第五章 Falling Apple

【リーグスティ邸】

あ…、と優那が気が付いて、広げていたスケッチブックから顔を上げたとき。時計は既に深夜の時間帯だった。お気に入りのアンティーク壁時計の針は、日付が変わってから、既に三十分が過ぎたことを指し示している。
手元のサーモマグからハーブティーの残りを飲み干した優那は、それでも癒えぬ喉の渇きを覚えた。随分と制作に入れ込んでいたようである。それもそうだ。次のイラストコンクールで入賞が出来れば、母のミセス・リーグスティから、優那は『正式に認められる』可能性が高い。兄の虚栄は既に朽ちた。ならば、空位になったその椅子には、妹である自分が座る。
優那は密かなる野心に燃えていた。だからこそ、イラストコンクールのための研鑽を欠かしたくない。とはいえ、夜更かしをして体調を崩しては、元も子もないだろう。
台所で水を貰ってから、眠ることにした優那は。そっと寝室の扉を開けて、廊下へと出た。…隣の輝の部屋の扉を見る。そこに従者たちは居ない。ここ数日、輝は感情的になって暴れる素振りが見えないので、食事や風呂など以外は、ミセス・リーグスティの指示で、従者も彼の部屋の前に待機することは無くなった。

台所へ行くと、既に閉まっていた。どうやら調理係は、使用人部屋へと戻ってしまった後の様子。(ワンチャン、仕込みで起きているかも…)、と思っていた優那は、当てが外れたことに肩を落とした。が、すぐに、(あ、そうだ…)、と思いつく。リビングにある小型冷蔵庫に、冷えた麦茶のボトルが置いてあるはずだ、と。

リビングへ歩を進めていた優那は、そこの僅かに開いた扉から灯りが漏れているのを見た。…夜勤の従者が、掃除でもしてくれているのだろうか。

近付くと話し声が、聞こえる。ミセス・リーグスティと、執事長のようだ。何となく入り辛いものの、喉の渇きは癒したい。と思った優那は、意図せず、扉の前で立ち聞きをする羽目になった。すると、ミセス・リーグスティと執事長の会話が聞こえる。

「輝はもう駄目ね。一度でも精神が崩壊したならば、もう手に負えない。それにこのまま家に引き籠らせるのも、体裁が悪いわ。近日中に、本土の大きな病院に問い合わせて、病室を用意させて。間違っても、ヒルカリオのクロックヴィールアカデミーの付属病院にはしないことよ。あの島にはルカが居る。いくら輝が私の教育から脱落したとはいえ、私の敵陣の監視の真っ只中に放り込むわけにはいかないでしょう?
 それと、優那の結婚相手は?良さそうな男は、見つかったかしら?」
「はい、奥様。こちらがお相手の資料にございます」
「……、ユキサカ製薬の社長の甥っ子、…ヤツキ、と読むのね。変わった字面ね。顔立ちは、まあまあ良い方じゃない。でも肝心なのは人格よ。私の娘、それも長女の婿養子として来て貰うのだから、まずは私への従順さが無ければ…」
「その点に於いては、ご心配には及びません。どうやら、自主性が低い性格の持ち主のようでして。特に、ユキサカ製薬の社長様に頭が上がらない素振りを見せているとか」
「そう。ならば、ユキサカ製薬の社長とは、今のうちに仲良くしておきましょう」

優那は動揺した。輝が病院に送られる事実も恐ろしいが、…自分の結婚相手の話の衝撃が過ぎる。確かに優那は、十六歳だ。現法上、結婚は出来る。それでも。

そうして動揺するあまり、優那は思わず、廊下を踏みしめてしまった。ギシッ、という床が軋む音が響く。しまった、と思ったのはもう遅く。

「…入りなさい。優那でしょう?」

リビングの中から、ミセス・リーグスティの声が聞こえた。母の指示に娘の優那が逆らえるはずがなく、彼女はおそるおそると扉を潜った。

ネグリジェ姿で専用の猫足のソファーに腰かけるミセス・リーグスティと、その傍に立つ未だ燕尾服の執事長が、居た。

「何処まで聞いたのかしら?正直に話しなさい。私たちの今後のためにも…」
「に、兄さんが、病院に行くと、…あと、私の、け、結婚相手、が…?」

ミセス・リーグスティの質問に、優那は正直に答える。膝が笑っているのが分かった。だが、ミセス・リーグスティはそんな娘の様子を一笑に付すと、執事長に目線だけで下がるように促す。執事長は親子二人に一礼をして、その場を去って行った。
ミセス・リーグスティが口を開く。

「聞いていたのなら、早いわ。優那、次の週末は空けておきなさい。ユキサカ製薬の社長の甥である、矢槻さんと顔合わせをして貰うわ」
「ちょ、ちょっと待って、ください…!わ、私、結婚なんて…!は、初恋だって、まだなのに…!」
「十六にもなって、子どもっぽいことを言うのは、およしなさい。初恋だなんて、長い人生には重要なことではないわ。それに大切なのは、誰と恋愛するか、ではなく、何故このひとに愛されるべきなのか、よ。女というのは、然るべき男に愛されてこそ、初めて本分を発揮するのだから。…そう、かつてのお母様が、あのひとに、…あなたのお父様に愛されたときのようにね」

優那は震えあがった。だが、ミセス・リーグスティはそんな彼女の真っ青にした顔色など想定内とでも言いたげにして、続きを言う。

「輝が家督を継げない以上、お母様のより良い幸せを築けるのは、―――もう貴女しかいないのよ、優那」
「~~~~~ッッ!!わ、私は!!嫌ですッ!!」

ミセス・リーグスティの言葉を聞いた優那は、とうとう感情が臨界点に達した叫び声をあげると、そのままリビングを飛び出して行った。ミセス・リーグスティはそれでも、走り去る娘の足音に向かって、ふん…、と半端ものを見下すように嗤うと。サイドテーブルに置いてあった、ワイングラスに手を伸ばしたのであった。


優那は一目散に自室へと飛び込み、ベッドの中に包まる。ガタガタガタ、と震える己を抱き締めて、怖い怖いと怯えた。

己の母親を利用しよう、などと考えるべきでは無かったのだ。あのひとは全てを見透かしていた。だって、あのひとは母親だから。

そこで、ふと。優那は自分の勉強机を見た。広げられたスケッチブック、限界まで使っている鉛筆と消しゴム。

(―――逃げなきゃ…)

その想いが湧き出た瞬間。優那は、もう無意識に動いていた。

クローゼットから一番大きなリュックサックを出す。捨てても惜しくない洋服を見繕い、最低限の枚数だけを、圧縮袋に入れる。下着は少しだけ多めに持って行くことにした。
メイク道具も、最低限のものだけをポーチに入れて、リュックサックの中へ。石鹼類は、現地調達すればいい。重たいものは置いていく。出来るだけ身軽に。スマートフォン用の大容量モバイルバッテリーは、常に充電を満タンにしてあるものがある。さすが現代の女子高生。
次に、勉強机の引き出しを開けて、日常的に買い溜めしていたお菓子の中から、特に携帯性の高いものを選んだ。水なら何処にでも売ってあるから、都度、買えば良い。そして、スケッチブックと筆箱を、丁寧にリュックサックへと仕舞い込む。
最後に財布を開いて、手持ちの現金と。スマートフォンのアプリで、電子マネーの残高を確認してから。―――優那は、決意した。

(これだけあれば、…ヒルカリオには入れる。とりあえず、路上で似顔絵や、リクエストのイラストを描いて売れば…。
 でないと…。逃げないと、結婚させられちゃう…!私の人生が、終わっちゃう…!お母様の理想なんて、もう知らない…!!私の自由を取り戻さないと…!!)

優那は明日は学校に行くフリをして、そのまま、ヒルカリオへ家出をする決意をしたのである。

とにかく、現状から逃げることだけを、考えた。



to be continued...
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