第三章 カリスマ・アディクション
鈴ヶ原ナオトは、心療内科の医者である。その手腕と人望は、研修医期間が終わるとき、「試験に合格したら、このまま此処の大学病院に勤務しないか?」と、指導医にスカウトされたという、ちょっとした逸話が残るようなもの。だが、当のナオトは、医学生だった頃に雪坂家から受けた恩を忘れられず、その場で断る。そして、無事に医師免許を取得したナオトは、その足で雪坂家の当主にして、ユキサカ製薬の現社長・雪坂玄一に、自分に恩返しをさせて欲しいと頼み込んだ。
それを聞いた玄一は、愛娘にして、ナオトのことを幼い頃から知る綺子の傍に、彼を付かせた。玄一が綺子に将来への勉強として任せた療養施設『鈴蘭』の運営を、彼女がきちんとこなしているかどうかの監視もさせたかったのが。何より、思春期故に多感な年頃に入る綺子のことが、玄一は心配で、ナオトに彼女を預ける心積もりだった。
そもそも、玄一からすれば、ナオトに恩を売り付けた覚えも無い。全ては、製薬会社の社長として、知性と愛情に溢れた、才覚ある若き医者の卵であったナオトを、彼は心の底から評価していたが為に―――…。
『次は、文丘小学校前、文丘小学校前でございます。お手回りをよくご確認のうえ―――』
「―――…!」
そう告げるバスのアナウンスで、ナオトは微睡んでいた意識をハッと覚醒させる。一炊の時にも足らぬ夢の中で、少し昔のことを想起していたようだ。
膝に乗せていた通勤用の鞄を持ち、ナオトは慎重に立ち上がる。布製のリュックサック型のランドセルを背負った小学生たちのグループが、他の利用客の迷惑にならないようにと声を潜めて話しながら、狭いバスの通路を歩いている。どうやら、子どもに人気の高い動画配信者の話をしているようだ。
交通用ICカードを翳して、バスを降りていく小学生たちに続いて。ナオトは、ルカから直接支給された、ヒルカリオの市章が入ったICカードで支払いをする。
「ありがとうございました」
「はい、お気をつけて」
ナオトはバスの運転手と、何気ないやり取りをしてから、バスを降りた。ナオトが完全にバスから離れたことを確認してから、扉が閉まり、バスは発車していった。
【文丘小学校 校門】
ナオトが辿り着いたのは、文丘(ふみおか)小学校という、ヒルカリオにほど近い本土の土地に在る、この辺りでは比較的新しい方に分類される、私立小学校だ。
今日から二週間。ナオトは此処で、臨時のスクールカウンセラーとして勤務する。
どうにも前任のスクールカウンセラーが急病で倒れてしまい、それを受けた小学校側が慌てて次代の担当を探しているということが、この小学校に寄進をしている凌士・テイスワートの耳に入った。そして凌士は、自分の邸宅で身柄を預かっているナオトに、「次が決まるまでの、繋ぎをして差し上げてほしい」と提案。スクールカウンセラーの繋ぎというのも、本来ならおかしな響きに聞こえはするが、生憎、常識人であるナオトは『非常識の物差し』も持ち合わせているが故、その場で快い返事をした。元々、鈴蘭の担当医をしていたのだから、子どもの相手は、ナオトにとって全く苦痛ではない。むしろ、鈴蘭そのものに二度と関われない身になってしまった彼からすれば、また子どもたちのために自分のチカラが役に立つ場面が来ることが、心の底から嬉しいほどまである。
校門に立っている、児童の見守り役の教師に笑顔で会釈をしてから、ナオトは校門を潜った。女性に見間違われることが茶飯事であるほどの、彼の美貌に目を奪われた教師は、「え、え…ッ?」と間抜けな声を出してナオトに釘付けになるが。直後に響いた、「先生ー!おはようございまーす!」という元気いっぱいの児童の声に、教師は己の今の職務を思い出したのだった。
ナオトが事前連絡にて案内された場所は、比較的裏手にある通用口だった。此処の近くまで来たら、案内用の教師が控えているので。と聞いてはいたのだが。見渡す限り、泥まみれの作業服に身を包んだ老紳士が、花壇の世話をしている光景しかない。
「おはようございます。今、お話をよろしいでしょうか?」
「おや、おはようございます。
ええ、なんでしょう?私なんかで分かる話でしたら良いのですが…」
ナオトは作業服の老紳士に声を掛けた。彼はスコップ片手に、首に巻いてあったタオルで汗を拭きつつ、ナオトを穏やかな笑顔で見てくれる。ナオトは問うた。
「僕は本日付けで、こちらに臨時のスクールカウンセラーとして勤務いたします、鈴ヶ原ナオトと申します。
事前連絡で、通用口側に案内されたのですが、どうにも担当の方のお姿らしきものが見えませんので…」
「はて…、職員室で準備に追われているのでしょうかね…?今の私には何とも…。
何せ、見ての通り、花壇いじりの爺さんですからなあ」
「とても素敵なハーブ園だと思います。真摯に愛情を注がなければ、此処までは育ちません」
「おやおや、ありがとうございます。そう言っていただけると、報われますよ。
今年は虫よけの薬を作りたくて、レモングラスを植えたら、それはそれは立派に育ちましてね、…っと、噂をすれば」
老紳士が話を止めたところで、ナオトは振り返った。そこには、若い男性教師が立っている。男性教師は、ナオトを見とめると、口を開いた。
「お待たせしました。鈴ヶ原ナオト先生で、お間違いないでしょうか?」
「はい。こちらが、僕のROG. COMPANYの社員証です。ご確認ください」
ナオトが答えながら、社員証を見せる。男性教師はそれをタブレット端末のカメラでスキャンした。すると、端末から音声が鳴る。
――『鈴ヶ原ナオト。医者。ROG. COMPANY本社 特殊対応室に出向中。』
これは、レイジが社長になってから最初にROG. COMPANYに導入した『デジタルパーソナルカード』と呼ばれている、最新システムだ。社員証をスマートフォンやタブレットなどのカメラ機能についているスキャナーで読み取ると、社員証に埋め込まれた電子チップから信号が発せられて、それを受け取った端末から、その社員証の持ち主の情報が読み上げられる、というもの。
ROG. COMPANYがこのシステム利用し始めた直後は、それはもう随分と、世間では物珍しさで騒がれたものであり。その影響で、今や、大手企業と呼ばれる会社には続々と導入が始まっている。だが、教育現場には未だ珍しいものらしく、その証拠に、男性教師は「すごい…。これが噂の…」と、感嘆の声を小さく漏らした。
だが、ナオトの視線に気が付いた男性教師は、改めて姿勢を直すと、通用口を開ける。
「確認ができましたので、ご案内いたします。どうぞ、こちらに」
「はい、お邪魔します」
ナオトは男性教師に促されるものの、一瞬だけ、後ろを振り向いた。右眼が黄色、左眼が薄紫色という、彼のオッドアイの視線の先に居たのは、作業服の老紳士。
「それでは、御前を失礼します。また機会がありましたら、是非に」
「ああ、私は大抵、此処に居るさ。どうぞ、気張ってくださいませ」
老紳士に挨拶を済ませたナオトは、今度こそ、通用口から校内へと入った。
【職員室】
職員室の敷居を跨いだ瞬間。ナオトの直感が、彼に確信を告げた。――「此処には、支配者が居る」と。
かつての鈴蘭に綺子という影と闇に塗れた支配者が居座っていた頃の、あのときと同じ気配という匂いを、ナオトの本能は確かに察知した。
だが、そんなことに気が付いたなどと言うことは、おくびにも出さず。ナオトは各席に直立で立っている教師陣たちの前で、主任と穏やかな挨拶を交わす。
「二週間という、非常に短い期間ではありますが。どうか、文丘の児童たちの心の拠り所になってあげてください。
なにせ、前任のカウンセラー担当だった安藤先生には、児童たちもよく慕っておりましたので…。そのせいか、彼女が急に学校を去った事実に、少なからずショックを受けている児童たちも居ます」
「尽力させて頂きます。他でもない、子どもたちの心を守ってこそ、ROG. COMPANYに在る医者たる僕の務めですから」
「おお、心強いお言葉です。よろしくお願いいたします、鈴ヶ原先生」
「こちらこそ、二週間、どうぞよろしくお願いいたします」
そうして、主任と始終和やかなやり取りをしたナオトは。主任から二週間の期間中に、此処までの案内をしてくれた男性教師を補助として付けて貰う旨を通達された。
「藤井マーノ(ふじいまーの)と申します。担当科目は二年生の国語ですが、今は五年生の教室担任と図工も兼任しています。よろしくお願いいたします」
男性教師――藤井が名乗り、腰を折る。そのまま、席へと通された。どうやらナオトは藤井の隣に、席を配置されたらしい。学校側が用意した補助の役目を果たす姿勢が、とりあえず垣間見える。ナオトはオッドアイを細めて微笑むと、藤井に言った。
「お世話になります、藤井先生。早速ですが、僕が先に眼を通しておくべき資料、情報、データベース、カルテ等、全てのご提示をお願いします。
今日の放課後から、早速、カウンセリングが入っていると記憶しておりますので」
「あ、はい。それが…、前任の安藤先生は、物凄いメモ魔で…。今日、カウンセリングを予定している児童に対するカルテやメモだけでも、この量で…」
前例のある仕事を始めるなら、まずは前任の作ったデータを検めるべき。ナオトは早速、藤井にカウンセリングに必要なモノを要求した。だが、藤井が顔を曇らせながら出してきたのは、小学校のスクールカウンセラーがしたためるには、些か分厚いカルテの束だった。それだけで前任の安藤が「メモ魔」と評価されていたことに、瞬時に理解が及ぶ。しかし、それで怯むようなナオトでもない。彼が普段、一体、何処の誰を上司として仰いでいるのか。今一度、思い出してほしいところ。
現にナオトの声色は穏やかながらも、冷静だった。
「カルテは分厚くなるものですから、ご心配なく。それに、この文字列、一文の字数、枚数からざっと計算すると…。まあ、二十分で読み込めるでしょう。
時間が惜しいです。全員分のご用意をお願いします。この場で全て読ませて頂きます」
「え、え…ッ?!この量を?!たったの二十分?!
え、あの、全員分って、…この学校でカウンセリングを受けている児童は、その、三十人近く居るんですが…?」
ナオトの返答を聞いた藤井がひっくり返らんばかりに驚きながら、言葉を返し直す。それでも、ナオトは顔色ひとつ変えない。
「僕は文字を読めば読むほど速度が速くなるタイプですので、ご心配には及びません。
三十人分のカルテですか。どれだけ多く見積もっても、二時間で終わるでしょう。大丈夫です」
「そ、そうですか…。えと、では、急いで全員分を持ってきます…!」
藤井はそう言うと、椅子から立ち上がりかけて。瞬間、「あ、そうだ」と何かを思い出しかのように零すと、もう一度、ナオトと視線を合わせる。
「ナオト先生は、『おやくそく』については、既にご存じでしょうか?」
藤井の口から出てきた単語に、ナオトはすぐに反応した。
「ええ、事前に聞いております。
何でも、カウンセリングを最後まで受けられた子には、ご褒美として、担当の医者からお菓子を差し上げるのが、安藤先生の敷いた『おやくそく』だそうですね」
教育現場で特定の児童だけに菓子を配る行為は、到底、褒められたものとは思えないが。ナオトはそこを藤井に対して責めるのは違うと判断し、突っ込むのはやめておいて、事実を認識していることだけを彼に伝える。
始終、柔らかい雰囲気を出すナオトの空気に、段々と緊張が解けてきたのか。藤井の顔が綻んできた。彼は爽やかな笑みを浮かべながら、続ける。
「はい、そうです。その『おやくそく』の際に配るお菓子というのが、うちの家庭科の教員の担当になっておりまして―――」
「―――失礼します、熊見です。臨時のカウンセラーの先生がお見えになったとお伺いしましたが、どちらにいらっしゃいますか?」
よく通る低い声が聞こえた。ナオトと藤井がそちらを向くと、ラガーマンのような体躯をした大柄な男性が、熊を象ったフェルトを縫い付けた、桃色のエプロンを身に着けた状態で、のっしのっしと言わんばかりの勢いで、職員室に入ってきている。
「熊見先生ー、こちらですよー」
藤井が呼べば、熊見はすぐにこちらを向き、そしてニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら、ナオトの方へと近寄ってきた。ナオトは椅子から立ち上がり、変わらない微笑みで出迎える。
「家庭科の熊見次郎(くまみじろう)です。安藤先生の引き継ぎをなさるお医者さまがお見えになったと聞いて、訪ねさせて頂きました」
熊見はそう自己紹介をすると、ナオトに右手を差し出してきた。ナオトはその大きな掌と握手を交わしながら、ふむ…、と胸中で考えを巡らせていた。
「エプロン姿のままで、申し訳ない。今日の放課後のためのクッキーを、急いで焼いているところでして。先週の残り分で恐縮ですが、よろしければ、味見を―――」
「―――すみません。僕は現在、更生プログラム中の身ですので、職務中は基本的に上司の許可が無ければ、社外で用意された飲食物を口にすることは禁じられております。
それに付随して、自分の仕事の範囲で、社外の人間が用意した飲食物を使用することも、厳格にNGとされていますので。…熊見先生には申し訳ございませんが、『おやくそく』に使うお菓子は、僕の上司がご用意したものを使わせて頂きます。
…こちらは、弊社関連の製菓会社から、正式にご提供を頂いたものになります。幼い子どもたちの口に入る前提で製造されている、添加物不使用のフルーツキャンディーです」
「…、そうですか。そこまでは考えが及びませなんだ。この熊見、日々精進します」
熊見はそう詫びるよう言うと、堂々と腰を折る。
一方で、ナオトは熊見が握ろうとした会話の主導権を、一部の隙も見せずに、譲らなかった。とはいえ、彼は嘘を言っているわけではない。更生プログラム中のナオトに様々な制限が設けられているのは事実であるうえ、彼の口に入る飲食物と、彼の仕事で使われるそれに関して、プログラムを指揮する運営側から厳しいルールが敷かれるのは自然とも言える。何より、あのROG. COMPANYが協賛している、前科持ち向けの更生プログラムなのだ。むしろ、「厳しいくらいが丁度いい」までもあるくらい。
間も無く、会話もそこそこに、「では、オーブンの様子を見たいので」と言い残し、熊見はその広い背中に何処か怒気を孕んだまま、職員室を去って行った。熊見を見送った藤井が、声を潜めた状態で、ナオトに問う。
「…鈴ヶ原先生、いくら自分側のルールが厳しいと言っても、あの態度は不味いですよ…。熊見先生は、『カリスマ家庭科教師』として、教員同士や父兄の間から、抜群に人気なんです。安藤先生のカウンセリングの『おやくそく』だって、彼女にそのアイデアのベースを出したのは、あの熊見先生ですし…」
藤井の言葉には、あくまで彼自身の純粋な善意が垣間見えていた。彼はきっと根っこから真面目なのだろう、と、ナオトは思った。だからこそ、オッドアイを細めて、彼は微笑むのである。
「僕の身を案じてくださっているのでしたら、そのお気持ちだけは有難く頂戴いたしましょう。
しかし、カリスマ家庭科教師ともあろう御方が、僕のような若輩の医者如きの、ごく小さな反対意見で、あのように、いちいちと神経と感情を尖らせていては―――」
「―――ほらッそーゆー物言い…ッ!!…あ、す、すすすみません…ッ!つ、つい、素が…!あ、いや、素というのは、別にッ、先生を下に見てるとかそういうことではなくてッ、…違くて…ッ!」
「ご安心ください。僕は何も気にしてはいませんよ。むしろ、少しくらい態度が軟化してくれた方が、嬉しいくらいです」
若者らしく、うっかり素の部分が浮き彫りになってしまった藤井だったが。ナオトはそこを受け入れる。情緒が乱れただけで敬語が崩れたぐらいの光景なんぞ、心療内科の医者であり、現在進行形で、あのRoom EL内で、割とふよふよと水中に浮かぶように自由に過ごしているナオトにとっては、特段、追及するようなモノではないからだ。要するに、「気にするだけ無駄」と考えている点のひとつ、ということ。
「さて、今日中に挨拶するべき人物には、無事にお会いできたようですので…。僕は安藤先生の書いたカルテの解読に入ります。
藤井先生は、カウンセリングを受けている児童全員分のカルテのご用意を、早急にお願いします」
「! は、はい…ッ!今すぐに…ッ!」
ナオトはわたわたと職員室の隅の棚の方角へ走っていく藤井の背中を見た後、自分に用意された席の椅子に座る。
周囲の他の教師たちの視線が痛い、などと。そんな一般通過するだけの人間が抱くような、普通の感想なんて。今のナオトが抱くはずがなかったのである。
to be continued...
それを聞いた玄一は、愛娘にして、ナオトのことを幼い頃から知る綺子の傍に、彼を付かせた。玄一が綺子に将来への勉強として任せた療養施設『鈴蘭』の運営を、彼女がきちんとこなしているかどうかの監視もさせたかったのが。何より、思春期故に多感な年頃に入る綺子のことが、玄一は心配で、ナオトに彼女を預ける心積もりだった。
そもそも、玄一からすれば、ナオトに恩を売り付けた覚えも無い。全ては、製薬会社の社長として、知性と愛情に溢れた、才覚ある若き医者の卵であったナオトを、彼は心の底から評価していたが為に―――…。
『次は、文丘小学校前、文丘小学校前でございます。お手回りをよくご確認のうえ―――』
「―――…!」
そう告げるバスのアナウンスで、ナオトは微睡んでいた意識をハッと覚醒させる。一炊の時にも足らぬ夢の中で、少し昔のことを想起していたようだ。
膝に乗せていた通勤用の鞄を持ち、ナオトは慎重に立ち上がる。布製のリュックサック型のランドセルを背負った小学生たちのグループが、他の利用客の迷惑にならないようにと声を潜めて話しながら、狭いバスの通路を歩いている。どうやら、子どもに人気の高い動画配信者の話をしているようだ。
交通用ICカードを翳して、バスを降りていく小学生たちに続いて。ナオトは、ルカから直接支給された、ヒルカリオの市章が入ったICカードで支払いをする。
「ありがとうございました」
「はい、お気をつけて」
ナオトはバスの運転手と、何気ないやり取りをしてから、バスを降りた。ナオトが完全にバスから離れたことを確認してから、扉が閉まり、バスは発車していった。
【文丘小学校 校門】
ナオトが辿り着いたのは、文丘(ふみおか)小学校という、ヒルカリオにほど近い本土の土地に在る、この辺りでは比較的新しい方に分類される、私立小学校だ。
今日から二週間。ナオトは此処で、臨時のスクールカウンセラーとして勤務する。
どうにも前任のスクールカウンセラーが急病で倒れてしまい、それを受けた小学校側が慌てて次代の担当を探しているということが、この小学校に寄進をしている凌士・テイスワートの耳に入った。そして凌士は、自分の邸宅で身柄を預かっているナオトに、「次が決まるまでの、繋ぎをして差し上げてほしい」と提案。スクールカウンセラーの繋ぎというのも、本来ならおかしな響きに聞こえはするが、生憎、常識人であるナオトは『非常識の物差し』も持ち合わせているが故、その場で快い返事をした。元々、鈴蘭の担当医をしていたのだから、子どもの相手は、ナオトにとって全く苦痛ではない。むしろ、鈴蘭そのものに二度と関われない身になってしまった彼からすれば、また子どもたちのために自分のチカラが役に立つ場面が来ることが、心の底から嬉しいほどまである。
校門に立っている、児童の見守り役の教師に笑顔で会釈をしてから、ナオトは校門を潜った。女性に見間違われることが茶飯事であるほどの、彼の美貌に目を奪われた教師は、「え、え…ッ?」と間抜けな声を出してナオトに釘付けになるが。直後に響いた、「先生ー!おはようございまーす!」という元気いっぱいの児童の声に、教師は己の今の職務を思い出したのだった。
ナオトが事前連絡にて案内された場所は、比較的裏手にある通用口だった。此処の近くまで来たら、案内用の教師が控えているので。と聞いてはいたのだが。見渡す限り、泥まみれの作業服に身を包んだ老紳士が、花壇の世話をしている光景しかない。
「おはようございます。今、お話をよろしいでしょうか?」
「おや、おはようございます。
ええ、なんでしょう?私なんかで分かる話でしたら良いのですが…」
ナオトは作業服の老紳士に声を掛けた。彼はスコップ片手に、首に巻いてあったタオルで汗を拭きつつ、ナオトを穏やかな笑顔で見てくれる。ナオトは問うた。
「僕は本日付けで、こちらに臨時のスクールカウンセラーとして勤務いたします、鈴ヶ原ナオトと申します。
事前連絡で、通用口側に案内されたのですが、どうにも担当の方のお姿らしきものが見えませんので…」
「はて…、職員室で準備に追われているのでしょうかね…?今の私には何とも…。
何せ、見ての通り、花壇いじりの爺さんですからなあ」
「とても素敵なハーブ園だと思います。真摯に愛情を注がなければ、此処までは育ちません」
「おやおや、ありがとうございます。そう言っていただけると、報われますよ。
今年は虫よけの薬を作りたくて、レモングラスを植えたら、それはそれは立派に育ちましてね、…っと、噂をすれば」
老紳士が話を止めたところで、ナオトは振り返った。そこには、若い男性教師が立っている。男性教師は、ナオトを見とめると、口を開いた。
「お待たせしました。鈴ヶ原ナオト先生で、お間違いないでしょうか?」
「はい。こちらが、僕のROG. COMPANYの社員証です。ご確認ください」
ナオトが答えながら、社員証を見せる。男性教師はそれをタブレット端末のカメラでスキャンした。すると、端末から音声が鳴る。
――『鈴ヶ原ナオト。医者。ROG. COMPANY本社 特殊対応室に出向中。』
これは、レイジが社長になってから最初にROG. COMPANYに導入した『デジタルパーソナルカード』と呼ばれている、最新システムだ。社員証をスマートフォンやタブレットなどのカメラ機能についているスキャナーで読み取ると、社員証に埋め込まれた電子チップから信号が発せられて、それを受け取った端末から、その社員証の持ち主の情報が読み上げられる、というもの。
ROG. COMPANYがこのシステム利用し始めた直後は、それはもう随分と、世間では物珍しさで騒がれたものであり。その影響で、今や、大手企業と呼ばれる会社には続々と導入が始まっている。だが、教育現場には未だ珍しいものらしく、その証拠に、男性教師は「すごい…。これが噂の…」と、感嘆の声を小さく漏らした。
だが、ナオトの視線に気が付いた男性教師は、改めて姿勢を直すと、通用口を開ける。
「確認ができましたので、ご案内いたします。どうぞ、こちらに」
「はい、お邪魔します」
ナオトは男性教師に促されるものの、一瞬だけ、後ろを振り向いた。右眼が黄色、左眼が薄紫色という、彼のオッドアイの視線の先に居たのは、作業服の老紳士。
「それでは、御前を失礼します。また機会がありましたら、是非に」
「ああ、私は大抵、此処に居るさ。どうぞ、気張ってくださいませ」
老紳士に挨拶を済ませたナオトは、今度こそ、通用口から校内へと入った。
【職員室】
職員室の敷居を跨いだ瞬間。ナオトの直感が、彼に確信を告げた。――「此処には、支配者が居る」と。
かつての鈴蘭に綺子という影と闇に塗れた支配者が居座っていた頃の、あのときと同じ気配という匂いを、ナオトの本能は確かに察知した。
だが、そんなことに気が付いたなどと言うことは、おくびにも出さず。ナオトは各席に直立で立っている教師陣たちの前で、主任と穏やかな挨拶を交わす。
「二週間という、非常に短い期間ではありますが。どうか、文丘の児童たちの心の拠り所になってあげてください。
なにせ、前任のカウンセラー担当だった安藤先生には、児童たちもよく慕っておりましたので…。そのせいか、彼女が急に学校を去った事実に、少なからずショックを受けている児童たちも居ます」
「尽力させて頂きます。他でもない、子どもたちの心を守ってこそ、ROG. COMPANYに在る医者たる僕の務めですから」
「おお、心強いお言葉です。よろしくお願いいたします、鈴ヶ原先生」
「こちらこそ、二週間、どうぞよろしくお願いいたします」
そうして、主任と始終和やかなやり取りをしたナオトは。主任から二週間の期間中に、此処までの案内をしてくれた男性教師を補助として付けて貰う旨を通達された。
「藤井マーノ(ふじいまーの)と申します。担当科目は二年生の国語ですが、今は五年生の教室担任と図工も兼任しています。よろしくお願いいたします」
男性教師――藤井が名乗り、腰を折る。そのまま、席へと通された。どうやらナオトは藤井の隣に、席を配置されたらしい。学校側が用意した補助の役目を果たす姿勢が、とりあえず垣間見える。ナオトはオッドアイを細めて微笑むと、藤井に言った。
「お世話になります、藤井先生。早速ですが、僕が先に眼を通しておくべき資料、情報、データベース、カルテ等、全てのご提示をお願いします。
今日の放課後から、早速、カウンセリングが入っていると記憶しておりますので」
「あ、はい。それが…、前任の安藤先生は、物凄いメモ魔で…。今日、カウンセリングを予定している児童に対するカルテやメモだけでも、この量で…」
前例のある仕事を始めるなら、まずは前任の作ったデータを検めるべき。ナオトは早速、藤井にカウンセリングに必要なモノを要求した。だが、藤井が顔を曇らせながら出してきたのは、小学校のスクールカウンセラーがしたためるには、些か分厚いカルテの束だった。それだけで前任の安藤が「メモ魔」と評価されていたことに、瞬時に理解が及ぶ。しかし、それで怯むようなナオトでもない。彼が普段、一体、何処の誰を上司として仰いでいるのか。今一度、思い出してほしいところ。
現にナオトの声色は穏やかながらも、冷静だった。
「カルテは分厚くなるものですから、ご心配なく。それに、この文字列、一文の字数、枚数からざっと計算すると…。まあ、二十分で読み込めるでしょう。
時間が惜しいです。全員分のご用意をお願いします。この場で全て読ませて頂きます」
「え、え…ッ?!この量を?!たったの二十分?!
え、あの、全員分って、…この学校でカウンセリングを受けている児童は、その、三十人近く居るんですが…?」
ナオトの返答を聞いた藤井がひっくり返らんばかりに驚きながら、言葉を返し直す。それでも、ナオトは顔色ひとつ変えない。
「僕は文字を読めば読むほど速度が速くなるタイプですので、ご心配には及びません。
三十人分のカルテですか。どれだけ多く見積もっても、二時間で終わるでしょう。大丈夫です」
「そ、そうですか…。えと、では、急いで全員分を持ってきます…!」
藤井はそう言うと、椅子から立ち上がりかけて。瞬間、「あ、そうだ」と何かを思い出しかのように零すと、もう一度、ナオトと視線を合わせる。
「ナオト先生は、『おやくそく』については、既にご存じでしょうか?」
藤井の口から出てきた単語に、ナオトはすぐに反応した。
「ええ、事前に聞いております。
何でも、カウンセリングを最後まで受けられた子には、ご褒美として、担当の医者からお菓子を差し上げるのが、安藤先生の敷いた『おやくそく』だそうですね」
教育現場で特定の児童だけに菓子を配る行為は、到底、褒められたものとは思えないが。ナオトはそこを藤井に対して責めるのは違うと判断し、突っ込むのはやめておいて、事実を認識していることだけを彼に伝える。
始終、柔らかい雰囲気を出すナオトの空気に、段々と緊張が解けてきたのか。藤井の顔が綻んできた。彼は爽やかな笑みを浮かべながら、続ける。
「はい、そうです。その『おやくそく』の際に配るお菓子というのが、うちの家庭科の教員の担当になっておりまして―――」
「―――失礼します、熊見です。臨時のカウンセラーの先生がお見えになったとお伺いしましたが、どちらにいらっしゃいますか?」
よく通る低い声が聞こえた。ナオトと藤井がそちらを向くと、ラガーマンのような体躯をした大柄な男性が、熊を象ったフェルトを縫い付けた、桃色のエプロンを身に着けた状態で、のっしのっしと言わんばかりの勢いで、職員室に入ってきている。
「熊見先生ー、こちらですよー」
藤井が呼べば、熊見はすぐにこちらを向き、そしてニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら、ナオトの方へと近寄ってきた。ナオトは椅子から立ち上がり、変わらない微笑みで出迎える。
「家庭科の熊見次郎(くまみじろう)です。安藤先生の引き継ぎをなさるお医者さまがお見えになったと聞いて、訪ねさせて頂きました」
熊見はそう自己紹介をすると、ナオトに右手を差し出してきた。ナオトはその大きな掌と握手を交わしながら、ふむ…、と胸中で考えを巡らせていた。
「エプロン姿のままで、申し訳ない。今日の放課後のためのクッキーを、急いで焼いているところでして。先週の残り分で恐縮ですが、よろしければ、味見を―――」
「―――すみません。僕は現在、更生プログラム中の身ですので、職務中は基本的に上司の許可が無ければ、社外で用意された飲食物を口にすることは禁じられております。
それに付随して、自分の仕事の範囲で、社外の人間が用意した飲食物を使用することも、厳格にNGとされていますので。…熊見先生には申し訳ございませんが、『おやくそく』に使うお菓子は、僕の上司がご用意したものを使わせて頂きます。
…こちらは、弊社関連の製菓会社から、正式にご提供を頂いたものになります。幼い子どもたちの口に入る前提で製造されている、添加物不使用のフルーツキャンディーです」
「…、そうですか。そこまでは考えが及びませなんだ。この熊見、日々精進します」
熊見はそう詫びるよう言うと、堂々と腰を折る。
一方で、ナオトは熊見が握ろうとした会話の主導権を、一部の隙も見せずに、譲らなかった。とはいえ、彼は嘘を言っているわけではない。更生プログラム中のナオトに様々な制限が設けられているのは事実であるうえ、彼の口に入る飲食物と、彼の仕事で使われるそれに関して、プログラムを指揮する運営側から厳しいルールが敷かれるのは自然とも言える。何より、あのROG. COMPANYが協賛している、前科持ち向けの更生プログラムなのだ。むしろ、「厳しいくらいが丁度いい」までもあるくらい。
間も無く、会話もそこそこに、「では、オーブンの様子を見たいので」と言い残し、熊見はその広い背中に何処か怒気を孕んだまま、職員室を去って行った。熊見を見送った藤井が、声を潜めた状態で、ナオトに問う。
「…鈴ヶ原先生、いくら自分側のルールが厳しいと言っても、あの態度は不味いですよ…。熊見先生は、『カリスマ家庭科教師』として、教員同士や父兄の間から、抜群に人気なんです。安藤先生のカウンセリングの『おやくそく』だって、彼女にそのアイデアのベースを出したのは、あの熊見先生ですし…」
藤井の言葉には、あくまで彼自身の純粋な善意が垣間見えていた。彼はきっと根っこから真面目なのだろう、と、ナオトは思った。だからこそ、オッドアイを細めて、彼は微笑むのである。
「僕の身を案じてくださっているのでしたら、そのお気持ちだけは有難く頂戴いたしましょう。
しかし、カリスマ家庭科教師ともあろう御方が、僕のような若輩の医者如きの、ごく小さな反対意見で、あのように、いちいちと神経と感情を尖らせていては―――」
「―――ほらッそーゆー物言い…ッ!!…あ、す、すすすみません…ッ!つ、つい、素が…!あ、いや、素というのは、別にッ、先生を下に見てるとかそういうことではなくてッ、…違くて…ッ!」
「ご安心ください。僕は何も気にしてはいませんよ。むしろ、少しくらい態度が軟化してくれた方が、嬉しいくらいです」
若者らしく、うっかり素の部分が浮き彫りになってしまった藤井だったが。ナオトはそこを受け入れる。情緒が乱れただけで敬語が崩れたぐらいの光景なんぞ、心療内科の医者であり、現在進行形で、あのRoom EL内で、割とふよふよと水中に浮かぶように自由に過ごしているナオトにとっては、特段、追及するようなモノではないからだ。要するに、「気にするだけ無駄」と考えている点のひとつ、ということ。
「さて、今日中に挨拶するべき人物には、無事にお会いできたようですので…。僕は安藤先生の書いたカルテの解読に入ります。
藤井先生は、カウンセリングを受けている児童全員分のカルテのご用意を、早急にお願いします」
「! は、はい…ッ!今すぐに…ッ!」
ナオトはわたわたと職員室の隅の棚の方角へ走っていく藤井の背中を見た後、自分に用意された席の椅子に座る。
周囲の他の教師たちの視線が痛い、などと。そんな一般通過するだけの人間が抱くような、普通の感想なんて。今のナオトが抱くはずがなかったのである。
to be continued...