールを破りに行くな、阿呆め…!」
結論から言う。琉一が、今朝は出勤してこなかった。欠勤の連絡は無く、ソラがコンタクトを取ろうと、琉一のスマートフォンへメッセージを送るが、既読の報せが着くだけで、反応がない。電話を鳴らしても、出てはくれない。二度目からは留守電直行。そのうえ、Room ELに出向する際に、同意したうえでスマートフォンにインストールさせた位置情報アプリを、琉一はこれまた無断で消去した模様。おかげで、ソラからは、彼の動向が探れなくなった。だが、今のRoom ELには、最強の玩具と称する、宇宙衛星・ヴィアンカを有するルカが居る。
ソラはルカに見直り、口を開いた。
「それで、琉一のことは、ヴィアンカには映っているか?」
「うん、めっちゃ堂々と映ってる。というか、ソラと連絡を取りたくないだけで、むしろ、オレのヴィアンカからは隠れようとはしてないみたいだね~。この動きのパターンを見るとさ~」
ルカの返答に悪意は無い。だが、それを聞いたソラの放つオーラが、途端にどす黒いモノへと変わる。修羅の怒りだ。ソラの右手に握られていたスマートフォンから、ミシッ…、という音が聞こえた気がして、ツバサは「あ…」と思わず、小さく声を上げた。
「………。」
「妬かない、妬かな~い。…いや、あのさ?ホント、眼が怖いよ?ソラ?」
鉄壁の沈黙を以て怒号を上げることを抑制するソラではあったが、ルカに向けている視線は相当に恐ろしい。
「……、まあ、いい。
ナオト先生の拉致被害の報告時点から、琉一の行動がおかしくなったんだ。そこに何か接点か理由があるかもしれない。
…俺は念のため、琉一の背景や過去を洗い直してみる。親友を疑いたくは無いが…、…こちらの仕事を妨害されるのは、話が違ってくるからな」
ソラは、瞳に冷静な色を戻して、そう言った。むしろ、己へ深く言い聞かせているようにも見える。「取り乱すな」と。
自分のデスクへと座り直したソラは、薄氷に吹きかけるが如く、ごく小さな溜め息を吐いた後。―――…、もう私情は爆発させまい、と固く誓った。
その姿を見たツバサは、ホッとしたように表情を緩めてから、傍らに置いていたラ・フランスの紅茶に口を付ける。優しい果実の香りが、兄の情緒乱高下に充てられて、僅かに緊張していた全身に、安らぎをもたらす。
一方、ルカは。ヴィアンカが追跡する琉一の行動パターンを随時モニタリングしながら。一体、彼が何を画策してくれるのかと、内心、少しだけ面白がっているのであった。
to be continued...
アンジェリカが、隔離エリアから脱獄した。現在、逃走中。ルカの宇宙衛星・ヴィアンカにも追跡・発見が叶わない。
その報告を受けたルカは、「あ、そう」とだけ溢した後。手元に届けられた報告書や、アンジェリカの逃走経路の予測などを集めた資料を斜め読みしつつ、口元はぺらぺらと滑り続ける。
「ヴィアンカの設置を、母さんに手伝って貰ったのが失敗だったね。あそこの段階で、ヴィアンカの情報を盗んでいたワケだ。今頃きっと、ヴィアンカの軌道を読みながら、その間を縫うように移動、活動しているハズ。手癖が悪いんだから~、もう~。
あと、状況から察するに、切断させていたはずの機械義足の神経ケーブルは、きっと自然治癒したんだね。元々が人間なんだから、時間が経過すれば怪我が治るのは、まあ、当たり前か。
うーん。オレにしては珍しく、完全に後手に回っちゃったなあ。…ま、いっか。たまにはそういうのも、悪くないよねえ」
思わぬ事態に直面しても、ルカは相変わらず、正解しか言わない。そして、不意に、アンジェリカ脱獄の報告をしていたソラの背後に、視線を移した。ソラもつられて、振り向くと。Room ELの出入り口のインターホンが鳴った。琉一は未だ出勤してきていない。そもそも、彼ならインターホンを鳴らすことはない。ツバサが対応に行くと。
「兄貴が!!兄貴が!!あの義足の女子に拉致られたんだ!!るかっちのママを名乗ってた、あの女子に!!」
鞠絵のヒステリックな喚き声が響いてきた。その内容は、穏やかなモノではない。ソラは思わず、出迎えに走った。
「鞠絵、まずは事情を聞かせてくれないか?」
ソラはそう言いながら、呼吸の荒い鞠絵を宥めるかのように背中をさするツバサと目配せをしあって、鞠絵を応接用のソファーへと誘導して、座らせる。ルカはすぐさま、その対面に来て、口を開いた。
「オレの母さんが―――…アンジェリカが、キミの前でナオトを誘拐したってコトかな?」
「そう!そうなの!!ウチにしか見えない位置から、兄貴にナイフを突き付けて!!兄貴ことは腕を拘束して!!「今の私には、貴女のお兄さんが必要なの。余計な怪我人を増やしたくないなら、大人しくこの場を去りなさい」って!!
で、ウチが頷いたら、アンジェリカ、そのまま、兄貴をその辺の脇道に引き込んで…!!もう、ウチ、このこと、るかっちに言うしかないって、必死に此処まで…!!」
ルカの問いに、鞠絵は半ば叫ぶかのように答える。だが、感情的になってはいるものの、その返答の内容は的確だった。さすが、生まれてきた腹が違うとはいえ、あのナオトの妹である。そのうえ、現時点でアルバイトとして社長室に雇われている、その評価の高さも伺えた。
ツバサが差し出したティッシュペーパーで、涙を拭っている鞠絵を見ながら、ルカは「えーとね」と考えを巡らせた後。瞬時に、答えを口にする。
「ナオトを連れ去ったのは、医療従事者としての彼が目的だったのか、あるいは、単に非武装勢力である人間を選びたかったのか…。どっちにせよ、レオーネ隊を出してから陽動をかけてみないと、分からないね。
それにしても、オレの絶対領域(ヒルカリオ)内で、オレの身内に手を出すだなんて―――…、…母さんってば、そんなにオレが怒った姿が見たいのかなあ?」
ルカの軽い口調で、そう言ったとき。―――確かに、室内に。ぞくり、とした寒気が走った。
監視下に置かれているとはいえ、このヒルカリオは、謂わばルカのお膝元。その中を盗み出していた衛星の経路を利用して、包囲網を搔い潜り、あまつさえ、武力的に抵抗の出来ないナオトを拉致した。彼の妹の前で。―――鞠絵からすれば、ジョウが過去に仕出かしたことの再来だ。あのときは、鞠絵が彫刻刀を振り回して、ナオトを守ろうとした結果。自分も兄と一緒に誘拐される羽目になったが。結局、それが今の彼女の立場を得るきっかけには転じたものの。今回は、敵に本物の刃物を出されてしまい、ナオトは無抵抗にならざるを得ないまま、アンジェリカに攫われるという事態。鞠絵は本当に必死になって此処まで走り切ったのだろう。美容意識の高い彼女が、滅茶苦茶に走ったせいで、ぼさぼさになった髪の毛も。涙を垂れ流し続けて、落ちてしまったメイクも。今は全く気に留めていない。ただただ、ルカに縋りたい、兄を助けて欲しい一心のまま。ルカを見上げるだけだ。例え、その男が、史上最強の軍事兵器で、特定の人間に悪意を向けられ続けているが故に。自身もまた人間に対して少なからず、その存在意義を提起したいと思っているとか、そんなことを考えていたりしても―――…。
【ヒルカリオ某所】
ナオトは慎重な手付きで、深い傷跡の縫合を行っていた。そこは、何処ぞの廃ビルの中で、清潔も衛生も、何もあったもんではないが。最低限の消毒液と道具が揃っていたことだけは、感謝したい。どうやらアンジェリカは着の身着のまま、隔離エリアから脱獄したわけではなく。持てるだけの医療用具と食料を持ち出していたようだ。その証拠に、今、ナオトがアンジェリカの処置をしている一室の隅には、缶詰食料の空や、携帯水分のパウチのゴミが、寄せて集められている。そして何より、アンジェリカが持ち出した医療用具があるからこそ、彼女の肩口から背中にかけての、深い切り傷の消毒と縫合を行えているのだ。
ナオトは神経内科の医者であるが、その明晰な頭脳と、貪欲な知識欲故に。他部門の医療知識も持ち合わせている。実際に行使するか否かは、別として。しかし、だからこそ、アンジェリカに目を付けられたのだ。
脱獄の際に、阻止してきたレオーネ隊の片手剣で、派手に傷つけられたアンジェリカは。手負いながらもからがらに逃げ出した後、ヴィアンカの包囲網を潜れる唯一の拠点が、この廃ビルだと割り出して。それから、一日半ほど伏して。―――通勤途中の鈴ヶ原兄妹を襲った。鞠絵に用は無い。むしろ、ナオトを拉致したことを、ルカに知らせて貰う必要があったので。アンジェリカは最初から、鞠絵のことは見逃すつもりだった。
縫合を終えたナオトが、血塗れになった手袋を脱ぎ捨てて。それから、アンジェリカの傷へと包帯を巻きつけ始める。
「終わりました。…何かの念仏と思われても仕方がありませんが…、せめて表面だけでも傷が塞がるまで、安静になさってください」
「ええ、そのつもりよ。でも、この傷を縫って欲しいだけで、貴方を誘拐してきたのではないわ」
「まあ、そうでしょうね。…命さえあれば、僕の手足ぐらいはどうなっても構いませんが…。出来れば、最期の瞬間が来るとすれば、そのときは、最推しに逢いたいものです」
美貌の医者と、母性の顕現。本来なら、仕事以外で交わることが無かったであろう二人の会話が、静かに続く。
「安心なさい。この母の懐に居させる以上、死なせはしないし、怪我もさせないわ。ただ、穏便に協力してくれれば良いの。
鞠絵ちゃんを逃したのは、彼女からナオトくん誘拐の報せを聞いたルカが放つレオーネ隊が、警らを始めるのを狙っているから…」
「なるほど…。僕を囮にして、レオーネ隊から、武器か通信機器でも鹵獲でもするおつもりですか?」
ナオトが使用済みの手袋や、ガーゼなどを処分するために視線を泳がせていると、アンジェリカが適当なビニール袋を差し出してきながら、彼との会話を続ける。
「良い勘しているわ。医者というたった一つの型に嵌めておくのは、実に勿体ない。
でも、正解は…。レオーネ隊には民間人への緊急救護用品として、携帯食料を装備している兵士が、警らのチームに一定の間隔で編成されている。私が狙いたいのは、武器よりも、そちらね。食い扶持が増えるのなら、尚更だわ」
「…僕のことは、当分は解放してくれないのですね。ならば、せめてシャワーぐらいは浴びさせてください」
アンジェリカの言葉を聞いたナオトは、あからさまに落胆したような表情を見せた。だが、手元はしっかりと処分するべき廃棄物の処理を進めている。そのうえ、軽口が叩ける余裕も垣間見せるあたり、彼の精神的な堅牢さが伺えた。それを裏付ける証拠こそ、アンジェリカが会話を止めない、今の現状に在るだろう。
座っていた椅子から立ち上がり、ぼろ切れ寸前の何枚もの座布団やブルーシートで構成された寝床の方へと歩きながら、アンジェリカは言葉を続ける。
「このビルの地下に引いてある水道が、かろうじて生きているわ。冷水しか出ないうえに、少し濁っているから飲用が出来ないけれど…。まあ、この時期ならシャワー代わりとしては、許容範囲内だわ。そうでしょう?」
「…。…若い頃、雪坂家から一時期、研修として出向させられた軍用病棟よりかは、まだマシな環境ですね…」
ナオトの返答に思わぬ単語を聞いたアンジェリカは、寝床に転がることはせず、座ることで、彼へと視線を合わせた。ナオトは、アンジェリカのその視線の意味が分からないような男ではなかった。が、敢えて知らぬフリを決め込み、彼女の寝床へと近づきながら、口を開く。
「このような環境です。完全な無菌を求めることは出来ませんが、…少しでも清潔を保つ方は、治るべき怪我も、助かるべき命も、掬い上げる可能性が高くなります」
「地下の水道水は濁っていると言ったでしょう?それに、石鹸類だって、此処には無いわ」
アンジェリカの言葉は半分ほどスルーして、ナオトは寝床になっていた座布団を一枚ずつ剥がしていき、尚も、会話を重ねる。
対話することを止めてはいけない。この母性少女が、一体、自分を攫った陰で、本当は何を企んでいるのかが、未だに分からないのだから。ナオトは微笑みのまま、続ける。
「水洗いだけでも、そのベッド代わりのクッションたちは随分と綺麗になりますよ。傷病と疾病の治療の第一歩は、清潔なシーツからです。戦争で傷付いた兵士たちを導いた、かの看護の天使たる女性が起こした革命の一歩は、病棟のトイレ掃除と、患者のシーツの交換からだったと伝わっておりますので」
「確かに、そうだわ。理にかなっている。
では、ナオトくんには人質の医者らしく、まずは主人の寝床の清掃でもして貰いましょう。そのついでに、貴方の寝床も作っておいて頂戴。地下にはまだ、同じような寝床の材料が転がっているから」
「かしこまりました。では、遠慮なく」
「終わったら、座布団の乾燥待ちついでに、レオーネ隊の巡回ルートを探りに行くわ。見張りがいないから、当然、ついてきて貰うわよ」
アンジェリカの最後の台詞を聞き取る頃には、ナオトはとうに座布団の全てを回収して、地下に続く階段へと歩を進めていたのだった。
その手際の良さと、此処までの彼の医療技術を見ていたアンジェリカは、胸中で、密かに思う。
(…案外と、『アタリ』だったのかもしれないわ)
―――…、と。
【Room EL】
ソラが珍しく苛立った様子で、私用のスマートフォンを睨みながら、操作をしている。白手袋が嵌った彼の手には、怒りのチカラが込められており、ふとした瞬間にでも、その端末を握り潰してしまいそうで。端から見ているツバサは、内心、ハラハラとしていたり。
ルカが自分のデスクから、ソラの方へと声を掛ける。
「やっぱり、琉一との連絡は、つかない感じ~?」
「…、それどころか、位置情報まで切られた。Room EL専用の位置情報アプリごと消しよってからに…、立派な規定違反だ。弁護士のくせに、自らルールを破りに行くな、阿呆め…!」
結論から言う。琉一が、今朝は出勤してこなかった。欠勤の連絡は無く、ソラがコンタクトを取ろうと、琉一のスマートフォンへメッセージを送るが、既読の報せが着くだけで、反応がない。電話を鳴らしても、出てはくれない。二度目からは留守電直行。そのうえ、Room ELに出向する際に、同意したうえでスマートフォンにインストールさせた位置情報アプリを、琉一はこれまた無断で消去した模様。おかげで、ソラからは、彼の動向が探れなくなった。だが、今のRoom ELには、最強の玩具と称する、宇宙衛星・ヴィアンカを有するルカが居る。
ソラはルカに見直り、口を開いた。
「それで、琉一のことは、ヴィアンカには映っているか?」
「うん、めっちゃ堂々と映ってる。というか、ソラと連絡を取りたくないだけで、むしろ、オレのヴィアンカからは隠れようとはしてないみたいだね~。この動きのパターンを見るとさ~」
ルカの返答に悪意は無い。だが、それを聞いたソラの放つオーラが、途端にどす黒いモノへと変わる。修羅の怒りだ。ソラの右手に握られていたスマートフォンから、ミシッ…、という音が聞こえた気がして、ツバサは「あ…」と思わず、小さく声を上げた。
「………。」
「妬かない、妬かな~い。…いや、あのさ?ホント、眼が怖いよ?ソラ?」
鉄壁の沈黙を以て怒号を上げることを抑制するソラではあったが、ルカに向けている視線は相当に恐ろしい。
「……、まあ、いい。
ナオト先生の拉致被害の報告時点から、琉一の行動がおかしくなったんだ。そこに何か接点か理由があるかもしれない。
…俺は念のため、琉一の背景や過去を洗い直してみる。親友を疑いたくは無いが…、…こちらの仕事を妨害されるのは、話が違ってくるからな」
ソラは、瞳に冷静な色を戻して、そう言った。むしろ、己へ深く言い聞かせているようにも見える。「取り乱すな」と。
自分のデスクへと座り直したソラは、薄氷に吹きかけるが如く、ごく小さな溜め息を吐いた後。―――…、もう私情は爆発させまい、と固く誓った。
その姿を見たツバサは、ホッとしたように表情を緩めてから、傍らに置いていたラ・フランスの紅茶に口を付ける。優しい果実の香りが、兄の情緒乱高下に充てられて、僅かに緊張していた全身に、安らぎをもたらす。
一方、ルカは。ヴィアンカが追跡する琉一の行動パターンを随時モニタリングしながら。一体、彼が何を画策してくれるのかと、内心、少しだけ面白がっているのであった。
to be continued...