第三章 カリスマ・アディクション
予定していた全てのカウンセリングを終えたナオトは、職員室へと帰った。「お疲れさまでした」と出迎えてくれた藤井にカルテを預けて、所定の棚へと仕舞って貰う。この棚の鍵は、此処の教員、もしくは正規で雇われた職員でないと扱えないルールが敷かれているらしい。前任の安藤は正規契約されていたので鍵を扱えたようだが、ナオトは臨時で契約して、次代が決まるまで、カウンセラーを代行している身に過ぎない。なので、ナオトが扱うべきカルテの出し入れには藤井、もしくは周囲に居る他の教員・職員の協力が必須である。
「初日はいかがでしたか?」
藤井は自分の分の白湯を飲みながら、ナオトに笑顔で問うた。
今朝の様子を鑑みると、藤井はどうやら人懐っこく、そして真っ直ぐな性根の持ち主のようである。教師としては志が高い部類に入るだろうが、厳しい上下関係の敷かれた組織内では割を食いがちなタイプとも取れた。…あくまで、ナオト個人の所見だが…。
そんな思考で計算しているとは表には出さず、ナオトは微笑みのまま、藤井に言葉を返した。
「ええ、大変に興味深いものでした。カウンセリングを行った児童に関して、藤井先生にもお聞きしたいことや、お願いしたいことがありますし、…まあ、それは明日でもよろしいでしょうね」
「僕に聞きたいこと、ですか…?あ…、もしかして、加山さんのことだったりします…?」
五年生の教室担任をしているのは、お飾りではないらしい。それに藤井は、本来は二年生の国語教師だが、今は五年生の図工も兼任しているとも言っていた。事情を知っていそうならば、聞き出してみたい。
「あらあら、中々に勘が鋭いですね。そうです、エリゼさんの図工の時間での状況を、藤井先生の視点からお伺いしたいのです」
あくまで「そういえばそうだった」と言わんばかりに、ナオトは藤井に話題を振る。その一方でナオトは、自分の面の皮の厚さを計測してみたいような、そんな不謹慎な好奇心が芽生えたり。
藤井は白湯を口に含んで、暫し、考えを巡らせるような素振りを見せてから。口内の白湯を嚥下した後、口を開く。
「あー、ハサミが上手く扱えないこと、ですねえ、それって。
図工の授業中に、僕も確認しましたし…、次の日の連絡帳には、その夜はお箸も上手く使えなかったとかも、書いてありました」
「いつ頃から、その話題が出たのか、藤井先生は覚えていらっしゃいますか?」
「えー…っと、あ!ちょうど一週間前になりますね。火曜日の朝の連絡帳にお箸のことが書いてあったから…、ハサミは先週の月曜日の図工の話です。
そうそう、ちょうど安藤先生が家庭科室で倒れてしまわれた時期だったので、よく覚えてますよ。ショックなことって、こうも連続して起こるんだなあ、と」
藤井の台詞の中にも、聞き逃してはならないフレーズがある。ナオトは見逃せなかった。
「…、安藤先生が家庭科室で倒れた時期と重なる、ですか」
「あ…!児童には「安藤先生は、おうちの事情で離任なさった」と伝えてありますので…!急病で倒れた、だなんて言えるわけないですから…」
「ああ、なるほど。そうですか。重々、承知いたしました」
ナオトが復唱したことを何と捉えたのか。藤井は慌てたように、安藤の情報を更新してくれる。おそらく、児童たちへの配慮をしてくれ、との思いが込められているのだろうが。ナオトからすれば、またも聞き逃すわけにはいかないデータが含まれている。『安藤は家庭科室で倒れた』という情報だ。
家庭科室で安藤は倒れた結果、カウンセラーの任を解かれる羽目になった。―――…安藤の離任には、熊見が関係していると見て、今はまず推測を立てていても、問題にはならないはずだと、ナオトは考える。
そのとき、不意に藤井が、ぽつり、と独り言のように呟いた。
「…。熊見先生のクッキーって…、そんなに美味しいんすかねえ…?」
「? 藤井先生、突然、どうされましたか?」
「え、あ、すみません、急に…。はは…、やっぱ疲れてんのかな、俺って…」
「お悩みがあるのなら、口に出すだけでもラクになれますよ」
「…。」
ナオトがあくまで優しく諭すように言えば、藤井は手に持っていたマグカップの中の白湯を見つめてから。…、目線を僅かに伏せて、口を開いた。
「いや、あの、…俺、じゃなくて、…僕、結構ヒドめの小麦粉アレルギー持ちなんですけど…。
それを熊見先生にしょっちゅうイジられるんですよ…。「私の手作りクッキーが食べられないなんて、この文丘小にいながら、藤井先生は実にもったいない教師人生を送っていられるなあ!」とか笑って言われるのは、もう常套なんで…。それが、僕ひとりのときなら良いけど…、職員室で他の教員が居る前や、児童たちの前でも言われる始末で…。
熊見先生は、教員にも児童にも人気者だから…、その影響で今や、アレルギーネタとか言われて…、からかわれるのが多くて、それがしんどいなあ、とか…。
……あ、すみません。急にこんな話されても、困りますよね…。忘れてください、鈴ヶ原先生は二週間しかいらっしゃらない御方ですし」
言葉の最後で笑って誤魔化そうとしている藤井から零れた悩みは、ナオトからすれば胸が痛むものでしかない。
アレルギーというのは、本人の意思でコントロールが出来るものでもないし、医療的な知識や技術を用いても、非常にデリケートに扱われるものである。それを笑って見下すような言動を発して、周囲にまで悪い影響を及ぼしている熊見の行為は、謂わば、藤井にとっての「公開処刑」や「人格否定」だ。
さすがに怒りを覚えたナオトだったが、オッドアイを伏せて、インクの残量が少なくなってきたボールペンを見つめることで、冷静さを欠くことを何とか堪える。
「お気になさらないでください。ひとの話を聞くのが、僕の仕事であり、責任であり、そして僕の人生で最も意義のある行動です。
それに、補助を買って出てくださっている藤井先生のお悩みの解決になれば、二週間のカウンセラー担当、というのも、また一つ意味が増えるというものですから」
「……鈴ヶ原先生って、慈愛の塊みたいなひとですね。…ぶっちゃっけ、更生プログラム中だなんて、何かの陰謀とかに思えますよ」
「いいえ、陰謀などではありませんよ。正真正銘、僕自身の罪であり、受けるべき罰にして、甘んじて享受している償いの時間です」
ナオトが伏せた眼をそのままに、しかと答えると。藤井はすっかり冷めた白湯を飲み干してから、続けた。
二人しか居ない職員室には、今、全く違う人生と歩むしか出来なかったはずの人間たちが、しかとその道を交叉させようとしている。そんな気配がした。
「皆、…というか、熊見先生を中心に、教員や職員が、好き勝手に噂してるんです…、『オーロラの魔女事件』のことで…。ユキサカ製薬の社長の娘さんの暴走を止められなかった、傍観していた、悪事を助長していた、大悪党だ、って…。そんな男が医者として未だに社会に居るのすら、怖いのに。その男が、文丘小の敷居を跨ぐなんて、とか…。
…ちょい、ほんと、好き勝手、言いすぎなんですよ…。対面する人間なんて、会って、眼を見て、話すまで、どんなひとか?だなんて、分かるわけないのに。
というか、それを子どもたちに教えるのが、僕たち小学校教諭なんじゃないか?って思いながらも……、噂に興じる教員たちを止めることは、…僕なんかじゃ、出来ないし…」
藤井はそこまで言うと、深い、重い、溜め息を漏らす。それでしか表現が出来ないほどの苦労を抱えているというのは、ナオトが心療内科の医者でなかったとしても、容易に想像が出来る。そう普通の人間ならば、誰しも…。
チャイムが鳴った。もう校内に児童がいないはずの、この時間帯に鳴るのは、教職員向けの合図。―――『職員室へ帰れ』という意味だ。
ナオトと藤井だけの静謐な空間だった此処は、間もなく雑踏と好奇と、僅かな虚無に塗れることになるだろう。ナオトはボールペンから視線を上げて、藤井と眼を合わせる。
「今日のお話の続きが、ちゃんと出来ると良いですね」
「? え、あ、はい。そ、そうですね…?」
不意に零されたナオトの言葉の真意が、藤井は上手く読み取れず。だが、返事を濁さない彼なりの誠意は、きちん見せてくれたことに。ナオトは、オッドアイを優しく細めたのだった。
ガヤガヤと表現されるような微かな喧騒が、職員室外の廊下から、近付いて来る―――…。
to be continued...
「初日はいかがでしたか?」
藤井は自分の分の白湯を飲みながら、ナオトに笑顔で問うた。
今朝の様子を鑑みると、藤井はどうやら人懐っこく、そして真っ直ぐな性根の持ち主のようである。教師としては志が高い部類に入るだろうが、厳しい上下関係の敷かれた組織内では割を食いがちなタイプとも取れた。…あくまで、ナオト個人の所見だが…。
そんな思考で計算しているとは表には出さず、ナオトは微笑みのまま、藤井に言葉を返した。
「ええ、大変に興味深いものでした。カウンセリングを行った児童に関して、藤井先生にもお聞きしたいことや、お願いしたいことがありますし、…まあ、それは明日でもよろしいでしょうね」
「僕に聞きたいこと、ですか…?あ…、もしかして、加山さんのことだったりします…?」
五年生の教室担任をしているのは、お飾りではないらしい。それに藤井は、本来は二年生の国語教師だが、今は五年生の図工も兼任しているとも言っていた。事情を知っていそうならば、聞き出してみたい。
「あらあら、中々に勘が鋭いですね。そうです、エリゼさんの図工の時間での状況を、藤井先生の視点からお伺いしたいのです」
あくまで「そういえばそうだった」と言わんばかりに、ナオトは藤井に話題を振る。その一方でナオトは、自分の面の皮の厚さを計測してみたいような、そんな不謹慎な好奇心が芽生えたり。
藤井は白湯を口に含んで、暫し、考えを巡らせるような素振りを見せてから。口内の白湯を嚥下した後、口を開く。
「あー、ハサミが上手く扱えないこと、ですねえ、それって。
図工の授業中に、僕も確認しましたし…、次の日の連絡帳には、その夜はお箸も上手く使えなかったとかも、書いてありました」
「いつ頃から、その話題が出たのか、藤井先生は覚えていらっしゃいますか?」
「えー…っと、あ!ちょうど一週間前になりますね。火曜日の朝の連絡帳にお箸のことが書いてあったから…、ハサミは先週の月曜日の図工の話です。
そうそう、ちょうど安藤先生が家庭科室で倒れてしまわれた時期だったので、よく覚えてますよ。ショックなことって、こうも連続して起こるんだなあ、と」
藤井の台詞の中にも、聞き逃してはならないフレーズがある。ナオトは見逃せなかった。
「…、安藤先生が家庭科室で倒れた時期と重なる、ですか」
「あ…!児童には「安藤先生は、おうちの事情で離任なさった」と伝えてありますので…!急病で倒れた、だなんて言えるわけないですから…」
「ああ、なるほど。そうですか。重々、承知いたしました」
ナオトが復唱したことを何と捉えたのか。藤井は慌てたように、安藤の情報を更新してくれる。おそらく、児童たちへの配慮をしてくれ、との思いが込められているのだろうが。ナオトからすれば、またも聞き逃すわけにはいかないデータが含まれている。『安藤は家庭科室で倒れた』という情報だ。
家庭科室で安藤は倒れた結果、カウンセラーの任を解かれる羽目になった。―――…安藤の離任には、熊見が関係していると見て、今はまず推測を立てていても、問題にはならないはずだと、ナオトは考える。
そのとき、不意に藤井が、ぽつり、と独り言のように呟いた。
「…。熊見先生のクッキーって…、そんなに美味しいんすかねえ…?」
「? 藤井先生、突然、どうされましたか?」
「え、あ、すみません、急に…。はは…、やっぱ疲れてんのかな、俺って…」
「お悩みがあるのなら、口に出すだけでもラクになれますよ」
「…。」
ナオトがあくまで優しく諭すように言えば、藤井は手に持っていたマグカップの中の白湯を見つめてから。…、目線を僅かに伏せて、口を開いた。
「いや、あの、…俺、じゃなくて、…僕、結構ヒドめの小麦粉アレルギー持ちなんですけど…。
それを熊見先生にしょっちゅうイジられるんですよ…。「私の手作りクッキーが食べられないなんて、この文丘小にいながら、藤井先生は実にもったいない教師人生を送っていられるなあ!」とか笑って言われるのは、もう常套なんで…。それが、僕ひとりのときなら良いけど…、職員室で他の教員が居る前や、児童たちの前でも言われる始末で…。
熊見先生は、教員にも児童にも人気者だから…、その影響で今や、アレルギーネタとか言われて…、からかわれるのが多くて、それがしんどいなあ、とか…。
……あ、すみません。急にこんな話されても、困りますよね…。忘れてください、鈴ヶ原先生は二週間しかいらっしゃらない御方ですし」
言葉の最後で笑って誤魔化そうとしている藤井から零れた悩みは、ナオトからすれば胸が痛むものでしかない。
アレルギーというのは、本人の意思でコントロールが出来るものでもないし、医療的な知識や技術を用いても、非常にデリケートに扱われるものである。それを笑って見下すような言動を発して、周囲にまで悪い影響を及ぼしている熊見の行為は、謂わば、藤井にとっての「公開処刑」や「人格否定」だ。
さすがに怒りを覚えたナオトだったが、オッドアイを伏せて、インクの残量が少なくなってきたボールペンを見つめることで、冷静さを欠くことを何とか堪える。
「お気になさらないでください。ひとの話を聞くのが、僕の仕事であり、責任であり、そして僕の人生で最も意義のある行動です。
それに、補助を買って出てくださっている藤井先生のお悩みの解決になれば、二週間のカウンセラー担当、というのも、また一つ意味が増えるというものですから」
「……鈴ヶ原先生って、慈愛の塊みたいなひとですね。…ぶっちゃっけ、更生プログラム中だなんて、何かの陰謀とかに思えますよ」
「いいえ、陰謀などではありませんよ。正真正銘、僕自身の罪であり、受けるべき罰にして、甘んじて享受している償いの時間です」
ナオトが伏せた眼をそのままに、しかと答えると。藤井はすっかり冷めた白湯を飲み干してから、続けた。
二人しか居ない職員室には、今、全く違う人生と歩むしか出来なかったはずの人間たちが、しかとその道を交叉させようとしている。そんな気配がした。
「皆、…というか、熊見先生を中心に、教員や職員が、好き勝手に噂してるんです…、『オーロラの魔女事件』のことで…。ユキサカ製薬の社長の娘さんの暴走を止められなかった、傍観していた、悪事を助長していた、大悪党だ、って…。そんな男が医者として未だに社会に居るのすら、怖いのに。その男が、文丘小の敷居を跨ぐなんて、とか…。
…ちょい、ほんと、好き勝手、言いすぎなんですよ…。対面する人間なんて、会って、眼を見て、話すまで、どんなひとか?だなんて、分かるわけないのに。
というか、それを子どもたちに教えるのが、僕たち小学校教諭なんじゃないか?って思いながらも……、噂に興じる教員たちを止めることは、…僕なんかじゃ、出来ないし…」
藤井はそこまで言うと、深い、重い、溜め息を漏らす。それでしか表現が出来ないほどの苦労を抱えているというのは、ナオトが心療内科の医者でなかったとしても、容易に想像が出来る。そう普通の人間ならば、誰しも…。
チャイムが鳴った。もう校内に児童がいないはずの、この時間帯に鳴るのは、教職員向けの合図。―――『職員室へ帰れ』という意味だ。
ナオトと藤井だけの静謐な空間だった此処は、間もなく雑踏と好奇と、僅かな虚無に塗れることになるだろう。ナオトはボールペンから視線を上げて、藤井と眼を合わせる。
「今日のお話の続きが、ちゃんと出来ると良いですね」
「? え、あ、はい。そ、そうですね…?」
不意に零されたナオトの言葉の真意が、藤井は上手く読み取れず。だが、返事を濁さない彼なりの誠意は、きちん見せてくれたことに。ナオトは、オッドアイを優しく細めたのだった。
ガヤガヤと表現されるような微かな喧騒が、職員室外の廊下から、近付いて来る―――…。
to be continued...
