第一章 復権の母性少女

結局、その日は。午後になってもアンジェリカは、Room ELを再訪してくる素振りは見せなかった。ルカ曰く、「母さん、一度眠っちゃうと、なかなか起きないんだよね〜。健やか〜」とのこと。ルカのその表情は、「自分の母親を名乗る少女が一級高等幹部に復権した」ことなど、まるで気にも留めてない様子そのもので。改めて、アンジェリカが只者ではない、あるはずがない。という事実が、如実に浮かび上がるのである。

そんな午後が過ぎ去り、そろそろ定時が見えてくる頃合い。ツバサのデスクに、ソラがやってきた。ツバサがチェックをしていた書類から顔を上げると、ソラの翡翠の視線をかち合う。
ソラが口を開いた。

「ツバサ。急で悪いが、今日の夜、少し付き合って欲しい。勿論、ご馳走する」
「ええ、いいですよ。私で良ければ…」

どうやら、アフターファイブに誘われている。だが、ソラに下心があるわけがないので、ツバサは快諾した。別に、ふたりで食事をするのも、これが最初でもない。残業した日や、何気なく帰りの時間が被った日など、よくラーメン屋や中華料理屋を始め、大衆料理屋にふたりで赴くことはあったし、稀に酒を飲みに居酒屋に行くこともあった。そう言う意味では、ツバサとソラのふたりは、割と個人間で交流が深かったりする。

「ツバサは、何か食べたいものはあるか?」
「…、オムライスかハンバーグが、食べたいです」
「分かった。そのように手配しよう。
 では、定時に一緒に上がるぞ。ルカにはもう申告してあるから、気にしなくていい」
「かしこまりました…」

ツバサが返事をすれば、ソラは慣れた様子で会話を切り上げると、彼女の前を辞した。

すると、ツバサの隣から、彼女を呼ぶ小さな声がする。デスクの配置的に、ナオトだ。ツバサがナオトに向くと、彼は穏やかな表情で言った。

「すみません、聞き耳を立てていたわけではないのですが…。
 おふたりのやり取りを聞いていると…、最近のソラさんは、まるでお兄さんのような立ち居振る舞いが目立ちますと思いませんか?」
「ああ、確かに…、何となく分かります…。大身槍作戦以前は、「厳しい上司だけど、面倒見の良い」という雰囲気だったのが、それ以降は、「面倒見の良いお兄さん的上司」になったというか…」
「! 解釈一致です。ありがとうございます。拝みます。ああ、尊い…」

ツバサの説明がナオトの中で合致したようだ。実際に拝むような真似はしないが、彼はその左の薄紫色、右の黄色のオッドアイを細めて、恍惚と微笑む。その様子を見たツバサは、同じ『推しがいるオタク』として、彼に問う。

「ナオト先生の推し活は、捗っていますか…?」
「ええ、おかげ様で、僕は幸せな毎日を過ごしております。心より感謝申し上げます。これからも健やかであってくださいね」

ナオトの推しは、このRoom ELの3人だ。その推しに「感謝」を述べ、「健康」を願う絵面は、やはり「限界オタク」のそれでしかない。だが、その光景も慣れた。

「お医者さまの…、それも心療内科の先生の「健やかであれ」は、中々パンチが効いていると言いますか…」
「心の健康には、精神的な栄養素が必要ですから。
 ええ、勿論、生きていくうえでは経口摂取の栄養素も不可欠であるからにして、一日三食、きっちりと食べましょう。お野菜に関しては、まあ、あればいいな、ぐらいで。世の中、物価高ですから。必要な栄養って、実は野菜以外でも補えたりしますよ、意外と」
「急にリアリティを出してきますね…」
「医療の世界が、理想と夢物語だけではどうにもならないことが多すぎるだけです」

ツバサとナオトの間で、そんな内容のお喋りに花が咲いていたが。デスクの向こう側から「そこ。そろそろ仕事へ戻れ」という、ソラの厳しめの声が飛んでくれば、それも止まったのであった。


――――…。

宣告通り、定時で上がったツバサは。ソラに伴って、彼が手配したタクシーに乗り込み、ヒルカリオの中では随一の賑わいを見せる繁華街へと来ていた。此処なら、腹は一杯に満たせるし、それを満たすメニューも選び放題。ただし、代償とでも言うべきか。明るい表通りを歩く分には安全だが、薄暗い路地裏の一本でも入れば、100%の安全は保障されかねる。
ヒルカリオには、ルカという絶対的な監視対象が居るということを差し引いても、それでも観測しきれていない『社会の影』や『闇』が多い。むしろ、正式な機関の監視の目がルカに向きすぎているが故に、そこに住む人間たちに注意が向いていない、とでも称するべきだろう。

閑話休題。
ツバサはタクシーが着いた道に降りて、ソラを待つ。支払いはソラで、更に運転手から彼が領収書を貰っているところを見るに、後日、ルカにタクシー代を経費として申告するのだろう。…ということは、この食事の場で展開するでろう会話や情報は、ルカに筒抜けか、或いは事前に内容が伝わっている、と考えるべきだ。ツバサは、そう結論付ける。

「待たせたな。眼の前の此処が、予約してある店だ。…時間通りだな、入るとしよう。腹が減った」

ソラにそう促されて、ツバサは『創作洋食亭 ヴィレアンダ』と看板が掲げられた店へと、静かに入った。


完全個室に、全席禁煙。注文は個室のタブレットから行う。ひと部屋につき、ひとりの御用聞きが付き、料理の配膳から、その他注文に関する業務は、基本的に、その御用聞きが取り持つという。
このような完璧な店でありながら、ツバサはこの『ヴィレアンダ』という店名は、初めて聞いた。故に、温かいおしぼりで手を拭きながら、関心したように零す。

「凄いお店ですね…。ソラさん、何処でお店の情報を…?」
「去年だったか。たまたま、取引先の相手に、ご厚意で連れて来て頂いてな。
 この店はメディア関係の取材の一切を断り、店からはSNSでの発信もしない、且つ、客にも厳しく禁止していることで、見ての通り、完全に隠れた名店になっている状態だ。
 故にひとの出入りが激しくないことで、雰囲気は穏やかなうえに、システム面も悪くないことから、個人的に良く世話になっている」

的確に答えながらも、ソラは注文用のタブレットを突いていた。『ヴィレアンダ特製 白出汁たまごのオムライス』という文字と、料理の写真が見えたツバサの腹の虫が暴れそうになる。

「オムライス以外に食べたいものがあれば、適当に言ってくれ。お前の食欲なら、大抵のものはペロリと行くだろう?」
「はい…。どれも美味しそうで…、迷っちゃう…」

そう言いながらも、ソラが操作するタブレットの画面を見て、あれとそれと、と注文をするツバサを。ソラは少し穏やかな瞳で見つめていた。


料理が運ばれてきてからは、とにかくツバサは食べることを第一とした。ソラがこの場で何の情報を齎そうとしているのかは気になるが、それはともかく空腹を宥めないといけない。腹が減っては戦は出来ぬ。かつて優秀なサッカー部のゴールキーパーであったツバサも、そして同じく強豪校のミッドフィルダーだったというソラも、その心構えは同じと言えた。
まずは、食べる。綺麗で流暢なマナーも大事だが。何より、出来立ての料理は温かいうちに食べる、というもの。料理人が最高の瞬間で出してくれた一皿には、食べる人間もまた、その最高の瞬間を逃さずに、胃袋へ収めるべきだ。

まず、名物という『白出汁たまごのオムライス』。どんな味付けかと思えば。黒胡椒が良く効いたバターライスに、旨味の強い白出汁を混ぜて、ふんわりと焼いた卵を覆わせて。そして、その頭上に20グラムの無塩バターを乗せ、更に、専用の醤油をかけて頂く。という、何とも罪深いモノ。
他にも、薫り高いローズマリーと山椒の辛味が美味しいタラのカルパッチョ、ケチャップ風味の甘酢が効いたチキン南蛮、魚貝ベースのあっさりホワイトソースで煮込まれたロールキャベツ、店独自のブレンドハーブと新鮮な羊肉がミックスされたメンチカツ、等々。
どれもこれも、至上の美味。ツバサは胃袋だけではなく、心も満たされていくのを、悠々と感じた。

そして。ふたりなら飲めるだろうと、赤ワインを一本を開けて。同じタイミングで注文した、オムライスと並ぶ名物料理『スカボロウフェア・チキンナゲット』をアテに。
ソラは『本題』へと入った。

「…このタイミングで、この情報を明かすには、少しばかり精神衛生上、よろしくないのだが…」

ソラは珍しく言い淀むような前口上のもと、鞄からA4サイズの茶封筒を取り出して、ツバサに差し出す。受け取ったツバサは、「拝見します」と述べて、中身の書類を検めた。
まず、書類の一番上に印字されているロゴマークは『KALAS』のもの。此処は、ルカの専用整備施設だ。未だに主任(リーダー)が空席のため、指揮は代理の者が執っているというのは、ツバサも耳にした。ルカ関連の組織が提示している書類、ということは、機密性の高い情報が内包されているものだろう。だが、それをRoom ELではなく、わざわざ社外の民間施設で出してくる理由は…?

―――…そこまで考えながら、書類の内容を眺めていたツバサは。答えに行き着き、納得する。

「…ソラさんと、私のDNA情報が、一致している…。つまり…」
「ああ。俺とお前は、兄妹だ。…おそらく、母親違いの、だろうが…」
「母親違い、と予測できる理由は…?」
「俺の父さんは、まあ、…正直も何も、本当に、女性関係にだらしないひとでな…。
 俺が物心つく頃には、既に母さんは諦めていたが…。だが、たったひとり、父さんが外で妊娠させてしまった女性の子どもに対して、認知せざるを得ない状況に追い込まれたことがあったらしく…。
 当時、職を失うわけにはいかなかった父さんは、事が大きくなる前に、その親子に対して、養育費を払う約束をした、と…」

衝撃の事実だ。熟成したワインのグラスと、英国伝来のバラードにちなんだナゲットを挟んだ、ふたりの会話が続く。

「…、私は養護院出身の孤児です。養育費など貰ってはいません。それって…」
「ああ、そうだ。俺の父さんが妊娠させた女性、つまり、お前の母親にあたるであろう人物は、…お前を養護院に預けた事実を隠したうえで、俺の父さんから養育費だけを受け取り続けた。
 …お前を責めているわけじゃない。ただ、その女性について、何かお前の方に情報があるなら、俺が持っているものと交換で取引がしたい、と思ったんだ」
「…、今の私では、お力にはなれそうにありません。
 ですが、養護院の方か、あるいは、私の退院後についていた当時の相談員と弁護士に問い合わせることが出来れば、…なにか糸口めいたものが掴める可能性は…、あるような、無いような…」

重たい内容だ。だが、ふたりの瞳からは闘気は消えていない。むしろ、全容の掴めない共通の敵かもしれない相手が居ることに対して、自然と手を取り合おうとしている。
ソラがワインを一口含み、数秒かけて飲み下した後。更に続ける。

「お前の相談員だった御方だが…、数年前に鬼籍に入られている。弁護士の御方は、俺やお前でなく、少し違うアプローチで進めるつもりだ。相手は国選の弁護士だったからな。どういう形であれ、国の所属となると、ルカの直属の部下である俺たちでは、少々、機関の者からの視線が厳しい。…すまない。勝手に計画を進めていて…」
「いいえ…、むしろ安心しています。…ですが、ソラさんがそこまで詰めていながら、尻尾を掴めない女性って…、一体、何者なのでしょうか…」

ツバサもそこまで言ってから、残りのスカボロウフェア・チキンナゲットを齧った。その料理名に冠する通り、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムの4種のハーブが複雑、且つ、誇り高い薫りを醸し出す。咀嚼したナゲットを嚥下してから、ツバサは自分の分のワインを含んだ。
ソラはその間、暫く考える素振りを見せてから、口を開く。

「相手は、ほぼ間違いなく、国家の一端を担うナニかに属している…、というのは、2000年に1人の天才の俺でなくても、分かる話だ。…違うか?」
「…何となく。むしろ、私たちに…、ROG. COMPANYに…、ルカに近い存在だから、…情報を掴ませないように、該当の政府機関が操作している…、とか…?」
「推理としては、悪くない。ただ、そうなると、俺とお前の血縁関係に、ルカ以外の外野が、一体、いつ何処で気が付いたのか?が、争点になってはくるが…」

ソラの言葉を聞いたツバサの緑眼は、口から漏れずとも嘆息と取れる感情を灯した。

「…。ルカは、やっぱり、知っていたんですね」
「決して勘違いしないで欲しいのは、あの男とて無闇に俺たちの身辺情報を掌握していたわけじゃない、ということ。…俺とお前の関係に、ルカが気が付いたのは、先の大身槍作戦を止めるのに、俺のDNA情報を利用できないか否かを、俺が自ら、ルカに進言したからだ。
 …ルカは本当に、何も知らなかったんだと思うぞ。知っての通り、あの男は『正解』しか言わないからな」

そこまで言うと、ソラは翡翠の双眸に悲哀を馴染ませて、それを伏せる。

「逆に、俺の方こそ責められるべきだ…。お前が入院している間に、ルカが開示してくれたお前のDNA情報を、俺のものと照合させたのは、…紛れもなく俺自身の意思だったから…」

赤ワインに濡れたソラの唇が、贖罪に似た言葉を紡いだ。だが、此処は神の御使いがおわす懺悔室でもなければ、悪魔の手先が蔓延る地獄でもない。
事実を正確に把握しようとする、真っ当な人間がふたり、居るだけだ。

「…何故、私のDNAと、ソラさんのものを照合したのか…、その理由を聞いても良いですか…?」
「…ほんの出来心だっただけで…。まさか一致するとは、本当に、本当に、思わなくて…。
 結果が出たときは、ただただ、自分を恥じて…、少し泣いた、かもな…」

ソラの言葉の余韻が、グラスの底に溶けていくように静かに響いた。ツバサはそれ以上は言及せず、ただソラの瞳を見つめて。―――…そして、おもむろに、言葉をかけた。

「もうひとりで、大きな問題を背負い込む必要はありません。
 きょうだい一緒に、そして上司と部下としても…、互いに手を取り合って、この謎に立ち向かいましょう。……お兄様」

そこまで聞いた瞬間。ハッとしたように、ソラが伏せていた翡翠の眼を上げる。よく似通った、否、もう同じ色にしか見えない瞳と、視線が交叉した。

ツバサがワイングラスの傍に置いてあったソラの指先に、自分のそれを重ねる。

暫くして。その重なった指先同士の上に。…温度のある透明な雫と、部屋に溶けていく静かな嗚咽が、零れ始めた。



to be continued...
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