第三章 カリスマ・アディクション
【文丘小学校 カウンセリング室】
宣言通り、二時間弱で、三十人分の児童のカルテやメモを読み込んだナオトは。今は、放課後直前のカウンセリング室にて、これから行われるカウンセリングの準備をしている。
前任の安藤のカルテに引き継ぐ形で、そこに新しい用紙を挟む。個人用のメモ用紙は、左利きのナオトに合わせて、左に置く。ボールペンは医者の彼にとっては著しい消耗品のため、ワンコインショップに置いてある三本パックのモノだ。同業者には万年筆を好む人間が一定数は居て、時折、話を振られては薦められることもあったが。その勤務態度に反して、私生活関連が壊滅的であるナオトが、万年筆という取り扱いがデリケートなペンを手に取ることなど、まず無いのである。
安藤のカルテやメモは、確かに書き込みの量は多い方だと言えた。だが、それを読み込んでいる最中のナオトの胸中には、ずっと「案外と普通の情報量では…?」という感想が去来していたのである。同業者から、ナオトも「お前のカルテは、いつも情報が多い」と揶揄される身ではあったし。綾子からは「無駄なことばっか書き込んで!もっとスマートに纏めなさいよ!こんなの、仕事が出来ない男の典型例だわ!」となじられたこともある。つまり、ナオトと安藤の両者に共通していることがある、それつまり。―――『僅かなレベルの情報も、絶対に取り逃がしたくない』という信念。
別に、ナオトはこの結論を以て、同業者を貶める意味はない。どの医者も患者の主訴の情報ならば知りたがるし、それをもとに診断や処方箋をミスなく下す必要がある。とはいえ、煩雑とした情報は、時に正確な判断力を鈍らせることがある。故に、ナオトからすれば、一般的に医者が求めたがるのは『純度の高い情報』だと考えている。枝葉を取り除いて、美しく剪定されたがために、綺麗な花の蕾をつける庭木のような。…そんな、医者なら誰が見ても分かるような、患者の情報を求めて、カルテは簡潔に纏めることが良い。と。そのように考えているんだろう、なんて、漠然と思い至ったのは、もう何年前の話だろう。
(―――…おっと、思考に耽っている場合ではありませんね…)
ナオトはそこで思案の海から浮上した。今朝のバスの中と言い、今と言い。どうにも今日は己の中に雑念が混じりがちだと自己評価を下す。
だが、線を切ってから引っ張られることは、ナオトはしない。軽く伸びをしてから、彼は完全に切り替えた。
今日、カウンセリングを受ける児童は。ナオトが広げているカルテにある通り、『加山エリゼ』という名札を身に着けた制服を、きっちりと着こなした、女児童だった。長めに伸ばしている髪の毛はきちんと後ろでヘアゴムで纏めているし、前髪はピンで留めて両脇に分けている。顔を見る限り、肌治安が荒れている形跡も無い。五年生くらいなると、ニキビが出来る子も多いが。エリゼにはどうやら関係のない事柄のようだ。とはいえ、それは安藤のカルテに書いてあった。エリゼは非常に美意識の高い女児であり、ワンコインショップが展開している、ティーンズ向けの自然派化粧水を購入しては、二日おきに肌に塗布しているという。髪の毛は両親がご褒美に買ってくれるという、ドラッグストアのシャンプーとトリートメントを愛用しているらしい。毎朝の身支度にかける時間は、四十分。一人で支度が出来る五年生の小学生、…ということを差し引いても、それなりのタイムだ。
「こんにちは。今日から二週間、カウンセリングを担当します、鈴ヶ原ナオトです。確認のため、貴女のお名前と学年を聞いてもよろしいでしょうか?」
「五年一組の、加山エリゼです」
基本的な挨拶は出来るようだ。反応速度に違和感もなし。
「では、エリゼさん、とお呼びしてもよろしいですか?このような背格好でも僕は成人男性ですので…、貴女の不安な気持ちの理由になりたくはありませんから」
「大丈夫です。安藤先生も、エリゼさんと呼んでたから。それに、先生は、とても優しそう…」
「ありがとうございます。
…さて、エリゼさん。早速ですが、最近、困ったことや、怖かったこと、不安になったようなことがあったのなら、僕に聞かせてくれませんか?」
まずは、第一関門。安藤のカルテによると、エリゼはまず相談事から話題を振ってくることが多いという。
すると、問われたエリゼが、しゅん…、とした顔になって、口を開く。
「…ずっと手が震えて、字が上手く書けなくて、図工のハサミも上手く出来ない…」
「手が震える?エリゼさん、寒いと感じるのですか?」
手が震える。それはカルテに記載の無かった情報だ。ナオトは左手のペンで、すぐさま書き込む。彼の質問に対して、エリゼは困り顔のまま、続けた。
「ううん。寒くないです。なのに、勝手に私の手がぶるぶるって震えて…、鉛筆もハサミもお箸も…」
「それは、困りましたね。鉛筆もハサミもお箸も、手が震えて、上手く扱えないとは…」
「なんか、イライラしちゃう…。なんで今使えないの?って…」
「手を使いたいときに、手が震えてしまうのですか?」
「うん…。塾にいるときとか…。早く問題を解かないとダメなのに…」
困り顔だったエリゼの空気に、段々と苛つきが見え始める。
安藤のカルテ曰く、彼女は中学受験を見据えている、れっきとした受験生だ。難関私立を受験するのための学習塾に通っていることも、しかと書かれていた。五年生ならば、塾では既に追い込み時期に差し掛かりかけていても、おかしくはない。模試やテストの回数と難易度が上がるうえ、そこから志望校への合格判定の予想も出始める。要するに、『焦り』や『苛立ち』を感じ始める時期に入るのだ。
そこでナオトは、エリゼに問うことを止めないことにする。
「エリゼさん、得意な科目はなんですか?」
「国語です。漢字が得意です。…あ!前に塾の全国模試で、国語で三位だったの!すごいでしょ?!」
「まあ、素晴らしいです。よく頑張りましたね。エリゼさんが努力しているのが、それだけでも分かります。全国模試で三位というのは、一朝一夕で取れる成績ではありませんからね」
ナオトの質問の答えに対して、思い出したことにエリゼは途端に興奮し始めた。それでもナオトはきちんと彼女の気持ちに賛同と称賛をしながらも、己のペースは乱さない。だが。
「そうなの!どうしても海斗に勝ちたくて、私、模試まで毎日、頑張ったの!
……それなのに…、海斗…、あんなこと言うなんて…ありえないよ……」
興奮していたエリゼの態度が、今度は急に萎れてしまった。『海斗(かいと)』というのは、一般的に、男性名だろう。ここでカウンセリングを受けている児童に、そのような名前の子はいなかった。
単純に、他校生と考えるならば、おそらく、この海斗なる子は、エリゼの学習塾での受験勉強仲間―――…?
「最近のエリゼはおかしいよ、って…。前のエリゼは勝負しようなんて言わなかったのに、って。また二人で一緒に仲良く勉強したいよ、って…。
おかしいのは、海斗の方だよ…。受験は戦いだ、って、熊見先生は言ってたもん…。戦いなんだから、隣同士の相手のことを追い抜きなさいって、熊見先生は言ってたのに…。だから、絶対に海斗の方がおかしい…、そうに決まってる…!」
わざと黙ったナオトが作った空気の隙間に、エリゼが海斗への不満を呟く。それは段々と怒りのような色に変わっている。
表面的なもので判断したとしても、これは、明らかな『情緒不安定』だ。
少しおませで、でも真面目な様子から始まり。手が震えて用具を上手く扱えないことを困り、苛立つ。だが、不意に思い出したことに興奮して、はしゃぐ。なのに、次の瞬間、落ち込んで、それの誘因になったであろう他人に怒る。
受験勉強によるストレスの負荷が凄まじいとしても、たったの数分で、此処まで情緒が著しく乱高下する様子を、小学校五年生という少女が見せるのは、ナオトとしては違和感を禁じ得ない。
それに今のナオトには絶対に聞き逃してはならない単語だって、エリゼの台詞の中にはあった。
―――「熊見先生は言ってたもん」。…これである。
家庭科の熊見が、一体どういった経緯やタイミングで、中学受験を目指すエリゼに講釈を垂れたのかは、現時点では分からないが。
少なくとも、ナオトには藤井が言っていた、「熊見はカリスマ教師」の片鱗と、その実態が、ほんの少しでも掴めた気がした。これが足掛かりにでもなればいい、とナオトは思いつつ、カルテに必要なことを書き込む。
・熊見教員による『戦い』思想の影響。児童に深く定着。
・本来の性格との乖離による、感情の不安定化の可能性。
・精神的ストレスによる身体症状(手の震え)。但し、他の要因があれば、今後の経過観察次第、医療機関による治療を要検討。
・友人関係(海斗)への悪影響。
→ 教員の発言力の強さが、本人の価値観と衝突している可能性。
→ 要追加調査:熊見教員の発言頻度・影響範囲。
…こんな感じに、纏めておくことにする。本当はドイツ語で書きたかったのだが、安藤のカルテの文章全てが日本語のため、ナオトはそれに倣うことにした。
「先生、あの…」
「はい、何でしょうか」
エリゼが遠慮がちに言い淀むのを、ナオトは優しく促す。患者の方から何かを聞き取れるなら、それに越したことはない。
恐る恐ると言った風で、エリゼが口を開いた。
「昨日、塾で…、私、海斗と、模試の結果や勉強のことで、言い合いの喧嘩をして…。それで、私、すごくイライラして、…海斗のこと、突き飛ばしちゃった…。海斗はずっと空手を習ってるから、受け身を取れてたけど…、……これって、暴力事件に、なりますか…?
これを、私の志望校に知られて、私、不合格になったりしませんか…?お母さんとお父さんに、怒られたら、どうしよう…ッ!不合格になったら…どうしよう…ッ!」
そう告解したエリゼの大きな瞳に涙が滲みだす。ナオトは「おやおや、それは…」と零した後、最適解を探し出した。
「エリゼさんは、海斗くんと連絡は取れますか?」
「…メッセージのIDは知ってるけど…、でも…、怖くて、何も送れない…」
「なるほど。…少し、お待ちくださいね」
「…?」
ナオトは傍らに置いていたメモ用紙に、さらさらとペンを走らせる。そして、そこに拵えたものと同じ文面を、カルテにも書き写してから。ピッ!、とメモ用紙を千切り、エリゼに手渡した。
メモを渡されたエリゼがそれを読むと、そこには。
☆かいとくんへのメッセージの内容
・まずは、あやまる
・かいとくんがケガをしていないか、確認をする
・どうしてけんかになってしまったのかを、ふたりで話し合おうと、提案をする
☆メッセージのやり取りのあと、かいとくんと塾で話すこと
・けんかの原因の、話し合い
・自分たちの、今の、正直な気持ち
・話し合いが終わったら、話し合ってくれてありがとう、と伝える
☆先生からひとこと
・どうしても解決しなかったら、また僕に相談してくださいね
ROG. COMPANY 特殊対応室 鈴ヶ原ナオト
―――という内容の文章が書いてあった。これはまさしく、エリゼが海斗に送るべきメッセージと、その後に移すべき行動の指標となるものである。エリゼの顔色に少しの希望が戻るのが、ナオトには分かった。
そのとき。ナオト側に見えているタイマー付きの時計が、小さなベルを鳴らし、カウンセリングの時間が終わりを報せる。そして、それは同時に、『おやくそく』を果たすタイミングが来たことも告げるのだ。エリゼの瞳が僅かに煌めいたのを、ナオトは認知しつつも。自分と対面する児童には見えない位置に…、として配置していた己の鞄の中から、個包装されたフルーツキャンディーを一粒、取り出した。
「お疲れさまでした。どうぞ、お大事に」
「…ありがとうございます」
ナオトから手渡されたキャンディーに対して、エリゼはきちんとお礼の言葉を述べるものの。ほんの数秒前までは輝いていた双眸には、少なからずの落胆が浮き出ていた。その眼が何を意味するのかの言語化は容易い。「今日は、いつものクッキーじゃないんだ…」だろう。だが、ナオトはそれ以上のことは言わず、そして、自身の慈愛で形成された優しい圧力を以て、彼女からの言及も許さなかった。
エリゼが退室する。次の児童が来るのは、五分後。予定通りに進むなら、今日の放課後のカウンセリングは、あと三人は控えている。
ナオトは鞄から取り出したタンブラーの蓋を開けて、お気に入りのカフェオレを一口、飲んだ。
to be continued...
宣言通り、二時間弱で、三十人分の児童のカルテやメモを読み込んだナオトは。今は、放課後直前のカウンセリング室にて、これから行われるカウンセリングの準備をしている。
前任の安藤のカルテに引き継ぐ形で、そこに新しい用紙を挟む。個人用のメモ用紙は、左利きのナオトに合わせて、左に置く。ボールペンは医者の彼にとっては著しい消耗品のため、ワンコインショップに置いてある三本パックのモノだ。同業者には万年筆を好む人間が一定数は居て、時折、話を振られては薦められることもあったが。その勤務態度に反して、私生活関連が壊滅的であるナオトが、万年筆という取り扱いがデリケートなペンを手に取ることなど、まず無いのである。
安藤のカルテやメモは、確かに書き込みの量は多い方だと言えた。だが、それを読み込んでいる最中のナオトの胸中には、ずっと「案外と普通の情報量では…?」という感想が去来していたのである。同業者から、ナオトも「お前のカルテは、いつも情報が多い」と揶揄される身ではあったし。綾子からは「無駄なことばっか書き込んで!もっとスマートに纏めなさいよ!こんなの、仕事が出来ない男の典型例だわ!」となじられたこともある。つまり、ナオトと安藤の両者に共通していることがある、それつまり。―――『僅かなレベルの情報も、絶対に取り逃がしたくない』という信念。
別に、ナオトはこの結論を以て、同業者を貶める意味はない。どの医者も患者の主訴の情報ならば知りたがるし、それをもとに診断や処方箋をミスなく下す必要がある。とはいえ、煩雑とした情報は、時に正確な判断力を鈍らせることがある。故に、ナオトからすれば、一般的に医者が求めたがるのは『純度の高い情報』だと考えている。枝葉を取り除いて、美しく剪定されたがために、綺麗な花の蕾をつける庭木のような。…そんな、医者なら誰が見ても分かるような、患者の情報を求めて、カルテは簡潔に纏めることが良い。と。そのように考えているんだろう、なんて、漠然と思い至ったのは、もう何年前の話だろう。
(―――…おっと、思考に耽っている場合ではありませんね…)
ナオトはそこで思案の海から浮上した。今朝のバスの中と言い、今と言い。どうにも今日は己の中に雑念が混じりがちだと自己評価を下す。
だが、線を切ってから引っ張られることは、ナオトはしない。軽く伸びをしてから、彼は完全に切り替えた。
今日、カウンセリングを受ける児童は。ナオトが広げているカルテにある通り、『加山エリゼ』という名札を身に着けた制服を、きっちりと着こなした、女児童だった。長めに伸ばしている髪の毛はきちんと後ろでヘアゴムで纏めているし、前髪はピンで留めて両脇に分けている。顔を見る限り、肌治安が荒れている形跡も無い。五年生くらいなると、ニキビが出来る子も多いが。エリゼにはどうやら関係のない事柄のようだ。とはいえ、それは安藤のカルテに書いてあった。エリゼは非常に美意識の高い女児であり、ワンコインショップが展開している、ティーンズ向けの自然派化粧水を購入しては、二日おきに肌に塗布しているという。髪の毛は両親がご褒美に買ってくれるという、ドラッグストアのシャンプーとトリートメントを愛用しているらしい。毎朝の身支度にかける時間は、四十分。一人で支度が出来る五年生の小学生、…ということを差し引いても、それなりのタイムだ。
「こんにちは。今日から二週間、カウンセリングを担当します、鈴ヶ原ナオトです。確認のため、貴女のお名前と学年を聞いてもよろしいでしょうか?」
「五年一組の、加山エリゼです」
基本的な挨拶は出来るようだ。反応速度に違和感もなし。
「では、エリゼさん、とお呼びしてもよろしいですか?このような背格好でも僕は成人男性ですので…、貴女の不安な気持ちの理由になりたくはありませんから」
「大丈夫です。安藤先生も、エリゼさんと呼んでたから。それに、先生は、とても優しそう…」
「ありがとうございます。
…さて、エリゼさん。早速ですが、最近、困ったことや、怖かったこと、不安になったようなことがあったのなら、僕に聞かせてくれませんか?」
まずは、第一関門。安藤のカルテによると、エリゼはまず相談事から話題を振ってくることが多いという。
すると、問われたエリゼが、しゅん…、とした顔になって、口を開く。
「…ずっと手が震えて、字が上手く書けなくて、図工のハサミも上手く出来ない…」
「手が震える?エリゼさん、寒いと感じるのですか?」
手が震える。それはカルテに記載の無かった情報だ。ナオトは左手のペンで、すぐさま書き込む。彼の質問に対して、エリゼは困り顔のまま、続けた。
「ううん。寒くないです。なのに、勝手に私の手がぶるぶるって震えて…、鉛筆もハサミもお箸も…」
「それは、困りましたね。鉛筆もハサミもお箸も、手が震えて、上手く扱えないとは…」
「なんか、イライラしちゃう…。なんで今使えないの?って…」
「手を使いたいときに、手が震えてしまうのですか?」
「うん…。塾にいるときとか…。早く問題を解かないとダメなのに…」
困り顔だったエリゼの空気に、段々と苛つきが見え始める。
安藤のカルテ曰く、彼女は中学受験を見据えている、れっきとした受験生だ。難関私立を受験するのための学習塾に通っていることも、しかと書かれていた。五年生ならば、塾では既に追い込み時期に差し掛かりかけていても、おかしくはない。模試やテストの回数と難易度が上がるうえ、そこから志望校への合格判定の予想も出始める。要するに、『焦り』や『苛立ち』を感じ始める時期に入るのだ。
そこでナオトは、エリゼに問うことを止めないことにする。
「エリゼさん、得意な科目はなんですか?」
「国語です。漢字が得意です。…あ!前に塾の全国模試で、国語で三位だったの!すごいでしょ?!」
「まあ、素晴らしいです。よく頑張りましたね。エリゼさんが努力しているのが、それだけでも分かります。全国模試で三位というのは、一朝一夕で取れる成績ではありませんからね」
ナオトの質問の答えに対して、思い出したことにエリゼは途端に興奮し始めた。それでもナオトはきちんと彼女の気持ちに賛同と称賛をしながらも、己のペースは乱さない。だが。
「そうなの!どうしても海斗に勝ちたくて、私、模試まで毎日、頑張ったの!
……それなのに…、海斗…、あんなこと言うなんて…ありえないよ……」
興奮していたエリゼの態度が、今度は急に萎れてしまった。『海斗(かいと)』というのは、一般的に、男性名だろう。ここでカウンセリングを受けている児童に、そのような名前の子はいなかった。
単純に、他校生と考えるならば、おそらく、この海斗なる子は、エリゼの学習塾での受験勉強仲間―――…?
「最近のエリゼはおかしいよ、って…。前のエリゼは勝負しようなんて言わなかったのに、って。また二人で一緒に仲良く勉強したいよ、って…。
おかしいのは、海斗の方だよ…。受験は戦いだ、って、熊見先生は言ってたもん…。戦いなんだから、隣同士の相手のことを追い抜きなさいって、熊見先生は言ってたのに…。だから、絶対に海斗の方がおかしい…、そうに決まってる…!」
わざと黙ったナオトが作った空気の隙間に、エリゼが海斗への不満を呟く。それは段々と怒りのような色に変わっている。
表面的なもので判断したとしても、これは、明らかな『情緒不安定』だ。
少しおませで、でも真面目な様子から始まり。手が震えて用具を上手く扱えないことを困り、苛立つ。だが、不意に思い出したことに興奮して、はしゃぐ。なのに、次の瞬間、落ち込んで、それの誘因になったであろう他人に怒る。
受験勉強によるストレスの負荷が凄まじいとしても、たったの数分で、此処まで情緒が著しく乱高下する様子を、小学校五年生という少女が見せるのは、ナオトとしては違和感を禁じ得ない。
それに今のナオトには絶対に聞き逃してはならない単語だって、エリゼの台詞の中にはあった。
―――「熊見先生は言ってたもん」。…これである。
家庭科の熊見が、一体どういった経緯やタイミングで、中学受験を目指すエリゼに講釈を垂れたのかは、現時点では分からないが。
少なくとも、ナオトには藤井が言っていた、「熊見はカリスマ教師」の片鱗と、その実態が、ほんの少しでも掴めた気がした。これが足掛かりにでもなればいい、とナオトは思いつつ、カルテに必要なことを書き込む。
・熊見教員による『戦い』思想の影響。児童に深く定着。
・本来の性格との乖離による、感情の不安定化の可能性。
・精神的ストレスによる身体症状(手の震え)。但し、他の要因があれば、今後の経過観察次第、医療機関による治療を要検討。
・友人関係(海斗)への悪影響。
→ 教員の発言力の強さが、本人の価値観と衝突している可能性。
→ 要追加調査:熊見教員の発言頻度・影響範囲。
…こんな感じに、纏めておくことにする。本当はドイツ語で書きたかったのだが、安藤のカルテの文章全てが日本語のため、ナオトはそれに倣うことにした。
「先生、あの…」
「はい、何でしょうか」
エリゼが遠慮がちに言い淀むのを、ナオトは優しく促す。患者の方から何かを聞き取れるなら、それに越したことはない。
恐る恐ると言った風で、エリゼが口を開いた。
「昨日、塾で…、私、海斗と、模試の結果や勉強のことで、言い合いの喧嘩をして…。それで、私、すごくイライラして、…海斗のこと、突き飛ばしちゃった…。海斗はずっと空手を習ってるから、受け身を取れてたけど…、……これって、暴力事件に、なりますか…?
これを、私の志望校に知られて、私、不合格になったりしませんか…?お母さんとお父さんに、怒られたら、どうしよう…ッ!不合格になったら…どうしよう…ッ!」
そう告解したエリゼの大きな瞳に涙が滲みだす。ナオトは「おやおや、それは…」と零した後、最適解を探し出した。
「エリゼさんは、海斗くんと連絡は取れますか?」
「…メッセージのIDは知ってるけど…、でも…、怖くて、何も送れない…」
「なるほど。…少し、お待ちくださいね」
「…?」
ナオトは傍らに置いていたメモ用紙に、さらさらとペンを走らせる。そして、そこに拵えたものと同じ文面を、カルテにも書き写してから。ピッ!、とメモ用紙を千切り、エリゼに手渡した。
メモを渡されたエリゼがそれを読むと、そこには。
☆かいとくんへのメッセージの内容
・まずは、あやまる
・かいとくんがケガをしていないか、確認をする
・どうしてけんかになってしまったのかを、ふたりで話し合おうと、提案をする
☆メッセージのやり取りのあと、かいとくんと塾で話すこと
・けんかの原因の、話し合い
・自分たちの、今の、正直な気持ち
・話し合いが終わったら、話し合ってくれてありがとう、と伝える
☆先生からひとこと
・どうしても解決しなかったら、また僕に相談してくださいね
ROG. COMPANY 特殊対応室 鈴ヶ原ナオト
―――という内容の文章が書いてあった。これはまさしく、エリゼが海斗に送るべきメッセージと、その後に移すべき行動の指標となるものである。エリゼの顔色に少しの希望が戻るのが、ナオトには分かった。
そのとき。ナオト側に見えているタイマー付きの時計が、小さなベルを鳴らし、カウンセリングの時間が終わりを報せる。そして、それは同時に、『おやくそく』を果たすタイミングが来たことも告げるのだ。エリゼの瞳が僅かに煌めいたのを、ナオトは認知しつつも。自分と対面する児童には見えない位置に…、として配置していた己の鞄の中から、個包装されたフルーツキャンディーを一粒、取り出した。
「お疲れさまでした。どうぞ、お大事に」
「…ありがとうございます」
ナオトから手渡されたキャンディーに対して、エリゼはきちんとお礼の言葉を述べるものの。ほんの数秒前までは輝いていた双眸には、少なからずの落胆が浮き出ていた。その眼が何を意味するのかの言語化は容易い。「今日は、いつものクッキーじゃないんだ…」だろう。だが、ナオトはそれ以上のことは言わず、そして、自身の慈愛で形成された優しい圧力を以て、彼女からの言及も許さなかった。
エリゼが退室する。次の児童が来るのは、五分後。予定通りに進むなら、今日の放課後のカウンセリングは、あと三人は控えている。
ナオトは鞄から取り出したタンブラーの蓋を開けて、お気に入りのカフェオレを一口、飲んだ。
to be continued...