第三章 カリスマ・アディクション
【四日後 文丘小学校 職員室】
各自の席で一斉に背筋を伸ばして起立している教員たちを背後に。ナオトは、主任とその隣に居る熊見にしかと目線を合わせて、堂々と立っていた。歓迎されていた初日とは正反対に、主任の表情は渋い。その手には、熊見が提出した報告書が収まっていた。しかと読み終えた後なのだろう。紙には微かな皺が入っている。それに。
「鈴ヶ原先生、これは一体どういうことなのか…。是非、ご説明を」
主任の硬い声が、静寂に包まれている職員室に響く。だが、ナオトは揺るがない。
「申し訳ございません。僕に何を問いたいのか、…その提起を明確に、お願いいたします。
軽はずみな発言は許されるべきではありません。僕は、医者ですので」
ナオトの淀みない返事に、溜め息を零したのは、熊見だった。彼は大きな体躯で見下ろすかのように、ナオトに向かって口を開く。
「鈴ヶ原先生のカウンセリングを受けている児童の保護者の方々から、クレームが寄せられていますよ。
曰く、「帰宅してからずっと、妙に落ち着かない行動を見せる」、「何もないのに、急に怒り出したり、そうかと思えば、何事も無かったかのように笑ったりしている」、「夜中に急に癇癪を起こして、朝まで泣いて、寝付いてくれなかった」、「宿題もゲームもお風呂も、何も手に付けようとしない。まるで屍だ」など…。
そして、児童たちがこのような奇行を見せた日には、共通点があります。…そうです、鈴ヶ原先生による。放課後のカウンセリングを受けた日の夜、ないし、翌日以降の話です。
此処まで我々に言わせておいて、何も分からない貴方ではないでしょう?」
熊見の言葉に、主任は同調しているように、頷いた。背後の教員たちからは、軍隊のような空気が伝わってくる。そう、まるで。ソラが指揮するグレイス隊のような―――…。
ナオトは、ふむ…、と一息入れてから、己の考えを述べ始めた。
「…つまり、僕のカウンセリングに不手際がある、と追及したいのですね。
なるほど。それでしたら、校内に於いて、少し調査が必要になります。ええ、勿論、組織内の責任の所在を明らかにするには、調査というのは不可欠な工程ですから、そちらに拒む理由もありませんでしょう?」
ナオトの見解を聞いた熊見は、途端、苦笑いを浮かべ始めた。
「いやいや、そんな大袈裟なお話にしなくても…。それとも、調査と銘打って、事を曖昧にし、責任逃れでもしたいのですかな?」
「あらまあ、熊見先生。その言い方だと、まるで、もう今回の案件は僕に全ての責任があると、そちらでは確信なさっているように聞こえますよ?
それは、よろしくありません。僕の背後に、誰が、ナニが、聳え立っているのか、お忘れでしょうか?
熊見先生、ご自身の発言の内容には、努々、お気をつけください」
「…。大きな権力に屈するようでは、教師など、到底していられませんな。
…鈴ヶ原先生こそ、此処が一体、ご自身にとって、どのような場所であるのかを、…今一度、自覚なさってください」
「ありがとうございます。ですが、僕は自覚は勿論、覚悟すらも、とうに出来ております」
熊見が微かに歯ぎしりをしたのが、ナオトには見える。そして、敢えて、その美しいオッドアイと顔立ちで、にこり、と仄かに笑ってみせた。こういうときに相手に微笑みを投げるのは、他の誰でもない、ルカのカードの切り方―――つまり、ルカ的煽りの手法、である。直属の上司にして、推しである彼から、ナオトはしかと学んでいた。二回目になるが、こういうとき、のために。
「…ッ、なはは!鈴ヶ原先生はさすが、プロフェッショナルであらせられる!他人の心理を掴み、上手に操ろうとするのが、実にお得意なご様子で!
このような芸当の一端を見せつけられては、この熊見も、まだまだ未熟者でありますなあ!」
熊見がわざとらしく豪快に笑う。職員室に乾いた同調の空気が蔓延ったのが分かった。ナオトが微笑んだまま、沈黙して、事の進みを見据えていると。案の定、ナオトに煽られた弾みで、熊見は勝手に喋り始める。
「カウンセリングが原因で不安を覚えている児童がいる一方で、貴方を熱く支持する児童も、じわじわと増えている。まさに人心掌握とでも言うべき能力。さすが、ROG. COMPANYの三級高等幹部殿のもとで、お仕事を任されてるだけのことはありますな。
ですがね、カルテの書き方には、少々問題があるとお見受けしますぞ?安藤先生は、カルテにはあくまで児童に対する見解だけを書き記しておられるまでに留まっていたのに、鈴ヶ原先生ときたら、教職員たちと児童の関係図を勝手に推察するようなメモまで残して…。いやはや、第三者があのカルテを見たら、おかしな誤解を―――」
「―――お待ちください。今の熊見先生のご発言は、到底、聞き捨てなりませんが?」
ナオトが熊見の台詞をぶった斬った。調子付いて喋っていた熊見がナオトに視線を合わせると、―――途端、彼はギョッとする。
ナオトから笑みが消えている。オッドアイは冷たい光を灯して、薄く開いた唇から漏れる呼吸は、職員室内に、…否、熊見に対して、激しい怒りの息を吹きかけていた。
突然放たれ始めた、凄まじい威圧感を前にして、口を噤んだ熊見に向かって、ナオトは類まれなる美貌が上乗せされた、冷酷なまでに静かな激高の言葉を向ける。
「カルテを見た、と?医者の許可を無しに?カウンセリングそのものに、何の関係性も無いはずの、たかが家庭科の教員が?
確かにカルテを仕舞う棚の鍵は、文丘小の教職員の権利です。しかし、だからと言って、医者である僕の許可も無く、患者のカルテを覗き見るなどという蛮行が許されるというような、幼稚な言い訳へと転用は出来ません。
カルテは高度な個人情報の集まりであり、患者の尊厳を記している、医者にとって何より大切なモノです。それをまさしく『第三者』に勝手に覗かれたとなれば、―――僕は一人の医者として、貴方に然るべき叱責を施さねばなりません」
医者・鈴ヶ原ナオトとして、熊見に毅然と言い放つその姿は。…正確には、その後ろ姿が。直立不動に起立していた他教員たちの間に、微かな熱を齎す。
―――…この情熱、この志、この責任感と正義感、…あれ?己らは、高潔なる教育現場に居ながら、心の何処かで、ナニかを忘れていなかっただろうか…?―――
逆に、カリスマ教師・熊見次郎は、異様な光景と空気を、自分の眼と肌で、しかと感じ取っていた。ナオトの背中を見つめる他教員たちの、その熱烈な視線は。明らかに自分が、以前より集めていたはずのもので。
―――…自分をカリスマと崇めていた他教員たちの日々が、何処かに去ろうとでも?自分が頂点から引き摺り下ろされる?たかだか、二週間程度の繋ぎでしかない若い医者如きに…?―――
「主任、ご決断を。―――僕のカウンセリングに重大な不手際があるのかどうか。それとも、他に追及するべき責任があるのかどうか。
その調査は、我々、ROG. COMPANY 特殊対応室、通称・Room ELが委任した者が、全ての責任と誠意と正義を以て、厳粛に執り行いましょう。僕は更生プログラム中ですので、僕に関連した案件の全てを洗うのは、Room ELの役割となります。当室の指揮権を持つルカ三級高等幹部と、副長のソラ秘書官には、それを統括する権限を、正式に国より与えられておりますので、どうかご安心を。
…さて、それでも、これらにご同意頂けないのであれば…、僕は普通に、学内の個人情報の取り扱いの観点から問題提起し、僕から正式に本土の警察機関と、ヒルカリオを統括する統制機関へと通報させて頂きますが。―――いかがいたしましょうか?主任?」
「…ッ、…ッ」
ナオトが真実と現実を畳み掛ける。主任が言葉を詰まらせていると。―――突然、職員室の扉が開いた。
「ふう、暑い、暑い。すみませんが、冷たいお水を頂けないでしょうか?」
年季の入った麦わら帽子、泥まみれの作業服の出で立ちの、老紳士が。首に巻いたタオルで汗を拭きつつ、そう言いながら、職員室へと入ってきたではないか。
ハッと我に返った熊見が、老紳士に声を掛ける。
「申し訳ない。今はそれどころではないのです。お水なら後で花壇まで持って行かせますから、今は持ち場に戻ってください」
「ああ、聞こえていましたよ。そこの窓が少しだけ開いておりましたもんでねえ。何も花壇は、校内に一つだけではないでしょうに。ご存じなかったか?」
意外にもしっかりと言い返してきた老紳士に対して、熊見のこめかみに微かな青筋が浮かぶ。熊見はそのまま老紳士に向かって、糾弾するように口を開いた。
「…お行儀の悪い紳士だ。学内の、それも職員室という聖域での情報を…、ただの用務員である貴方が盗み聞きするとは」
「そちらの鈴ヶ原先生は、そうとも思っていない様子ですがねえ」
「…?」
老紳士の言葉の意味が分からなかった熊見は、再びナオトに視線を戻す。その直後、ナオトの目線は老紳士に向いた。
「ジェントルマン、…失礼、恥ずかしながら、未だお名前を存じ上げていないので。
して、文丘小学校の職員室にて展開されたこの事態を、どうご覧になりましたか?」
あろうことか。ナオトは老紳士に答えを求めようとしている。熊見は、ハッ、と見下すように嗤った。職員室内の他教員も、さすがにそれは…、と言った表情になる。
―――だが、喧騒の女神と、沈静の悪魔は、同時に、ナオトに微笑んだ。
老紳士は、麦わら帽子を脱ぐと。緩慢な動作ながらも、ピン、と背筋を伸ばして、年齢が刻む皺の入った目元を、きゅっ、と細める。
「―――文丘小学校校長、この樹中海之助(きなか かいのすけ)が、此処に決断しましょう。
ROG. COMPANY 特殊対応室へと通報し、そこから派遣されるべき第三者によって、本件の調査を依頼します。
主任。外線を繋ぎなさい。私が、ROG. COMPANY様の代表電話へと掛けます」
老紳士―――樹中の言葉に、職員室中がざわついた。正確に言うと、ナオト以外の皆が、だ。
主任が震えながら、樹中に問う。
「こ、校長が自ら…?!そ、それはさすがに…!わ、わたくしめが責任を以て掛けますので、校長は―――」
「―――その君の責任とやらに甘んじ過ぎた、私の取るべき責任だよ。控えなさい、主任。それとも、この樹中の指示が受け取れないか?」
「い、いいえ…ッそのようなことは…!す、すぐに外線を、繋ぎます…!」
わたわたと電話を操作し始める主任を見つめる樹中。…を、ナオト以外の皆が、呆然と見やる。
主任とナオト以外の、皆が皆、知らなかった。土いじりの用務員だと思っていた、このただの老人が。この樹中が。文丘小学校の校長だったなんて。当然、熊見も知らなかった事実だ。
小学校の経営と運命の表面は、事務職員や、他教員たちで回しているとばかり思っていたから。それで回っているとばかりに、勘違いしていたから。
―――…この学校を支える真のフィクサーは、太陽の下で土をいじり、泥にまみれ、香り高い花とハーブを育てていたのだ…―――
ナオトと樹中の視線が交叉した。途端、ナオトが口を開く。
「ご英断にございます、樹中校長」
ナオトはそう言って、樹中に丁寧に腰を折った。
「ありがとう。貴方が私を信じてくれたおかげです」
樹中は穏やかな笑みで、そう返したのだった。
その光景に、熊見がわなわなと震えているのを、この二人はきっと分かっている。
to be continued...
各自の席で一斉に背筋を伸ばして起立している教員たちを背後に。ナオトは、主任とその隣に居る熊見にしかと目線を合わせて、堂々と立っていた。歓迎されていた初日とは正反対に、主任の表情は渋い。その手には、熊見が提出した報告書が収まっていた。しかと読み終えた後なのだろう。紙には微かな皺が入っている。それに。
「鈴ヶ原先生、これは一体どういうことなのか…。是非、ご説明を」
主任の硬い声が、静寂に包まれている職員室に響く。だが、ナオトは揺るがない。
「申し訳ございません。僕に何を問いたいのか、…その提起を明確に、お願いいたします。
軽はずみな発言は許されるべきではありません。僕は、医者ですので」
ナオトの淀みない返事に、溜め息を零したのは、熊見だった。彼は大きな体躯で見下ろすかのように、ナオトに向かって口を開く。
「鈴ヶ原先生のカウンセリングを受けている児童の保護者の方々から、クレームが寄せられていますよ。
曰く、「帰宅してからずっと、妙に落ち着かない行動を見せる」、「何もないのに、急に怒り出したり、そうかと思えば、何事も無かったかのように笑ったりしている」、「夜中に急に癇癪を起こして、朝まで泣いて、寝付いてくれなかった」、「宿題もゲームもお風呂も、何も手に付けようとしない。まるで屍だ」など…。
そして、児童たちがこのような奇行を見せた日には、共通点があります。…そうです、鈴ヶ原先生による。放課後のカウンセリングを受けた日の夜、ないし、翌日以降の話です。
此処まで我々に言わせておいて、何も分からない貴方ではないでしょう?」
熊見の言葉に、主任は同調しているように、頷いた。背後の教員たちからは、軍隊のような空気が伝わってくる。そう、まるで。ソラが指揮するグレイス隊のような―――…。
ナオトは、ふむ…、と一息入れてから、己の考えを述べ始めた。
「…つまり、僕のカウンセリングに不手際がある、と追及したいのですね。
なるほど。それでしたら、校内に於いて、少し調査が必要になります。ええ、勿論、組織内の責任の所在を明らかにするには、調査というのは不可欠な工程ですから、そちらに拒む理由もありませんでしょう?」
ナオトの見解を聞いた熊見は、途端、苦笑いを浮かべ始めた。
「いやいや、そんな大袈裟なお話にしなくても…。それとも、調査と銘打って、事を曖昧にし、責任逃れでもしたいのですかな?」
「あらまあ、熊見先生。その言い方だと、まるで、もう今回の案件は僕に全ての責任があると、そちらでは確信なさっているように聞こえますよ?
それは、よろしくありません。僕の背後に、誰が、ナニが、聳え立っているのか、お忘れでしょうか?
熊見先生、ご自身の発言の内容には、努々、お気をつけください」
「…。大きな権力に屈するようでは、教師など、到底していられませんな。
…鈴ヶ原先生こそ、此処が一体、ご自身にとって、どのような場所であるのかを、…今一度、自覚なさってください」
「ありがとうございます。ですが、僕は自覚は勿論、覚悟すらも、とうに出来ております」
熊見が微かに歯ぎしりをしたのが、ナオトには見える。そして、敢えて、その美しいオッドアイと顔立ちで、にこり、と仄かに笑ってみせた。こういうときに相手に微笑みを投げるのは、他の誰でもない、ルカのカードの切り方―――つまり、ルカ的煽りの手法、である。直属の上司にして、推しである彼から、ナオトはしかと学んでいた。二回目になるが、こういうとき、のために。
「…ッ、なはは!鈴ヶ原先生はさすが、プロフェッショナルであらせられる!他人の心理を掴み、上手に操ろうとするのが、実にお得意なご様子で!
このような芸当の一端を見せつけられては、この熊見も、まだまだ未熟者でありますなあ!」
熊見がわざとらしく豪快に笑う。職員室に乾いた同調の空気が蔓延ったのが分かった。ナオトが微笑んだまま、沈黙して、事の進みを見据えていると。案の定、ナオトに煽られた弾みで、熊見は勝手に喋り始める。
「カウンセリングが原因で不安を覚えている児童がいる一方で、貴方を熱く支持する児童も、じわじわと増えている。まさに人心掌握とでも言うべき能力。さすが、ROG. COMPANYの三級高等幹部殿のもとで、お仕事を任されてるだけのことはありますな。
ですがね、カルテの書き方には、少々問題があるとお見受けしますぞ?安藤先生は、カルテにはあくまで児童に対する見解だけを書き記しておられるまでに留まっていたのに、鈴ヶ原先生ときたら、教職員たちと児童の関係図を勝手に推察するようなメモまで残して…。いやはや、第三者があのカルテを見たら、おかしな誤解を―――」
「―――お待ちください。今の熊見先生のご発言は、到底、聞き捨てなりませんが?」
ナオトが熊見の台詞をぶった斬った。調子付いて喋っていた熊見がナオトに視線を合わせると、―――途端、彼はギョッとする。
ナオトから笑みが消えている。オッドアイは冷たい光を灯して、薄く開いた唇から漏れる呼吸は、職員室内に、…否、熊見に対して、激しい怒りの息を吹きかけていた。
突然放たれ始めた、凄まじい威圧感を前にして、口を噤んだ熊見に向かって、ナオトは類まれなる美貌が上乗せされた、冷酷なまでに静かな激高の言葉を向ける。
「カルテを見た、と?医者の許可を無しに?カウンセリングそのものに、何の関係性も無いはずの、たかが家庭科の教員が?
確かにカルテを仕舞う棚の鍵は、文丘小の教職員の権利です。しかし、だからと言って、医者である僕の許可も無く、患者のカルテを覗き見るなどという蛮行が許されるというような、幼稚な言い訳へと転用は出来ません。
カルテは高度な個人情報の集まりであり、患者の尊厳を記している、医者にとって何より大切なモノです。それをまさしく『第三者』に勝手に覗かれたとなれば、―――僕は一人の医者として、貴方に然るべき叱責を施さねばなりません」
医者・鈴ヶ原ナオトとして、熊見に毅然と言い放つその姿は。…正確には、その後ろ姿が。直立不動に起立していた他教員たちの間に、微かな熱を齎す。
―――…この情熱、この志、この責任感と正義感、…あれ?己らは、高潔なる教育現場に居ながら、心の何処かで、ナニかを忘れていなかっただろうか…?―――
逆に、カリスマ教師・熊見次郎は、異様な光景と空気を、自分の眼と肌で、しかと感じ取っていた。ナオトの背中を見つめる他教員たちの、その熱烈な視線は。明らかに自分が、以前より集めていたはずのもので。
―――…自分をカリスマと崇めていた他教員たちの日々が、何処かに去ろうとでも?自分が頂点から引き摺り下ろされる?たかだか、二週間程度の繋ぎでしかない若い医者如きに…?―――
「主任、ご決断を。―――僕のカウンセリングに重大な不手際があるのかどうか。それとも、他に追及するべき責任があるのかどうか。
その調査は、我々、ROG. COMPANY 特殊対応室、通称・Room ELが委任した者が、全ての責任と誠意と正義を以て、厳粛に執り行いましょう。僕は更生プログラム中ですので、僕に関連した案件の全てを洗うのは、Room ELの役割となります。当室の指揮権を持つルカ三級高等幹部と、副長のソラ秘書官には、それを統括する権限を、正式に国より与えられておりますので、どうかご安心を。
…さて、それでも、これらにご同意頂けないのであれば…、僕は普通に、学内の個人情報の取り扱いの観点から問題提起し、僕から正式に本土の警察機関と、ヒルカリオを統括する統制機関へと通報させて頂きますが。―――いかがいたしましょうか?主任?」
「…ッ、…ッ」
ナオトが真実と現実を畳み掛ける。主任が言葉を詰まらせていると。―――突然、職員室の扉が開いた。
「ふう、暑い、暑い。すみませんが、冷たいお水を頂けないでしょうか?」
年季の入った麦わら帽子、泥まみれの作業服の出で立ちの、老紳士が。首に巻いたタオルで汗を拭きつつ、そう言いながら、職員室へと入ってきたではないか。
ハッと我に返った熊見が、老紳士に声を掛ける。
「申し訳ない。今はそれどころではないのです。お水なら後で花壇まで持って行かせますから、今は持ち場に戻ってください」
「ああ、聞こえていましたよ。そこの窓が少しだけ開いておりましたもんでねえ。何も花壇は、校内に一つだけではないでしょうに。ご存じなかったか?」
意外にもしっかりと言い返してきた老紳士に対して、熊見のこめかみに微かな青筋が浮かぶ。熊見はそのまま老紳士に向かって、糾弾するように口を開いた。
「…お行儀の悪い紳士だ。学内の、それも職員室という聖域での情報を…、ただの用務員である貴方が盗み聞きするとは」
「そちらの鈴ヶ原先生は、そうとも思っていない様子ですがねえ」
「…?」
老紳士の言葉の意味が分からなかった熊見は、再びナオトに視線を戻す。その直後、ナオトの目線は老紳士に向いた。
「ジェントルマン、…失礼、恥ずかしながら、未だお名前を存じ上げていないので。
して、文丘小学校の職員室にて展開されたこの事態を、どうご覧になりましたか?」
あろうことか。ナオトは老紳士に答えを求めようとしている。熊見は、ハッ、と見下すように嗤った。職員室内の他教員も、さすがにそれは…、と言った表情になる。
―――だが、喧騒の女神と、沈静の悪魔は、同時に、ナオトに微笑んだ。
老紳士は、麦わら帽子を脱ぐと。緩慢な動作ながらも、ピン、と背筋を伸ばして、年齢が刻む皺の入った目元を、きゅっ、と細める。
「―――文丘小学校校長、この樹中海之助(きなか かいのすけ)が、此処に決断しましょう。
ROG. COMPANY 特殊対応室へと通報し、そこから派遣されるべき第三者によって、本件の調査を依頼します。
主任。外線を繋ぎなさい。私が、ROG. COMPANY様の代表電話へと掛けます」
老紳士―――樹中の言葉に、職員室中がざわついた。正確に言うと、ナオト以外の皆が、だ。
主任が震えながら、樹中に問う。
「こ、校長が自ら…?!そ、それはさすがに…!わ、わたくしめが責任を以て掛けますので、校長は―――」
「―――その君の責任とやらに甘んじ過ぎた、私の取るべき責任だよ。控えなさい、主任。それとも、この樹中の指示が受け取れないか?」
「い、いいえ…ッそのようなことは…!す、すぐに外線を、繋ぎます…!」
わたわたと電話を操作し始める主任を見つめる樹中。…を、ナオト以外の皆が、呆然と見やる。
主任とナオト以外の、皆が皆、知らなかった。土いじりの用務員だと思っていた、このただの老人が。この樹中が。文丘小学校の校長だったなんて。当然、熊見も知らなかった事実だ。
小学校の経営と運命の表面は、事務職員や、他教員たちで回しているとばかり思っていたから。それで回っているとばかりに、勘違いしていたから。
―――…この学校を支える真のフィクサーは、太陽の下で土をいじり、泥にまみれ、香り高い花とハーブを育てていたのだ…―――
ナオトと樹中の視線が交叉した。途端、ナオトが口を開く。
「ご英断にございます、樹中校長」
ナオトはそう言って、樹中に丁寧に腰を折った。
「ありがとう。貴方が私を信じてくれたおかげです」
樹中は穏やかな笑みで、そう返したのだった。
その光景に、熊見がわなわなと震えているのを、この二人はきっと分かっている。
to be continued...