第五章 Falling Apple
学校から帰ってくると、甘い匂いがした。玄関先まで漂ってくるそれは、焼き菓子が完成したことを、ソラに知らせる。
靴を脱いだ後は、綺麗に揃えた状態で、靴箱へ仕舞う。汚れた靴下で廊下を歩いてはいけないから、自分のスリッパを出して、それを履く。ぱたぱた、と音を鳴らして廊下を歩くのは行儀が悪い。足音は、なるべく静かに。
ソラが、リビングへと足を踏み入れると、焼き菓子の甘ったるい香りが、一層強くなった。思わず、顔をしかめそうになるが、彼は何とか堪える。母親にその表情を見られるわけにはいかない。何故なら、ソラの母親にとって菓子作りは、『何よりも大切な趣味』だから…。
「あら、おかえりなさい、空」
「ただいま、母さん」
台所から出てきたソラの母親・花蓮(かれん)は、それはもう上機嫌な顔色だった。―――…此処まで機嫌の良い花蓮を見たのは、実に一ヶ月半ぶりだ。それに、父親がこの家に最後に居たのも、一ヶ月半前だ。…ソラは正確に思い出す。
「今夜、お父さんが、久しぶりに帰ってくるんですって。だから、お母さん、張り切ったのよ。お母さんの焼き菓子は、いつだってお父さんに大好評だから。
空もおやつが欲しいでしょう?手を洗って、ランドセルも置いてきなさい。お父さんには内緒で、先に二人で味見しちゃいましょうね」
花蓮は菓子の匂いのような甘ったるい声で、ソラに言う。だが、学校帰りの今のソラには、おやつの時間の前に為すべきことがあった。
「先に、学校からのプリントと連絡帳を―――」
「―――そんなものは、後で良いわ。お母さんとっておきの焼き立てのお菓子が、冷めちゃうわよ?ほら、早く手を洗って、ランドセルを置いてきなさい。早くしなさい、空」
「…はい」
学校からの配布物と連絡帳の確認は、帰宅してから真っ先に行いたい事柄である。だが、花蓮はソラの言葉を遮ってしまう。…結局、ソラは。花蓮に言われた通りにするしかなかった。
手を洗ったソラは、ランドセルをリビングの隅に置いてから。花蓮が待つテーブルへと向かう。
山盛りになったマドレーヌは、ほかほかと温かい空気と同時に甘い香りを放っていた。むせ返るような気分になりながらも、ソラはそれに手を伸ばそうとして、―――そのとき。
花蓮のスマートフォンが鳴った。電話だ。液晶画面には、『英人さん』と表示されている。ソラの実父だ。―――瞬間、ソラの背筋に嫌な汗が伝う。
だが、花蓮はそんな息子とは正反対に、ウキウキとした表情と声で、鳴り続けるスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし?英人さん?いつ帰ってくるの?もうお菓子を焼き上げて―――、……え?……、…嘘でしょ?嘘よね?!ねえ?!帰ってくるって言ったじゃない!!ねえ?!どうして?!ちょっと「またあとで」っていつのこと?!何時間後のこと?!切らないで!!まだ話は終わって―――、英人さん!?英人さん!?ねえ?!ねえってばッ!!」
花蓮のスマートフォンからは、既に父・英人の声は聞こえず。代わりに、通話が切れたことを知らせる虚しい音だけが漏れてきていた。―――その音こそ、ソラにとっては、処刑宣告にも等しい音である。
冷や汗が止まらないソラを前にした花蓮は、先ほどまでの明るい表情から一転、虚無の顔をして。ソラに向かって、口を開く。
「お父さん…、急な仕事が入って、帰ってこれなくなったって…。次の予定はまた連絡するからって…、それだけ言って、電話、切っちゃったよ…」
焼き菓子のように甘ったるかった声は、今や腐敗した林檎のような声だった。
一ヶ月半前、「アップルパイを焼くのよ!」と張り切っていた花蓮が、英人に「急な仕事が入ったから、暫く家を空ける」と言って、さっさと出て行った彼の背中を虚ろに見送った直後。パイに使う予定だった林檎を、台所に放置して、腐らせたのだ。そのときと、同じ空気。
「…空、このお菓子、どうすれば良いと思う…?」
花蓮が虚ろな眼と声で、ソラに問う。近所にお裾分けをする?二人で少しずつ食べる?花蓮が自分の職場に持って行く?
思考を巡らせるソラに反して、花蓮は勝手に喋り始める。
「…、…空が全部食べるべきよね?だって、空は、私たちの息子なんだから…。
お母さんが貴方を妊娠していたとき、お父さんは他の女と浮気を繰り返していた…。お母さんは必死の思いで、空を産んで、そして育てたのよ…?
だから、空は、お母さんの苦しみを、お父さんの代わりに肩代わりする義務があるわ…。だってお父さんは、この場に居ないんだから…。分かるわよね?空?」
花蓮の言葉は、全く筋が通っていない話だった。だが、この手の話は、ソラにとって初めてのことではない。英人が帰宅をドタキャンする度に、繰り返してきた光景。リピートされてきた、家庭内の地獄絵図。
ソラはもう十二歳。来年には中学生。分別のつく年頃であるし、何より、彼は二千年に一度の天才児。身勝手な感情論で暴走する母親を、反論で捻じ伏せることは容易いと、咄嗟に思った。思ってしまった。
「母さん。この量を俺一人で食べきるのは、無理だから。だから、一旦、このマドレーヌは冷凍保存して、…父さんが帰ってきたときに、三人で食べよ―――」
「―――なんですって?!!?空!!!!アンタまで私の言う通りにならないっていうの??!!」
「ッ!!」
ソラの反論を聞いた花蓮が、突然、激高する。バン!!と机を叩きながら立ち上がった花蓮は、座っていた椅子をなぎ倒し、そのまま台所へと向かった。己の母親の激情に怯んだソラは、一瞬、全身を強張らせたが。すぐにクールダウンして、花蓮の後を追う。日頃から情緒不安定な彼女が、一体、何をしでかすのかが、分からなかったからだ。
台所に入ったソラが見たモノ。それは、―――むき出しの包丁を手にした、花蓮だった。
「もういいわ…。何もかも、終わらせましょ…。空、一緒に死んで…?だって、貴方は、私たちの息子なんだから…」
そう呟きながら、幽鬼の如く立つ花蓮。その冷たい視線に射抜かれた瞬間、ソラの脳内は真っ白になった―――………――――
「――――……ッッ!!??」
横たわっていた身体を揺すられて、ソラは急激に覚醒した。思わず、起き上がる。動悸が激しい。身体中から汗が噴き出しているのが分かる。
「あ、お兄様、大丈夫…?とてもうなされていて…。それに酷い汗…、顔色も悪いし…」
ソラが寝ていた仮眠室のベッドのすぐ横には、ツバサが居た。彼女は、己の兄が不調であることを心配している。ソラが交叉させた緑眼は、相変わらず光の差さない陰鬱な瞳だが。そこには確かに、彼のことを心の底から気にかけている真摯な感情が伺えた。
先ほどまで夢に出ていた、母・花蓮の、あの冷たく、虚ろで、不安定で。まるで「空」自身を見ていない目線とは、全くの正反対である。
「……俺の母さんは…、もう死んでいる…」
「…そう…、それは、悲しいね…」
「…そうだな…悲しいんだろうな…。……俺は、未だに、その感情を抱いたことは、無いが…」
急に始まった会話に、仮眠室の空気がひんやりと暗くなった。だが、腹違いの兄妹は、言葉を交わすのを止めない。
ソラが続ける。
「…出張先のホテルで火事が起こり、父さんは逃げ遅れて、そのまま…。…だが、父さんが泊まっていたホテルの部屋からは…、父さんの遺体とは別に、…もう一人分の女性の遺体が出てきた…。…その地元のセクキャバに雇われていた、外国人のキャストということまでは…、当時の俺にまで伝わっていた…」
「それは…、いつの話?」
「俺が十三歳、…中学生になったとき。……警察機関から父さんの訃報を聞いた母さんは、その場で発狂して…。それから、ダイニングの椅子を振り上げて…、家中のモノを壊し尽くした…。…俺が警察から連絡を受けて、学校から急遽、帰ったとき、…実家は、もう荒れ果てた状態で…。母さんは警察が駆けつけたときには、既に心配停止状態…。その後、死亡が確認された…。現場の状況から、自殺だと…。
それから、俺は、甘い菓子が食べられなくなった…。今でこそ、仕事で必要なら口にすることは出来るが…」
壮絶な過去だ。ソラの手は震えている。ツバサはその手を優しく握った。告解は続く。
「中学生で身寄りを無くした俺だったが…、幸い、母さん方の親戚の中に、俺の事情に理解のある、独身男性が居た…。小説家志望の、アニメオタク…。親戚中から白い眼で見られていた…。母さんも悪口を言っていたな…。でも、俺にとっては…、勉強や成績のこと以外で、俺と会話をしてくれようとする、唯一のひとだった…」
ソラの語り口が、一瞬だけ温度を取り戻した。それは、孤独になったソラを引き取ってくれたという独身男性への信頼と情が垣間見えるモノ。
ツバサも少しだけ声に温度を乗せてから、質問を飛ばした。
「そのひとに、引き取られたの…?」
「ああ…。高校を卒業するまで、という約束で…。だが、結局…、俺はローズのツテを頼って、高校一年目から『奨励学生支援寮』と言う場所に、引っ越した…」
兄の声と表情に憂いが戻るのを見た妹は、慎重に言葉を選ぶことにする。信頼を寄せていた親戚から、わざわざ離れていった理由とは…?
「喧嘩でもしたの…?」
「いいや…。あのひととは、至って円満な生活を送っていた…。本当だ…。あのひとは、俺を、本当に対等に扱ってくれていた…。だからこそ、プロデビューのための小説を書きながら、片手間にアルバイトで食い繋ぐあのひとが…、俺を養い始めてから、みるみるうちに痩せ細っていく姿が…、見ていられなくて…」
「お兄様が引っ越した『奨励学生支援寮』に、そのひとを救う手立てが、あった…?」
「そうだ…。奨励学生支援寮に入るには、大きな条件が二つあった。一つは、寮に入る学生は、ギフテッド(天才)であること…。
その寮に入れば、あらゆる生活面を支援して貰える。だが、代わりに、本土の大学病院たちが連なる、医療的研究グループに、資材として様々なデータを提供する必要があった…。
俺が目を付けたのは、…もう一方の条件。入寮するギフテッドの親ないし後見人に対して、多額の礼金が、定期的に支払われるというモノだった…」
なるほど、と、ツバサは納得した。非常にソラらしい基準で、彼は親戚のもとから離れる決意をしたらしい。恩義があるからこそ、自分のために苦労をして欲しくない。生まれ持った己のギフトを、優しくしてくれた親戚のために利用できるのならば、彼は喜んで契約書にサインをしたに違いない。……ソラとは、そういう男。
ツバサが握っていたソラの手は、無意識に指が絡んでいた。震えは、止まっている。だが、冷たい。寝汗を掻いたからだろうか。
「賢いお前だ。もう予想はしているだろうが…。奨励学生支援寮で、俺は琉一と出逢った。琉一は法曹界の重鎮と言われる一族の生まれで…。事実、彼自身も、その未来を期待されていたギフテッドだったが、……本人はゲームセンターでシューティングゲームに明け暮れたい、大の甘党な少年に過ぎなかった」
ソラは僅かに頬を緩めた。残された唯一の家族の前だからこそ、見せる表情かもしれない。ツバサは彼の手を握ったまま、会話を続けることをした。
「二人の出逢いのきっかけが気になる…」
「そうか?きっかけは、大したモノじゃない。単に、俺が出向先の大学病院で、餌付けとして貰っていた菓子の処理に困っていたところを…、それを知った琉一が流してくれと頼んできただけだ。そして、おかしな方向に真面目な奴は、菓子を流してくれるお礼と称して、俺に繁華街の歩き方を教えてくれた。それだけだ。俺たちがつるみ始めたきっかけというのは…」
そう語るソラの口調は、さも「琉一が真面目を拗らせている」とでも言いたげである。だが、兄の台詞を聞いたツバサからすれば、「真面目同士が、化学反応を起こしたに過ぎない」と微笑むことが出来る。
握り合っていた手は既に解かれていたが、この兄妹が築いた温かさを崩すことは無い。
その証拠に、割と表情筋が仕事をしないタイプであるツバサは、ふわふわと微笑んでいるし。ソラは滅多に見せない隙を、妹の前でさらけ出している。
「へえ…、琉一さんって、結構、アウトローだったんだ…。あ、でも、流一さんの目付きが鋭い理由が、これで分かったかも…」
「俺とて、ルカに「匂いが嫌いだからダメ!」と嫌がられていなければ、今でもまだ、紫煙を燻らせていただろうな。そういうものだ。天才児とて、素行の悪い人間はいくらでも居る。……、そんな明らかに勘違いをした顔するな。俺は煙草も酒もセックスも、ちゃんと成人してから嗜み始めた。自分がバイセクシャルなのを自覚したのも、その年の頃だった」
「……ちょっとヒヤリとした。良かった…安心した…」
何となく初対面時から、ソラが「しごでき」と「遊び慣れている感」を両立させていると、ほんのり思っていたツバサだったが。ソラが禁煙中である理由に、一抹の不安を抱いていた。が、それは本当に杞憂だったらしい。ルカが止めないのであれば、ソラの「遊び」は、ヒルカリオの秩序を乱すようなモノでは無いはずだ。
会話に区切りがついた空気がして、ツバサは座っていた椅子から立ち上がる。スカートのシワを直しながら、ソラに向かって口を開いた。
「お兄様、一旦、シャワーを浴びましょう…。私、シャワールームのボイラーのスイッチを入れてから…、ついでにルカに、お兄様が起きたことを伝えてきますから…」
「ああ、頼む。どうせ、俺たちの会話はルカに筒抜けだ。改まって報告することは、何も無い。お前はそのまま通常業務へ戻ってくれ」
ソラは悪夢にうなされて寝汗を掻いた様子なので、ツバサは仮眠室に併設されているシャワールームを使うことを進言する。すると、ソラはリボンタイを緩めながら、快い返事をした。
仮眠室を後にしようとしたツバサに、ソラの声が掛かる。
「起こしに来てくれて、ありがとう、ツバサ」
「はい、どういたしまして」
何気ないやり取りであっても。此処まで来るのに、少し時間が掛かったかもしれない。
それでも、二人は確かに。互いを「上司と部下」であり、「自分のきょうだい」として、認め合っている。
そして、直接的な干渉は無くとも。
ルカもまた、この二人の絆を、確かに「観測」しているのであった。
to be continued...
靴を脱いだ後は、綺麗に揃えた状態で、靴箱へ仕舞う。汚れた靴下で廊下を歩いてはいけないから、自分のスリッパを出して、それを履く。ぱたぱた、と音を鳴らして廊下を歩くのは行儀が悪い。足音は、なるべく静かに。
ソラが、リビングへと足を踏み入れると、焼き菓子の甘ったるい香りが、一層強くなった。思わず、顔をしかめそうになるが、彼は何とか堪える。母親にその表情を見られるわけにはいかない。何故なら、ソラの母親にとって菓子作りは、『何よりも大切な趣味』だから…。
「あら、おかえりなさい、空」
「ただいま、母さん」
台所から出てきたソラの母親・花蓮(かれん)は、それはもう上機嫌な顔色だった。―――…此処まで機嫌の良い花蓮を見たのは、実に一ヶ月半ぶりだ。それに、父親がこの家に最後に居たのも、一ヶ月半前だ。…ソラは正確に思い出す。
「今夜、お父さんが、久しぶりに帰ってくるんですって。だから、お母さん、張り切ったのよ。お母さんの焼き菓子は、いつだってお父さんに大好評だから。
空もおやつが欲しいでしょう?手を洗って、ランドセルも置いてきなさい。お父さんには内緒で、先に二人で味見しちゃいましょうね」
花蓮は菓子の匂いのような甘ったるい声で、ソラに言う。だが、学校帰りの今のソラには、おやつの時間の前に為すべきことがあった。
「先に、学校からのプリントと連絡帳を―――」
「―――そんなものは、後で良いわ。お母さんとっておきの焼き立てのお菓子が、冷めちゃうわよ?ほら、早く手を洗って、ランドセルを置いてきなさい。早くしなさい、空」
「…はい」
学校からの配布物と連絡帳の確認は、帰宅してから真っ先に行いたい事柄である。だが、花蓮はソラの言葉を遮ってしまう。…結局、ソラは。花蓮に言われた通りにするしかなかった。
手を洗ったソラは、ランドセルをリビングの隅に置いてから。花蓮が待つテーブルへと向かう。
山盛りになったマドレーヌは、ほかほかと温かい空気と同時に甘い香りを放っていた。むせ返るような気分になりながらも、ソラはそれに手を伸ばそうとして、―――そのとき。
花蓮のスマートフォンが鳴った。電話だ。液晶画面には、『英人さん』と表示されている。ソラの実父だ。―――瞬間、ソラの背筋に嫌な汗が伝う。
だが、花蓮はそんな息子とは正反対に、ウキウキとした表情と声で、鳴り続けるスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし?英人さん?いつ帰ってくるの?もうお菓子を焼き上げて―――、……え?……、…嘘でしょ?嘘よね?!ねえ?!帰ってくるって言ったじゃない!!ねえ?!どうして?!ちょっと「またあとで」っていつのこと?!何時間後のこと?!切らないで!!まだ話は終わって―――、英人さん!?英人さん!?ねえ?!ねえってばッ!!」
花蓮のスマートフォンからは、既に父・英人の声は聞こえず。代わりに、通話が切れたことを知らせる虚しい音だけが漏れてきていた。―――その音こそ、ソラにとっては、処刑宣告にも等しい音である。
冷や汗が止まらないソラを前にした花蓮は、先ほどまでの明るい表情から一転、虚無の顔をして。ソラに向かって、口を開く。
「お父さん…、急な仕事が入って、帰ってこれなくなったって…。次の予定はまた連絡するからって…、それだけ言って、電話、切っちゃったよ…」
焼き菓子のように甘ったるかった声は、今や腐敗した林檎のような声だった。
一ヶ月半前、「アップルパイを焼くのよ!」と張り切っていた花蓮が、英人に「急な仕事が入ったから、暫く家を空ける」と言って、さっさと出て行った彼の背中を虚ろに見送った直後。パイに使う予定だった林檎を、台所に放置して、腐らせたのだ。そのときと、同じ空気。
「…空、このお菓子、どうすれば良いと思う…?」
花蓮が虚ろな眼と声で、ソラに問う。近所にお裾分けをする?二人で少しずつ食べる?花蓮が自分の職場に持って行く?
思考を巡らせるソラに反して、花蓮は勝手に喋り始める。
「…、…空が全部食べるべきよね?だって、空は、私たちの息子なんだから…。
お母さんが貴方を妊娠していたとき、お父さんは他の女と浮気を繰り返していた…。お母さんは必死の思いで、空を産んで、そして育てたのよ…?
だから、空は、お母さんの苦しみを、お父さんの代わりに肩代わりする義務があるわ…。だってお父さんは、この場に居ないんだから…。分かるわよね?空?」
花蓮の言葉は、全く筋が通っていない話だった。だが、この手の話は、ソラにとって初めてのことではない。英人が帰宅をドタキャンする度に、繰り返してきた光景。リピートされてきた、家庭内の地獄絵図。
ソラはもう十二歳。来年には中学生。分別のつく年頃であるし、何より、彼は二千年に一度の天才児。身勝手な感情論で暴走する母親を、反論で捻じ伏せることは容易いと、咄嗟に思った。思ってしまった。
「母さん。この量を俺一人で食べきるのは、無理だから。だから、一旦、このマドレーヌは冷凍保存して、…父さんが帰ってきたときに、三人で食べよ―――」
「―――なんですって?!!?空!!!!アンタまで私の言う通りにならないっていうの??!!」
「ッ!!」
ソラの反論を聞いた花蓮が、突然、激高する。バン!!と机を叩きながら立ち上がった花蓮は、座っていた椅子をなぎ倒し、そのまま台所へと向かった。己の母親の激情に怯んだソラは、一瞬、全身を強張らせたが。すぐにクールダウンして、花蓮の後を追う。日頃から情緒不安定な彼女が、一体、何をしでかすのかが、分からなかったからだ。
台所に入ったソラが見たモノ。それは、―――むき出しの包丁を手にした、花蓮だった。
「もういいわ…。何もかも、終わらせましょ…。空、一緒に死んで…?だって、貴方は、私たちの息子なんだから…」
そう呟きながら、幽鬼の如く立つ花蓮。その冷たい視線に射抜かれた瞬間、ソラの脳内は真っ白になった―――………――――
「――――……ッッ!!??」
横たわっていた身体を揺すられて、ソラは急激に覚醒した。思わず、起き上がる。動悸が激しい。身体中から汗が噴き出しているのが分かる。
「あ、お兄様、大丈夫…?とてもうなされていて…。それに酷い汗…、顔色も悪いし…」
ソラが寝ていた仮眠室のベッドのすぐ横には、ツバサが居た。彼女は、己の兄が不調であることを心配している。ソラが交叉させた緑眼は、相変わらず光の差さない陰鬱な瞳だが。そこには確かに、彼のことを心の底から気にかけている真摯な感情が伺えた。
先ほどまで夢に出ていた、母・花蓮の、あの冷たく、虚ろで、不安定で。まるで「空」自身を見ていない目線とは、全くの正反対である。
「……俺の母さんは…、もう死んでいる…」
「…そう…、それは、悲しいね…」
「…そうだな…悲しいんだろうな…。……俺は、未だに、その感情を抱いたことは、無いが…」
急に始まった会話に、仮眠室の空気がひんやりと暗くなった。だが、腹違いの兄妹は、言葉を交わすのを止めない。
ソラが続ける。
「…出張先のホテルで火事が起こり、父さんは逃げ遅れて、そのまま…。…だが、父さんが泊まっていたホテルの部屋からは…、父さんの遺体とは別に、…もう一人分の女性の遺体が出てきた…。…その地元のセクキャバに雇われていた、外国人のキャストということまでは…、当時の俺にまで伝わっていた…」
「それは…、いつの話?」
「俺が十三歳、…中学生になったとき。……警察機関から父さんの訃報を聞いた母さんは、その場で発狂して…。それから、ダイニングの椅子を振り上げて…、家中のモノを壊し尽くした…。…俺が警察から連絡を受けて、学校から急遽、帰ったとき、…実家は、もう荒れ果てた状態で…。母さんは警察が駆けつけたときには、既に心配停止状態…。その後、死亡が確認された…。現場の状況から、自殺だと…。
それから、俺は、甘い菓子が食べられなくなった…。今でこそ、仕事で必要なら口にすることは出来るが…」
壮絶な過去だ。ソラの手は震えている。ツバサはその手を優しく握った。告解は続く。
「中学生で身寄りを無くした俺だったが…、幸い、母さん方の親戚の中に、俺の事情に理解のある、独身男性が居た…。小説家志望の、アニメオタク…。親戚中から白い眼で見られていた…。母さんも悪口を言っていたな…。でも、俺にとっては…、勉強や成績のこと以外で、俺と会話をしてくれようとする、唯一のひとだった…」
ソラの語り口が、一瞬だけ温度を取り戻した。それは、孤独になったソラを引き取ってくれたという独身男性への信頼と情が垣間見えるモノ。
ツバサも少しだけ声に温度を乗せてから、質問を飛ばした。
「そのひとに、引き取られたの…?」
「ああ…。高校を卒業するまで、という約束で…。だが、結局…、俺はローズのツテを頼って、高校一年目から『奨励学生支援寮』と言う場所に、引っ越した…」
兄の声と表情に憂いが戻るのを見た妹は、慎重に言葉を選ぶことにする。信頼を寄せていた親戚から、わざわざ離れていった理由とは…?
「喧嘩でもしたの…?」
「いいや…。あのひととは、至って円満な生活を送っていた…。本当だ…。あのひとは、俺を、本当に対等に扱ってくれていた…。だからこそ、プロデビューのための小説を書きながら、片手間にアルバイトで食い繋ぐあのひとが…、俺を養い始めてから、みるみるうちに痩せ細っていく姿が…、見ていられなくて…」
「お兄様が引っ越した『奨励学生支援寮』に、そのひとを救う手立てが、あった…?」
「そうだ…。奨励学生支援寮に入るには、大きな条件が二つあった。一つは、寮に入る学生は、ギフテッド(天才)であること…。
その寮に入れば、あらゆる生活面を支援して貰える。だが、代わりに、本土の大学病院たちが連なる、医療的研究グループに、資材として様々なデータを提供する必要があった…。
俺が目を付けたのは、…もう一方の条件。入寮するギフテッドの親ないし後見人に対して、多額の礼金が、定期的に支払われるというモノだった…」
なるほど、と、ツバサは納得した。非常にソラらしい基準で、彼は親戚のもとから離れる決意をしたらしい。恩義があるからこそ、自分のために苦労をして欲しくない。生まれ持った己のギフトを、優しくしてくれた親戚のために利用できるのならば、彼は喜んで契約書にサインをしたに違いない。……ソラとは、そういう男。
ツバサが握っていたソラの手は、無意識に指が絡んでいた。震えは、止まっている。だが、冷たい。寝汗を掻いたからだろうか。
「賢いお前だ。もう予想はしているだろうが…。奨励学生支援寮で、俺は琉一と出逢った。琉一は法曹界の重鎮と言われる一族の生まれで…。事実、彼自身も、その未来を期待されていたギフテッドだったが、……本人はゲームセンターでシューティングゲームに明け暮れたい、大の甘党な少年に過ぎなかった」
ソラは僅かに頬を緩めた。残された唯一の家族の前だからこそ、見せる表情かもしれない。ツバサは彼の手を握ったまま、会話を続けることをした。
「二人の出逢いのきっかけが気になる…」
「そうか?きっかけは、大したモノじゃない。単に、俺が出向先の大学病院で、餌付けとして貰っていた菓子の処理に困っていたところを…、それを知った琉一が流してくれと頼んできただけだ。そして、おかしな方向に真面目な奴は、菓子を流してくれるお礼と称して、俺に繁華街の歩き方を教えてくれた。それだけだ。俺たちがつるみ始めたきっかけというのは…」
そう語るソラの口調は、さも「琉一が真面目を拗らせている」とでも言いたげである。だが、兄の台詞を聞いたツバサからすれば、「真面目同士が、化学反応を起こしたに過ぎない」と微笑むことが出来る。
握り合っていた手は既に解かれていたが、この兄妹が築いた温かさを崩すことは無い。
その証拠に、割と表情筋が仕事をしないタイプであるツバサは、ふわふわと微笑んでいるし。ソラは滅多に見せない隙を、妹の前でさらけ出している。
「へえ…、琉一さんって、結構、アウトローだったんだ…。あ、でも、流一さんの目付きが鋭い理由が、これで分かったかも…」
「俺とて、ルカに「匂いが嫌いだからダメ!」と嫌がられていなければ、今でもまだ、紫煙を燻らせていただろうな。そういうものだ。天才児とて、素行の悪い人間はいくらでも居る。……、そんな明らかに勘違いをした顔するな。俺は煙草も酒もセックスも、ちゃんと成人してから嗜み始めた。自分がバイセクシャルなのを自覚したのも、その年の頃だった」
「……ちょっとヒヤリとした。良かった…安心した…」
何となく初対面時から、ソラが「しごでき」と「遊び慣れている感」を両立させていると、ほんのり思っていたツバサだったが。ソラが禁煙中である理由に、一抹の不安を抱いていた。が、それは本当に杞憂だったらしい。ルカが止めないのであれば、ソラの「遊び」は、ヒルカリオの秩序を乱すようなモノでは無いはずだ。
会話に区切りがついた空気がして、ツバサは座っていた椅子から立ち上がる。スカートのシワを直しながら、ソラに向かって口を開いた。
「お兄様、一旦、シャワーを浴びましょう…。私、シャワールームのボイラーのスイッチを入れてから…、ついでにルカに、お兄様が起きたことを伝えてきますから…」
「ああ、頼む。どうせ、俺たちの会話はルカに筒抜けだ。改まって報告することは、何も無い。お前はそのまま通常業務へ戻ってくれ」
ソラは悪夢にうなされて寝汗を掻いた様子なので、ツバサは仮眠室に併設されているシャワールームを使うことを進言する。すると、ソラはリボンタイを緩めながら、快い返事をした。
仮眠室を後にしようとしたツバサに、ソラの声が掛かる。
「起こしに来てくれて、ありがとう、ツバサ」
「はい、どういたしまして」
何気ないやり取りであっても。此処まで来るのに、少し時間が掛かったかもしれない。
それでも、二人は確かに。互いを「上司と部下」であり、「自分のきょうだい」として、認め合っている。
そして、直接的な干渉は無くとも。
ルカもまた、この二人の絆を、確かに「観測」しているのであった。
to be continued...