第四章 純粋培養

【リーグスティ邸】

ミセス・リーグスティが帰宅すると、屋敷中が物々しい雰囲気に包まれていた。何事かとミセス・リーグスティが問えば、執事長が事情を説明する。曰く。

「輝さまが、また癇癪を起こされまして。そこらじゅうの目に付くものを投げようとしたり、壊そうとしたり…。我々が止めに入ると、発狂したかのように叫び、暴れる始末でして…」

執事長の釈明を聞いたミセス・リーグスティの眉間にしわが寄った。彼女は苦々しい表情をしたまま、口を開く。

「それで、輝のその後は?」
「お医者様から処方されている精神安定剤をお飲みになってから、寝室でお休み中にございます。扉の前に従者を二人控えさせておりますので、何かありましても、対処は出来るかと…」
「そう。まあ、起きてしまったことは仕方がないわ。
 さて、先に夕飯を済ませてしまいしょう。お風呂はゆっくりと入りたいから」

執事長と応酬をするミセス・リーグスティの言動は、酷く冷たいものだった。実の子が著しい精神的な不安定へ陥っているというのに、まるでそんなものは、単なる突発的リスクの一環に過ぎない、とでも言いたげである。現に、ミセス・リーグスティの態度は、トルバドール・セキュリティーにて社長業を勤めている姿と、一向に変わらない。

「輝さまのお食事は、いかがされますか?」
「扉の前に従者が控えているのでしょう?だったら、お腹が空いたら自分で要求してくるはず。寝室に食事を運ばせて、そこで取らせなさい。
 仮にも、情緒不安定で癇癪を引き起こす子どもと、私が同じ食卓を囲むわけにはいかないわ。ヒステリックになって、こちらにフォークでも投げられる可能性だってあるのだから。…考えられるリスクは潰していく。会社経営も育児も、運用するべきマニュアルの根本は同じよ」

ミセス・リーグスティは、執事長の質問を一蹴するどころか、持ち前の育児持論を持ち出してきて、論破の如く畳み掛ける始末。執事長は微かに落胆したかのように表情を暗くした後、すぐに切り替えて、「かしこまりました、奥様。では、そのように手配いたします」と返したのだった。


夕飯の食卓には、ミセス・リーグスティと、娘の優那だけがついていた。優那は先に風呂を終えているらしく、いつもは編み込みにしている髪の毛は解けている。ただし、食事の邪魔にならないように、ヘアゴムで一つに縛っていた。
優那のその姿を改めて見たミセス・リーグスティは、ほう…、と胸中で素直に感心する。自分の子どもとはいえ、思春期の女子高生の容姿に突っ込むのはご法度と捉えているため、敢えてこれまでの優那のスタイリングは見て見ぬふりをして、視界には入れないようにしていたが…。
食べ盛りにして成長期の年頃にしては、ボディーはよく絞ってあるし、そのうえ、ただ細いだけではないことも、座っている姿勢からも分かった。腹筋と背筋を、独自で鍛えているのだと、ミセス・リーグスティは把握する。そういえば、同じ年代の子どもを持っている部下たちが、若者向けの簡単なエクササイズ動画を見ては、談笑している様子を見かけたような…。
そこまで考えて、ミセス・リーグスティは優那への評価を考え直す必要があると、思い至った。さすれば、『対話』をしなければなるまい。

「優那。今日の味付けは好きかしら?」
「え、あ…、はい。白出汁でしっかり味が付いていて…、とても、美味しい鶏肉の唐揚げだと、思います。付け合わせのおろし醤油で頂くのも…、私は、その、大好きでして…」

優那はしどろもどろになりながらも、しっかりと自分の意見と主張を述べられている。ミセス・リーグスティは益々関心した。この子の評価を見誤っていた自分を恥じねばなるまい、と心に決める。

「そう。…お母様はどうやら、優那のことを見くびっていたようだわ。ごめんなさいね。
 これからは輝は『上がってこない』でしょうし…、私は貴女のことをより正しく評価が出来るよう、一層努力することを約束しましょう」
「え…?あの、それは、ど、どういう意味ですか…?兄さんが『上がってこない』って…?」

優那の問いかけには、ミセス・リーグスティは敢えて言葉を選ばずに伝えることにした。ビジネスに於いても、子育てに於いても、自分の意思をはっきりと言葉にして伝えるのは、重要視されるべき点だから。それが当然と思っているミセス・リーグスティは、唐揚げの脂っこさを少しでも押し流すためと用意された、白桃風味の水出し烏龍茶のグラスを持ち上げて、実の娘へと口を開く。

「輝は、学校内でOBに対して決闘騒ぎを起こしたうえに、それに敗北した。それなのに、衆目に醜態を晒したのは、自らの浅慮さが原因だったのにも関わらず、あの子は「周囲が僕を晒し者にしたんです」だの「僕はリーグスティ家の長男の誇りを守りたかっただけです」だの、…信念の無い、その場しのぎの言い訳だけを喚き散らして。そのうえ、お母様が言い訳を受理しないと分かると、…ほら、最近は、自分の部屋に閉じ籠って、学校に行かないどころか、たまに部屋を出てきたかと思えば、ヒステリックに暴れ回る始末でしょう?
 輝はもう、リーグスティの家長である、このお母様の育児方針についてはこれない。故に、上がってこれない、ということよ。でも、大丈夫。お母様には、まだ、優那が残っているのだから」

そこまで言われて、何も察することが出来ないほど、優那は知恵の浅い子ではなかった。だが、同時に。恐ろしい真実を、我が母から聞かされた事実にショックを受ける。

輝は、―――優那の兄は、もう眼前のミセス・リーグスティの視界に入ってはいない。これからは、残された妹の優那が、この母親の期待と圧力を一身に受けなくてはならないのだ。

(そ、それって…それって…!)

優那は震える指先でグラスを手に取って、中身を飲む。白桃の甘い香りがする、烏龍茶の深い旨味。それを嚥下すると共に、優那の中で『答え』が帰結する。

(―――…、もう兄さんに邪魔されずに、…そう、お母様の機嫌さえ取っていれば…、自分の好きな人生が、思いのままに…ということ…?)

芸術を愛する優那が持つ、高い感受性は。その思考回路すらも飛躍させて、誰もが想像も出来ない可能性への示唆を弾き出した。

もう陰で兄に虐げられることはなく。母親の評価の差異に怯えることはなく。ただただ、母親の機嫌は取らなくてはならないが、しかし、それは兄が散々、お手本として示してくれた。自分はあのようには振る舞わない。精々、あくまで基本と考えて、こちらで応用させて貰おう。

優那は、ジッ…、とミセス・リーグスティを見つめる。視線が合った我が母親は、何か意見があるならどうぞ、と言わんばかりの表情をしていた。…この澄ました社長顔、思考回路、育児方針、その他、優那が知らない人生経験。もう丸ごと、利用させて頂く。

「あの、お母様、そ、それでしたら…、次に提出を考えている、イラストコンクールで、わ、私が入賞したら…、お小遣いの値上がりの代わりに…買って頂きたいものが、ありまして…」
「あら、良いわよ。自ら報酬を提示しておいて、結果を出してくると約束する。立派よ、優那。
 それで?何が欲しいの?言ってご覧なさい?」

評価制を敷いているリーグスティ家の教育方針。それを逆手に取った優那は、正当なる『取引』を、ミセス・リーグスティに持ちかける。一人の社長であるミセス・リーグスティが、その取引の椅子へと座らない選択肢は無かった。優那は続ける。

「デジタルイラストの勉強をしたいと思っているので…。それに必要な液晶タブレットが欲しいです。…ノートパソコンは、自分のものがあるから、そっちは平気なので…」
「なるほど。で、その液晶タブレットの相場は?」
「そ、相場全体はピンキリですが…、私が欲しい機種は、二万ほどのものです」

二万という具体的な値段を聞いたミセス・リーグスティは、瞬間、思案顔になった。だが、すぐさま、その口からは言葉が漏れてくる。

「二万…。まあ、パソコンに繋ぐ周辺機器であって、未来への初期投資と思えば、むしろ安上がりですらあるでしょうね。
 分かったわ。お母様は約束しましょう。次のイラストコンクールで、優那が入賞したら、その液晶タブレットを与えてあげる。
 その代わり、今回は優那自身が言い出した条件ゆえ、イラストコンクールで結果が出なかった場合、大学へ進むまで、お母様のルールで動くお小遣い制を続けて貰うわよ。リスクは常に負いなさい。それが大人への道よ、優那」
「は、はい、あ、ありがとうございます…!お母様…!わ、私、頑張ります…!」

ミセス・リーグスティの評価と激励に、優那の眼が輝いた。

(―――…そういうことね。こう使えば良かったのね…!)

優那は気が付いた。自分の母親の『使い方』を。―――もう怖くない。周囲のあらゆるモノに怯える日々とは、サヨナラだ。

己が脳内で閃いたアイデアに、爛々と瞳を瞬かせる優那。

…―――だが、そんな娘の姿を見たミセス・リーグスティもまた、クス…、と不穏な笑みを浮かべながら。最後の一口になっていた唐揚げを頬張ったのである―――…。



to be continued...
5/5ページ
スキ