第五章 Falling Apple

イヴェットはいよいよ、土地を買う準備を進めていた。今日のシフトは珍しく昼からなので、その空き時間を有効活用し、家で必要な書類や、インターネット上での手続きに追われている。涼しい秋口の日頃。空調のスイッチは切り、窓を開けて、外からの風を呼び込んでいた。そよ風に揺れている薄いカーテンの下で、彩葉がすやすやと眠っている。

だが、念願の城を手に入れる目標が寸前だと言うのに、イヴェットの顔色は晴れない。その理由とは。

「はあ…。よりによって、泥棒被害が広がるとはね…」

イヴェットの口から漏れた言葉。それは、ここ一ヶ月の間に。この辺りで、連続して窃盗事件が発生していることを指す。この長屋内にも空き巣の被害にあっており、その部屋は、イヴェットが高頻度で彩葉を預けている、あの三歳児のりゅーちゃんの家庭だった。そして、犯人は未だ捕まっておらず、長屋内は勿論、ここら一帯には、不安そうな、且つ、何処か不穏な空気が漂っている。
だが、イヴェットの真の懸念点は、そこではない。連続窃盗事件の話を聞いた地上げ屋が、「治安が悪い土地を取引するのは、ちょっと…」と渋り始めた。だが、イヴェットが粘ったことで、何とか交渉の場についてくれたものの。本来の評価値が下がっている。…将来的に、地主になったイヴェットが手にするであろう利益が、少なくなってしまう可能性を孕んでいた。

予定通りに進まないことに、イラつきを覚えているイヴェットは。少し気分転換をしようと、窓際に座った。健やかに眠る彩葉を一瞥した後、視線を逸らして。サッシに腕を乗せてから、うらぶれた長屋街の景色を見つめる。

「…、いっそ、彩葉は孤児院に入れて。あの男から養育費だけを搾り取る方がラクかしら?彼なら騙せそうよね…。そもそも誓約書に、『不要不急の接触を禁ずる』という項目は付け足してあるし…。それに、あの男は自分の出世にご執心だから、私たちの状況など、どうでもいいはず。…要は、あの男の出世の邪魔さえしなければ良いのよね?
 そうね…。そうだわ。…手間のかかる赤ん坊を抱えていれば、私の時間が浪費されてしまう。早く幸せになるには、彩葉を手放すことが必要ね。
 どうしても養育費絡みで、また彩葉が必要になったら、預けたところから、再度引き取ってしまえば良いのだから…」

イヴェットはそこまで考えてから、今一度、眠っている彩葉を見やった。自身が母にもたらす苦労など知らないとばかりに、ふくふくと頬を膨らませて、寝息を立てる、その赤ん坊は。―――その瞬間から、母に捨てられる未来が確定したのである。


――――…。

同時刻。別室。
布団を干すために開け放たれていた窓の近くで。りゅーちゃんが、長屋の老齢から譲って貰った、古びた百科事典を捲っている。その傍には、新聞広告の裏紙に、鉛筆で書かれた線がある。が、ミミズが這ったようなそれが何を意味するのか。りゅーちゃんを見守る両親にすら分からない。
今のりゅーちゃんは、大好きなクッキーを食べるよりも、百科事典を捲る方を、最も優先していた。


【二週間後】

イヴェットは、長屋がある地域から、一番遠い場所に建っている養護院を選んだ。それこそ、『さくら園』である。さくら園と連絡を取ったイヴェットは、彩葉を抱いて、園を訪れていた。みすぼらしい恰好。敢えて、寝起きのぼさぼさ状態のままにした髪の毛。メイクもしていない。
イヴェットを出迎えた雲真は、暗い顔をした彼女を見て、すぐさま「…事情はお伺いしておりますから…」と、優しい声で彼女を宥める言葉を紡いだ。

「母である私が不甲斐ないばかりに…。…この子を満足に食べさせることも出来ず…。…お願いします。この子の未来を…どうか…」

掠れた声でそう呟くように言うイヴェットの眼には、生気が宿っていない。雲真が続ける。

「…ええ、ええ。この子は、我がさくら園が責任を以て、預かりますとも…。
 でも、本当に宜しいのですか…?この子が大きくなってから、ご自身が生きていることを知らせないどころか…、今後は居場所すら教えない、など…。
 万が一、この子が成長した暁には、再会の余地がありますよ…?」
「構いませんわ…。一人でがむしゃらに生きるしか、もう私に残された選択肢はございません…。だから、お願いします…。私がこの子を飢え死にさせてしまう前に、どうか、こちらで…」

イヴェットには問答をする気はないらしいと、雲真は悟った。
この母親は追い込まれている。最早、子どもの世話は出来ないのだろう。ならば、その腕の中の赤ん坊は、養護院である自分たちが引き取らねば…。雲真は使命感に駆られた。
そして、イヴェットが差し出してきた彩葉を、慈しみの心と手で、しかと受け取ったである。


【更に、三週間後】

急に居なくなった彩葉のことを心配した長屋の住人たちに対して、イヴェットは「少しの間だけ、遠縁に預けて…。もう少しで収入が安定する予定なので、そうしたら、また迎えに行こうかと思ってて…」と、しおらしく演技をした。信頼を得ていた彼女の演じる姿など、誰も見抜けず、皆が皆、「頑張って」、「一緒に乗り越えよう」と、彼女を応援してくれた。
イヴェットの地主になる目標は、確実に軌道に乗っていたため、彼女は上機嫌だった。完璧な未来予想図に対して、思わず顔が綻ぶ場面がいくつもあったが。逆に他の住人たちは、「彩葉ちゃんが居なくても大丈夫だって、強がってるに違いない」と勝手に、そして盛大に勘違いをしては。より一層、イヴェットの世話を焼くようになる。

ある夜。缶ビール片手に、そろそろ冷たい夜風が沁みるのも気にせず。イヴェットは開け放った窓のサッシに片肘をついてから、独り言を零す。

「彩葉を手放したのは、正解だったわね。この調子で行けば、一年後には…。養育費と、地主の不労所得で丸儲け。幸せな未来が待っているわ…。
 …あ、良いことを思いついたわ。地主になった時点で、彩葉を引き取れば、…『貧しい母子家庭で、やむなく愛娘をさくら園に預けたものの、華麗に転身した結果、愛娘を取り戻した』というテーマとして、信仰的な信頼を得られる可能性も高いわね…。
 他人から得る経済力は、信頼による関係値で変わる…。これは良いアイデアだわ。採用ね」

カネで苦労した娘だった女性は。カネで幸せを掴む母親になろうとしていた。だが、その母親である立場は、あくまで娘を利用するだけに収まっているに過ぎない。イヴェットは、既に、冷酷無比なビジネスウーマンに成長していた。


――――…。

同時刻。別室。
熱めの湯舟に浸かった後で、顔を真っ赤にしていたりゅーちゃんのためにと、開けられた窓の傍で。彼は週に一度だけ与えられる、ソーダ味のアイスキャンディーを、舐めている。三歳児にしては、大層、器用だ。両親は感心しながら、互いに酌を交わしあう。
りゅーちゃんは、インターネット接続のされていない、父親からのお下がりであるスマートフォンの、ひび割れた画面を。じっと眺めていた。
その周囲には。この三週間ほど、りゅーちゃんがずっと手放さなかった百科事典と、広告裏にびっしりと書き殴られた線の列が、床一面に散らばっていた。まるで、何かをなぞるように。そして、誰にも見せるつもりのない秘密の地図のように―――…。


――――…。

それから、また暫く時間が経った頃。
イヴェットの地主計画が、いよいよ、あと二日後…。ときた、あの日。

商業施設の清掃に勤しんでいたイヴェットは、紳士から声を掛けられる。


「そこの美しいシンデレラ。
 この私、―――バラーダ・リーグスティと、結婚してくださいませんか?」


そう声を掛けてきた紳士―――バラーダは、深刻な心臓の病気が発覚した、その帰り道。
自身が社長の座っている、トルバドール・セキュリティーのシステムの視察ついでと、立ち寄った商業施設内で。

笑顔で清掃に取り組むイヴェットに一目で『運命』を感じ取り、求婚を申し込んだ。


そして、その数年後。
バラーダを病で失ったトルバドール・セキュリティーは、後に『シンデレラ女帝』と呼びならわす、あのミセス・リーグスティを爆誕させる。


―――…歯車は回る。運命は崩れる。そして、失楽園の禁断の果実を齧ったのは、本当は誰だったのだろうか…?―――




――fin.
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