第五章 Falling Apple

彼女の名前は、イヴェット。後の、イヴェット・リーグスティ。そう。あの、ミセス・リーグスティである。
彼女は、本土で生まれ、本土で育った。物心ついたときから、母親はアルコールに溺れており、父親は仕事をして家にカネを入れてはくれるものの、愛情は与えてはくれなかった。イヴェットには三つ年上の姉が居たが、彼女は高校生の身で、早々に年上の男を作っては、さっさと家を出ていった。その後は、実家に「子どもが出来た」という一報があっただけで、音沙汰無し。
イヴェットが十八歳になったとき。彼女の両親は離婚した。仕事が全てであった父は、一日中、家事をイヴェットに任せて、母は酒を呷る日々を送っている光景に対して、「醜悪だ」とコメントした後。自分から言い出したからと、最低限の養育費を継続的に支払うと約束して、母に離婚届を突き出した。
勿論、その養育費は、母の酒代に消えていく。イヴェットは奨学金を借りて、大学へと進学したものの、生活費のためにアルバイトに身をやつす毎日を送った。ろくな寝食は取れず、当然、講義中は居眠り。単位をどんどん落としていき、やがて奨学金は打ち切られた。奨学金が打ち切られたことを告げると、酔っ払っていたことも加味されて、怒り狂った母に一時間以上、なじられた。彼女はアルコール中毒者ではあったが、意外にも分別がつくタイプの人間で。イヴェットのことを激しい言葉でなじるものの、派手な外傷が残るような暴力は振るってこなかった。現代社会風に言えば、モラルハラスメントの典型例である。そういう意味では、厄介とも言えた。
それでもイヴェットは、母から離れられなかった。むしろ、離婚した父からの養育費を継続して貰うには、母のもとにイヴェットが居ないと駄目だと聞いていた。その殆どが母の酒代と、最低限の生活費に消えると分かっていても、たまに貰う『おこぼれ』が、イヴェットにとっての大切な収入源だった。
奨学金が打ち切られたことで、イヴェットは大学を中退し、非正規雇用で働き始めた。母は相変わらず、家で酒を呷るだけ。母の酒代と、母子二人が生きていく生活費に余裕を捻出するには、離婚した父からの養育費では足りなかった。そのうえ、継続的、という言葉が厄介だった。そう、上限があったのである。母は離婚が成立した当時、酩酊状態で誓約書にサインをしたため、記憶が無いようだったが。イヴェットがある日、アパートの部屋の片付けついでに誓約書を確認すると、なんと、その養育費はイヴェットが大学を卒業する頃合いまで、つまり彼女の二十三歳の誕生日が来た年で終了する、という旨が明記されていたのである。そのとき、イヴェットは既に、二十二歳を半年も過ごした後だった。
イヴェットはすぐさま役所に赴いて、国が制定している生活費の支援金の申請をした。イヴェットは窓口で、「審査に数ヵ月はかかるうえ、不受給になる可能性もある」とは伝えられたが、少しでも希望があるのなら。と、思うことにした。その日はシフトが入っていなかったため、そのまま家に帰ると、母は酔い潰れて、ソファーで大きないびきを掻きながら、眠りこけていた。散らばった空き缶や、つまみのスナック菓子の袋などの片付けは、イヴェットの役目。放置しておくと、どんどんゴミ屋敷になっていくから。
二ヶ月後。役所からダイレクトメールが届いた。イヴェットは胸を躍らせながら開封したが、中の書類に、「不受給となりました」の文字が見えた瞬間、―――……絶望した。
預金などとうに無い。だが、母は酒を飲むだけで働きはしない。狭いアパート暮らしとて、二人で生活すれば、カネはかかる。イヴェットにだって、最低限の寝食と身だしなみが必要だった。
途端に、イヴェットは自分が何のために生きているのか、分からなくなった。より正確に言えば、穀潰しの母のために、どうして自分が此処まですり減る必要があるのか、理解が出来なくなった。

そして、その夜。イヴェットは人生初めての酒を飲む。その飲み屋のカウンター席で、たまたま隣になった男が、彼女へ気さくに話しかけてきた。初めての酩酊感と、雇用先の人間と家に居る母以外の人間と会話することが久しぶり過ぎて、イヴェットは身の上話を洪水のように垂れ流した。そして、それを、うんうん、と静かに聞いてくれた、その男は。自分の左手の薬指に嵌った指輪など知らないとばかりに、イヴェットをホテルへと誘った。「お小遣いをあげるから、もっときみのことを教えてくれないかな?」と。―――誰であろうこともない。その男こそ、後の空(ソラ)の父親・戻橋英人であった。彼から見れば、イヴェットは、出張先でふらりと入った飲み屋で見つけた「良い感じの若い女」、「おっぱいが好みの大きさ」程度の評価であった。…だが、英人はしっかりと酔っ払っていたし。それにイヴェットにも経験が不足していた。
故に。そのワンナイトの後。ホテル内で交換した、英人のメッセージIDへ。イヴェットは怒りのメッセージを送る。

「あのとき、ちゃんと避妊するからと言ったはず!それなのに!生理が来ないから、お母さんの目を盗んで病院に行った!妊娠してるって言われた!あんたしかいない!責任とってよ!」と。

対して、英人は心底焦った。今まで妊娠報告を理由にカネをせびる遊び相手は、たくさん見てきた。だが、イヴェットのとき。英人はあろうことか、避妊を怠ったのである。彼女は若いから、てっきり、ピルを飲んでいると思っていた。飲み屋で一人で酒を呷っている若い女、なんて、全員、「自衛」していると思っていた。高を括っていた。メッセージのIDを残していたのも、「あの女はキープが出来る」と踏んでいたからだ。それが、裏目に出た。
何より、このとき英人は、勤め先から昇進の話が持ち上がっていた。これを逃すと、もう巡ってこないほどの大出世コースに乗れるチャンスだった。この出世で給料を稼ぎ挙げ、それを積み立てた先の資金を元手に、起業。そして、妻の花蓮にはカネを握らせて離婚して、自分は華麗なる独身貴族の社長へと転身する―――…。これが英人の、現時点での人生設計だった。
外で浮気をして、子どもを作ってしまった、などという汚点が知られたら。これら全てが、水の泡。

―――…だが、そこで英人は思い出した。

そうだ。このイヴェットという女。アル中の母親のせいでカネに困っている、という話を聞かせてくれたな。と。

起業は先延ばしになるかもしれないが。目先の出世さえ叶えば、今の給料よりも、もっと良い稼ぎに跳ね上がる。妻の花蓮には生活費さえ渡しておけば良いだろう。どうせ、あの女は頭がおかしい。結婚するという道を選んだ理由は、「既婚者」、「養うための家族が居る」という、己のステータスのためだけであって、正直、結婚の相手なんて誰でも良かった。それでも花蓮と結ばれた理由を挙げろと言うならば、顔が好みだったのと、料理が上手かった、ぐらいである。仕事でくたびれた身体に、自分好みの顔の女が作った料理が食べられれば、それは都合が良い、と。それだけの話。
そこまで考えてから英人は、イヴェットに取引を持ち掛けた。

「今回は俺が本当に悪かった。だが、俺は妻と離れるわけにはいかないし、仕事も失うわけにはいかない。だから、代わりに、その子のことは認知するし、今回の慰謝料も、これからの子どもの養育費も、きちんと払い続ける。だから頼む。口裏を合わせてくれないか?」と。

このメッセージを受け取ったイヴェットは。瞬間的に「おカネが貰える」と思った。我が腹に宿った命が、カネに代わると言う。
それに、英人は口裏合わせを要求してきた。それはつまり、今回のことを、外に知られるのが余程不味いということ。ならば、かつての自分の父のように、誓約書を書かせてしまえないだろうか。そう、例えば。「英人の要求を呑む代わりに、認知した子どもの養育費は、イヴェット自身の経済能力が失われるまで、支払い続ける。」とか…。
イヴェットの中の常識と道徳と倫理が、ひっくり返ったと同時に。未知の能力が覚醒した瞬間である。
かつて、仕事一筋だった父親と、そんな彼を愛嬌だけで落とした母親の遺伝子を。そして、その夫婦の末路を受け継いだ、イヴェットは。
このとき、冷酷なビジネスウーマン的カリスマへの天啓を、しかと得たのである。


――――…。

英人との取引の場に座ったとき。既にイヴェットの腹は相当に膨らんでいた。…後に、ツバサと名乗る女性になるべき胎児が、そこで息づいていた。
この取引のテーブルに座るタイミングを、イヴェットは頑なに引き延ばしていた。だが彼女は、最早、愚鈍な小娘でない。腹の中の子の堕胎が叶わない週に入るまで、イヴェットは仕事や家事、母親の世話を理由にして、英人からの催促を断り続けていた。絶対に認知して貰うための担保としても勿論だが、イヴェットが「まだ忙しい」と言うだけ焦れる様子を見せる英人の姿から。彼女は、これは骨の髄まで搾り取れるはず、と確信していた。

事実。イヴェットが提示した慰謝料と養育費は、英人が想像していた額面より、遥か彼方のモノだった。だが、英人はイヴェットが愛おしげに、膨らんだ腹をさする姿を見てしまったが故に。彼女が差し出してきた誓約書にサインをせざるを得なかった。
…奇しくも、この取引に来る直前。英人は、二歳になったばかりの息子・空と、ビデオ通話で顔を合わせたばかりで。出世には不要と思っていた子どもだったが、実際に目にすると、可愛くて、愛おしくて…。妻の花蓮のことは、将来的に離婚する気持ちはあるが。空に関しては、花蓮を仲介にしてでも、定期的に逢えれば良いと思う感情が、このときの英人にはあったのである。
一人の父親としての中途半端な自覚が在ったからこそ、英人はイヴェットの要求を丸ごと呑んだ。


――――…。

慰謝料の半分を使って、母親を「アルコール中毒の治療」という名目で、即座に病院に入院させたイヴェットは。その後、町の隅の産院で、出産。英人と同じ緑色の眼を持った、元気な女児。出生届には『彩葉(いろは)』と書いた。その新緑のような色の眼が、イヴェット自身の未来を彩ることを期待して。

そして。母親のアルコール中毒は既に再起不能であることを、イヴェットはとうの昔に見越していたので。実家であったアパートは早々に引き払い、まだまだ潤沢にあった残りの慰謝料を使いながら。ヒルカリオに一番近い、本土の集合住宅街にある、古い長屋の一室を借りた。引っ越し時は、わざとみすぼらしい恰好をした。おかげで、長屋の住人には、「乳飲み子を抱えた若い母親が、苦労をしながら、此処まで流れ着いたようだ」という第一印象を、見事、植え付けることに成功する。そうすれば、どうなるか。そうだ。彩葉の『ベビーシッター代わり』が、湧いてくる。普段から振りまく愛想笑いと、たまの料理の差し入れ。給料日には決まって「いつも彩葉がお世話になっております」という言葉と共に、酒、煙草を配る。正規にベビーシッターを雇うより、コストパフォーマンスが遥かに高い。気苦労は、増えるが…。だが、そんなことは、毎月必ず振り込まれている、英人からの養育費の確認が取れれば、瞬時に吹き飛んだ。

朝の早い時間帯に、「今日もよろしくお願いします」と申し訳ない顔をしながら、彩葉を近所の女性たちに預けて、自分は夕方まで商業施設の清掃の仕事に勤しむ。そして、退勤後。メイクも直さず、汗塗れで、彩葉を引き取りに行く。疲れは娘の顔を見れば吹き飛ぶとばかりに、「今日もありがとうございました」と、笑顔で言う。ごく稀に「職場で安くなっていたので、是非」と、割引シールの貼られた刺身のパックでも渡していれば。長屋の住人たちは、もう完全にイヴェットの味方だった。

信頼は、日々の積み重ねだ。イヴェットは常に気を張って、長屋で暮らしていた。だが、ストレスと思ったことは無い。むしろ、皆が知らないところで、実は自分には持ち家を買えるほどの額面のカネを隠し持っているという事実から来る、密やかな優越感が、彼女をより誇り高くしていた。しかし、イヴェットのカネの事情は全く知らない周囲からは、彼女は「必死に働きながら彩葉ちゃんを育てる、立派な母親」、「貧しくて大変だろうに、いつも笑顔を絶やさない素敵なひとだ」という評価を、自然と得るようになる。

このときのイヴェットの真の目的は、この周辺の土地を丸ごと買い上げて、実質の地主になることだった。地主の不労所得で、優雅に暮らす。それが、そのときのイヴェットが描いていた未来だった。
そのために、わざと家賃の安い古い長屋に住み、必死に節約しつつ、養育費も少しずつ貯金に回して。それから、長屋の住人を中心に、この周囲の人物の信頼を勝ち得ていた。いつか自分が此処の主になったとき、一番活きるのは、信頼である。ぽっと出の花ではなく、地道に咲いた過程を見せる花こそ、真の城主となれる。
―――全ては、自分が築く城を手に入れるため。


――――…。

ある日の退勤後。割引シールの刺身パックと、半額シールが貼ってあるチョコレートケーキが、エコバックの中にしかと入っていることを確認したイヴェットは、『今日のベビーシッター代わり』の部屋のベルを鳴らす。中年層が多い内、この部屋の主は比較的、イヴェットと年頃が近い夫婦ということで、他よりも世話になる回数が多い。そこの旦那と、まだ幼い一人息子が、揃って甘いものが大好きということを小耳に挟んだイヴェットは、「将来への投資ね」と考えて、今日はオマケで半額になっていたチョコレートケーキもつけることにした。

「はい、どなたですか?―――、あら、イヴェットさん、おかえりなさい!今日もお疲れさまでした。まあ、汗が凄いわ。ちょっとお水でも飲んでいく?」

此処の奥方は、来訪者をろくに確認せずに扉を開ける癖がある。防犯意識が低いのだろう。
イヴェットは胸中に去来すことなどおくびにも出さず、笑顔で口を開く。

「すぐに彩葉にご飯の支度をしたいですし、それに御宅も同じでしょう?すみません…、今日はちょっと遅くなってしまって…」
「いいえ、いいえ。良いんですよ!彩葉ちゃんがいると、うちのりゅーちゃんが喜ぶし、それに今日は旦那もデレデレで…、あ!あなた、ありがとう」

この奥方は、多少お喋りなところも難点である。だが、その会話を切り上げる人間が現れた。この部屋の大黒柱である。奥方とは正反対の無愛想キャラクターで、表情も殆ど変わらない。そんな大男が、彩葉を抱えて、やってきた。…とてもデレデレしていたようには見えないが…。

「声が聞こえた。お前は喋り過ぎる。早く解放してあげろ」
「あら、りゅーちゃんも来てくれたの?」
「話を聞け。…まあ、良い。…イヴェットさん、こちら…」

奥方の調子に、旦那は溜め息を吐くと。自身の足元に引っ付いている『りゅーちゃん』こと、息子のことは一旦、流して。イヴェットに彩葉を差し出そうとしてくる。だが、それをイヴェットは「あ、ちょっと待って…」と制して。エコバックから、刺身パックと、チョコレートケーキの箱を取り出した。

「今日は遅くなった分、ちょっとお得なモノが…。旦那さんと、息子さんが、甘いモノがお好きだと聞いたので、是非」
「まあ、まあ!いつもありがとうございます!ほら、りゅーちゃん、こういうとき、なんて言うのかな?」

奥方は喜色満面といった風に、息子へ促す。すると、今年で三歳になるというりゅーちゃんは、己の父親に良く似通った無表情で、口を開いた。

「ありがたく、ちょうだいします」
「あら、素敵な言葉。こちらこそ、彩葉のことを見てくれて、ありがとう、りゅーちゃん」

イヴェットはりゅーちゃんと視線を合わせようとしたが、彼は、ひゅん、と父親の足の陰に引っ込んでしまう。中々に賢い子だとは思うのだが、この愛想の無さは、きっと将来、苦労の種になるだろうに…、と、イヴェットは密かに思っていた。

そして会話を続けたい素振りを見せる奥方を何とか躱して、イヴェットは彩葉を回収した後。早々に自宅へと引っ込む。
お腹が空いた。シャワーも浴びたい。彩葉の様子を見てから、さっさと自分のことを済ませて、さっさと寝てしまおう。明日は待ってはくれないのだから。

イヴェットは、自分の食事をしながら、彩葉にたっぷりとミルクを与え。彼女がうとうとした段階で、手早くシャワーを浴びる。そして、三割引きのシールのついた、フルーツヨーグルトをデザートに楽しんでから。本格的に彩葉を寝かしつけて、自分も床に入った。近所のひと曰く、彩葉は夜泣きが少ない方らしい。それでも、深夜に三回は起こされるので、イヴェットにとって、そこだけが育児に於いて、ネックだった。

だが、この子だけは生かしておかなければ…。英人から養育費を根こそぎ搾り取るため。そして、自分の輝かしい未来のために…。

寝入ろうとしたイヴェットの耳に、彩葉の寝息が聞こえる。



to be continued...
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