第三章 カリスマ・アディクション
文丘小校長の樹中は、ROG. COMPANYの代表電話に掛けてから、即座に繋がれたRoom ELのソラに、此度の案件を報告して、その対応を約束して貰うまで。職員室の皆の前で、淡々と、そして、堂々としていた。
最後にナオトが樹中に声を掛けられて、相手を変わる。
「はい、ナオトです。何か御用でしょうか」
『ナオト先生、くれぐれもご無理なさらず。更生プログラム中の貴方が傷付くと、ルカが拳を振り上げなくてはならない』
ナオトが要件を問うと、ソラの冷静な声が聞こえた。彼はナオトの身を案じていると同時に、ルカが介入する危険性が如何に高いかを、ナオトに示唆している。それを瞬時に汲み取ったナオトは、静かに微笑みながら、返した。
「ええ、重々承知しております。ご心配には及びません。…きっと」
『よろしい。では、ルカが指揮権を付与した弓野入一級高等幹部と、彼女が率いるレオーネ隊を、当該の小学校へ派遣する。念のため、その家庭科の熊見という教師は、一旦、職員室で隔離しておいて貰えると助かるのだが…』
「そうですねえ…、腕力的な意味では難しいですが。僕は、ご存じの通り、もやし体型ですので」
『…では、それ以外の方法で。貴方なら可能なはずだ、ナオト先生』
「承知しました。精々、無い知恵を絞るとしましょう。他でもない、僕の推しの一人である、ソラさんのお願い事ですから」
ソラとやり取りを終えてから、ナオトは電話を切る。そして、「さて…」と緩慢な動作で、顔を引き攣らせている熊見と視線を合わせて、口を開いた。
「Room ELのソラ秘書官より、「熊見先生を隔離せよ」、との指示が降りました。ですが、この通り、僕は筋力的に非常に薄い体格の持ち主です。さながらラガーマンのような熊見先生には、腕力では到底、勝てません。なので、大人しく、本日はご自身の職務の一切から離れ、職員室にて静かに過ごして頂けると助かります」
ナオトの言い分は、熊見にとっては侮辱にして、屈辱。職員室内で、他教員たちの前で、「お前は容疑者だ」と宣告されたも同然だからだ。
熊見の顔が、ぐにゃり、と歪んだ。怒り、羞恥、屈辱、焦り―――様々な感情が入り混じった表情。
だが、そのすべてを封じ込めるように、ナオトは一歩、踏み出して続ける。
「勿論、これは『命令』ではありません。僕は、ルカ三級高等幹部や、ソラ秘書官のように、他人を拘束する正式な権限は持ち合わせておりませんので。ですが―――…」
ナオトは、穏やかな声色のまま、しかし、そのオッドアイは一切の情を排した氷のような冷たさを宿していた。その美しい顔に女神のような微笑みは、確かに浮かんでいるのに。彼の唇からは、悪魔のような言葉が次々と飛び出てくるではないか。
「―――貴方がこの場で抵抗なさるのであれば、僕は『Room ELからの正式な要請を拒否した』という事実を、しかと記録に残させて頂きます。それがどういう意味を持つのかは、賢明な熊見先生なら、お分かりでしょう?」
職員室に、音一つない沈黙が降りている。咳払いすら、誰にも出来ないほどの、張り詰めた静寂。だが反面、まばたきの震えすら聞こえてきそうな、凍り付いた静謐。
そして、熊見は、震える拳を、ぎゅっ、と握り締めたまま。
「……ッ、了解しました。本日は、此処に居ます…」
それだけを絞り出すように言って、椅子を引き寄せ、どすん!、と荒々しい音を立てて、腰を下ろす。
「ありがとうございます。今は、それだけで充分です」
ナオトは深く礼をすることなく、ただ淡々と、それでも丁寧に、言葉を結ぶ。熊見の前から視線を外し、すぐに背を向けた。
その様子を見た樹中が、「誰か、熊見先生へ、コーヒーを淹れて差し上げなさい」と指示を飛ばした。主任が「はい、私が…」と受理して、給湯室へと下がって行く。
「では、僕はカルテの確認に入ります。熊見先生が勝手に覗き見たとなれば、データの改ざんなどの不正行為が為されていないかが心配です。
藤井先生、カルテの棚の鍵を開けてくれますか?」
「………え、あッ、はッ、はいッ!今すぐに…!」
不意に呼ばれた藤井が、夢心地のような顔から、急激に現実に引き戻された表情になって。わたわたと鍵の保管場所へと小走りで駆けていった。その光景を見た誰もが、改めて、ハッと各々が我に返るのである。
「さて、熊見先生。ROG. COMPANY様から調査チームが来るまでの間の暫く、…この土いじりの話し相手になってくれはしませんかね?」
樹中はそう言いながら、適当なパイプ椅子を引っ張り出してきて広げると。泥まみれの作業服のまま、すとん、と静かに熊見のすぐ隣へと座った。
校長自らが、熊見の相手をする。教育現場に於いて、これほどの拘束力は無い。それすなわち、ナオトがこれ以上、熊見を気に掛ける必要は無く、自分の本来の仕事へ没入出来るように、樹中が仕立て上げているということ。
ナオトは樹中に微笑みかけると、藤井が棚から数回に分けて抱えてきたカルテの束を、猛スピードで捲る作業に入ったのだった。
――――…。
【一時間半後】
「お待たせしたわ、ひとの子たち。私こそ、ROG. COMPANY本社の一級高等幹部、弓野入アンジェリカ。
それと同時に、偉大なる母でもあるが故。あなたたち、心配事、悩み事、迷惑事、果ては今日の夕飯の献立のアイデアまで、憂慮していること全て、遠慮なく、この母に打ち明けるといいわ。ああ、そんなに不安そうな顔にならなくてもよろしい。母は全てを受容してこと、母なのよ。ひとの子は安心して、この母の愛を享受なさい」
そう高らかに宣言しながら、文丘小学校の職員室に降臨したのは。ソラの通達通り、アンジェリカと、その背後を固めたレオーネ隊である。
見た目は十四~十五歳の少女でありながら、「偉大なる母」を堂々公言する姿勢と、その口調と言葉の端に滲む神格性。何より、オーバーすぎるサイズのトレーナーの下から覗く機械義足の両脚が、職員室内に異質と神秘を以て、アンジェリカの顕現を甘受したのだった。
一方、熊見はと言うと。…ナオト以上に得体の知れない存在が出てきたことに、最早、己の胃腸がひっくり返りそうになるような気分すら抱いている。
許されるなら、いっそ泡を吹いて倒れてしまいたい…、なんて。屈辱的な願いすら、自ら無意識に抱いていることすら、当然、知らずに。
「今回の調査を引き受けるにあたって、レオーネ隊の武装は解いてきたわ。まあ、当然よ。可愛いひとの子らが集う学び舎に、物騒な筒や刃物など、不粋。それに、この母にすら、火薬の匂いも、閃く打ち除けも、一切合切、不要中の不要。
本当に必要なのは、対話と、未知のデータ。それはこの母と、ひとの子の会話であり。そして、この母と、教師と児童とナオトくんを交えることで得られる新側面。
安心なさい。母は全てを掬い上げ、解釈し、理解して、最後は受け入れる。
―――さあ、人間よ。この地に生まれた責任を遂行せよ。母なるアンジェリカは、此処に在るわ」
アンジェリカが、そう言い切った。誰もが、その圧に、ぽかん…、としている。否、たった一人ほど、動じていない男が居る。それは勿論、ナオトであり。彼は当然のように、アンジェリカへと進言をし始めた。
「お仕事の度に、ご自身のマニュフェストを掲げるのは大変結構ではありますが。そうも圧力を掛けられては、一般の方々は呼吸すら忘れます。
どうぞ、此処ではお手柔らかにお願いします、アンジェリカさん」
「あら、それは失礼。母というのは、口数が多くなってしまいがちね。どうか、堪えて頂戴、ナオトくん」
「堪えていられるのは、この場では僕だけですので何とも…、…いいえ、樹中校長も、中々の胆力の持ち主のようですね。流石です」
ナオトの言葉通り、教員陣営では樹中だけがゆったりとした表情と佇まいで、二杯目のコーヒーが入ったカップを傾けている。その一方で、樹中が見張りを守っている熊見は、緊張と不安と屈辱が綯い交ぜになった心理状況のせいで、少々の挙動不審を引き起こしており、コーヒーをがぶがぶと飲み続けては、今のカップで既に五杯目を数えている現状。
そんな熊見の姿を一瞥したアンジェリカは、ふ、と笑った。目元を僅かに細めて、口角の両方を上げる。…その笑みのカタチは、息子であるルカにそっくりだ。
そして、おもむろに職員室を、ぐるり、と見回す。此処に居る教員一人一人と、確実に視線を合わせてから、「なるほど…」と、独り言ちた。それから、ナオトへと向き直り、口を開く。
「早速だけど、ナオトくん。この母は、とある作戦を考えたわ。聞いて頂戴」
「ええ、勿論です。現場側の僕は、調査団である貴女の指示に従います、なるべくは」
ナオトの言葉は、ほぼ全面的に従う一面を覗かせつつも、何処か、この調査の責任の全てをアンジェリカに押し付ける気は無さそうにも、聞こえた。
それを聞いたアンジェリカは己の右耳のヘッドフォンをトントンと指先で突き、無線を繋ぐ。―――Room ELへ。
「Hi, ルカ。アンジェリカよ。聞いて頂戴。文丘小学校の混沌ぶりは凄まじいわ。この母が如何に偉大であっても、所詮、母の身はひとつ。全てを捌けない。
ソラくん、ツバサちゃん、琉一くんを寄越して。…え?オレは、って?Room ELを空っぽに出来るわけがないし、貴方自身がヒルカリオから簡単に出て良いわけないでしょう。大人しく電話番をしていなさい、可愛い私の息子。
…え?ツバサちゃんの警護?それは母に任せなさい。…あらあら、母が過保護だと嫌がるなら、ソラくんと琉一くんでも、十分でしょう?それに、貴方ならそこからでも本土の一ヶ所に集まる自分の部下たちのことくらい、きちんと護れるはず。そうでしょう、ルカ?貴方はそのための存在。そして母の愛は絶対。
…ええ、明日にでも。是非に。ではルカ、頼んだわよ」
そこまで怒涛のように言い切ってから、アンジェリカは無線を切った。そして、ナオトに、どやぁ…、と微笑む。
「僭越ながら、アンジェリカさん。最初の一手から、ジョーカーを出すのはいかがなものでしょうか。スポーツのオールスターゲームでもあるまいし…」
対して、ナオトを微笑みつつ、きちんと自分の意見は言う。そして、それを聞いたアンジェリカは、片手をひらひらと振りながら、答えた。
「あらまあ、その解釈も素敵だけど、この場では少し的外れかもしれないわ、ナオトくん。
此処は生身の人間たちが動いている現場。つまり、最初の一手こそ、惜しまず全戦力を投入するべきなのよ。盤面の駒なら、何手先でも読めば済むけれど」
「そうですか。では、僕たちは座して待つしかなさそうです」
「椅子が心地よくて、居眠りなんてしては駄目よ。この母の愛と躾は、大河の流れにして、虎の牙の如く」
またしても、堂々と言い切るアンジェリカ。その圧は凄まじい、…と思いきや、ふと、彼女は職員室中の教員たちに、まるで慈しむかのような目線を向ける。その視線に全員が息を呑むと同時に、アンジェリカは再び口を開く。
「自分が出来ないことがあれば、それが出来るひとに任せる。仕事の基本にして、鉄則。全てを独りぼっちで背負い込む必要なんて、何処にも無いのだわ」
その言葉の意味とは。
調査と銘打って、Room ELを代表してやってきたは良いものの。一目見て察知した、混沌の有り様を前にして。アンジェリカはすぐさま、その混沌に対応が出来るエキスパートを手配した。それこそ、Room ELのメンバーを呼び寄せる、という作戦。…ルカはヒルカリオから出せないため、電話番を言いつけられる羽目にはなったのだが…。
「能力があっても、全てを一人でやるのが正義ではないわ。母は知っている。昨今の教育現場は、人手不足にモチベーション不足、おまけに褒章すら無い場所もあると。
だからこそ、崇める存在を欲し、そしてそこに縋ることで、ツライ現実から少しでも心を軽くしたかったのね。母は一目で見抜いたわ。
…、そしてナオトくんは、その点に関して、深く憂慮している。だからこそ、この弓野入アンジェリカは、此処に顕現した。現場の有り様を見たナオトくんが、そう判断したの。
私が小学校の調査を受ける傍らで、Room ELのメンバーに役割を分担し、文丘小の職員室に居る人間を信頼し、そしてそれら全てを愛と冷静さで調整する…。これは、私こそ動かせる秤よ」
アンジェリカの言葉に、職員室の皆が、頭から冷水をぶっかけられたような気分になった。だが。悪い気分ではなく、むしろ、心地よさすらある。―――ようするに、目が覚めかけている。
熊見というカリスマを据え置くことで。そこに「人気」という信奉に似た感情を向けることで。苦しい現状を見て見ぬふりをしていた。実際、見逃していたこともあったはず。…そう、例えば、樹中の正体だって。―――そういえば、ナオトの前任となる安藤が倒れた理由すら、我々はロクに知らないのでは…?―――
「さて、然るべき頼れる人員の派遣は、あのルカがしかと約束してくれたわ。此処に居るべき私たちが、いま取るべき行動は、ただ一つ…―――」
…―――アンジェリカはそこで言葉を切ると、そのアクア・青・黄に分かたれた不思議な色味の瞳を、熊見に向けた。ビクッ!、と熊見の両肩が跳ね上がり、その顔が恐怖で引き攣る。己の命の危機に等しいモノを感じ取った熊見だったが…。
「貴方には、お休みが必要ね。調査等が終わるまで、貴方は暫く、此処に『見学』にいらっしゃいな」
「? け、見学…?」
てっきり、謹慎、果ては減給とまで言われるかと思いきや。熊見は、アンジェリカに言われた『見学』の言葉を、訳も分からず復唱した。
「そう。カリスマとして皆を見ていた貴方が、今度は、ただ見る立場から、カリスマを眺める番になるの。
そうすれば、貴方も、他の子らも、今より鮮烈な現実を知ることになるわ。母は予言する」
アンジェリカは熊見に笑いかけつつも、真意の読めない発言をする。そしておもむろに、パチン!、と指を鳴らした。
「I am M.A.M. ―――マム・システム、起動。
Room EL嘱託案件、通称『クリーンアップ・ナイアガラ』。
―――今、此処に、始動する!」
少女の見た目をした、絶対的母性が、そう宣言した瞬間。
ナニかが変わると、誰もが確信したのである。
to be continued...
最後にナオトが樹中に声を掛けられて、相手を変わる。
「はい、ナオトです。何か御用でしょうか」
『ナオト先生、くれぐれもご無理なさらず。更生プログラム中の貴方が傷付くと、ルカが拳を振り上げなくてはならない』
ナオトが要件を問うと、ソラの冷静な声が聞こえた。彼はナオトの身を案じていると同時に、ルカが介入する危険性が如何に高いかを、ナオトに示唆している。それを瞬時に汲み取ったナオトは、静かに微笑みながら、返した。
「ええ、重々承知しております。ご心配には及びません。…きっと」
『よろしい。では、ルカが指揮権を付与した弓野入一級高等幹部と、彼女が率いるレオーネ隊を、当該の小学校へ派遣する。念のため、その家庭科の熊見という教師は、一旦、職員室で隔離しておいて貰えると助かるのだが…』
「そうですねえ…、腕力的な意味では難しいですが。僕は、ご存じの通り、もやし体型ですので」
『…では、それ以外の方法で。貴方なら可能なはずだ、ナオト先生』
「承知しました。精々、無い知恵を絞るとしましょう。他でもない、僕の推しの一人である、ソラさんのお願い事ですから」
ソラとやり取りを終えてから、ナオトは電話を切る。そして、「さて…」と緩慢な動作で、顔を引き攣らせている熊見と視線を合わせて、口を開いた。
「Room ELのソラ秘書官より、「熊見先生を隔離せよ」、との指示が降りました。ですが、この通り、僕は筋力的に非常に薄い体格の持ち主です。さながらラガーマンのような熊見先生には、腕力では到底、勝てません。なので、大人しく、本日はご自身の職務の一切から離れ、職員室にて静かに過ごして頂けると助かります」
ナオトの言い分は、熊見にとっては侮辱にして、屈辱。職員室内で、他教員たちの前で、「お前は容疑者だ」と宣告されたも同然だからだ。
熊見の顔が、ぐにゃり、と歪んだ。怒り、羞恥、屈辱、焦り―――様々な感情が入り混じった表情。
だが、そのすべてを封じ込めるように、ナオトは一歩、踏み出して続ける。
「勿論、これは『命令』ではありません。僕は、ルカ三級高等幹部や、ソラ秘書官のように、他人を拘束する正式な権限は持ち合わせておりませんので。ですが―――…」
ナオトは、穏やかな声色のまま、しかし、そのオッドアイは一切の情を排した氷のような冷たさを宿していた。その美しい顔に女神のような微笑みは、確かに浮かんでいるのに。彼の唇からは、悪魔のような言葉が次々と飛び出てくるではないか。
「―――貴方がこの場で抵抗なさるのであれば、僕は『Room ELからの正式な要請を拒否した』という事実を、しかと記録に残させて頂きます。それがどういう意味を持つのかは、賢明な熊見先生なら、お分かりでしょう?」
職員室に、音一つない沈黙が降りている。咳払いすら、誰にも出来ないほどの、張り詰めた静寂。だが反面、まばたきの震えすら聞こえてきそうな、凍り付いた静謐。
そして、熊見は、震える拳を、ぎゅっ、と握り締めたまま。
「……ッ、了解しました。本日は、此処に居ます…」
それだけを絞り出すように言って、椅子を引き寄せ、どすん!、と荒々しい音を立てて、腰を下ろす。
「ありがとうございます。今は、それだけで充分です」
ナオトは深く礼をすることなく、ただ淡々と、それでも丁寧に、言葉を結ぶ。熊見の前から視線を外し、すぐに背を向けた。
その様子を見た樹中が、「誰か、熊見先生へ、コーヒーを淹れて差し上げなさい」と指示を飛ばした。主任が「はい、私が…」と受理して、給湯室へと下がって行く。
「では、僕はカルテの確認に入ります。熊見先生が勝手に覗き見たとなれば、データの改ざんなどの不正行為が為されていないかが心配です。
藤井先生、カルテの棚の鍵を開けてくれますか?」
「………え、あッ、はッ、はいッ!今すぐに…!」
不意に呼ばれた藤井が、夢心地のような顔から、急激に現実に引き戻された表情になって。わたわたと鍵の保管場所へと小走りで駆けていった。その光景を見た誰もが、改めて、ハッと各々が我に返るのである。
「さて、熊見先生。ROG. COMPANY様から調査チームが来るまでの間の暫く、…この土いじりの話し相手になってくれはしませんかね?」
樹中はそう言いながら、適当なパイプ椅子を引っ張り出してきて広げると。泥まみれの作業服のまま、すとん、と静かに熊見のすぐ隣へと座った。
校長自らが、熊見の相手をする。教育現場に於いて、これほどの拘束力は無い。それすなわち、ナオトがこれ以上、熊見を気に掛ける必要は無く、自分の本来の仕事へ没入出来るように、樹中が仕立て上げているということ。
ナオトは樹中に微笑みかけると、藤井が棚から数回に分けて抱えてきたカルテの束を、猛スピードで捲る作業に入ったのだった。
――――…。
【一時間半後】
「お待たせしたわ、ひとの子たち。私こそ、ROG. COMPANY本社の一級高等幹部、弓野入アンジェリカ。
それと同時に、偉大なる母でもあるが故。あなたたち、心配事、悩み事、迷惑事、果ては今日の夕飯の献立のアイデアまで、憂慮していること全て、遠慮なく、この母に打ち明けるといいわ。ああ、そんなに不安そうな顔にならなくてもよろしい。母は全てを受容してこと、母なのよ。ひとの子は安心して、この母の愛を享受なさい」
そう高らかに宣言しながら、文丘小学校の職員室に降臨したのは。ソラの通達通り、アンジェリカと、その背後を固めたレオーネ隊である。
見た目は十四~十五歳の少女でありながら、「偉大なる母」を堂々公言する姿勢と、その口調と言葉の端に滲む神格性。何より、オーバーすぎるサイズのトレーナーの下から覗く機械義足の両脚が、職員室内に異質と神秘を以て、アンジェリカの顕現を甘受したのだった。
一方、熊見はと言うと。…ナオト以上に得体の知れない存在が出てきたことに、最早、己の胃腸がひっくり返りそうになるような気分すら抱いている。
許されるなら、いっそ泡を吹いて倒れてしまいたい…、なんて。屈辱的な願いすら、自ら無意識に抱いていることすら、当然、知らずに。
「今回の調査を引き受けるにあたって、レオーネ隊の武装は解いてきたわ。まあ、当然よ。可愛いひとの子らが集う学び舎に、物騒な筒や刃物など、不粋。それに、この母にすら、火薬の匂いも、閃く打ち除けも、一切合切、不要中の不要。
本当に必要なのは、対話と、未知のデータ。それはこの母と、ひとの子の会話であり。そして、この母と、教師と児童とナオトくんを交えることで得られる新側面。
安心なさい。母は全てを掬い上げ、解釈し、理解して、最後は受け入れる。
―――さあ、人間よ。この地に生まれた責任を遂行せよ。母なるアンジェリカは、此処に在るわ」
アンジェリカが、そう言い切った。誰もが、その圧に、ぽかん…、としている。否、たった一人ほど、動じていない男が居る。それは勿論、ナオトであり。彼は当然のように、アンジェリカへと進言をし始めた。
「お仕事の度に、ご自身のマニュフェストを掲げるのは大変結構ではありますが。そうも圧力を掛けられては、一般の方々は呼吸すら忘れます。
どうぞ、此処ではお手柔らかにお願いします、アンジェリカさん」
「あら、それは失礼。母というのは、口数が多くなってしまいがちね。どうか、堪えて頂戴、ナオトくん」
「堪えていられるのは、この場では僕だけですので何とも…、…いいえ、樹中校長も、中々の胆力の持ち主のようですね。流石です」
ナオトの言葉通り、教員陣営では樹中だけがゆったりとした表情と佇まいで、二杯目のコーヒーが入ったカップを傾けている。その一方で、樹中が見張りを守っている熊見は、緊張と不安と屈辱が綯い交ぜになった心理状況のせいで、少々の挙動不審を引き起こしており、コーヒーをがぶがぶと飲み続けては、今のカップで既に五杯目を数えている現状。
そんな熊見の姿を一瞥したアンジェリカは、ふ、と笑った。目元を僅かに細めて、口角の両方を上げる。…その笑みのカタチは、息子であるルカにそっくりだ。
そして、おもむろに職員室を、ぐるり、と見回す。此処に居る教員一人一人と、確実に視線を合わせてから、「なるほど…」と、独り言ちた。それから、ナオトへと向き直り、口を開く。
「早速だけど、ナオトくん。この母は、とある作戦を考えたわ。聞いて頂戴」
「ええ、勿論です。現場側の僕は、調査団である貴女の指示に従います、なるべくは」
ナオトの言葉は、ほぼ全面的に従う一面を覗かせつつも、何処か、この調査の責任の全てをアンジェリカに押し付ける気は無さそうにも、聞こえた。
それを聞いたアンジェリカは己の右耳のヘッドフォンをトントンと指先で突き、無線を繋ぐ。―――Room ELへ。
「Hi, ルカ。アンジェリカよ。聞いて頂戴。文丘小学校の混沌ぶりは凄まじいわ。この母が如何に偉大であっても、所詮、母の身はひとつ。全てを捌けない。
ソラくん、ツバサちゃん、琉一くんを寄越して。…え?オレは、って?Room ELを空っぽに出来るわけがないし、貴方自身がヒルカリオから簡単に出て良いわけないでしょう。大人しく電話番をしていなさい、可愛い私の息子。
…え?ツバサちゃんの警護?それは母に任せなさい。…あらあら、母が過保護だと嫌がるなら、ソラくんと琉一くんでも、十分でしょう?それに、貴方ならそこからでも本土の一ヶ所に集まる自分の部下たちのことくらい、きちんと護れるはず。そうでしょう、ルカ?貴方はそのための存在。そして母の愛は絶対。
…ええ、明日にでも。是非に。ではルカ、頼んだわよ」
そこまで怒涛のように言い切ってから、アンジェリカは無線を切った。そして、ナオトに、どやぁ…、と微笑む。
「僭越ながら、アンジェリカさん。最初の一手から、ジョーカーを出すのはいかがなものでしょうか。スポーツのオールスターゲームでもあるまいし…」
対して、ナオトを微笑みつつ、きちんと自分の意見は言う。そして、それを聞いたアンジェリカは、片手をひらひらと振りながら、答えた。
「あらまあ、その解釈も素敵だけど、この場では少し的外れかもしれないわ、ナオトくん。
此処は生身の人間たちが動いている現場。つまり、最初の一手こそ、惜しまず全戦力を投入するべきなのよ。盤面の駒なら、何手先でも読めば済むけれど」
「そうですか。では、僕たちは座して待つしかなさそうです」
「椅子が心地よくて、居眠りなんてしては駄目よ。この母の愛と躾は、大河の流れにして、虎の牙の如く」
またしても、堂々と言い切るアンジェリカ。その圧は凄まじい、…と思いきや、ふと、彼女は職員室中の教員たちに、まるで慈しむかのような目線を向ける。その視線に全員が息を呑むと同時に、アンジェリカは再び口を開く。
「自分が出来ないことがあれば、それが出来るひとに任せる。仕事の基本にして、鉄則。全てを独りぼっちで背負い込む必要なんて、何処にも無いのだわ」
その言葉の意味とは。
調査と銘打って、Room ELを代表してやってきたは良いものの。一目見て察知した、混沌の有り様を前にして。アンジェリカはすぐさま、その混沌に対応が出来るエキスパートを手配した。それこそ、Room ELのメンバーを呼び寄せる、という作戦。…ルカはヒルカリオから出せないため、電話番を言いつけられる羽目にはなったのだが…。
「能力があっても、全てを一人でやるのが正義ではないわ。母は知っている。昨今の教育現場は、人手不足にモチベーション不足、おまけに褒章すら無い場所もあると。
だからこそ、崇める存在を欲し、そしてそこに縋ることで、ツライ現実から少しでも心を軽くしたかったのね。母は一目で見抜いたわ。
…、そしてナオトくんは、その点に関して、深く憂慮している。だからこそ、この弓野入アンジェリカは、此処に顕現した。現場の有り様を見たナオトくんが、そう判断したの。
私が小学校の調査を受ける傍らで、Room ELのメンバーに役割を分担し、文丘小の職員室に居る人間を信頼し、そしてそれら全てを愛と冷静さで調整する…。これは、私こそ動かせる秤よ」
アンジェリカの言葉に、職員室の皆が、頭から冷水をぶっかけられたような気分になった。だが。悪い気分ではなく、むしろ、心地よさすらある。―――ようするに、目が覚めかけている。
熊見というカリスマを据え置くことで。そこに「人気」という信奉に似た感情を向けることで。苦しい現状を見て見ぬふりをしていた。実際、見逃していたこともあったはず。…そう、例えば、樹中の正体だって。―――そういえば、ナオトの前任となる安藤が倒れた理由すら、我々はロクに知らないのでは…?―――
「さて、然るべき頼れる人員の派遣は、あのルカがしかと約束してくれたわ。此処に居るべき私たちが、いま取るべき行動は、ただ一つ…―――」
…―――アンジェリカはそこで言葉を切ると、そのアクア・青・黄に分かたれた不思議な色味の瞳を、熊見に向けた。ビクッ!、と熊見の両肩が跳ね上がり、その顔が恐怖で引き攣る。己の命の危機に等しいモノを感じ取った熊見だったが…。
「貴方には、お休みが必要ね。調査等が終わるまで、貴方は暫く、此処に『見学』にいらっしゃいな」
「? け、見学…?」
てっきり、謹慎、果ては減給とまで言われるかと思いきや。熊見は、アンジェリカに言われた『見学』の言葉を、訳も分からず復唱した。
「そう。カリスマとして皆を見ていた貴方が、今度は、ただ見る立場から、カリスマを眺める番になるの。
そうすれば、貴方も、他の子らも、今より鮮烈な現実を知ることになるわ。母は予言する」
アンジェリカは熊見に笑いかけつつも、真意の読めない発言をする。そしておもむろに、パチン!、と指を鳴らした。
「I am M.A.M. ―――マム・システム、起動。
Room EL嘱託案件、通称『クリーンアップ・ナイアガラ』。
―――今、此処に、始動する!」
少女の見た目をした、絶対的母性が、そう宣言した瞬間。
ナニかが変わると、誰もが確信したのである。
to be continued...