『余渡』本編小説

彼女が渡船からヨシワラ・フュストに入り、大門を潜って、暫く歩いたその先で。複数人の警察官や消防隊員の塊が見えた。現場検証をしているようだ。事故でもあったのだろうか…。
だが、あまり深く考えはせず、彼女はまず腹を満たすため、屋台街へと赴いた。


【余渡屋 座敷『空』】

「無理心中?」
「ああ。あのあたりの店が抱えていた娼婦と、その客の女と、ふたりで…、だったか」

彼女は、しゃこしゃこ、と軽快に歯磨きをしながら、ソラの言葉に振り向いた。先んじて屋台で、たこのガーリック焼きを食べたため、さすがに…、となった次第である。
洗面台に戻り、口をゆすいで、歯磨き粉を吐き出した。ガーリックの匂いはとりあえず消えたのを確認して、よし、と洗面所を出る。

ソラの言うことが正しければ。どうやら、先に彼女が目撃した現場検証は、娼婦とその客の無理心中のものだったようだ。しかし、ソラは今、「娼婦と、その客の女」と言った。つまり、同性のカップルだったのだろう。
…カップルとは称したものの。ヨシワラ・フュストの風俗店における『色恋営業』は、非常に厳しい。この島を統括している政府機関の厳正なる審査のもとで降りた、数限りある店のみが許される、極めて稀少な営業スタイルだ。しかも、あくまで『疑似恋愛』、すなわち、『恋愛シミュレーション』の域を出てはいけないことを大前提としていること。そして、色恋営業の許可が降りている店は、政府機関からの抜き打ち検査をされる。本当に抜き打ちらしく、それにより、これまで、数多くの色恋営業店が、不正を確認されては、取り潰されている。

彼女はスマートフォンでヨシワラ・フュストのガイドマップを開き、現場検証をしていたあたりの店のサイトにアクセスしていった。その中に、ひとつ、『現在、営業停止中です』という文言を掲げて、サイトへのアクセスを制限している店があった。店の名前をコピペして、今度は民間の検索サイトでサーチする。
すぐに分かった。色恋営業店だ。心中した娼婦と客は、ほぼ間違いなく、この店の関係者に違いない。

だが、掲示板などの情報を読み進めていた彼女は「あれ?」と疑問符を飛ばす。…この店は、確かに客層に男女の区別はない。しかし、店のルール曰く、「本店のキャストとお客様における、本店の色恋営業は、あくまで異性間のみといたします」と掲げてあるようだ。つまり、心中した娼婦と客の間には、色恋営業は無かったはずで…。

「…、…うーわ、なんか闇深そうな事件…」
「わざわざ覗かんでもいい闇なんぞに恐れて、どうする?」

顔をしかめる彼女とは反対に、ソラは実に涼しい表情で、定位置の座椅子に腰掛けて、手元の本を読み進めている。

色街で起こった色恋沙汰の果ての、無理心中。…そんな脚本がテーマの歌劇か何かも、あったような気もした。

「カネで売り買いするだけの関係に、本気の恋愛感情を見出す必要なんて、絶対になくない…?」

彼女はウォーターサーバーから注いだ水を飲みながら、そう呟いた。すると、その言葉を聞いたソラが、ふ、と、本から視線を上げる。
仕事が始まるまで、基本的に不動を貫く彼が、不意に動いたことで。彼女はそちらに目線を寄越した。

「ソラ?」
「…いや、なんでもない。今、ふと、関係のないことが、よぎっただけだ」

彼女はなんとなくソラの名前を呼んでみたが。返ってきたのは、彼の冷静な声音。至って、通常運転である。

ソラへの心配はさっさと明後日の方向へと投げ出して、彼女は自分の衣服に手をかけた。このソラという男娼は、客からの要望がなければ、服も脱がせようとしてしない。
彼女が初めてソラを買ってから。後日、改めてクチコミレビューを眺めたとき。「指示待ちが目立つ」という旨のレビューが散見された。同時に、「ナチュラルに放置プレイされるから、逆に気分が上がる」という意見もあった。…賛否はいつだって、表裏一体。誰かの萌えは、誰かの萎え。逆も然り。

「ソラ〜、読書タイム終わり〜」
「ん。分かった」

実は、彼女がソラを買うのも、今日で3回目を数えていたりする。そのせいか、段々と、彼女はソラとのやり取りに慣れてきていた。

ソラは、恋愛を売ってこない。彼がカネを払った客に差し出すのは、カラダだけ。ソラを抱えている余渡屋そのものが、先に論じた色恋営業店ではないのだから、それも当たり前といえば、当たり前。だからこそ、恋愛抜きのセックスを求めている彼女にとって、ソラは実に都合の良い男娼であった。提示されている額面のカネを払えば、気持ちのいいセックスを提供してくれる。性欲を発散してくれる。

だが、どうやら、ソラの客層の中では、誰が一番ソラに積んでいるか、はたまた貢いでいるかで、マウントを取り合っているようで。しかし、彼女はそんなもの、心底どうでもよかった。必要以上のカネを払ったところで、ソラはカラダしか提供しないのだ。恋愛感情は、売ってはくれない。どれだけの金額を積んでも、何をプレゼントしたとしても、ソラは振り向きはしない。
一体、ソラの客たちは、永遠に掴めもしないものを掴もうと足掻いて藻掻いて。果ては、それを見せあって、競り合って。それの何処が、楽しいというのか。…彼女には、理解が出来ないでいる。

よもや、無理心中したという娼婦と客のように、制御できない感情に振り回されて、この身の破滅を呼びたくはないものだ。

「今日は、考え事が多いみたいだな。退屈か?」
「え、ちが、あんっ…!」

耳元で声がしたかと思えば、下腹部の更に下から、ずぷ、と音がして。彼女の背筋に、電流に似た快楽が走る。いきなり彼女のイイところを指で突き、そして、的確に善がらせるあたり。3回目にして、もう彼女のカラダのあちこちを把握しているということなのだろう。

先程まで何処ぞの者と知らぬ、ふたりの人間の死について、考えていたというのに。ソラが触れれば、あっという間に、床で淫らに喘ぐ女の姿になってしまう。
自分が与える愛撫で乱れ始めた彼女を見下ろしながら、ソラは己の浴衣の帯に手をかけた。


――――…。

「起こしてくれても良いじゃないのっ。後に別のお客が控えてるなら、尚更っ!」
「知らん。俺の予約リストは公開されてるのだから、お前が自分で起きる対策は可能だ」
「うーわ、屁理屈だっ」
「事実だ」

あの後。散々、乱されて、見事、意識を飛ばして寝落ちまで至った彼女は。座敷内の確認に来たスタッフの呼び声に反応して、目を覚ました。
聞くに、この後、ソラには別の客が入っているので、そろそろ引き上げてほしい、という旨。

そして、頭のやり取りに戻る。
彼女が寝落ちてから、スタッフが来るまでの間に、ソラは起きたというのに。後の客のことも把握しているというのに。まさかのまさか。彼女のことを、起こしもしなかったのだ。本当に、カラダしか差し出してこない男である。

わたわたと下着と衣服を身に着けて、待たせてしまっているスタッフに謝罪を述べながら、彼女はソラの座敷を後にした。


――――…。

ねえ、もういっかい〜、残り時間でシてよ〜、と、甘ったれた声でねだるのを、無視して。ソラはスタッフが用意していた湯で洗ったタオルで、カラダを拭いていた。
本日最後のこの客は、ソラによく「積んでくる」タイプの女性客である。職業は、インフルエンサーを自称。発信テーマは、『子どもに寄り添った手作り料理』…、らしい。しかし、ソラからすれば、子どもの口に入れる料理に気を使うなら、まずその不潔に伸びた爪を切ってからにしろ、その枝毛だらけの髪の毛を整えろ、とコメントをしたい所存である。まあ、する気は全くないが。そこは、彼の業務外だから。
そもそも、平日のど真ん中の、子どもが起きているこの時間帯に、男娼を買う母親という像が、ソラには到底、理解が出来ない。
ソラが座敷を閉める時間は、日によるが、平日でも深夜に及ぶこともあるし。土日や祝日などの連休も、ソラはあまり座敷を閉じない。彼が纏まって休むのは、年末年始くらいだ。それを知らない、この客ではない。なにせこの客は常連で、しょっちゅうソラを買っている。おまけに、後の客や、ソラの予定がつかえていなければ、追加料金を払って、時間延長をするくらいの、入れ込みっぷり。
母親なら家庭のことに従事しろ、とかいうのを、ソラは主張したい訳ではなく。単に、公言していることと普段の行いが、ちぐはぐな人間が、『子どもの親』を商売道具に、インターネット上で、インフルエンサーとして発信していいものなのか?、という疑問に帰結する。

…、難しい話は、これくらいにしておこう。ソラは至った。この客が帰れば、もう今夜は終わり。店自体はまだ開いているかもしれないが、ソラの座敷は、本日、此処までである。そうと分かっているのならば、この客に帰り支度をさせたいところだ。
すると、客はのそりと布団から這い出しつつ。スマートフォン片手にソラに話しかけてきた。

「ねえ、昨夜の無理心中事件、あれ、マジで真相知りたいんだけどさ〜。ソラ、何か知ってる〜?」
「心中したのが、娼婦とその客の女ということ以外、俺から言明できることはない」
「え〜?他の客から、何か聞いてないの〜?今度さ、動画で時事ネタのコメントコーナーってゆーのしようとしてるからさ〜、って、ちょっと、聞いてる?ソラ?!」

もうこれ以上のことを聞く必要も、ましてや話す必要もない。そう判断したソラは、自分の身なりを整え終わるなり、定位置の座椅子に腰掛けた。袖机に置いていた、読みかけの小説を手に取り、栞を挟んでいるページから読み始める。

すると、襖の向こうから、案内役のスタッフが呼ぶ声が聞こえた。客は「え〜っ、もう終わりぃ?もうちょっとサービスしてよ〜」と喚くが、ソラは全てを無視して、読書を進めるのであった。

カネさえ払えば、何でも好き放題に振る舞えると思い上がる、その傲慢さ。やはり醜いものだ、と。考えながら。


*****


5日後。ヨシワラ・フュストの街中は、にわかに騒がしかった。
例の無理心中の『真相』が、警察機関によって、街に報じられたからである。

そんなことは露知らず、今日も彼女はヨシワラ・フュストの大門を潜った。もうさすがに慣れている。
彼女は屋台街で、余渡屋初来店前に食べて以降、いたく気に入った、うずらの卵の煮付けを買ってから、その場でパクついてたところ。近くの団体客が、ひそひそ話で『真相』について噂をしているのを、聞いてしまった。その内容に驚くあまり、危うく卵を喉に詰まらせるかと思ったが。そんな醜態は晒さず、彼女は平静を装って、その場を立ち去ったのだった。


【余渡屋 座敷『空』】

ソラの座敷に上がった彼女は、屋台街で聞いた話をそのまま、彼に伝えた。が。

「まあ、そうだろうな」
「……え、それだけ…?」
「事前に把握していた事実の裏が取れただけで、特に驚くべき点は見受けられない」
「……ご丁寧な業務報告を、どうもありがとう……」

彼女が伝えた真相を聞いても、ソラは顔色ひとつ変えず、手元の本に視線を滑らせている。

先日に起こった、無理心中の真相とは。
最初こそ、誰もが娼婦とその女性客によるものだと思ったのだが、―――違ったのだ。

心中したのは、娼婦と、『娼婦の客の妻』であった。娼婦と共に死んだ女性が、店を利用した経歴は無い。そもそも。ヨシワラ・フュストに入島したのも、心中したその日が初めてだったようだ。…つまり、娼婦と共に死んだ女性の間は、何の繋がりもない。
では、どういうことなのか。

死んだ女性は、ここ2年ほど、自分の夫の色街通いに、頭を悩ませていた。店の娼婦に入れ込んで、次から次へとカネを払い続け、ロクに家に帰ってきてくれない。おまけに結婚してから子宝に恵まれなかったことを理由に、不妊治療を受けていたことで、元々圧迫されていた家計が、夫の夜遊びで更に火の車へ追い込まれる始末。
正当な妻である自分を抱きに帰って来てはくれないくせに、娼館の女には、家に入れるべきカネを溶かしてまで、セックスをしに行くと言うのか。

―――妻の不満は爆発した。
独身時代の貯金をはたいて、探偵を雇い、夫が買っている娼婦とヨシワラ・フュストの情報を調べて貰った。妻個人名義の貯金は、それで一気に尽き果てた。だが、その手元には、膨大な量の娼婦の情報と、妻自身は一度も行ったことがないヨシワラ・フュストの地図が届いた。

妻は、最後のカネを握りしめて、己の夫が入れ込む娼婦に予約を入れて、逢いに行く。そして、座敷へ上がったところで、どうか夫を解放してくれ、と請うた。…だが、娼婦はせせら笑う。

「こっちはカネを払って貰っているから、客の相手をしているだけ。それが私の仕事。別に、リピートするように土下座して頼み込んでいるわけでもなければ、カネを積まないと抱かせないとか脅しているわけでもない。
 全部、あっちが勝手にやっているだけ。私は娼婦として、カネを貰った分、色恋営業もセックスもシてやってるだけ。
 むしろ、カネを積まないで、無料でセックスし放題の妻であるアンタが、結婚までした男をベッドまで誘惑することができないくらい、魅力が無いなのが悪いと思うけど?」

そこまで言われて、妻は発狂した。鞄の底を改造して作った隙間に忍ばせた刃物を取り出し、娼婦に向かって斬りつけた。腕を斬られた娼婦は、助けを呼ぶが、その声を聞いたスタッフが来るまでの間に、娼婦は首を一突きにされて、あっという間に死んだ。そしてその直後、妻も、その刃物で喉を掻き切って、自殺した。
結局、駆けつけた娼館のスタッフが一番に見たものは、血塗れの座敷の中に沈む、『娼婦と客』の地獄絵図だった。……というわけである。

それ故に、初動捜査の時点で、事情を知らぬ街中では、「娼婦とその客が、叶わぬ恋に絶望して、無理心中をした」という勘違いが、起こっていたのである。だからこそ、明かされた真相に、ヨシワラ・フュストの人間たちは慄いている。

……、そう。今、彼女の眼の前で、座椅子に腰掛けている、ソラ以外は。

「……ソラ、最初から全部、知ってたの?」
「裏が取れた、と言っただろう。
 あの事件の直後に来た俺の客たちから聞いた噂、殺された娼婦の普段の言動、娼婦を抱えていた店の営業スタンス、店に出入りしていそうな客の質、その他諸々。
 此処の座椅子に腰掛けているだけでも、大体の予測は出来る」
「…、占い師にでも、転職すれば?」
「いらん世話だ」

彼女の質問も皮肉も、その全てを受け流して。ソラは涼しい顔で、読書を続ける。そんな彼の流麗な横顔に向かって、彼女は問いを重ねた。

「娼婦を殺した、奥さんの胸の内は?夫を奪った憎い仇を討った後、どうして自分まで死んだの?ヤケクソ?それとも、表舞台で処罰されるのが、怖かったのかな?
 それに、娼婦の方だって「これが私の仕事ですから」でコメントを終わらせておけば…、無闇に奥さんを煽らなければ、せめて死なずに済んだかもしれないのに…」
「さあ?既に死んだ人間たちの心の中までは、さすがに知らんな」

彼女の疑問に、ソラは答えなかった。

生きている人間たちの言動であれば、いくつかのシミュレートを得て、予測のパターンも複数は思いつくが。
喋りもしない、動きもしない、死体になった者たちが抱えて逝ったであろう思念にまで、ソラは想いを馳せる気はなかった。


――fin.
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